風が唸っている。それはあたかもユキムラたちとジグナたちの間に流れる緊張感を表したかのように鋭い音で風は唸っていた。 「どうする、ユキムラ」 視線はじっとジグナに向けたまま、声だけでアズマがユキムラに問う。その問いに、ユキムラが返事を返すことは出来なかった。 そもそも答えはなかなか出てこようとはしなかったし、何より、先に口を開く者がいたから 。それは、人知れず口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していたファータだった。長い逡巡の後、ようやくファータが開けた唇に言葉を乗せた。 「―――・・ボス、ファータ、行く」 その言葉に、じっと敵方を見つめていたユキムラが、弾かれたようにファータを見遣った。 「ファータ」 どこに、とは言わなかったが、それは言葉にされなくても分かる。ファータは、じっとジグナを見つめていた。 そして、己の片割れであるフォーラを見つめていた。 「ボス。ファータはファータにできることをするの」 その言葉に、迷いはない。 真っ直ぐに前を見つめるファータの横顔を、ユキムラはじっと見つめる。 風がやむと、微かにファータの中から機械音が聞こえてくる。それは、今まで、聞こえてこなかった音。 『・・・良い子にしていろ』 そのmissionを遂行するため、ファータが己で考え、Homicide Machineとしての力を解放している音。その音を耳にしながら、ユキムラは口をとざしていた。ファータは、自分に出来ることをしようとしている。それは、ファータ自身も、創造主である都筑も、そしてmotherである己も望んでいないこと。だが、それでもファータはHomicide Machineとして役に立とうとしている。 『―――フォーラとファータがHomicide Machineだから!?』 自分たちがHomicide Machineであるから、愛してもらえない。そう言って泣いていた日もあった。 ほんの先日のことだ。Homicide Machineでなければと、苦しんでいた日もあっただろう。 だが、それでもファータはHomicide Machineとして戦おうとしている。己のため。 フォーラのため。ユイのため。アンリのため。motherのために―― ユキムラは、瞳を閉ざす。 いつの間にか、風がやんでいる。静寂の中、ユキムラは考える。 ――だったらオレに出来ることはなんだ? ファータはHomicide Machineとして戦おうとしている。ならば、自分はどう戦えばいいのか。 しばしの沈黙の後、ユキムラは一つ息を吐き出し、瞳を開けた。その暗紫色の瞳に、迷いの色はない。己のすべきことを見つけた瞳だった。 「よし、決めた」 「ユキ、どうするんだ?」 言ってファータの隣にかがみ込んだユキムラに、グリフォードが訊ねる。するとユキムラは何事かを囁くため、ファータの耳元に寄せていた口を離して答えた。 「ユイとアンリを取り戻すんだ。ファータ、協力してくれ」 ファータの瞳を真っ直ぐに捕らえるユキムラの瞳は、真剣そのものだった。けれど、どこか少年らしい好奇心の輝きも強い。戦いに対する不安と興奮とが輝くその瞳の強さに、ファータは大きく首を縦に振って答えた。 「うん!」 大きく頷いたファータの耳元に、再びユキムラは口を寄せる。ラジスタ側が、何か特殊な機械で音声を拾っていないとも限らないと考えたからだ。だが、そんなユキムラを止めたのは都筑だった。 「ユキムラくん。忘れたのかい?」 唐突なその言葉に、ユキムラが都筑に視線を遣る。すると彼は穏やかな笑みを浮かべて言った。 「Homicide Machineとしての力を解放している今のファータには、どんなに小さな音だって拾える耳を持っている。ね、ファータ?」 「うん」 「そうか」 都筑の言いたいことを悟ったユキムラは、すっくと立ち上がった。そして、真っ直ぐジグナを見据えたまま、微かに唇を動かす。そこから零れた声は、ジグナには勿論、隣に立っているアズマにさえも聞こえなかったが、 「分かったわ。ママ」 ファータには聞こえたようだった。しっかりとした返事が返ってくる。 その返事に、「よい子だ」と言葉に出すかわりに、彼女の頭を撫でる。そして、ユキムラはジグナに向けて口を開いた。 「分かった! ファータと二人を交換しよう」 その言葉に、アズマがいったいどうするつもりかと視線で問う。ユキムラは何も言わず、ただその瞳を見つめ返す。「信じろ」と訴えかけてくる瞳に、アズマは分かったと答えるかわりに、軽く肩を竦め視線をジグナに戻した。 「では、Homicide Machineのスイッチを切って、こちらに連れてこい」 拡声器から届くジグナの嗄れた声に、ユキムラも返す。 「じゃあそっちも二人を連れてきてくれ。あそこ・・あの、コンクリのところで交換だ」 言ってユキムラが指した所には、建物の壁が崩れ落ちたあとなのだろう、大きなコンクリートの塊が無造作に一つ転がっている場所があった。 それを確認したジグナは、頷く。 「分かった」 そう返事を寄越したあと、ジグナはユキムラが先程そうしていたように、フォーラの耳元に口を寄せた。おそらく何かmissionを与えているのだろう。 それを見て、ユキムラは顔を顰める。そして、ユキムラが抱いたのと同じ感情を持ったのだろう、けれどユキムラとは逆に穏やかな表情をしたまま、都筑がサラリと言った。 「汚い顔をフォーラに近づけないで欲しいな」 「・・・なかなか言うな、博士」 穏やかな中に冷ややかな殺意を感じさせる都筑のその台詞に、彼の隣で思い切りその発言を耳にしてしまったグリフォードは苦笑を洩らした。 一同がジグナとフォーラの行動を見守っていると、フォーラがユイとアンリの腕を片手ずつ握り、こちらに向かって歩き始めた。 どうやらジグナは、フォーラに引き渡しを命じたようだった。 それを確認したあと、ユキムラもファータに手を伸ばす。 「ファータ、頼むぞ」 小さな声でそう囁くと、ファータは力強く頷いた。 「うん。任せて」 「じゃあ、行くぞ」 再度ファータが頷いたのを確認したあと、ユキムラはファータの首筋に手を触れさせた。すると、かくんとファータが倒れる。それは糸を切られたマリオネットのように人間らしからぬ動きだった。崩れ落ちるファータの体を両手で抱きとめたユキムラは、そのままファータの体を腕に抱え、歩き始めた。その後を顔を僅かに青ざめさせたアズマが追う。ユキムラがいとも簡単にファータのスイッチを切ったことが信じられないと言った表情だった。 「お、おい! ユキムラ! 俺も行く」 「ああ、頼む」 アズマにそう返し、ユキムラは一度歩みを止めた。そして、グリフォードと都筑を振り返ったユキムラは小さな声で二人に告げる。 「グリフと博士はちょっと待っててくれ。すぐ逃げれられるように準備だけしておいて欲しい」 「・・分かった」 本当は自分もついていきたかったのだろう。グリフォードはしばし不安に顔を曇らせた後、それでも頷いて見せた。同様に都筑も「分かったよ」と答えた。 その答えにありがとうと返し、再び歩き出すユキムラとそれに続くアズマ。 「・・・何を考えてる? ユキムラ」 そう問うアズマの声には、まだ動揺の色が残っている。 「ファータは渡さない。でも、ユイとアンリは返してもらう」 きっぱりと、ユキムラは言った。 その言葉に、アズマは眉をひそめる。ユイとアンリを取り返すためにはファータを渡さなくてはならない。ファータを引き渡すために、彼女のスイッチをオフにしたのではないか。 「どういうことだ?」 その答えは、思わぬ所から返された。 「・・アズマさん」 それは、スイッチがオフになったと思っていたファータの声。驚いたアズマが視線だけを肩に担がれたファータに遣る。すると、ファータの瞳が徐に開き、アズマと視線を交わしたかと思うと、悪戯っぽくウインクをしてきた。 「なんだ・・」 安堵の溜息と共に、アズマはそう呟いていた。 考えてみればそうだ。スイッチをオフにしてしまえば、今までの記憶は消えてしまう、今まで一緒に暮らしてきたファータは消えてしまうのだ。それを、ユキムラが簡単にしてしまえるはずがないではないか。 そして、考えを巡らせたアズマは、 「・・・なるほどな」 と、小さな声で呟いた。そして、ユキムラの後ろに付き従う彼の顔に、もう迷いはなかった。 フォーラよりも先に、ユキムラとアズマが指定した場所に着く。真っ直ぐにフォーラを見据え、待っていると、両の手にユイとアンリの手を握ったフォーラが二人の前で止まった。止まったきり、フォーラは何をすることもなくそこにただ立っていた。口を真一文字に引き結び、瞳は一切揺れることなく、ただユキムラを見つめている。 いつもくるくると目まぐるしく変わっていた表情は、いったいどこにいってしまったのだろうか。 ユキムラは、何の感情も写さないフォーラの瞳を、ただただ見つめることしか出来なかった。そんな彼を我に返らせたのは、 「ボスー!」 「・・アンリ!」 幼い少女の、自分を呼ぶ声だった。視線をアンリに移すと、彼女は久しぶりに見るボスとナンバー2の姿に無邪気に表情を綻ばせていた。おそらく、どんなに大変なことに自分か巻き込まれているのか、彼女は完全には理解できていないのだろう。 かたや、ユイはと言うと、 「――・・」 噛みしめた唇を開けることなく、視線を伏せ、決してユキムラやアズマと視線を合わせようとはしない。 ――・・合わせる顔がない。 ユキムラから、フォーラを奪ってしまったのだ。それだけでなく、そうした自分の努力は何の実も結ばず、更に今、自分のためにユキムラは、ファータさえも失おうとしているのだ。顔は、上げられなかった。 「ユイ」 「―――」 名を呼ぶユキムラの声に、自分を責める響きが含まれていないことに、ユイは驚く。ゆっくりと顔を上げると、声と同様、優しい顔をしたユキムラが自分を見つめていた。 「迎えに来たぞ」 その優しい言葉に、ユイは堪えていた涙を零してしまっていた。開けた唇から零れたのは、 「ごめんなさい!!」 という言葉だった。 何一つできなかった。アンリを取り返そうと思った。そして、c−cityを守ろうと思った。自分一人の力で、誰にも心配も不安も感じさせることなく、終わらせようと思った。自分一人が悪者になりさえすれば、c−cityは今のまま、平穏な時間を紡ぐことができると思ったのに――全て、失敗に終わった。 「ごめんなさい!!」 涙をぼろぼろと零し謝るユイを、アンリがきょとんとした瞳で見上げている。やはり彼女は何が起こっているのか分かっていないようだった。 アンリの目も気にせず泣きじゃくるユイに、ユキムラは再度彼女の名を呼んだ。 「ユイ。よく頑張ってくれたな。ありがとう」 そしてユキムラは、手をさしのべる。帰ってこい。帰ってきてもいいのだと。 「ボス・・!」 驚きに目を瞠るユイの瞳から、再び大粒の涙がこぼれ落ちた。 ジグナの嗄れた声が響いたのはその時だった。 「さあ、交換だ。Homicide MachineにHomicide Machineを渡せ」 まるで自分が優位に立っているかのように命令してくるジグナに、ユキムラはムッと眉を寄せ、冷静に要求を返す。 「先に、ユイとアンリを渡せ」 すると、ジグナは意外にもすんなりと頷いて見せた。 「・・いいだろう」 いやに余裕を感じさせるジグナのその行動に、不安が胸の中に湧いてくる。しかし、その不安を余所に、ジグナがフォーラの名を呼ぶと、フォーラはやはりすんなりとユイとアンリの手を離した。 すぐさまユイがアンリを抱え上げ、ユキムラとアズマの元に駆ける。解放したふりをして攻撃されてはたまらないとユイは考えたのだろう。しかし、その不安も杞憂に終わった。フォーラはユイとアンリの背を、ただ黙って見送っていた。何か行動を起こす素振りは見せない。 「ユイ! アンリ!」 アズマがユイとアンリを抱き締めて出迎える。同様にユキムラも二人の肩に触れ、帰還を出迎える。だが、すぐにユキムラは視線を移した。 「――・・フォーラ」 移した視線の先にいるのは、フォーラ。このfall cityの地下で出会った頃と、姿形は何も変わらない。けれど、昨日、夜のC−cityを散歩していた日のフォーラとは似ても似つかない。 そっと、名を呼びかけてみる。いつものように。だが、反応はない。自分を見つめ返してくる瞳に、感情はない。彼女の記憶は消去されてしまっている。今の彼女は、何も知らない。ユキムラが教えた悲しみの意味も、喜びに流れる涙のあたたかさも、命の儚さも、人を愛する心も、何もかも、彼女は忘れてしまっている。 ――もう、そこにいるのは、あの日のフォーラではない。 「フォーラ・・!」 もう一度、諦めきれなくて、ユキムラはフォーラの名を呼ぶ。懇願の響きを帯びたその声を邪魔したのは、ジグナだった。 「さあ、Homicide Machineを渡せ」 その要求に、ユキムラは分かったとジグナに向かって頷いてみせる。そして、ジグナには見えないように、顔を俯かせ、そっと唇を動かした。 「・・・ファータ、頼んだぞ」 ファータにしか聞こえない囁き。それにファータが僅かに指を動かすことで答えを返したのを確認すると、ユキムラはジグナに言われたとおり、フォーラにファータを渡した。フォーラは、軽々とファータの体を自らの細い肩に担いだ。 「――フォーラ」 己の半身を得た今も、やはり彼女に感情が戻ることはなかった。それを、悲しい瞳で見つめる。 「早く離れるぞ、ユキムラ!」 Homicide Machineを渡してしまった。無防備になった今、向こうが何を仕掛けてくるか分からない。 「・・ああ」 アズマに促され、ユキムラもすぐさまフォーラから踵を返す。 アズマはアンリを抱えているユイの手を引き、グリフォードと都筑の待つ方へと走り始めた。フォーラがジグナからどんな命令を受けているのか分からない。引き渡しだけならばいいが、ユキムラがファータのスイッチを切ったふりをし、欺こうとしているように、ジグナもフォーラに別の命令も与えているかもしれない。早く、フォーラから離れた方がいい。アズマは己を急くそんな予感に、背を押されていた。そんなアズマに続いてユキムラが走り始めた、その時だった。 「ユキ――――――!!!」 突然の声。それは、自分たちを遠くから見守っていたグリフォードのもの。その緊迫した声と同時に、後ろを振り返ったアズマとユイの口から、 「ユキムラ!!」 「ボス――!!」 悲鳴が溢れる。 同時に背後に視線を遣ったユキムラの目の前には、 「―――!!」 フォーラの顔があった。何の感情も持たない、冷たい顔をしたフォーラが、驚くほど近くに居た。 ――危ない・・・!! 警鐘が、鳴り響く。咄嗟に体を捻ったユキムラの腕に、赤い血の筋が這っていた。 「――痛ッ・・」 肩から二の腕を這い、あばらに達するその直前で引き裂かれる痛みは消えた。だが、すぐさま、生まれたのは熱にも似た痛みと、バランスを失った体が地面に落ちた際に訪れた鈍い痛み。その痛みが去るのを待っていられる余裕などユキムラにはなかった。自分を見下ろす冷たい視線がそれを許さない。 ―――逃げろ・・・! 警鐘は、変わらず鳴り響いている。だが、ユキムラが立ち上がることは出来なかった。邪魔をするのは、痛みではなく、 「―――フォーラ」 自分を見下ろす、フォーラの存在。その指が、赤く染まっている。それが何故なのか、考えればすぐに分かる。だから、ユキムラは思考することをやめた。 ―――考えたくない。分かりたくないから。 ―――信じたくないから・・・。 赤く血に染めた指をかざし、フォーラが冷たい目で、かつてのmotherを見下ろしていた。 ―――殺すために。 |