見上げた空は、青。
 浮かぶ雲は、白。
 踊る風は、姿もなく。
 ・・雲が、たなびく・・・・遠くへ、消える・・

『青空に青い鳥を探すのは大変かもしれないけれどね』


 かつて、優しい声でそんな台詞を言っていた人がいた。その人がどんな表情をしてこの台詞を言っていたのかは もう思い出せないけれど、その声が優しかったことだけは覚えている。


 ピイイイイ――――――――――――・・・


 澄んだ鳥の鳴き声が、青空に響き渡る。そして、白い雲に映る、青。その白と青のコントラストが、記憶を遡らせる。
 それは、懐かしい記憶。


[ピィ]


 それは、懐かしい鳴き声。


「―――ブルー・・」


 それは、懐かしいナマエ。
 特等席の肩にちょこんと止まっているのは、小さな鳥。否、それは、いつだったかcityの子供たちが何処かから拾ってきたペットロボット。
 まん丸な瞳が、間近にある夕焼けと宵闇とが混ざり合った瞳を見つめている。高い声で鳴くその嘴は、黄色。
「ブルー?」
 名前を呼ぶと、
[ピィ]
 と、愛らしい声で鳴いた。
「ブルー」
 そっと背を撫でる。ブルーは嫌がることもなく、撫でられるがまま肩に止まっていた。
 そう言えば、青いからブルーと名付けたら、みんなから冷たい目で見られた。急にナマエと言われても、[ぴぃぴぃ]と泣くから、ぴぃか、青いからブルーくらいしか思いつかなかった。そして、ブルーの方がカッコイイからブルーにしたのだが、cityのメンバー達には不評だった。アズマには、
『・・・お前、子供が出来ても命名は嫁に任せておけ。な? 子供に嫌われたくなかったらそうしろ』
 ヌルイ顔をしてそんな台詞を言われてしまった。
「いいじゃんな? ブルー」
 懐かしい記憶に笑みを零しながらブルーをつつくと、
[ぴぃ]
 とブルーは一つ鳴いた。それがYESなのかNOなのか、判別を付けることは出来なかったが、勝手にYESだと解釈しておく。
 ――だって、ブルーと呼べば帰ってくるんだから。
「ブルー」
[ぴぃ]
 背を撫でれば、あたたかい。ロボット特有の、温もりのない身体だって、こうしていつも寄り添っていれば、体温が移る。
[ぴぃ]
 肩から飛び立っても、ブルーは呼べば戻ってきた。空の青に姿を消すこともなく、必ず自分の指定席に戻ってきた。
 ただ、一度だけ・・・
 最期に羽ばたいたときだけは・・・


 蘇るカコと、流れゆくイマとが───絡まる。


 あの日、


「・・・ブルー!!」


オレは、ブルーを呼んでいた。
空高く舞い上がったブルーに、オレの声なんて届くわけもないと知りながら、呼んだ。

『見つけたら、名前を呼んでみるの』


急に、不安になったから。

「ブルー!」

それ以上昇っていってしまったら、戻れなくなる。


『もしかしたら、降りてきてくれるかもしれないわよ』


何となく、そう思ったから。


「ブルー!!」


 ブルーは、帰ってこなかった。
 必死で呼んでも、帰ってきてくれなかった。どんなに呼んでも、帰ってきてくれなかった。


 ――・・アイツのように・・


 そして、鳴いた。


 ピィィィ───────────────ィィ・・


 天を切り裂く、その澄んだ鳴き声は、とても綺麗だった。
 ──そして、ブルーはいなくなった。だから、
「───どこにも行かないでくれ・・!」
 ブルーをそっと両手で包み込む。自分の元から飛び立ってしまわぬように。鳴き声だけを残して、どこかに消えてしまわないように、抱き締める。離さなければ、離れないから。
「・・・そっか」
 知っていた。ブルーが居なくなった時に、知っていたのだ。
 離さなければ、離れないのだということを。
 それなのに、手放してしまった。


 ──アイツらの手も、決して離さなければ良かったんだ・・・!


 知っていたのに、また、失ってしまった。
 耳に残るあの澄んだ鳥の声は、手を離してしまった自分を責めるかのように、延々と繰り返し響いている。消えてくれない。


「──行くな・・」


 こうして、抱き締めれば良かった。
 離さなければ良かった。


早く、来い。


『いつか、あなたにもやって来るといいわね』


次に、“青い鳥”がオレの元に降りてくるのはいつ?


「・・・そうだな」

そいつは、どんな名前の“鳥”だろう。


『幸せの、青い鳥』


・・また、オレに名前を付けさせてくれないかな?


「早く来るといいな〜」

どんな名前を付けようか。

 安直な名前を付けると、また文句を言われるだろうからな。
 今から、考えて待っていよう。
 時間は、たっぷりあるんだから。


 青い鳥が、再び鳴くまで。




 ピイイイイ――――――――――――・・・




 ――ナマエを、考えよう。




 すぐにまた、出逢うのだから。今度は、二人。
 心を温めてくれる”青い鳥”が。


 その時は、離さないようにしよう。その小さな手を握って、ずっとずっと握って、決して離さないようにしよう。そうすれば、鳥の声は聞こえない。ブルーを攫っていった鳥の声は聞こえないから――


 ユメと、ウツツが──境界線を、なくしていく。


 ブルーが、飛んでいる。鳴いている。戻ってくる。また飛んでいく。名前を呼ぶ。戻ってくる。 瞳を開ける。心配そうな顔が、覗き込んでいる。瞳を閉ざす。何度も、ナマエを呼ばれる。瞳を開ける。


 ユメと、ウツツが──境界線を、なくしていく。


 どこまでがユメで、どこからが現実──?


 判別がつかぬまま、ユキムラはずっと彷徨い続けていた。




 ピイイイイ――――――――――――・・・


 また、鳥が鳴いた――


「―――」
 ユキムラは、重たい瞳を持ち上げていた。
「ボス!!?」
 すると、自分を覗き込む心配そうな顔がそこにはあった。
 ――夢?
 否、これこそが現実。
「・・・・ユイ」
 自分を心配そうに覗き込んでいる少女の名を、呼ぶ。その声は、驚くほどに掠れていた。それでも、ユイには届いたようだった。
「ボス、目が覚めたのね!? 良かった・・・!」
 そう言って涙ぐんだかと思うと、ユイはすぐさまユキムラの側から離れ、部屋の扉を開け放って言った。
「みんな! ボスが目を覚ましたわよ!!!」
 ユイの声が鼓膜を激しく震わせる。
 突然覚醒を促された意識の下、視線を巡らせる。まず飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。そこは、『家』の中。そして、自分の部屋。更に視線を巡らせると、ベッドの枕元にブルーが居た。最後に肩に止まり、そして地面に転がったその時のままの姿で固まっているブルーが、じっと自分を見つめていた。そのブルーの隣に飾られている一枚の写真。
「――これは・・」
 つい先日、撮った写真。その中では、皆笑っていた。
 ――その笑顔は、もう消えない。
 何故か、その写真を見つめ続けていることが出来ず、ユキムラは更に視線を巡らせる。窓から、晴れ渡った空が見えた。
 その部屋の中の様子は、何もかもがいつもと同じ。ただ違うのは、体中に巻かれた包帯の苦しさと、胸にぽっかりと開いた大きな穴。
 ――何故こんなに大きな穴が空いてしまったのだろう。
 思い出そうとして、すぐにユキムラはその思考を打ち消した。そして、言い聞かせる。
 ――何も変わらない。
 そう言い聞かせる。余計なことを考えないように、何度も言い聞かせる。少し怪我をしただけで、他には何も変わらない、と。穴なんて、空いていない。どこにも空いていないじゃないか、と。
「ボス!!」
 ユキムラの思考を遮ったのは、幼い声。子供特有の、明るいソプラノ。
 その声に、ユキムラは弾かれたように視線をそちらに向けていた。そこにいたのは、
「・・トーラ・・クレア・・」
 トーラとクレアがそこにはいた。
 そして、その事実に、ユキムラは落胆を覚えていた。
 何故、落胆したのだろうか。その声が、期待していたものではなかったから? ならば、自分はいったい何を期待していた?
 誰の声を、期待していた――?
 その疑問を、すぐにまたユキムラは掻き消す。ちょうどその時、小さな子供たちが、わいわいと自分の部屋へなだれ込んでくる。そのおかげで、自然と意識はそちらに向けられた。
 だが、その子供たちの中に、ユキムラは捜す。チビたちのリーダー的存在だったトーラとクレアの側に居たはずだ。その姿を、必死で捜している。
 ――誰の姿を?
 ユキムラはまた思考をストップさせた。
 部屋になだれ込み、ベッドに横になっているユキムラの周りに集まってくる子供達。その顔はどれも、夢の中で見たのと同じ、心配そうな顔をしている。
 そんな子供たちの姿に、ユキムラは罪悪感を覚える。ひどく心配をかけてしまっていたらしい。それなら、その心配を取り払ってやるのがせめてもの償い。
 ――大丈夫だと、笑って見せよう。
「ごめんな、心配かけて。もう大丈夫だぞ」
 ユキムラは、笑って見せた。声も、先程より鮮明になっていた。どうやら、しばらく声を出していない所為で掠れていただけのようだ。
「良かったァ!」
「良かったよ、ボス〜!!」
 子供たちの顔から、笑みが零れる。それを愛しいとユキムラは思った。胸に開いた穴の存在が、一瞬だが薄れる。このまま、消えてしまえばいいと、切に願う。
 ――忘れてしまいたい・・
「コラコラコラ、見舞いなら後にしろ」
 わいわいと騒ぐ子供たちを宥める声。聞き慣れた声に視線を遣ると、子供たちを宥めているアズマの姿があった。
「ホラ、出てけ出てけ」
「は〜い」
 子供たちを部屋から追い出すアズマの姿を、ユキムラは瞬きもせず見つめていた。
 記憶が蘇る。
 確か彼はひどい怪我をしたはずだ。
 そこまでで記憶はストップする。今度はユキムラ自身が止めたのではなく、自然と止まった。鼻腔をくすぐる甘い香りに気付いたからだ。その匂いの出所を求めて視線を彷徨わせるていると、枕元にそれはあった。ブルーの隣、そこに小さな花が置かれてあった。
「・・スゴイ」
 花を見たのは何年ぶりだろうか。きっと自分のために子供達が一生懸命探してきてくれたのだろう。
 感嘆の溜息と共に花を見つめていると、静かになった部屋の中、アズマの声が響いた。
「ユキムラ、大丈夫か??」
 その台詞に、ユキムラはアズマに視線を戻す。
「アズマ、お前の方こそ――」
 言いかけて、ユキムラは唇を閉ざす。訊くまでもなく、アズマの怪我は酷いようだった。
 額には真っ白な包帯が巻かれ、顔にはあちこちに切り傷ができていた。除く胸元にも白い包帯が見え隠れしている。腕も固定されていた。
「歩いて良いのか!?」
 と問いたくなるほど、彼は全身に傷を負っているようだった。それというのも、咄嗟に自分を庇ったからだ。本来ならば、ユキムラも同程度の怪我を負っていたはずだったのに、ナンバー2の彼は、ボスを守った。
 そのことを思い、表情を曇らせたユキムラに、アズマは笑って見せた。
「俺は大したことねーよ。何よりこうして歩けるんだからな」
 それが自分を気遣っての台詞であることは承知している。だが、それに甘えることは出来なかった。
「でも――」
「頭だってちょっと切れただけだし、あばらも2、3本ってトコだ。腕だっていつかくっつくしな」
 言って、殊更「大したことねーよ」と繰り返したアズマに、ユキムラは瞳を閉ざした。
「―――・・ゴメン」
 その謝罪の言葉に、アズマは鼻で笑った。
「何でお前が謝るんだよ。どっちみち怪我はしてたんだ。それなら、ボスを守って怪我したって方が、体裁がいいじゃないか」
 そう言って笑った後、アズマは小さな声で付け加えた。
「・・・ま、守り切れなかったけどさ」
 そんなアズマの台詞に、ユキムラは閉ざしていた瞳を開き、尊敬の眼差しでアズマを見遣る。
「アズマ。お前、スゲーかっこいいな」
 手放しに賞賛すると、アズマは大仰に胸を張る。
「おいいおい。今頃気付いたのか?」
 その言葉に、ユキムラは思わず笑う。体中の傷がその為に痛んだが、それでも笑った。笑っていたつもりだった。
「・・・不細工」
 唐突に、アズマは笑みを消し、ユキムラに向かってそんな台詞をぶつけていた。
「――は?」
 あまりにも唐突なツッコミに目を丸くすると、アズマは真剣な表情のまま口を開いた。
「ちゃんと笑えてないぞ、お前」
「―――」
 笑っていたつもりだった。大丈夫だと知らしめるために、いつも通り笑っていたつもりだったのに、彼にはばれていたらしい。長年の付き合いの所為だろうか。それとも、簡単に見破られてしまうほど、きちんと笑えていなかったのだろうか。
 笑えるはずがない。
「だって――痛い」
 痛みが邪魔をしている。
 体中の痛みではなく、胸の中、ぽっかりと開いた穴が、ひどく痛んでいる。それが、笑うことすら許さない。
「・・・・」
 言って胸を押さえ瞳を閉ざしたユキムラに、アズマは閉口する。返す言葉が見つからない。
 ユキムラは、驚くほど何も言わなかった。そして、彼女らのことを、何も訊こうとはしなかった。必死で思い出すまいとしているのだろうか。瞳を閉ざし、全ての言葉を、彼は拒んでいるようだった。だから、アズマは何も言えない。ただ黙って、ベッドの脇にあるイスに腰を下ろした。
 沈黙は、とても長かった。
「おい! ユキが目覚めたって!!?」
 いつまで続くとも知れない沈黙を打ち破ったのは、グリフォードの大きな声だった。続いて勢いよく開かれたドアに視線を遣ると、やはり大声の主、グリフォードがそこには居た。その顔には、満面の笑みが浮かんでいる。
「やっと起きたか、ユキ〜!!」
 と再び大声で叫ぶなり、ユキムラに飛びついてくる。そして、ウザイくらいに頭を撫でてくるグリフォードに苦笑しながら、ユキムラは問う。
「オレ、そんなに寝てたのか?」
「一週間だ」
「一週間!?」
「そうだ。ふと目を覚ますんだけど、またすぐに眠っちまうし」
 そう言ってグリフォードは、再度優しく頭を撫でる。その大きな掌が、そして青い瞳が、どんなにユキムラを心配していたのかを物語っていた。
「ごめん。心配かけて」
 小さな声で謝ると、ユキムラとは対照的に、大声でグリフォードは答えた。
「いいって! 目が覚めたんだからな。良かった良かった!」
 言って、ぐしゃぐしゃと乱暴にユキムラの頭を撫でる。乱暴さは放っておいて、その掌の温もりに、ユキムラは安堵を覚える。正体の分からない恐怖が、僅かに遠のいていくのが分かった。その代わりに訪れるのは、
「・・・・腹減った」
 空腹。一週間も眠っていたのだ。ひどくお腹が空いている。
 言って腹を撫でたユキムラに、グリフォードは笑みを零す。
「今、ユイが何か持ってきてくれてる。もうちょっと待て。な?」
「ああ」
 そう言えば、目覚めたその時、部屋にいたユイの姿が消えている。すぐさま食事を用意しに行ってくれたらしい。 気が利くユイに心の中で礼を言ってから、ユキムラは瞳を閉ざす。一週間近く眠っていたらしいが、まだ眠気は消えていない。 自然と瞼が下りてしまう。だが、意識が眠りの中に引き込まれていくかというと、そうでもなかった。訪れるのは闇だけで、心地良い眠りには、なかなか到達しない。
 ――痛みが、また邪魔をしている。
「ユキ」
 瞳を閉ざしているユキムラに、グリフォードは先程までの大声ではなく、穏やかな声で問う。
「どっか痛む所はないか?」
 優しいその声に、ユキムラはを閉ざしたまま答えた。大丈夫だと偽る気は起きなかった。それほどに我慢できなかったのか、父親のように慕っているグリフォードの問いだったからか、それは分からなかった。
「痛い」
「どこが痛む?」
「――ココ・・」
「―――・・」
 グリフォードは、口を閉ざした。
 ユキムラが指差したのは、胸。ユキムラの手当てをしたグリフォードは知っている。その部分に、傷はない。あばらを折っている所為で、その近辺が痛むことはあるだろうが、ユキムラが言っているその痛みがそうしたものではないことを、グリフォードは悟っていた。
「ここだけ、凄く痛いんだ」
 ユキムラは、胸をそっと押さえた。
 どこよりも痛みを訴えるのは、胸。そこにぽっかりと空いた穴は、鮮やかな血を流し続けている。その部分だけ、まだ手当てがされていないようだった。
 痛くて痛くて仕方がない。
 この痛みを、早く止めてもらわなければ、眠れもしないし、うまく笑うことすらできない。だが、
「――スマン。俺には無理だ・・」
 グリフォードは、そう謝罪した。
 その謝罪の言葉と共にユキムラの頭に置かれた手は温かい。その温もりに、僅かだが痛みが遠のいたような気がした。
 その代わりに近付いてくるものがある。穴の中を埋め尽くしていた痛みが薄らぐと、そこに浮かんできたのは、眩しい笑顔。 自分に向かって笑いかけてくる、金色の笑み。夢の中で、何度もその名を呼んだ。痛みの原因とも言えるその笑顔を、必死に思い出さないようにしていた。
 だが、知らなくては、胸の痛みが治まらないことも、ユキムラは分かっている。今の自分は、現実から逃げているだけなのだと、分かっていた。
「―――・・どうなったんだ?」
 ついに、ユキムラはそう問うた。
 その問いに、アズマとグリフォードが息を呑む。答えは、どちらの口からも与えられない。
 ユキムラは瞳を持ち上げ、再び問う。
「いったい、どうなったんだ? ・・・・アイツらは?」
 その問いに、グリフォードとアズマは顔を見合わせていた。
 彼の言う『アイツら』が、誰の事を指しているのか分からなかったのだ。それが、ジグナ達、ラジスタの人間のことなのか、それとも――フォーラとファータのことなのか。
 迷いに迷ったあげく、グリフォードは口を開く。ユキムラがどちらの答えを求めているのかは、分からなかった。
「・・ラジスタの奴等は死んだよ。爆発に巻き込まれた」
「――そっか」
 小さな声で相槌を打ち、虚空を見つめるその瞳には、何の感情も映っていない。その所為でグリフォードには、自分の与えた答えが、彼の求めていたものだったのか否か、知ることは出来なかった。だが、ユキムラはそれ以上問うてくることはなかった。
 何を考えているのか、じっと天井だけを見つめていた。
 それは、子供達の前で懸命に笑って見せていた彼とは、別人。その事実が、アズマの胸を抉るようだった。
 その場に沈黙が落ちなかったのは、
「ちょっと、開けて〜!」
 という、扉の外からユイの声が聞こえてきたからだった。
「お、ユイだ。ご苦労さん」
 すぐさまグリフォードが扉を押し開けると、トレイで両手を塞がれたユイが入ってきた。
「ありがとう、グリフさん」
 そして部屋の中を見回した後、ユイは笑顔を浮かべて口を開いた。
「ほら、ご飯よ、ボス。消化に良くないモノいきなり入れたらマズイかと思って、病人には御約束のお粥
 よく気が利き聡いユイが、この部屋の中に充満している沈んだ空気に気付いていないはずはない。気付いているからこそ、彼女は明るく振る舞っていた。
「足りなかったら言ってね。すぐに出来るから」
 そう言って、ユイはグリフォードが部屋の中央から持っていたテーブルにトレイを乗せた。僅かに頷いたきり、何を考え込んでいるのだろう、何もしようとはしないユキムラを見て、グリフォードがユキムラに向かって手を伸ばした。自力では体を起こすことができないユキムラの体を、グリフォードは片手で支え、軽々と起こす。
 そこでようやくユキムラは思考の波から脱したのだろう、視線をユイに向け、次にグリフォードに向けた。
「さんきゅ、ユイ。グリフ」
 ようやく食事をする気になったらしいユキムラに、ユイはほっと安堵の溜息を洩らした後、粥の入った椀を差し出す。
「はい。熱いから気を付けて」
「ああ」
 そうして、ユキムラが手を伸ばしたその時だった。


 ピイイイイ――――――――――――・・・


 澄んだ音が、鳴り響く。
「――!」
 その音は、ユキムラにしか聞こえていないようだった。アズマも、ユイも、グリフォードも、誰もその音に気付いた素振りを見せる者はいない。ただ、ユキムラの耳の奥に残っていただけだろうか。それにしては鮮明に聞こえてくる音に、ユキムラは体を硬直させる。
 それは、彼の胸に大きな大きな穴を開けた音色。
 天を切り裂く。彼を切り裂く。彼と彼女らを引き裂き、連れ去っていった美しい、残酷な音。鳥が鳴くまでの暖かく幸せだった時間は、鳥の鳴き声によって終幕を迎えた。鳥が連れ去っていってしまったのだろうか。
 ――あまりにも、刹那すぎる切なすぎる刹那すぎる・・・。
 フォーラとファータと過ごした日々は、鳥が鳴く迄と決められていた、切ないばかりの物語だったのか。それとも、鳥が鳴く間での、短すぎる物語だったのか――。
「――――」
「・・ボス?」
 差し出した椀に手を伸ばしたものの、それを受け取ることなく動きを止めてしまったユキムラの様子に、ユイが怪訝そうに眉を寄せる。
 その声に、ようやくユキムラは動くことを再開させたのだが、結局ユイの手から椀を取ることはなく、腕はベッドの上にぱたりと落ちていた。
「――・・ゴメン、ユイ。やっぱり、今はいい」
 言って、ユキムラは笑った。そのつもりだったのに、顔に浮かんだのは、作り損ないの笑顔。
 それを見て、ユイは痛ましげに瞳を細める。だが、彼女はそのことについては言及せず、優しい声で粥をすすめる。
「ダメよ、ボス。ちゃんと食べなくちゃ」
「また後で食べる。ほら、手、痛いし」
 そう言って、二の腕にぐるぐると包帯が巻かれている腕を視線で示し、ユキムラは首を振る。顔には、作り損なったまま、修復することの出来ない笑みがあった。
「何だ。そういうコトなら俺がふぅふぅして食べさせてやるって」
 冗談めかすグリフォードの言葉に笑う。だが、
「はは。ソレ、嫌がらせだって」
また、作り損なう笑顔。


 ――もう、無理だ。


「ゴメン」
 ユキムラは、謝まるなり倒れ込むようにしてベッドに横になっていた。僅かにあばらが痛んだが、今は気にならなかった。痛みなんてそっちのけで寝返りを打てたら、どんなに良かっただろうか。ユキムラはそう思わずにはいられなかった。
 彼は知っていた。今自分が、どんなに酷い顔をしているのかを。その顔が、きっと仲間達を不安にさせ、悲しませることも、知っていた。だから隠したいのに、それは叶わない。唯一自由な左腕で、ユキムラは目元だけでもと覆った。そして、繰り返す。
「――ゴメン。ダメだ」
 耳から離れないあの音が、執拗に胸の傷を責める。忘れさせてくれない。そして、その傷から流れ出す涙が水溜まりを作っている。 水溜まりは、次第に大きくなる。どこまで大きくなるのだろう、いっそ自分を飲み込んでしまってはくれないかとぼんやり考えていると、 一瞬だが胸の痛みを忘れることができた。
 だが、そうするとまた、鳥の声が聞こえてくる。
 思い出せとでも言うように。
「――鳥が、鳴いてるんだ。ずっと・・・泣いてるんだ」
「――――」
 誰にも、かける言葉は見つからなかった。






13← TOP →15