後ろにファータを乗せたグリフォードのバイクを先頭に、3台のバイクが土煙を巻き上げながら地面を滑っていく。 最後尾を走るのは、後ろに怪我を負ったユキムラを乗せたアズマのバイク。 アズマはミラーで、フォーラの姿が順調に遠ざかっていくことを確認したあと、前を走る都筑のバイクに並んで声を張り上げた。 「都筑のおっさん! どうすればいい!?」 耳元で唸る風に負けないよう、都筑も声を大きくしてアズマに答える。 「おそらくフォーラはユキムラくんをターゲットに設定してあるはずだ。そして今、フォーラはユキムラくんの生命波動をインプットし、追ってきている。そのサーチエリアは半径5kmに限られているんだ。そのエリアから出れば可能性はあるかもしれないよ」 その台詞に、アズマは小さく舌打ちする。可能性はあると都筑は言ったが、それが気休めであることをアズマは知っていた。確かに彼の言う通り、フォーラから5km離れればいいだけの話だ。だが、それがどれほど大変なことか、彼は分かっていた。 「その間に、俺たちが何とかしてフォーラを救い出せればいいんだが・・」 グリフォードが眉を寄せながら呟く。それがどんなに困難なことか、彼も重々承知しているようだった。 フォーラのサーチエリアからユキムラを脱出させ、その間に、おそらくターゲットとして認定されていないだろう自分たちが 、何とかジグナからフォーラを取り戻せれば全て終わる。だが、フォーラのサーチエリアから出られるかというと、それも確実にイエスではない。 そして、ジグナからフォーラを取り返すことは、更に困難を極めるだろう。 レーザーガンしか持っていない自分たちの力だけでは、大勢の軍人を引き連れており、 何よりフォーラのmotherとなっているジグナの息の根を止めることは出来そうにない。ましてや生かしたままジグナにフォーラのmotherを解除させることなど、到底出来そうにもない。 「畜生。そもそも5km・・いけるか!?」 思わずアズマは小声でそう洩らしていた。 このエアバイクが出せるスピードは時速120kmまで。しかし、二人乗りで走らせている今、それも危うい状態だった。仮にサーチエリアから脱出できたとしても、すぐにフォーラは再びサーチエリア内に彼らを捕らえることが出来るだろう。Homicide Machineは、時速200kmで走ることができるのだから。 アズマの呟きは、後ろに乗っているユキムラの耳にだけ届いていた。その呟きに、ユキムラは背後に視線を移す。随分小さくなっているが、フォーラの姿がまだ微かに見えた。自分たちの方に向かってきてはいるのだろう。だが、走ってきてはいないようだ。徐々にその姿は小さくなっていく。それを見て、ユキムラは口許を僅かに緩めて言った。 「――やっぱり、フォーラはフォーラだ」 その呟きに反応したのは、アズマの隣を走っている都筑だった。 「・・ユキムラくん?」 どういう意味だろうと問うと、ユキムラは背後に視線をやったまま、強い口調で言った。 「フォーラは忘れてなんかいない。オレの事、ちゃんと覚えてるんだ」 その言葉に、都筑は何も言わずユキムラから視線を逸らした。ユキムラがフォーラを信じたい気持ちは痛いほど分かる。けれど、それ以上にフォーラを作った彼には分かっているのだ。一度スイッチを切ってしまえば、それまでのDATEは消えてしまう。絶対に、だ。そう作ったのは自分なのだから。 痛ましそうに視線をユキムラから逸らす都筑に代わって、グリフォードが口を開いた。 「何を言ってるんだ、ユキ。違う」 「だって、走ってこないじゃないか!」 ユキムラは、グリフォードから突きつけられたその事実を認めようとはしなかった。かみつくように答える彼からは、必死さが窺える。 ユキムラは、必死だった。必死で、信じていた。フォーラが少しでも自分とのあの日々のことを覚えてくれていると。そして、必死で信じまいとしていた。フォーラが自分を殺すために向かってきていることを、決して信じまいと必死になっていた。どんなに腕の傷が痛んでも。その傷を誰がつけたのかを知っていても、必死でユキムラは否定し続けている。 その様子に、グリフォードは眉を寄せる。これ以上、彼に事実を突きつけることにはためらいがある。だが、それでも彼には知らせなくてはならない。そうしなければ彼は、フォーラを信じ続け、そのまま殺されてしまうだろうから。 「ユキ、今は、だ。今、走っていないだけなんだ」 「・・・時速200kmで走れるんだぞ。ソレなのに、追ってこないじゃないか」 あくまでもそう食い下がるユキムラに、今まで黙って彼の言葉を聞いていたアズマが口を開いた。その言葉は、容赦のないものだった。 「ユキムラ、お前だって分かってんだろ。時速200で走れるからこそ、まだ追ってこねーんだよ。俺たちなんて、その気になればすぐに捕まえられるんだからな」 「―――・・」 口を閉ざしたユキムラに追い打ちをかけるように、アズマは更に言葉を紡ぐ。 「無駄な期待を持つのはやめろ。あいつはもう、お前のフォーラじゃねーんだ」 「――――」 「――ママ・・」 きつく唇を噛み、ついに閉口したユキムラを見て、ファータが瞳を潤ませる。 フォーラを信じたい気持ちは、ファータも同じだった。ずっと、片時も離れることなくユキムラの側でいろんなことを学んで来たのだ。一緒にここまで育ってきたのだ。そんなフォーラが消えてしまったなんて、信じたくない。背後を振り返ったファータの瞳には、まだはっきりとフォーラの姿が見えている。フォーラも、じっとこちらを見据えていた。その顔に、いつものフォーラの笑みは見る影もない。それが辛くて、ファータは視線を戻し、ぎゅっと瞳を閉ざした。 「・・おい! 都筑のおっさん。どうするんだよ? アイツから5km離れろって、無理じゃねーのか!?」 それはずっとアズマの、そして誰しもの中にある疑問だった。Homicide Machineが時速200kmで走ることが出来るということはしっかりと覚えている。そこから計算して、フォーラから5km離れることが可能か否か。答えは否。 しばしの沈黙の後、都筑は徐に頷いた。 「・・ああ。無理だね。このバイクは目一杯飛ばして時速120km。5km離れるのに単純計算で2.5分。フォーラだったら5km走るのに、1.5分」 「畜生! どうすればいいんだよッ」 「いいから。とにかく走るんだ」 舌打ちするアズマに、グリフォードが冷静に告げる。そして、アクセルを目一杯に踏み込んだ。その後を都筑が追う。 「ユキムラ、行くぞ。いいな? つかまっておけよ」 先程からずっと黙っていたユキムラが、アズマのその言葉に口を開くことはなかった。それでも、アズマの言った通り彼の腰に腕を回し、しっかりと捕まってきた。それをイエスの返事ととったアズマも、少し前を行っているグリフォードと都筑の後を追ってアクセルを踏み込んだ。 風の音が増す。他には、何も聞こえなくなるほどに。風に塞がれた耳の代わりに目を開けば、そこに見えるのはアズマの背中。必死で自分を逃そうとしてくれているナンバー2の姿だ。 ――こんな緊張感の中に身を投じるのは、何年ぶりのことだろうか。 何故だろうか。自分が殺されそうなこの状況の中、ユキムラは呑気に考えていた。まだ、実感がないのだ。フォーラが自分を殺そうとしているという実感が、湧かない。 『無駄な期待を持つのはやめろ。あいつはもう、お前のフォーラじゃねーんだ』 アズマの言葉は、真実だ。必死に否定しようとしていたけれど、それが真実なのだ。分かっている。腕に残った痛みが、それを肯定している。あのフォーラが自分を傷付けることなどできるはずがないのだ。だが、彼女はユキムラの腕を裂いた。そして、殺すために腕を振り上げていた。そんなことを、あのフォーラができるはずがない。だが殺そうとした。 そして導かれる答えはやはり、アズマが突きつけたものと同じ。 ――フォーラはもう、あの日のフォーラじゃない・・・ その事実は、腕の痛みよりも痛烈に胸を襲う。それでもまだ危機感が生まれないのは、どこかで信じようとしているからだろう。 葛藤で、胸が苦しい。 ユキムラは瞳を閉ざした。すると、風の音だけが彼を包んでいった。それで全てが忘れられればいいと、真剣に祈りたい気分だった。 ユキムラと同様に、グリフォードの後ろでファータも辛い現実から目を背ける為か、硬く瞳を閉ざしていた。風の音の中に、フォーラが一歩一歩こちらへと足を踏み出す音が聞こえてくる。完全に現実から逃げることが、ファータにはできないでいた。 そしてファータは徐にその瞳を開いた。 ――このままでは、ママが殺されてしまうかもしれない。 フォーラは、ユキムラを殺すようmissionを与えられているのだろう。かたや、ファータに与えられているmissionはまだ有効ではあるものの、『いい子にしていろ』という拘束力の緩いもの。完全にHomicide Machineに徹することができるのであれば躊躇うことなくジグナを殺すことが出来る。だが、ユキムラはそれを望んでくれない。いい子であるために、ファータにはジグナを殺すことは出来ない。勿論、フォーラを壊すことも出来ない。Homicide Machineとして、ユキムラを助ける術が見えない。 「―――」 否。 ―― 一つだけ・・一つだけママを助ける方法がある・・! その可能性に気付いたその瞬間に、ファータはグリフォードの腕をつついていた。 「グリフのお兄ちゃん」 「何だ?」 「都筑パパに話があるの」 「・・分かった」 何の話があるのだろう。そう疑問には思ったもののファータの真剣な雰囲気を察し、グリフォードは彼女にそれを問う前に、都筑と話をさせてやることの方が先だと感じたのだろう。すぐさまバイクを都筑の隣に並べた。 声を張れば簡単に声が届く位置にバイクが並び、ファータはチラリと視線をアズマとユキムラが乗るバイクに移した。彼らの乗るバイクは、自分たちから少し距離を置き後方にいる。声を張り上げても、辛うじて彼らに聞こえることはないだろう。それを確認してからファータは都筑に声をかけた。 「――都筑パパ・・」 「何だい、ファータ」 いやに真剣な顔をしているファータに、都筑が僅かに目を瞠る。そして彼女の言葉を待っていると、風にかき消されそうな声で、ファータは言った。 「―――・・笛」 「え?」 聞こえなかったわけではない。その笛という単語が何を意味するのか、理解できなかったわけでもない。聡い都筑には、ファータが何を望んでいるのか、すぐさま理解することができた。けれど、問い返してしまっていた。 本気なのか、と、揺れる瞳が問う。だが、ファータは再度言った。 「笛、吹いて」 きっぱりと。 「ファータ。ソレは・・・!」 「ボスが助かるならいいの。都筑パパ。笛、吹いて」 慌てて自分を止めようとする都筑の言葉を遮って、ファータはそう言った。その瞳に、迷いはない。真っ直ぐに都筑を見つめるその瞳の中には、勿論恐れもない。 ファータは、本気だった。 「・・何話してるんだ?」 何度も何度も背後をミラーで確認しながらバイクを走らせていたアズマが、前方の2台が何やら話し込んでいるのを見てユキムラに声をかけた。 その言葉に、ユキムラは閉ざしていた瞳を開け、都筑とグリフォードの方に視線を遣る。アズマの言う通り、ファータと都筑が何やら話しているようだった。その表情は、どちらも真剣だ。 「・・何だ?」 どんなに耳を澄ませても、鼓膜を揺らすのは風の音ばかり。何を話しているのか、会話の一片すらも届いては来ない。 「スピード上げるぞ」 ユキムラに断りを入れてからアズマはアクセルを更に踏み込み、一気に都筑の隣にバイクを並べた。 アズマとユキムラのバイクが隣に並んだことに気付いた都筑が、視線をファータから移す。 その瞳は、何故か細められている。 その理由が何なのか問う前に、都筑が口を開いていた。 「・・ユキムラ君。君に預けたmotherの証。今、持っているかい?」 その問いは二人にとって想像もしていないものだった。 「持ってるけど・・・?」 「おい、おっさん! それって・・・!」 きょとんと目を瞬いたユキムラとは対照的に、その問いで全てを悟ったアズマは驚きに目を瞠る。 motherの証。それは、ユキムラが都筑からフォーラとファータを預かった際に譲り受けたロザリオのことだった。所々に紅玉が揺れる銀の十字架。それはmotherの証だから持っていて欲しいと、ユキムラに託されたもの。だが、その真意をユキムラは知らされていない。 ユキムラの代わりに、アズマとユイだけが、その十字架の本当の存在理由を知っていた。その十字架こそが、Homicide Machineを唯一壊すことが出来るもの。Homicide Machineの鋼鉄の体を、内側から爆破するためのスイッチなのだということを。 「ファータ! お前――」 「いいんだよ。ね、ファータ」 「うん」 驚いたように声を上げるアズマを遮ったのは、おそらく悲しみに目を細めていたのだろう都筑と、彼とは逆に真っ直ぐ迷いのない瞳をしたファータだった。彼女は、本気だった。それを見てアズマも口を閉ざすしかなかった。何を言っても、彼女は己の意志を覆すことはしないのだろう。それを悟っていた。 「ボス。持ってる!?」 風に掻き消されないよう声を張り上げて問うファータに、ユキムラは首を捻りながらも首にかけていたロザリオを取りだして見せる。 「コレだろ?」 いったい何故今このロザリオのことを言い出したのか、全く見当も付かないでいるユキムラは、ただ首を捻る。 「それを、少し貸してくれないか?」 言って、都筑がアズマのバイクに近づく。ユキムラが渡しやすいように、アズマは僅かにバイクのスピードを落とした。それに合わせて都筑がユキムラの隣に並ぶ。 「いいけど。コレがどうしたって――」 そして、ユキムラがロザリオを首から外そうとした、その瞬間だった―― 「――!?」 ファータだけが、空気を切り裂き、アズマとユキムラに向かっていく音に気付き、弾かれたように後ろを振り返っていた。 「――危ない!!!」 だが、その警告が実を結ぶことはなかった。 ―――ド…ンッ!! 小さいながらも、爆音が響き渡ってからの出来事は、一瞬の内に繰り広げられていた。 それをとても長い時間だと感じたのは、アズマとユキムラだけだった。 爆音が響いたその瞬間、アズマの握るハンドルに凄まじい衝撃が伝わっていた。近くの地面に、ミサイルでも撃ち込まれ発生した爆風に煽られたのかと、最初は思った。だが、それ以上に事態は最悪だった。衝撃に傾くバイクを建て直そうと操作したハンドルは、全くきかない。その時になって、アズマはバイク自身に攻撃が加えられたことに気付く。 ――どうしようもない。 そう悟った瞬間、アズマはハンドルを手放し、自分の後ろに座っているユキムラに手を伸ばしていた。それはナンバー2として今まで生きてきてきたアズマの、ほとんど無意識の内の行動だったのかもしれない。 ガガガガガガガガガ・・・ッ!! 爆音のその直後、後部から煙を噴いたバイクは、あっという間に横転し、乗っていたアズマとユキムラを容赦なく地面へと放り出していた。着弾の直前、僅かにスピードを緩めてはいたものの、それでもバイクは部品をばらまきながら派手に地面を転がっていく。 同様に、アズマとユキムラも容赦なく地面に放り投げられ、激しく地面を転がっていく。ようやく二人の体が止まったのは、着弾地点から50mも離れた場所だった。 「―――!」 「ユキ!! アズマ!!」 「ボス――――――――――ッッ!!!」 声も出ない都筑。グリフォードはすぐさま我に返り、二人の方にバイクを向けた。その後ろで、ファータが青ざめた顔で悲鳴を上げる。自分が未だ動いているという事実が、ユキムラの生命波動が途切れていない=彼が死んでいない何よりもの証だということにも気付かないほど、ファータは動転していた。 「―――ッ」 一瞬にして凄まじい衝撃の中に身を投じることになったユキムラは、己の体にかけられた回転が止まったことに気付き、瞳を開けた。そこでまず、自分が意識を手放していないことに驚きを覚える。それが何故なのかを考える前に、ユキムラは冷たい地面に投げ出されている体をゆっくりと動かしてみる。 「――痛ッ!!」 その瞬間に、左足から全身へと激痛が広がる。その痛みに、おそらく足が折れていることを悟ったユキムラだったが、その他に目立った痛みはない。腕や額から流れる生暖かい血の感触はするものの、折れたりしている箇所は足以外にはないらしい。奇跡だと、心の中で感嘆する。それと同時に、ユキムラは思い出していた。 「――アズマ!?」 自分の前にいたはずのアズマの姿が見えない。 体が地面に叩き付けられるその瞬間、強い腕に体が捕らえられ、そのまま抱き込まれたそのぬくもりを覚えている。咄嗟に、アズマはユキムラを守るために、その体を自らの体で包んでいた。その、アズマの姿がない。 足の痛みをおして体を起こしたユキムラは、すぐさま視線を巡らせる。自分の後方、数メートルの所に、アズマが俯せに倒れていた。 「――アズマ! アズマ!!」 激痛は、ユキムラの中から動く気力を奪おうとしている。それでもユキムラは体を引きずってアズマへと這っていく。 痛みを全身に送り出す胸の鼓動は、爆発するのではないかと疑いたくなるほどに大きくなっている。 アズマが、ピクリとも動かない。 友に迫っている死の存在がもたらす恐怖、それだけが、今のユキムラを動かしていた。 「アズマ!! アズマッ!!」 懸命にアズマの元まで這っていったユキムラを、遠くからじっと見つめる一対の瞳があった。 豆粒ほどの小さな姿になってしまってはいたが、ファータにははっきりと見えていた。小さな掌をこちらに向け掲げているフォーラの姿が。そして、その掌にはポッカリと穴が空いている。そこから、小型ミサイルを放ったのだろう。穴からは、細い煙が空へとたなびいていた。 「ユキ! アズマ! 大丈夫か!!?」 バイクを止めるなり二人の方に駆け寄ったグリフォードに、ユキムラがはっと顔を上げる。 「グリフ! アズマがッ!!」 その顔は血と土で汚れていたがそれ以上にグリフォードの目に止まったのは、どんなに触れても、名前を呼んでもアズマが動かないことへの恐怖の色。 すぐさまグリフォードはアズマの元へと駆け寄ると、首元に手を触れさせ唇に手を触れさせる。 「―――」 しばしの沈黙の後、グリフォードは大きく息を吐いた。それは、安堵の溜息だった。 脈はある。呼吸も、同様に。ユキムラの体を抱き込んだまま、バイクから放り出され地面に叩き付けられた所為だろう。2人分の重さを受けたあばらは何本か折れてしまったのだろう。口許には血を吐いたあとがある。腕はと言うと、地面を転がった所為で深い擦り傷を負い、血に染まっていた。ひどい怪我ではあるが、致命傷となる傷は見受けられない。出血も命に関わる量のものはない。 「大丈夫だ。すぐさまcityに運ぼう! 都筑博士、アズマを頼む」 そっと注意深くアズマの体を抱き上げたグリフォードは、彼を都筑へと託す。バイクでの搬送は、アズマの体にはひどく負担になるだろうが今はそれ以外に方法がない。 アズマを託された都筑はようやく我に返り、彼のぐったりとした体を受け取る。 「なるべくそっと頼む! 多分あばらをやられてる。腕もだ」 体が揺らされるたびに、意識を失ってはいるがアズマの瞼が動く。痛みが彼を襲っているのだろう。それを見て、グリフォードが声を上げた。 ファータに手伝ってもらいながら、都筑はアズマの体を、自らの体にもたれかけさせるようにし、何とかバイクに座らせる。片手で彼の体を抱きながら、もう片方の手でバイクのハンドルを握る。何とか走行は出来そうだ。 「こっちは大丈夫だよ」 都筑の言葉に、グリフォードは視線をユキムラに戻す。さっと彼の全身に視線を遣ったが、足以外に目立った外傷は少ない。アズマが守りぬいた結果だろう。腫れ上がった左臑は、骨折しているようだ。僅かに額を切ったり、腕に深い擦り傷が窺えたが、やはりアズマほどではない。 「歩けは・・しないか」 ユキムラの足の状態を見たグリフォードはそう結論づける。その言葉に、ユキムラも僅かに頷いて見せた。 そしてグリフォードは、小さな声で洩らしていた。 「―――・・それで良かったのかもしれないな」 「え?」 ユキムラがその言葉の真意を問いつめる前に、いつの間にか側に寄ってきていたファータがユキムラを見つめた。その瞳には、ユキムラが無事であったことを確認し、安堵の涙が浮いていた。涙を滲ませた金の瞳で、ファータは立ち上がることの出来ないユキムラを上から見つめていた。 それは、いつもとは逆のポジション。 いつもは、背の低いファータがユキムラを見上げていたのに。 不思議な感覚で、ファータを見上げていると、彼女がすっと手を伸ばしてきた。 「ボス。ソレ、ちょうだい」 「・・・motherの証?」 ファータの指差す先にあったのは、銀の鎖の先で揺れる十字架。 そう言えば、先程もその話をしていた。このロザリオが一体何なのか。このロザリオに、何かあるのか。ユキムラは眉を寄せ、ファータを見つめる。 だが、ファータがその理由に答えることはなかった。ただ、繰り返す。 「うん。御守りに、ちょうだい」 「・・御守り?」 渡したくないと、ユキムラはそう感じていた。それは、彼の直感が、ロザリオを渡してはならないと警告を発するから。渡してしまったら、後悔すると叫んでいるから。 ――何故だろう。嫌な予感がする・・・ ロザリオを渡そうとしないユキムラに、ファータは突然抱きついていた。上からユキムラの体を最初は優しく、次第に強く強く抱き締める。そして、彼の耳元で、そっと囁いていた。 「――ボス、大好き」 「ファータ?」 急にどうしたんだと戸惑うユキムラを、再度ぎゅっと抱き締めた後、ファータはその体を離した。その手には、いつの間にユキムラの首から奪ったのか、彼女がずっと欲していたmotherの証があった。 ロザリオを手にしたファータは、くるりと背後に視線を遣り、都筑とグリフォードを見遣った。 「グリフのお兄ちゃん。都筑パパ。ボスをお願いね」 「――ああ」 「行っておいで。ファータ」 ユキムラには、3人がいったい何を言っているのかが分からない。 ――何処かに行ってしまうつもりなのか・・? 踵を返し、自分から離れていこうとしていたファータの手を、ユキムラは咄嗟に掴んでいた。不安が胸の中を渦巻いている。恐怖と言ってもいいかもしれない。それは、アズマを失うかもしれないと思った瞬間、胸をいっぱいに埋め尽くした恐怖と似ている。その恐怖が、ファータを引き止める。 「ファータ! お前、何しようって――」 その問いを遮ったのは、 「―――!」 優しいキス。 唐突に、自分の唇にファータの口付けが降る。驚きにユキムラは目を瞠っていた。 「―――」 ファータはHomicide Machine。体温のない、冷たいはずの唇が、何故か温かく感じる。それはユキムラの中で、もうファータはHomicide Machineではなかったから。愛しい一人の娘になっていたから――。 唇に残った温もりは、彼女から感じた初めての温もり。 驚きのため、ファータの腕を掴んでいた手の力が抜ける。その隙に、ファータは自らの手を取り戻していた。すぐさま屈めていた体を起こし、 涙の浮かんだ瞳のまま、とびっきりの笑顔をユキムラに向けた。 「ボス、大好きよ。ファータの・・・。ファータとフォーラのママは、ボスだけだよ?」 「――ファータ?」 一度は逃してしまったファータの手を求めて、ユキムラは手を伸ばす。今まではいつだって、ファータがこの手を取らないことはなかった。いつだって、彼女の方からこの手を求めてきたというのに―― 「じゃあ、ちょっと行って来ます」 ファータがユキムラから伸ばされた手を取ることはなかった。踵を返し、ユキムラに背を向ける。 「―――ファータ・・!」 それでも、ユキムラはファータに手を伸ばす。 その手を、首だけで振り返り、歩みを止めたファータがじっと見つめていた。その瞳から一粒、涙が零れていく。だが、ファータがユキムラの元に戻ってくることはなかった。 「――俺たちも行くぞ」 徐に言ってグリフォードが体を向けたのは、ファータが向かおうとしているのとは全く逆の方向。 「おい、グリフ!?」 ユキムラには、何が何だか分からない。どういうことだと彼の名を呼ぶが、グリフォードは答えようとはしなかった。 「グリフ! どうなってるんだ?」 答えを求めて必死に問うユキムラの言葉にグリフォードは答えなかった。何も言わず、ユキムラの体を抱き起こし、抱え上げるため、膝の裏に手を差し込む。 グリフォードが自分を運ぼうとしていることに気付いたユキムラは、咄嗟に逆らわなくては、と思った。それは、先程から鳴っている警鐘がそうさせるのだろう。不安は、確実にその様相を恐怖へと変えていく。 ――ファータがいなくなってしまう・・! 頭の中で、誰かが叫んでいる。その悲鳴にも似た叫びに、ユキムラは体中に走る痛みのことも忘れ暴れていた。 「グリフ! イヤだ! おろせよ!! オレは行きたくない――!」 だが、グリフォードは強引にユキムラの体を抱き上げる。ユキムラがどんなに暴れてみても、グリフォードの屈強な肉体の前には、彼の抵抗など何の妨げにもならない。ただ、ユキムラの懇願の言葉にだけは、耳を塞ぎたいほど辛い気持ちだったに違いない。 「ファータ!!」 どうあってもグリフォードに自分をおろす気がないことを悟ったユキムラは、ファータの名を呼ぶ。自分がファータの元に行けないのなら、彼女をこちらに戻せばいい。 「待て! 待て、ファータ!」 だが、ファータはその言葉に振り向きもしなかった。背中を向けたまま、 「イーヤ」 だだっ子のように、そう答えた。 「嫌じゃない!」 「イヤなものはイーヤ」 ユキムラは譲らない。だが、ファータも譲らない。それでも、ユキムラは必死でファータを呼び続ける。 「イヤじゃない! ママの言う事が聞けないのか! 戻ってこい!!」 そう言えば、いつだってファータは言うことを聞いた。 フォーラと喧嘩をしている時だって、ピタリと口を閉ざしたのに、今は―― 「ファータ!」 必死で手を伸ばし、声を張り上げてもファータは振り返らない。 その所為で、ファータが今、どんな顔をして沈黙しているのかは分からない。もしかしたら、気持ちが揺れているのかも知れない。 微かな希望を胸に、ユキムラはファータの答えを待っていた。 だが、ファータから返された答えは、 「・・・ボスの所為よ」 「ファータ?」 予想外の言葉だった。 その答えに、どういう意味だとユキムラが目を瞠る。すると、突然ファータが振り返り、悪戯っ子の笑みを浮かべて言った。 「ボスの教育がイイから、こ〜んないう事聞かない悪いコになっちゃったんですよ〜だ♪」 そんなファータの瞳に、先程まであった涙はない。その金の瞳は、いつもと同じ、ファータの瞳。いつも、ユキムラの後について、きゃーきゃー騒いでいたあの瞳。フォーラと一緒に『家』の中を駆け回って遊んでいたあの頃の瞳。それなのに、いつもと違うと感じるのは、彼女の中にある強い意志の所為だろうか。 「―――ファータ、お前・・」 彼女が何を覚悟しているのか、ユキムラもそろそろ感じ始めていた。だから、なおのこと声を張り上げる。声が嗄れたっていい。みっともないと思われてもいい。まるで子供だと笑われてもいい。とにかく、ファータが自分の元に来てくれさえすればいい。そうすれば、どんな手段を使ったとしても、彼女を行かせはしない。彼女のセンサーに触れ『一緒に行こう』と一言言えばいいだけなのだ。 「ファータ! ・・ファータ!!!」 ユキムラは叫び続けた。だが、 「行って来ま〜す♪」 そう言って、ファータはまた背中を向けてしまった。ヒラヒラと手を振るその様は、少し『家』の外に遊びに行くような調子。 だが、ユキムラがそれに騙されることはない。行ってらっしゃいと送り出せば、もう彼女が帰ってこないのではないかと、そんな恐怖が生まれる。大きくなっていく。 「ファータ! 戻れ! 戻るんだ!!!」 ユキムラの必死な声にも、ファータは振り返らない。 必死で叫ぶユキムラと、そんなmotherに背を向けたままでいるファータを交互に見遣った後、都筑が徐に口を開いた。 「行こう、グリフォード君」 「――ああ」 ユキムラをバイクの前に乗せ、その後ろに腰を下ろしたグリフォードがバイクのエンジンをかける。 「行くぞ、ユキ」 その言葉にユキムラが慌ててグリフォードを振り仰ぐ。 「イヤだ! ファータも!! グリフ! ファータも連れて行ってくれ!!」 だが、グリフォードはユキムラの言葉に見向きもしなかった。弟のように、息子のように守り育ててきたユキムラの必死の懇願を目にしてしまったら、心が揺らいでしまう。そうなればユキムラを守るため覚悟を決めたファータに申し訳がたたない。 「――行くぞ」 心を鬼にして、グリフォードはそう告げ、バイクを発進させた。 「おろせ! おろしてくれ!!」 バイクの上で暴れるユキムラを、グリフォードが片手で押さえ込みバイクに縫いつける。怪我を負ったユキムラでは、グリフォードの片手から逃れることすら出来なかった。 「ファータ!!!」 次第に遠ざかっていくファータの姿。必死で叫ぶと、徐にファータが振り返り、口を開いた。 「― ― ― ― ―」 ファータの唇が、何か言葉を紡ぐ。それは音になる前に、口中で消えたが、 ――――さよなら。 ユキムラの耳には、届いていた。 「ファータ! ダメだ、行くな!! 行くな――――――――――――――!!!!」 悲痛なユキムラの叫びを乗せ、2台のバイクは地を滑っていく。やがてフォーラの姿も視認することが難しくなり、 ファータの姿も、すぐに霞んでしまった。溢れ出す涙が、邪魔をうる。 「ファータ――――――――――――――ッッ!!!!」 ユキムラには、叫ぶことしかできなかった。 |