………


 轟音から解放された鼓膜に届いたのは、静寂だった。
 何も聞こえない。
 いや、違う。聞こえる。遠くから聞こえてくるものがある。幼い声。自分の名を呼ぶ、幼い声。
(…誰だ? 誰がオレを呼んでるんだ?)
 朦朧とした意識の中、そんな疑問が頭を巡る。 だが、答えが見つからない。
 その答えを見つける前に、ユキムラは新たな疑問にぶつかる。
(? 苦しい…?)
 体が、何かに圧迫されている。
 だが、その問いも答えを見つける前に消える。
「ぼすー! ぼすー!!」
「―――っ」
 意識を手放してしまっていたらしい。マリーの自分を呼ぶ声に、ユキムラは閉ざしていた瞳を持ち上げた。 だが、その瞳に注ぎ込むはずの光がない。一瞬、昼を飛び越えて夕方が訪れたのだろうかと思ったが、 どうやらそうではないらしい。未だ焦点の合わない瞳を数度瞬かせたユキムラは、 目の前に灰色のコンクリートの塊があることに気付く。
「ぼすー」
 状況を理解しようと思考を巡らせ始めたところで、マリーの声が聞こえた。
「…マリー?」
「ぼす〜」
 自分の声を聞いて安堵するマリーの声。姿は見えない。 だが、俯せた体の下にマリーの温もりを感じる。庇って抱き込んだまま、下敷きにしてしまっているらしい。
「マリー。大丈夫か!? 怪我は!? ――っ」
 慌てて体を起こそうとして、ユキムラはそれができないことに気付く。
 動けない。
 背中に当たる、冷たい感触。そして、体中にまとわりつく、鈍い痛み。
「マリー!?」
 声をかけると、彼女が首を横に振ったことが分かった。どうやら怪我はないらしい。
 それを確かめ安堵した後、ユキムラは辺りに視線を巡らせる。
 どうやら建物が崩れたらしい。天井は完全に落ちており、それを支えていた柱も全て倒れている。
 唯一、窓のある壁のみが、大きく傾いてはいるものの、崩れた天井や本棚を支えに辛うじて 立っているような状況だった。 (畜生。ボロめ)
 本棚が倒れたその振動でこうも簡単に崩れるとは思わなかった。 思わず毒づくがどうにもならない。 ただ、自分たちがぺしゃんこになっていないことには感謝しなければならない。
 巡らせる視線の先に写るのは、灰色。そして、首を動かしたその先に、違った色彩があった。 こげ茶。それが、古ぼけた本棚だということは想像に難くない。 どうやら、その本棚が落下してきた天井から二人を救ってくれたらしい。 もとはと言えばその本棚が倒れてきた所為で建物が崩れたわけではあるが、ひとまず感謝、である。
 本棚と、崩れた天井のかけらとが折り重なって出来ているらしい自分たちのいるその空間は、 思ったよりも広い。マリーならば自由に動けるだろう。
 俯せに倒れているユキムラは、顔を上げる。前方から光が差し込んでいることに気付いたのだ。
(助かった…!)
 窓だ。
 その光が流れ込んでくる場所が意外と近くにあることを知り、ユキムラの中に希望が広がる。 目の前といって差し支えないだろう。窓があった。 壁はこちらに向かって倒れ込んでいるものの、窓はまだ原型をとどめたままだった。 折り重なったコンクリートの塊の先には青い空が見える。
 その窓を目指して体を動かそうとしたユキムラは気付く。
 周りの状況を把握しようと意識をやり、まず感じのたのは、圧迫感と、 それに伴う鈍い痛み。それを払おうと、身じろいだその時、
「――っ」
「ぼす!?」
 今まで、鈍い痛みに覆われていた足に、鋭い痛みが走る。 堪えきれず洩らした声に、マリーが驚いたようだった。
 だが、彼女に答える余裕はない。
 痛みが通り過ぎるのを、歯を食いしばって待つ。しだいに遠ざかっていく痛みの代わりに、 やってくるのは胸を冷たくする絶望にも似た感情。
(足が…!)
 ユキムラは、動けなかった。何がどうなっているのかは全く分からない。 だが、動けないことだけははっきりと知れた。右足を何かに挟まれているらしい。
(オレは動けない…)
 唇を噛んで、自分の中に唐突に突きつけられた絶望を忘れようと試みる。
「…マリー。動けるか?」
 なるべく彼女に体重がかからないよう、両手で自分の体を支えていたユキムラは、 ぐすぐすと泣きべそをかいているらしいマリーに訊ねる。彼女が頷いたのを確認してから、ユキムラは言った。
「マリー。オレの下から這い出ろ」
 腕立て伏せの要領で体を持ち上げる。挟まった足が痛みを訴えているが、 それを無視する。モゾモゾとマリーが自分の下から這い出したのを確認してから、 ユキムラは再び体を冷たい地面の上に俯せに横たえた。
 ユキムラの下から這い出たマリーは、 彼の目の前にペタンと座り込む。ユキムラの予想通り、ほどほどに高さはある。 倒れた本棚と、その上に倒れ込んだ柱。本棚が背にしていた窓のある壁が辛うじて倒れていないおかげで 生まれた空間。
 マリーならば、その空間を這っていけば、あの窓から外に出ることが出来るだろう。
「マリー。そこから出るんだ」
 なるべく優しい口調で促す。
 マリーは首を振った。縦にではない。横に。
 拒絶。
「マリー?」
「いや。ママがいるんだもん…マリーのお家なんだもん…」
「マリー…」
「マリーのお家なんだもん」
 その時だった。
 何処かで壁が崩れた音が響き、目の前の窓ガラスが割れた。
「きゃあ!」
「―――うっ!」
 窓にはまっていたガラスが目の前に降り注ぎ、続いてユキムラの体にさらなる圧迫が襲いかかってきた。
 瓦礫を支えにしながらも辛うじて天を向いていた壁の一部が崩れ落ちてきたらしい。 それでも、幸いなことに崩れたのは壁の上部のみで、窓の部分は枠がひどく曲がりはしたものの、 未だにその口を開けていた。
 あの壁が全て崩れれば、今自分たちがいる空間も潰れてしまうかもしれない。 まず、窓がその口を閉ざしてしまえば、外に出ることは叶わなくなる。もう猶予はないようだった。
「マリー」
 幾分、強めた語気で彼女の名を呼ぶ。
「マリー、行くんだ」
「…いや」
「行くんだ!」
 それでも、マリーは首を振る。
「行け!!」
 声を荒げたユキムラに、マリーの小さな体が強張る。涙のたまった大きな瞳が、 おびえの色を宿して自分を映していた。だが、それを認めてもなお、ユキムラは語気を緩めない。
「ここはマリーの場所じゃない! ここにお前の母さんはいない! マリーの家はあそこだ。 あのビルだろ!? 違うのか!?」
 息もつかずに言い募ったユキムラは、そこでゆっくりと呼吸を整えると、 マリーに視線を遣る。その視線が柔らかくなっていることにマリーも気付いたのだろう。 泣きそうに歪んでいた表情が戻る。
「オレにもママはいない。でも、『家』に帰ればみんなが待っててくれる。だから、オレは淋しくなんてないんだ」
「…」
「マリーは違うか? マリーはみんなのこと、嫌いか?」
 マリーは首を振る。
「だよな? だったら帰ろう。な?  今はあそこがマリーの家なんだ。みんながマリーを待ってるぞ」
 マリーの顔が泣きそうに歪む。
「お兄ちゃんもお姉ちゃんも、みんなマリーを待ってるんだ。だから、帰ろう。な?」
「ふ…ぅえ――――ん。帰るー帰るー」
「ああ。帰ろうな」
 手を伸ばし、マリーの頭を優しく撫でる。
「マリー。そこから出られるか?」
 両手で涙をぬぐったマリーは、ユキムラが指し示す窓へと体を向ける。
 マリーが座り込んでいる本棚と柱とが作ってくれている空間から窓を目指す。
 窓は、ユキムラであれば手を伸ばせばその枠に手が届くほどの距離。 すぐにその姿を窓の外に消すだろうと思っていたマリーの足がすぐに止まった。
「どうした、マリー?」
 柱をくぐったその向こう、窓のちょうど下には、天井の一部だろう、コンクリートの塊が 居座っていた。
「ぼす。これがジャマででられないー」
「マリー、触るな!」
 目を凝らして柱の向こうの状況を察したユキムラは、小さな手で コンクリートの塊に触ろうとしたマリーを制する。
「マリー、こっちに戻れるか?」
「うん」
 ユキムラの指示通り、マリーは伸ばした手を引くと、じりじりと後ろ向きのままユキムラの 元へと這い戻った。
 マリーが側に戻ったのを確認したあと、ユキムラは体を精一杯窓の方に伸ばし、コンクリートの塊 の状況を確認する。
 はっきりと窺い知ることは出来ないが、おそらくあの大きな塊は地面と壁との間にある。 つまり、倒れかけている壁の下部を支えているのだろう。
(あれをどかせば…)
 あの塊をどかせば、柱の向こうにできた空間から窓枠まで手が届く。 マリーは外に出ることが出来るだろう。 そして、支えを失った壁が完全に倒れ、自分の上に落ちてくる。
(――いや、こない、かもしれない)
 答えは、分からない。
「……」
 必死に頭を巡らせる。
 まず浮かんできたのは、淡い期待。
 このままここでじっとしていれば、必ず仲間たちが気付いて助けてくれるはずだ。
 ただしそれは、このまま空間が残っていればの話だ。仲間たちが助けに来てくれるまで、この空間が保てば…。
 だが、その期待を嘲笑うかのように、大きな音とともに、ユキムラたちの後ろの方で、更に崩壊が起きたようだった。
「―――っあ!」
 挟まれた足にかかる、新たな重みが、痛みを蘇らせる。
「ぼす!」
 もう、待ってはいられない。
「…マリー、今からあのコンクリをどかす。そこからマリーは外に出るんだ」  めいっぱい腕を伸ばせば、コンクリートの塊に手が届く。
「ちょっとでも隙間が空いたらすぐに外に出るんだ。いいな?」
「うん」
 と頷いたものの、マリーは首を傾げた。
「…ぼすは?」
「オレ、ちょっと足が挟まっちゃって動けないんだ」
 ちょっとどころではない。それでもユキムラは少女を心配させまいと、 顔を上げ、「しまったなァ」と明るく笑って見せた。
 事の深刻さをいっさい悟らせぬよう、努めて明るい口調で言う。 「まいったまいった」と笑ってさえ見せたユキムラに、マリーは騙されてくれたようだった。
「だから、マリーが先に出て、助けを呼んできてくれないか?」
「うん。分かった!」
「そうか。良い子だな。外に出たら、走って行くんだぞ。早く誰か呼んできてくれ」
 彼女が崩壊に巻き込まれぬように。そんな本当の意味を隠し、努めて明るく彼女に言い聞かせる。
「うん。わかった」
「じゃあ、行くぞ。マリーはすぐに出るんだ。いいな?」
「うん」
 頷いたマリーに笑みを返した後、ユキムラは精一杯手を伸ばす。
「痛ェ・・!」
 足を遅く引きちぎれそうな痛みを堪え、窓への空間を狭めている灰色の塊に手をかける。 ひんやりとした感触に、 それを横に押そうとしていた手が、不意に止まる。この建物が今にも崩れ落ちるかもしれない、 早くマリーを外に出してやらなくてなならない、そんな焦りが一瞬消えた。その代わりに訪れたのは、
(これを抜いたら、オレは死ぬんだな…)
 冷静な呟き。
 手が止まったのは、その事実に臆したからではない。その事実に、蘇る過去があったから。
 もう思い出すことも稀になっていた過去。
 状況は違うけれど、死に面した空間で、投げかけられた言葉。


 ―――誰かのために死ぬのは良い。でも、その誰かは選べ。


 そう言った。
 懐かしい人。乱暴で、けれど、優しかった人。


 ―――本当に大切なヤツなら、恨まれても憎まれても良いくらい大切なら、迷わず死ね。


 幼い自分は、「どうして恨むの? だって助けてあげたんでしょ?」そう訊ね返した。それに、彼は笑った。


 ―――お前はまだ子供だな。


 その通りだった。
 その時はまだ子供だった。だから、分からなかった。
 けれど、今なら分かる。彼に命懸けで救われたあの時に、分かった。


 どうしてオレなんかの為に…ッ!!


 そう言って、責めた。
 そうして責められることすら恐れないほど、その誰かを大切に思っているのなら、 迷わずにその人のために死ねと、彼は言った。


「ぼす??」
「あ、ああ。よし、マリー。いくぞ」
 ユキムラは伸ばした右腕でコンクリートを押し、その逆の手はマリーの背に添える。
「動け・・!」
 全身の力を込めて横に押した灰色の塊が、ゴロリと横に転がった。 それを喜ぶ間を省き、ユキムラはマリーの背に添えていた手で、彼女の小さな背を強く押していた。
 マリーの小さな悲鳴が響き、その体が柱の向こうに滑り込み、そして、消えていった。 ジャリジャリと割れたガラスが擦れ合う音が鼓膜を揺らし、小さな彼女の手が血まみれになっていやしないかと 心配になったが、マリーの泣き声は聞こえてこなかった。代わりに、小さな足音が響いてきた。その足音は次第に遠ざかっていく。
 どうやら、自分の言いつけを守り、走って助けを呼びに行っているらしい。そのことにホッと安堵の溜息を洩らす。
 静寂が訪れる。
 僅かな光と、埃くさい、土臭い空間。
 すぐにでも壁が倒れてくるかと思っていたが、幸いにもその予想は外れた。
 ほっと安堵の溜息を零す。
 その時だった。
「―――!!」
 静寂を破る音。体にかかる重みに知らず呻き声が零れる。
 静寂が奪われ、目の前に口を開いていた窓が、一瞬にしてその姿を消した。  同時に、光が奪われる。闇が訪れる。
「ぼす!!?」
 微かに、幼い少女の悲鳴が聞こえた。
「来るな!!」
 知らず答える。
(あ。まだ声が出る)
 嫌に冷静な感想を心の中で洩らす。しかし、そこから先の思考は途切れた。
「―――うあッ」
 引き結んだ唇から、堪えきれず悲鳴が洩れる。


 ド………ォォン


 一度に様々な感覚が体を支配する。
 その中で、思い出す。


 ―――こんな風にだ、ユキ。


 笑ったあの人。


 ―――大切なヤツの為なら、こんな風に死ねるんだ。俺は。


 そう言って、血を吐きながら笑ったあの人。
 誇らしげに笑っていたあの人。


 遠のく意識とは裏腹に、蘇る鮮やかな記憶。
 まるで、走馬燈。
(……縁起でもねー)
 回る。
 回る。
 回る。


 ―――覚えてろ。
   死ぬのはすげー怖ェぞ。痛ェぞ。半端じゃねーんだ。
   でも、残される方も、半端じゃなく痛ーんだろうなァ。



 そう言って、ごめんなと頭を撫でる震えた手。
 そして、繰り返す。


 ―――覚えてろ。
   どっちも覚えてろ。お前に、自分の命よりも大切なヤツが出来たときの為に。
   俺の痛みも、お前の痛みも、しっかり覚えてろ。



(…良かった)
 意識が完全に闇に飲まれるその瞬間、ユキムラは安堵していた。
 ついぞ、後悔は生まれなかった。あのコンクリートを抜かなければ良かった。 そんな後悔は全く生まれなかった。死ぬことも、怖いけれど、大丈夫だ。
 良かった。


 ―――オレは、マリーを愛していたんだ。


 確かに、愛せていたんだ。
 だから、良い。
 良かった。良かった。




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