「ん?」
 風に乗って、何かが鼓膜を揺らした。 さらさらと耳元で鳴る、風に揺らされた髪とも違う。 気のせいだと簡単に片づけてしまいそうになったが、 その思考を払いのけ、首を巡らせる。 それを聞かなくてはならない、聞き逃してはならないと思ったのだ。
 目を閉じ、耳を澄ませる。
「…」
 かすかに聞こえてくるのは、幼い泣き声。
「マリーだ」
 確信はない。けれど、それがマリーのものだと、ユキムラは疑いもせず 泣き声の聞こえてくる方へと足を向け、駆け出していた。
「ああぁぁ――――ん。ママぁ――」
 根拠のない確信が間違いでなかったことを知ったのは、 次第に近付いてくるその泣き声の中に、ママという単語を聞き取ってからだった。
「マリー!」
 駆け込んだ小さな建物の中に、やはりマリーはいた。
「ぼす! ぼす〜!!」
 頬を涙で濡らしたマリーが、ユキムラの姿を見るなり、彼に飛びつく。 そして、また泣き始める。
 ユキムラは冷たい地面に膝をつき、マリーを受け止める。
(…まったく)
 洩れるのは苦笑。
 こうして一人が淋しくて泣くくせに、彼女は行くのだ。 母親を捜すように。母親と暮らした家を探すように。一人でいなくなるのだ。 何度も。何度も。
「淋しかったな。もう大丈夫だぞ」
 小さな腕を精一杯自分の首に回しているマリーの背を、優しく抱きしめてやる。 安心させるように、ゆっくりゆっくり撫でてやる。
 その手のひらに感じるのは、子供特有の体温の高さ。
(居た…良かった…)
 今、腕に感じるこの温もりに、安堵したのは マリーよりも自分の方だったのかもしれない。
 マリーの背を撫でてやりながら、ユキムラは建物の中を見回す。
(似てる…)
 思い出すのは、初めてマリーと会った場所。
 うちっぱなしのコンクリート。冷たい灰色をした薄い壁。 四角い箱のような建物。
 入り口とは反対の壁に、四角い窓がある。その窓には、 ひび割れたガラスがはまっていた。 その向こうに見えるのは、窓に四角く切り取られた空。
 部屋の中には、壊れたベッドと、おそらくは椅子だったのだろう木材、木片。
 唯一、窓際に置かれた本棚だけが、原型をとどめていた。 もちろん、その棚の中に本は一冊として残っていない。
 天井を仰ぐと、出来損なった蜘蛛の巣に似た亀裂が見て取れる。
 それを見たユキムラは、早々にこの建物を出た方が良いと判断を下す。
 大きなひび割れがあちらこちらに走っている。天井だけではない。 四方の壁もそうだ。
 すぐに、けれど穏やかにユキムラはマリーに声をかけた。
「マリー。帰ろうな?」
 まだ腕の中で泣きじゃくっている少女に告げたその言葉は、 すぐさま拒絶されることになった。
「イヤ!」
「…マリー?」
 その反応は、ユキムラの予想外のものだった。
 いつも『家』出をしたマリーは、迎えに来たものに泣きつき、 早く『家』に帰りたいと訴えるのだ。
 当然、「うん」と肯定の返事が返ってくるもの とばかり思っていたユキムラは面食らう。
 目を瞬いているユキムラの胸を押すようにして体を離したマリーは、 いやいやと首を左右に振って言った。
「いや! だってママが来るの! 帰って来るのー!!」
「……」
 そうしてユキムラのそばから逃げるようにして離れたマリーは、 本棚の隅にうずくまる。
 丸まった小さな背中が思い出させるのは、 やはりマリーと初めて会った日のこと。
 あの時も、マリーは部屋の隅で体を丸めていた。 ベッドに横たわっている冷たくなった母親の姿を見ないよう、背を向けて、 小さな体を更に縮めて。
 母親の死を忘れるかのように、認めないと言うかのように、 小さく小さく丸まっていた。
 あの時も、彼女は待っていたのだろう。母親が起きあがることを。
「…」
 本棚にしがみつくようにして背を丸めているマリーのその姿はまだ、 あの日のマリーのままだ。
 震える背中を見つめながら、ユキムラは口を開いては閉じ、 それを何度か繰り返していた。
 言うべきか、否か。
 逡巡の後、ユキムラは驚かせないようにマリーの側により、そっと声をかけた。
「…マリー。ママは、帰ってこないんだ」
「来るもん!」
「…来ないんだよ」
「来るの!」
 ただ首を横に振り続けるマリー。
「マリー」
 彼女を抱き上げようと伸ばした手は、 マリーの肩に触れるやいなや、小さな手に振り払われていた。
「来るもん! ママが来るの! 来るのぉ!! ぼすのばかァ! 嫌い―――!!」
 幼い少女の、それが精一杯の反抗なのだろう。
「マリー…」
 無理矢理つれて帰るのは簡単だ。だが、それがユキムラにはできない。 母親を待つその幼い少女の姿には、見覚えがあったから。
 その姿は、自分と同じなのだ。マリーのように、幼かった日の自分と。
 自分もこうして意地でも母親を待とうとしていた時があったから。 だから、マリーの気持ちが分かるのだ。
 戸惑ったように、ただマリーの名を呼ぶことしか、ユキムラにはできない。
「マリー」
 戸惑ったようにかけられる優しい声に、マリーは泣き濡れた声で言った。
「だってフォーラちゃんにもファータちゃんにもいるもん。マリーにもいるのー!!」
 何がいるのかは、問わずとも知れたこと。
 そんなマリーの言葉に、ユキムラは気付いた。
 最近になってマリーが頻繁にいなくなっていたその理由。
(アイツらが…)
 フォーラとファータが、自分をママと呼んだからだ。だから、 マリーは思い出したのだ。自分にもママがいたことを。 ママを待っていた日のことを。ママを待っていたあの家を。
 そして、探しに出る。
「ママぁ――――! ママ――――!」
 でも、いない。
 迎えに来るのはママではなくて。
 だから、また探しに行く。
 でも、居ない。だから、行く。でも、居ない。だから、行く。
 延々と続く。幼い少女は気付かない。どんなに繰り返しても、 その行為が意味を成さないことを。気付かない。もしくは、気付かないふりをする。
「ママ。ママぁ――」
「マリー…」
 何を言えば良いんだろう。
 なんて声をかければ良いんだろう。どんな言葉をかければ良いんだろう。
 ぐるぐると巡る疑問は、答えを見つけることなく、ただ、彷徨う。
 ―――何か言えよ、オレ。
 それでも、出てくるのは先にも述べた言葉。
 受け入れられることはないと分かっていても、他の言葉は 出てこなかった。
「…帰ろう。マリー」
「イヤ!」
 差し伸べた手は、また振り払われる。 そうしてユキムラの手を拒んだマリーは、彼から逃げるように駆け出していた。
「あ!」
 ユキムラが上げた大きな声に続いたのは、
「きゃあ」
「マリー!!」
 マリーの悲鳴と、ユキムラの更に大きな声。
 小さな体がぶつかっただけだった。 だが、本棚が、大きく傾いだのをユキムラは見た。
「危ない!!!」
 咄嗟にマリーの手を引く。
 マリーの小さな体が腕の中に飛び込んできた次の瞬間。
「――――!!」
 何が起こったのか理解出来ていない少女を抱き締め、息を呑む。
 衝撃に備え強張らせた体から、力が抜けていく。いつまで経っても 衝撃が訪れなかったからだ。
 代わりに、訪れたのは、音。ユキムラとマリーの真横に、 埃を舞い上がらせながら倒れ込んだ本棚が、地面と彼らの鼓膜を揺らしていた。
「――はぁ」
 詰めていた息を、安堵の溜息に変えて吐き出す。
 ゆっくりと息を吐ききってから、ユキムラはマリーに視線をやる。 咄嗟に強く腕を引いてしまった。肩を傷めてはいないかと心配になったようだ。
「マリー、大丈夫――」
 その時だった。
「――――ッ!!」
 マリーの悲鳴が聞こえたような気がした。
 幻聴かどうかを確かめる間もなく、 それを掻き消したのは轟音。その轟音は、無意識にマリーの名前を呼ぶ 自らの声さえも鼓膜に届く前に消してしまっていた。
 何が起こったのか理解するよりも早く、警鐘を鳴らすのは本能。 その本能のまま、ユキムラはマリーを抱き込み、体を伏せた。




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