すぐに猫の世話に飽きてしまうのではないかと心配しつつ見守っていたユキムラを余所に、 フォーラとファータは彼の言いつけを守り、しっかりと猫の面倒を見ているようだった。
 トーラとクレアと一緒に薄汚れている猫の体を綺麗にしてやり、物を食べるという事を知らない彼女らに、 ユキムラが餌をやることを教える。みんなに色々な事を教えてもらい、 甲斐甲斐しく猫の世話をする彼女らの姿は非常に微笑ましいものだった。
 猫を『家』に連れ帰って、今日で四日目になる。
 その猫だが、食べ物をしばらく口にしていなかった所為だろうか。 最初は何をやってもすぐに吐き出してしまっていたのだが、三日目になると少しずつだが、 柔らかいものならば口にする事が出来るようになっていた。
 初日は、フォーラとファータがアズマに手伝ってもらいつつ作った猫用のベッドの中で丸くなり、 全く動かなかった猫も、今では体を起こせるまでになっていた。
「むーちゃん」
 と、連れ帰ったその日にフォーラとファータがつけた名前を呼ぶと、「にゃぁ」 と、か細い声ではあったが、返事もするようになっていた。
 ここで、この猫の名前が何故“むーちゃん”というのかについてだが。


 −回想。
「な〜、フォーラ、ファータ。どうしてむーちゃんなんだ?」
「だってボス、ユキムラって名前だから」
「・・・・・・・・・・・・・・・は? 答えになってないゾ、フォーラ」
「なってるよ。だって、ボス、ユキムラだもん」
「・・・・・・・・・・・・・・・いや、だから答えになってないってば、ファータ」
「「ユキムラの“ム”をとって、むーちゃんなの」」
「!!?」
(ムって、これまた微妙なトコからとったな…)
 思わず心の中でつっこむ。
「・・・・さ、さいですか」
 −終了。


 というわけで、自分の名前から一文字とって“むーちゃん”と名付けられた猫の背を撫でつつ、 ユキムラはあの時の衝撃を思い出し苦笑する。
 幸いにも、今彼の周りにその苦笑の理由を問いただす人間はいない。 膝の上に載せたむーちゃんだけが、パールブルーの瞳で、不思議そうに彼を見上げていた。
 むーちゃんのママを務めているフォーラとファータは何処に行ったのかというと、 むーちゃんの昼ご飯を貰いに行っていた。 そのため、ユキムラは今、フォーラとファータの部屋で、むーちゃんと二人きりになっていた。
「・・・・むーちゃん、ねぇ。ムを取るって、なぁ。ソレはないよな〜?」
 むーちゃんにそう訴えてみると、「にゃ〜」と返事が返ってきた。一瞬、自分の意見に賛同してくれたのか 否かを考えてみたのだが、当然の如く答えは分からない。 ので、ユキムラは勝手にそれを肯定だと解釈する事にして考えるのをやめた。
「・・・ってか、なんであんな発想するんだ? 子供ならではの発想だって褒めてやるべきなのか、 それとも考え方がねじ曲がってるってコトで気をつけてやった方がいいのか」
 非常に悩むところである。
 ・・・彼は彼で、しっかりとフォーラとファータの“motherママ”を務めているようだった。
「もう、五日か〜」
 ふと呟かれたその言葉にこもるのは、安堵。
 五日。
 今日で、フォーラとファータと出逢ってから五日になるのだ。心配していた、 ラジスタ国の人間がやってくるという事もなく、平穏無事な日々が続いている。 その事がもたらす安堵感と、逆に心の隅に巣くい始めるのは不安。 今が平穏であればあるほど、今のこの生活を失いたくないと強く願い、同時に失ってしまったときの喪失感を思い、 不安になる。そして、心の底から願う。今のこの、平穏な日々が永遠に続いて欲しい、と。 都筑が願ったように、フォーラとファータに、普通の女の子として生きて欲しい、と。
 このままこのcityで。ずっと、ずっと。幸せな時を紡ぎたい。
 長く、途切れることなく、紡ぎ続けたい。
 思考の波にたゆたっていたユキムラを現実へと呼び戻したのは、バイクのエンジン音。 どうやら、バイクで首都都市まで食料の買い出しに行っていたアズマと少年たちが帰ってきたらしい。
 むーちゃんをそっとベッドの上に下ろしたユキムラは、窓辺によるとアズマの姿を探す。 すぐに少年たちの中からアズマの姿を見つけたユキムラは、彼の名を呼んだ。
「アズマ!!」
 すぐさまユキムラの呼びかけに気付き二階の窓を振り仰いだアズマの表情は少々不機嫌そうだった。 だが、‘少々’程度では、鈍チンなユキムラがそれに気付く事はない。
「買い出しお疲れ〜」
 と、にこやかに手を振って言うと、アズマの顔がますます険しくなった。
 どうやら、本当に疲れたらしい。これでもかと渋面を作り自分を睨み上げているアズマに、 ようやくユキムラはその事を悟る。だが、何故彼がそんなに疲れているのかまでは分からずにいると、 少年が親切にも答えをよこしてくれた。
「ボス〜、バイク四台で買い出しって、かなりキツイですよ〜」
 彼の言葉に、ユキムラは成程と納得する。
 バイクを地下研究所のあったFall cityに置いてきてしまった所為で、 今このcityにあるバイクは六台。もしも足が必要になったときのため、 cityに二台のバイクを残し、買い出しには四台で向かわせたのだ。
 それが、彼らを疲弊させた理由だったらしい。いつもは六台で運ぶ荷物を四台で運んできたのだ。それも当然だろう。
「そっか。どうにかしなきゃな〜」
 オーディーに相談してみるか。と、心の中で決断を下したユキムラは 「疲れた〜疲れた〜」としきりに文句をたれている少年たちに、今度は苦笑混じり声をかけた。
「ホントにお疲れ。ありがとうな」
 リーダーにそこまで労われては、少年たちももう文句を言い続ける気にはならなかったらしい。 しかもその労いが、ユキムラがその効果を狙っての言葉ではなく、本心から自分たちに謝意を示してくれてい るのだと分かるのだから、尚更だ。少年たちはすぐに文句を零していた口を閉ざした。
 ユキムラと同じくバイクの音で買い出しに行っていた少年たちが帰ってきた事に気付いたのだろう。 『家』から出てきた少年や少女たちの手で、荷物が『家』の中に運ばれているのを見守っていると、 背後でドアが開く音がした。振り返ると、それぞれの手に小さなお椀を持ったフォーラとファータがいた。
「お帰り」
 笑顔で迎えてやると、すぐに「ただいま」という言葉と共に笑顔が返ってきた。 アズマの渋面を見た直後のユキムラには、その笑顔が午後の太陽よりも眩しく感じられる。 と、そんなアホな考えをすぐに打ち消したユキムラは、さっそく持ってきたご飯 をむーちゃんに与えている二人の名を呼んだ。
「フォーラ、ファータ。オレ、ちょっと下に行って来る。二人だけで大丈夫だよな?」
 問うと、返ってきたのは「「うん!!」」という元気の良い返事。それに微笑を返し、 ユキムラは彼女らの部屋を出た。
 向かうのは、一階のロビー。さっそくバイクの事をオーディーに相談するためであった。
 ロビーに下りると、そこにはソファを占領する疲れ果てた少年たちと、そ んな彼らのためにお茶を運んでやっているユイをはじめとする少女たちの姿があった 。少年と少女と、どちらともに対し、「お疲れ様」と声をかけつつ、ユキムラはオーディーの姿を探す。 だが、その姿を見つける事がなかなか出来ない。仕方なく、近くにいた少女に訊ねる。
「なあ、スカイ。オーディーは?」
「オーディーなら裏のバイク置き場よ。一台、ちょっと調子が悪いらしくて、見てくれてるの」
「そっか。さんきゅ」
 短く礼を言いエントランスをくぐろうとしたところで、ユキムラは後ろから腕を掴まれる。 振り返ると、そこにいたのはアズマだった。何だ? と視線で問うと、彼は短い答えを返してきた。
「俺も行く」
「でも、疲れてるんだろ? 休んでていいぞ?」
「いや、大丈夫だ。バイクの事だろ? 俺も交ぜろ」
 ユキムラとスカイの会話を聞いていたのだろう。オーディーが何処にいるのかを問うたユキムラが、 彼にバイクの事を相談しようとしているのだという事まで悟ったらしい。 さすがはナンバー2。彼の察しの良さに感心した後、ユキムラは「じゃあ、一緒に行こう」と 彼と共にエントランスをくぐり、『家』を出た。
 スカイに教えてもらった通り『家』の裏に回ると、そこにオーディーはいた。
 一台のバイクを睨みつつ、う〜んと唸っていた彼だったが、自分の方に駆け寄って くるリーダーとナンバー2の姿に気付き、眉間の皺を解き彼らを迎えた。
「ソイツ、どうだ? 直りそうか?」
 オーディーの前にあるバイクを見遣り、アズマが問うと、オーディーは肩を竦めて見せる。
「駄目みたいだよ」
「五台か・・・キツイな」
 苦い顔をして呟いたユキムラにオーディーも首肯して見せたあと、「あのさ」と遠慮がちに口を開いた。
「ちょっと相談なんだけどさ」
 バイクの事でこちらから相談を持ちかけようと思っていたオーディー に先を越される形で逆に相談を持ちかけられ、ユキムラは僅かに戸惑いを見せたあと、「何だ?」と先を促す。
「あのcityに行きたいんだけど・・・」
 あのcityというのが、フォーラとファータ を見つけたあのFall cityである事を察したユキムラとアズマは、顔を見合わせる。 あのcityに行きたいと言う彼の真意が掴めなかったのだ。
 オーディーはそれを察したのだろう。何故と問い返される前に、付け加えるようにして口を開いた。
「バイク、五台じゃあマズイしさ。多分壊れちゃってるだろうけど、部品だけでもあれば何台かは作れるし」
 そんなオーディーの言葉に、ユキムラは笑みを零した。どうやら、 自分と彼との相談内容、そしてその解決方法は同じのようだから。
 オーディーの言葉に、二人は軽く視線を交わした後、笑んで言った。
「よし、じゃあ、さっそく明日にでも行こう」



 ユキムラの言葉通り、翌日、バイク三台を動員。 その内二台は二人乗りで、ユキムラ、アズマ、オーディーを始めとする五人で、 少年たちはフォーラとファータのいたFall cityを目指す。
 ママにべったりなフォーラとファータの姿はない。「むーちゃんの世話を放っておくつもりか?」 というアズマの言葉の賜物だった。
 念のため、例のFall cityに近付いてからはバイクをおり、 遠くからcityを伺ってみたのだが、そこに人の姿はなかった。もしかしたら、 ラジスタ国の軍人がいるのではないかと危惧していたのだが、幸いにもそれは杞憂に終わった。
 やはりバイクは壊れていた。見る影もなく破壊されているもの、辛うじてバイクの原型を止めているもの、 様々だ。だが、ありがたいことに粉々になっているだろうという予想は意外にも外れ 、少年たちの手に取る部品は結構大きな塊だった。持ってきた麻の袋には収まらない大きさのものもある。 どうやら、一往復では到底全てを回収することは出来ないだろう。 何度か、こことC−cityとを往復しなければならないらしい。
 それを誰もが察したのだろう。一斉に少年たちの口から溜息が零れ落ちた。



「終わった〜」
 溜息と共にそう吐き出したユキムラが、バイク部品の回収を全て終えて『家』に戻ってきたのは、 バイク部品の回収を始めた日から、三日が経った頃だった。
 勿論、夜通しぶっ続けでやっていたわけではないのだが、三日間、何度も何度も例のFa ll cityとC−cityとを往復するのは肉体的+精神的に疲れたらしい。
 アズマやオーディーもそれは同様で、ロビーのソファにぐで〜っと横になっている。 彼ら以外のバイク部品回収メンバーは毎日交替させていたので、そうでもないらしい。
「アレ? フォーラとファータは??」
 いつも自分たちが帰ってくると真っ先に飛んでくる少女たちの姿がない事に気付いたユキムラが、 飲み物を運んできてくれたユイに訊ねる。
「あ。そうだ、ボス」
 と、ユイはユキムラの質問に答える前に、何事か思い出したらしく、ぽんと掌を打った。
「それがね、むーちゃんがちょっと元気ないみたいなの」
「元気ないって?」
「あんまりご飯食べないのよ。それで、フォーラとファータが心配してて、今つきっきりで看病してるみたいなの」
 ようやく質問への答えが返された。そうかと頷いた後、ユキムラはユイの運 んでくれた飲み物を一気に飲み干すとソファから立ち上がる。むーちゃんの様子を見 に行くつもりらしい。そう言えば、この三日間、猫の姿を見に行っていなかった。
 ロビーを出、階段を上ったユキムラは、フォーラとファータの部屋のドアをノックする。
「「は〜い」」
 相変わらずぴったりとそろった声で返事が返ってきた。 それを確認したあと、ノブに手を伸ばすと、先を越すようにしてドアが内側から押し開かれた。
 中から顔を見せたのは、金色の髪を肩で揺らしているフォーラだった。すぐに、訪ねてきたのがユキムラ だと言うことを知ったフォーラは、顔をほころばせ、彼を部屋に招き入れた。
「ボス〜お帰り〜」
 部屋に入ると、すぐにファータに迎えられた。フォーラと同じように自分を見て顔をほころばせたファータ だったが、その表情はいつもよりどこか沈んでいる。それが、むーちゃんの所為なのだろうという事は想像に難くない。
 ユキムラは座り込んで箱の中を覗き込んでいるファータの隣に腰を下ろすと、むーちゃんを見下ろす。
 むーちゃんは、毛布の上で、小さく丸まって眠っているようだった。
 相変わらず痩せた体。 あばらがくっきりと浮いて見える。
「ご飯、あんまり食べないんだって?」
 視線を猫から外し問いかけると、二人は小さく頷いて答えた。
「そうなの」
「今日もずっと寝たままで起きないの」
 フォーラとファータの表情がいつになく暗いのを感じつつ、 ユキムラは再び猫に視線を戻す。この『家』に来たばかりの頃は、 確かにこうして眠ってばかりいたが、最近では大分元気を取り戻していたはずだ。 てっきりこのまま元気になっていくのだろうと思っていたのだが、そううまくはいかないらしい。 もしかしたら、何か悪いものでも食べさせてしまったのだろうか。
「アレ?」
 思案に暮れていたユキムラは、不意に首を傾げた。
 しかし、それに続く言葉もリアクションもない。
「「・・ボス?」」
 突然首を傾げたかと思うと、今度は黙り込んでしまったユキムラに、フォーラとファータは顔を見合わせる。
 どうしたのかと声をかけると、彼は視線を猫に据えたまま言った。
「・・・むーちゃんな、もう起きない」
 自分の言葉に、フォーラとファータが首を傾げているのが気配で分かった。
 彼女らはまだ分かっていない。むーちゃんは眠っているのではなく、もう冷たくな っているのだということに。ファータは、朝からずっと眠ったままだと言ったが、 その時にはもう、死んでいたのかもしれない。 そっと手を伸ばして触れた小さな体は、既に硬く強張っていた。
「むーちゃんな、もう、死んでるんだ」
 言うと、二人が息を呑むのが分かった。
 死という概念は、DATEとしてインプットされたあったらしい。 そしてその死というものが、永遠の別れなのだと言うことも。
 だが二人とも、死がこんなに静かなものだとは知らなかったのだ。
 気付いていた。気付いてはいたのだ。むーちゃんの体が、いつよもり冷たい事には。 けれど、それは自分たちの体も同じ事だと、何ら疑問に思うことはなかった。 ただ、次第に強張っていくその体には不安を感じた。 だから、ずっと傍にいたのだ。傍にいて、むーちゃんが起きるのを待っていたのに。
 初めて知った死は、二人を驚愕させた。あまりにも突然やってくる死に、恐怖したと言ってもいい。
 視線はむーちゃんに縛られたまま、二人は互いに身を寄せ合う。どちらの体も、小さく震えていた。
「「どうして・・・?」」
 意識せず重なるのは、震えた声。
「どうしてむーちゃんは死んじゃったの?」
「どうして死ななくちゃいけなかったの?」
 悲痛な二人の呟きは、哀れを誘う。
 しばしの沈黙の後、ユキムラは、静かに言った。
「生き物はな、必ず死ぬんだ。それは明日かもしれないし、 明後日かもしれない。いつかは分からないけど、絶対にいつかは死ぬんだ。 ・・・コイツは、今日がその日だったんだよ」
 ユキムラの言葉を、二人は黙って聞いていた。
 生き物は必ず死ぬのだと、彼は言った。その生き物の中に、自分たちは含まれているのだろうか。 不意に沸いた疑問は、すぐに次なる問いに消された。


 ───生き物は必ず死ぬ。


 それは、このcityにいるみんなもそうなのだろうか。小さな子供たちや、一緒に遊んでくれるトーラ、クレア。


 ───絶対にいつかは死ぬ。


 優しい少年たちや、ユイ、アズマも?
 そして、
((・・・ボスも?))
 その問いは、二人の中に恐怖を植え付ける。


 ───明日かもしれないし、明後日かもしれない。


 それは、もしかしたら今この瞬間かもしれない。
 死は、突然に大切な者を奪っていくものだ。何の前触れもなく、 唐突に、誰よりも大切な彼を、自分たちから攫っていってしまうかもしれないのだ。 二人の知らぬ間に、むーちゃんを攫っていったように。
 そう。むーちゃんは攫われてしまった。死に。もう、帰って来ない。絶対に、帰ってこないのだ。
 そこまで考えが至った途端、二人は箱の中からむーちゃんの体を抱き上げ、火がついたように泣き出した。
 冷たく固まった猫の体を抱きしめ泣きじゃくるフォーラとファータの姿を、ユキムラは黙って見つめていた。
 彼女らの頬を、透明な雫が伝っていくのを見て、ユキムラは僅かに目を瞠る。
(・・・涙、流せるのか)
 悲しくて涙を流すその様子は、疑うべくもなく、人間だ。


『戦争が終わったら、普通の少女として、幸せに暮らして欲しい』


 不意に蘇ったのは、都筑の言葉。
 それを願って、涙まで彼女らに与えたのだろう。強く感じる、 都筑の二人に対する強い愛情。そして、今、自分は彼の思いを継ぎ、 彼女らを人間として育ててやらなければならないのだ。いや、育ててやりたいと、そう思う。
「「ボス〜!」」
 唐突に、二つの小さな体が腕の中に飛び込んでくる。その体を受け止めきる事が出来ず、 ユキムラは二人を抱きしめたまま、地面に腰を下ろした。
(・・小さい・・)
 小さい。
 まだ、自分の腕は小さい。彼女らを受け止めきる事が出来ない程に小さい。
 それでも、この小さな腕に彼女らは飛び込んでくるのだ。受け止めてくれると信じ、 飛び込んでくるのだ。それを、どうあっても受け止めようと思った。こうして尻餅をついてしまっても、 よろめいてしまっても、どんなに格好悪くても、それでも彼女らが飛び込んできたならば、 いつだって受け止められる場所にいたい。受け止められる存在になりたい。
「ボス〜、痛いよ〜!」
「ココが痛いよ〜!」
 言ってファータが押さえたのは、胸。
 その痛みの名を、彼女たちは知らない。
「・・・・それはな、悲しいっていうんだ」
「「悲しい??」」
 それは、辛い感情の名前だ。出来る事ならば、一生覚える事がなければいいと、誰 もが願う、辛い感情。それでも、必ず出会う、出会ってしまう感情の名前。
「そう。悲しいって気持ちなんだ」
 この辛い感情の名前も、彼女たちに教えてやらなければならない。 もう、こんな痛い思いを、彼女たちがしないように。
 それは、きっと無理な事だろう。悲しみに出会うことなく、生きていくことは出来ない。 この世界は、悲しいことが溢れている。その数は、幸せよりも多いのかもしれない。 だから、教えておかなければならないのだ。
「この気持ち、ちゃんと覚えておくんだぞ?」
 縋り付いてくる二人の背を撫でてやりながら言うと、弾かれたようにフォーラとファータが顔を上げた。
「イヤよ。覚えていたくない!」
「こんな痛い気持ち、覚えていたくないよ!」
「ダメだ。覚えておかなくちゃいけないんだ」
 きっぱりと言い放つ。
「「・・・」」
 どうして? と無言のまま問うてくる二人に、ユキムラはゆっくりと言い聞かせる。
「痛いだろう? こんな気持ちになりたくないだろう? 誰にもこんな痛い気持ちにはなって欲しくないだろう?」
「「・・うん」」
「だったら、覚えておくんだ」
 悲しみを知らなければ、人の悲しみを察する事は出来ない。 自らが痛みを知らなければ、人の痛みを察する事は出来ない。だから、覚えておかなくてはならないのだ。
「「・・・分かった」」
「そうか。いい子だな」
 彼女たちがどこまで自分の気持ちを理解出来たのかは分からない。 もしかしたら、何も分かっていないのかもしれない。そうした危惧を抱きつつも、ユキムラは 分かったと頷いた二人に、それ以上の言葉をかける事はしなかった。
 これから、だ。
 まだ彼女らはこれからなのだ。これからたくさんの悲しみや感情に出会い、 徐々に彼女たちも覚えていくのだ。急ぐ必要はない。時間は、たっぷりとあるのだから。
 僅かな沈黙の後に静寂を破ったのは、フォーラとファータの啜り泣きだった。
 しだいに大きくなっていく二人の泣き声を聞きながら、ユキムラは唇を噛みしめる。 チクチクと胸を刺すのは、後悔と、自責の念。
 何に責を感じているのかと言えば、 それは、自分の浅慮さ。軽々しく猫を連れ帰る事を承諾してしまった自分の浅はかさに対してだ。
「死んじまったか」
 唐突にかけられた声に、ユキムラは僅かに体を強張らせた後、 その声がアズマのものだという事に気付き、強張っていた肩から力を抜く。 隣に並んだアズマにだけ聞こえる声で、ユキムラは洩らす。
「・・・オレ、間違ってたのかな」
「・・・・」
 何がだ? と、アズマが訊き返す事はなかった。
 初めてあの猫を見たとき、病気かもしれないと思った。 すぐに死んでしまうかもしれないとも思った。トーラとクレアでさえ、それを心配していた。 だが、それでも自分はフォーラとファータに猫を連れて帰る事を許した。 もしもあの時、駄目だと言っていたら、フォーラとファータが今こうして傷つく事はなかったのだ。 そう思うと、鼓膜を揺らす少女たちの泣き声が、いやに胸を刺す。そして、胸を痛める。
 過ぎた事を後悔するのは嫌いだ。あの時、こうしていれば、ああしていればと過ぎた事を悔いるのは嫌いだ。 それでも、泣きじゃくる彼女らを見ていると、後悔せずにはいられなかった。
 きつく唇を噛み、猫と少女たちとを沈痛な面持ちで見つめているユキムラの横顔をチラリと見遣り、 アズマは小さな声で言った。
「・・・いつか、死ぬんだ。俺たちだって」
 その言葉の意味を問うよりも早く、アズマは更に言葉を重ねる。
「アイツらは死なないけど、俺たちは死ぬ。死ぬって事も、教えておかなきゃなんねーだろ。 今、教える事が出来たんだ。良かったじゃねーか」
 そう言ってバシバシと肩を叩くアズマの手は少々荒いものではあったが、 彼なりの気遣いは十分に感じ取れる。ユキムラは言葉を返す代わりに、小さく頷いて見せた。
「むーちゃんを土に帰してやれよ」
「・・ああ」
 アズマの言葉に、ユキムラは座り込んで泣いている二人の背にそっと触れた。
「埋めてあげような? どこがいい?」
 ユキムラが問うと、二人は赤く泣きはらした目で彼を仰ぎ、掠れた声で言った。
「「あの木の下」」
 むーちゃんを見つけた、あの場所に。
「そうだな。じゃあ、そこにしよう」
 そっと背を押すと、二人はおとなしく歩き出した。重い足取りで部屋を出て行く二人の後ろ姿を、 ユキムラ沈痛な面持ちで見送っていた。二人の後についていくことが出来なかったのは、 その胸に巣くう、罪悪感の所為。
 しばらく立ち尽くしていると、
「・・・お前も行けって」
 促されるようにアズマに背を押され、ようやく足を一歩踏み出した。 その足取りが重いのを見て、アズマは大きく溜息をつく。
「おい、ユキムラ。ママがそんな顔すんじゃねーよ。バーカ」
「・・・・そうだな。なっさけないな〜オレ」
 僅かな沈黙の後、答えるユキムラの声は、僅かに明るさを取り戻していた。 続いて振り返って返されたその言葉は、いつも通りの彼の声で、彼の顔で。
「ヨシ、ちょっと行ってくるな♪」
「おう。行ってこい」
 アズマに見送られ、ユキムラは急いでフォーラとファータの後を追って走り出したのだった。




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