雪が、途端に激しさを増す。
 常緑の木々の葉を避けるようにして、森の中を白く埋め尽くす雪。
 その中を、ティナが必死で逃げていた。
 振り向いても、自分を追ってくる人間達の姿は見えない。
 けれど、憎しみに満ちた声があるのは確かだった。  必死に宙を駆け、声が聞こえなくなったところで、 足の痛みとそこから流れ出る血に気付いたティナは、 両の掌で傷口を押さえる。
 そう言えば、銃弾が一発当たったようだった。
 てんてんとティナの軌跡を残す血を見て、ティナはますます傷口を押さえ、 血が早く止まることを願う。
 Shamrock Squareで撃たれた腕の傷は、既に塞がっている。 銃では、死にはしない。けれど、やはり怖いし、当たれば痛い。
 怯えたように膝を抱きながらも、ティナはホッとしている自分がいることに気付いた。
「良かった…」


 ───あの人たちの中に彼の姿がなくて、良かった。


 安堵の溜息をついたその時、
「いたぞ!」
「こっちだ!!」
 再び、銃声が響いた。




「─ッ、ハァ…」
 Shamrock Squareに辿り着いたハルは、 激しく上下する肩を宥めるように深呼吸を繰り返す。 今の今まで視界を塞いでいた雪たちが、突然その姿を消す。 それはあまりにも唐突で、一瞬ハルを驚かせた。 白から解放された瞳で、辺りを見渡す。 やっと辿り着いたその場所に、ティナの姿はなかった。
 ほっと、安堵の溜息をつく。
 いないのなら、それでいい。ここにいないのであれば、 きっと村の人たちに見つかることもないだろう。
 安心した途端、襲いかかってきた脱力感は、彼を雪の上に座らせていた。 ぺたんと雪の上に座り込んだハルは、自分の足下に、そして、 広場中に散らばっている、あるものに気がつく。
「これは…」
 立ち上がったハルは、再度広場を見回して息を呑む。
 一面、雪に覆われていた所為で気付かなかった。広場に多くの足跡が刻まれていたこと。 そして、所々に、赤黒い染みがあることに。それが何なのかは、近付いて確かめるまでもない。 白に映える赤。それは、きっと、ティナの体から流れた血。
 ティナは、間違いなくここにいたのだ。
 村の人たちもまた、ここに来て、そして、ティナを襲ったのだ。
「──!?」
 ハルの意識を現実に呼び戻したのは、銃声だった。 静寂を引き裂くその音に、一瞬肩を震わせた後、ハルは立ち上がり、再び駆け出していた。 銃声の聞こえた方に向かって、未だに落ち着かない呼吸もそのまま、とにかく駆け出していた。
 たて続けに森を揺るがす銃声を頼りに、ハルは音の響いてくる方へと駆けて行く。
 足下に積もった雪が邪魔だ。
 その時初めて、雪を煩わしいと思った。
 無我夢中で走る彼は、気付かなかった。彼の邪魔をしないように、とでも言うのだろうか。 雪が、やんでいることに。否、彼の目の前だけ、雪がやんでいることに。
 どのくらい走ったのかは、覚えていない。
 いつの間にかハルは、森と、精霊の棲む森との境を目前にしたところにまで辿り着いていた。 目の前にあるのは、Shamrock Squareとは比べものにならない程の広さを持つ広場。 そこは一面、白に染まっていた。地面だけではない。 その空間全てが、猛然と降り注ぐ雪に、白く染められていた。
 その白の中から、微かに聞こえてくる人の声に耳をすませる。 その声はよく知っているもので、すぐに村の人たちがその広場にいるのだということを悟る。 そして、時折その声を切り裂く銃声に、この広場の何処かに、ティナがいるのだということも。
「ティナ!!」
 声を限りにして呼んでみるが、返事はない。
 風を伴って降り注ぐ雪が、ハルの声を飲み込んでしまう。
 再び、銃声。
「やめろ…ッ」
 掠れた声で、それでも叫びながら、ハルは広場に足を踏み入れた。途端に、叩き付けるような雪に襲われる。
「やめろ!やめてくれ!!」
 白い服を着ていた所為で、ハルの姿は完全に雪の中に消える。
 ハルを飲み込み、そして、まるでティナを人間の目から守るように、雪は降り注ぐ。
 真っ白な雪に包まれ、ティナは己の膝を抱え込むようにして広場の中央、そこに佇む木の下に座り込んでいた。 人間達から自分の姿は見えていないのだろう。時折まったく的はずれな場所に、銃弾が埋もれていった。
「…?」
 不意に、ティナは顔を上げる。轟々と鳴る風の中で、愛しい人の声を聞いたような気がしたから。
 まさかとは思いつつ、首を巡らせる。
 一面、白。
 そしてその中に、もう一つの色彩を見つける。
 それは、濡れ羽色。
「!」
 幻でも何でもない。彼が、いた。 叩き付ける雪から瞳を庇うように腕を上げ、真っ直ぐに自分の方に向かって来るハルが。
「みんな、やめてくれ!!」
 必死に、彼は叫んでいた。けれど、彼の声は届かない。
「ダメ!」
 ティナは、声を上げた。
「来ちゃダメ!!」
 自分の所に来たら彼まで撃たれてしまうかもしれない。 悲鳴にも似たその声に気付いたのだろうか。一瞬歩みを止めこちらを向いたハルと、目が合ったようだった。 そして、彼が僅かに微笑んだのを、見た気がした。
「きゃあッ!!」
 もう一度彼に声をかけようと開いた口から、悲鳴が溢れる。 銃弾が、足下の雪を散らしたからだ。
 ティナの悲鳴に、ハルは再び口を開く。 その途端、口の中に飛び込んできた雪に、思わず噎せそうになるが、それでもハルは声を張り上げる。
「やめろ!!」
 ティナの元へと歩を進める彼の行く手を阻むのは、雪たち。


────行ッテハ駄目ダヨ。


 そんな雪たちの声が、ハルには聞こえない。
「来ないで!!」
 ティナの声にも、ハルは止まらない。
「ティナ!」
 轟々と耳元で鳴る風と、脳髄に直接響くような銃声。 視界を埋め尽くす白。音が音をかき消す、白が白を塗りつぶすその世界の中で、 彼の声だけが、彼の姿だけが、とても鮮明で…。
「あぁ…」
 来ないでと願っていた彼が、今、目の前にいる。 来ないでと願っていたのに…再び彼の姿を間近に見ることが出来て、喜んでいる自分がいる。

大好きな笑顔が、そこにある。
優しいぬくもりが、そこにある。
大好きなあの人が、ここにいる。


それが…今、総て。

「ティナ…!」

雪が、総てを覆う。

あるのは、白い白い、雪景色。


鳴り響く銃声と、


「待て!! 撃つな!」
「きゃああッ」

煩い声と、


「いや─────────ッ!!!」

迸る悲鳴と、



…ぽつ…ぽつ…ぽつ…


白を汚す、アカ。

白を飾る、アカい花。

散らばる花弁が、雪を溶かす…。


唐突にやんだのは銃声。

そして、雪。

落ちるのは、沈黙と、真っ赤な花弁。

雪に沈む…沈黙と…真っ赤な花弁…



そして、

愛しい人。


 唐突に、雪が舞う。
 空からではなく、地に積もっていた雪が、舞い上がる。
 それを、ティナは見つめていた。その瞳に宿るのは、冷たい冷たい光。 舞い上がる雪よりも、もっともっと冷たい…。
 再び白く染まった景色の中、迸る悲鳴を、ティナは黙って聞いていた。
「うわあああ…」
「いや───…」
 不自然に途切れた悲鳴。
 空を乱舞した雪が、不自然に地に落ちる。 そして、唐突に現れた五つの白い人形達。人の形をした、雪の塊。 それは、つい先ほどまで人だったモノ。 人々が最後に刻んだであろう恐怖の表情は、幸いにも白い雪に隠されていた。
 …突然舞い上がった雪は、一瞬にして人々を飲み込み、凍らせていた。
 それは、怒り。愛する者を傷付けられた…白い精霊の怒り。
「───あ…あぁ」
 森の中から様子を窺っていた一人の女だけが、その場から逃げ出していた。 彼女の見た、精霊の瞳に宿る冷たい光と、その光の前に、成す術なく白い人形と化した人間達。 その光景を瞳に焼き付けて…。
 舞い上がった雪が地に落ちたと同時に、ティナは視線を移した。
 …雪の上、鮮やかに映える赤を散らした彼に。
 ティナを守ろうと乱れ舞う雪が、総てを隠していた。そう。ティナの前に立ちはだかったハルの姿をも。
 轟々と鳴る風が、総てをかき消していた。やめろと叫ぶ、ハルの声すらも。
 白を引き裂いた銃声は、まっすぐハルに向かっていった。 ハルの中に吸い込まれた弾丸は、同時に彼の白い服に、赤い花を咲かせていた。
 白い景色の中に咲いた花の色は、それはそれは鮮やかな、赤。
 雪の上、仰向けに倒れたハルにティナは駆け寄ると、悲鳴にも似た声で彼に呼びかける。
「ねえ。…ねえ。ねえってば!」
 閉ざされていた瞼が僅かに震えた後、
「────ッ」
 ティナの声に、ハルは呻き声を洩らし、ゆっくりと瞳を開く。
 それを見てホッと安堵したのも束の間だった。
「痛ッ」
 白い服の上、咲いた赤い花を押さえ、苦痛に顔を歪めるハルに、ティナはうろたえる。 彼は自分とは違う。放っておいたら死んでしまうかもしれない。
「手当てを───」
 彼に向かって伸ばした手が、彼に届くことはなかった。
「触るな!!」
「───!」
 ハルが怒鳴ったからだった。
 彼が自分に向かって声を荒げたことなど、今まで一度もなかった。
 驚いたティナが腕を引くと、ハルはいつも通りの笑みを浮かべて見せた。 けれど、その笑みをいつも通りと言い切ってしまうことが、ティナには出来なかった。 僅かに寄せられた眉根が、彼の傷の深さを物語っているようで…思わず、彼の顔から目を背けていた。
「ティナ……約束、しただろう?」
 少し途切れがちではあったけれど、その声はいつも通りで、ティナはゆっくりと彼へ視線を戻す。
「絶対に、オレには触らないって」
 白い精霊は人間に触られるとその熱で溶けてしまう。そのことを知った時、交わした約束。
「でも、手当てしないと…!」
 言いつつ、ティナには分かっていた。自分には何も出来ないことが。
 消えてしまっても構わない。彼の傷の手当てをするためならば、消えてしまっても。
 だが、きっと、それも叶わぬうちに、自分は消えてしまうだろう。 少しだって彼の傷を癒すことなく、この冷たい体は、彼のぬくもりに耐えきれず、溶けてしまうだろう。
 分かっている。分かってはいるけれど、このまま何もしないでいるのは嫌だった。
 けれど、自分に何が出来る?
 ───どうしよう。
 どうすれば、彼を助けられるだろう?
「ティナ…」
 泣き出しそうな顔で辺りを見回しているティナの名を呼ぶ。 彼女が視線を自分に戻したのを認めてから、ハルは僅かに首を振って見せた。
「…いい」
 手当てなどしなくてもいい、と。
 彼も分かっていたのかもしれない。ティナには、どうしようもないこと。
 たとえティナでなくても、体から流れ出す血を止めることは、誰にも出来ないのだということを。
「もう、いいから…」
「よくない!!」
 再び繰り返されたハルの言葉に、ティナは悲鳴にも似た声で答える。
「人間は死ぬんでしょ!? イヤよ、死んじゃイヤ!!」
 初めて目の当たりにする愛しい者の死は、今までに味わったどんな恐怖より、ティナを怯えさせる。 銃を持った人間に追われるよりも、彼がいなくなってしまうことの方が、怖い。
「ねぇ、イヤよ! 死んじゃイヤよ!!」
 激しく首を振って訴えるティナに、ハルはどこかのんびりとした口調で呟く。
「…そっか。ティナは、死なないんだったな」
 白い精霊は死なないのだと、いつか彼女の口から聞いたことがあった。今になって思い出す。
「そうよ! なのに、どうしてあたしなんかを庇ったりしたの!」
 ティナの責めるような口調に、ハルは僅かに微笑む。
 ティナの前に飛び出した自分の行為が、無駄なものだったとは思わない。
「だって、死ななくても、痛いものは、痛いじゃないか…」
「───」
「…守りたかったんだ…。オレの、自己満足でいい…」
 虚空を見つめ、ハルは囁くように言った。


 ───守りたかった。


 でも、ケイを、守れなかった。
 あの幸せな笑顔のままでいさせてやりたかった。 もしかしたら、ケイは今でも幸せだと言って微笑んでいるかもしれないけれど…そんな彼女の傍らにいる、 彼女の愛した青年は、苦しんでいる。
 守りたかった…。
 愛しい妹と、妹の愛した人を。
 …守れなかった。
 だから、ティナは守りたかった。
 ケイとは正反対の、少しおっちょこちょいな少女。 けれど、その屈託のない笑顔は、ケイが浮かべていたものと同じで…。
 出会ってまだ三日。その短い短い時の中で、けれど彼女の存在は、 彼の心の中にぽっかりと開いていた穴を埋め始めていた。大切な存在になり始めていた。
 それは、一度は失った妹が傍らに戻ってきたかのように。
「…ティナ…オレの可愛い妹…」
「……」
 彼女が傷つかないように、笑顔を消さないように、泣かないように…。 それは、ケイを守ることのできなかった自分への、慰めでしかないのかもしれない。
 けれど、それでも、守りたかった。だから、今、こうして雪の上で倒れている自分の姿も、 白い服を染める赤も、体を苛む激痛も、何もかも、後悔などしない。
「自分の大切な人に向けられた銃の前に立つのは、当然じゃないか」
「…大切?」
「大切だ。愛してるよ、ティナ」
 愛してる。
 欲しかった言葉。
 けれど、それは本当の意味で望んでいたものではなかったけれど。
「あたしも…あなたが好き。大好き」


 ───それは、あなたがくれた好きとは、全然違う意味だけど。


「そっか。嬉しいなァ。サンキュ、ティナ」
 彼が浮かべたのは、今度こそ本当にいつも通りの笑みで…ティナも、慌てて笑みを浮かべる。
 ティナの笑みを認めたハルは、安堵したように笑ったあと、溜息をついた。
「あ〜、疲れた…」
 もう一度溜息をつき、目を閉じる。
 彼の白かった服が、鮮やかな赤に染められていく。対照的に白くなっていくのは、彼の顔。
 それを見たティナは、おろおろと辺りを見回す。瞳に映るのは、己の凍らせた人間と、雪の白。 今更になって後悔する。あの人間達がいれば、彼を助けられたかもしれない、と。
「そうだ…!」
 誰か、人を呼んで来よう。
「ティナ…」
 思い立ったティナが傍らから立ち上がるのを感じたのか、それとも偶然なのか、 ハルが、体を浮かせたティナを呼び止めるかのように口を開く。
「…泣くなよ…?」
 瞳を閉ざしたまま彼の紡いだ言葉に、ティナは僅かに首を傾げる。
「…泣いてないよ?」
「そうか。泣いてないなら、それでいいんだ…」
 言って、彼は再び微笑んだ。それは、とても優しい微笑みだった。
 その微笑みに色濃く浮き出る死の色に、ティナは怯える。
「…待ってて。誰か呼んでくるから!」
 ハルに背を向けたティナは、不意に動きを止めた。
 ゆっくりと、振り返る。
 雪の上に横たわる彼は、優しい微笑みを貼り付けたまま、そこにいた。
「………ねぇ。あたし、行ってくるからね?」
 小さな声で、再度呼びかけてみる。
「…ねぇ、何か言って…」
 返事が、欲しい。
 分かっている。それが無理なことだと、分かっている。
 彼にはもう自分の声は届いていなかった。
 彼は、行こうとしていたから。
 ───何処に? 
 その答えを、ティナは知らない。
「待って…」
 震える声で、呼びかける。


「待って…あたしも…」


 人間は死ぬと、天国という場所に逝くのだと誰かが言っていた。 では、白い精霊である自分は、いったい何処に行くのだろうか。 溶けて、消えて…いったい、何処に行くのだろうか。 行き着く先は、彼とは全く違う場所かもしれない。 それでも、この世界に一人残されるくらいなら…彼に置いて逝かれるくらいなら…せめて…。


 ───連れて逝って…!


 ゆっくりと手を伸ばす。彼の頬に…。
「ごめんなさい」
 小さな声で、謝る。


 ───約束を守れなくて、ごめんなさい…。


 消えてしまおう。このまま残されるくらいなら、愛しい人のぬくもりに…。


 彼へと伸ばされた指は、僅かに震えていたけれど。
「やっと…触れられた…」
 初めて触れた愛しい人の頬。少し冷たくて、けれど滑らかな…。


 ───連れて逝って。このまま、あなたの 温かな ぬくもり で……


「…やっと触れられた。……それなのに、なんで?」
 ハルの頬に触れたまま、ティナは呟く。その呟きがしだいに大きくなっていくのを、ティナは止めることが出来なかった。
「なんで!? なんでよ!!? どうして…どうしてあたしを溶かしてくれないの…ッ!!?」
 彼にはもう、ティナを溶かすぬくもりはなかったのだ。
 いつの間にか、彼は逝ってしまっていた。ティナをおいて。
 そこから溶けていくはずだった細い指で、ハルの頬を撫でる。 指先で、わざと触れるか触れないかの力で撫でてみる。 けれど彼は、くすぐったがりもしない。睫毛を震わせもしない。
 愛しい彼は、もう、いない。
 微笑みを浮かべたまま、そこにいる。目の前にいるのに…、


 ───いない。


 その体ごといなくなったのであれば、こんなに悲しくはなかったのかもしれない。 淡い…無駄な期待を抱かなくてすんだかもしれない。
 彼の瞳が、また開くかもしれない。
 彼の唇から、またあの優しい声が溢れるかもしれない。
「…」
 突然唇に触れた柔らかな感触に、ティナは自分が彼に口付けていることに気付く。 それは、愛しい彼に対する、当然の行為。だから、触れるまで気付かなかった。
 軽く押し当てた後、ゆっくりと離す。
 そして、もう一度…。もう一度…。
 冷たい唇に、滑らかな頬に、震えることもしない瞼に。
 キスを落とした。


…雪が降る…
…空から…
…村に…森に…広場に…大地に…
…ティナに…
…ハルに…



「イヤ……触らないで……」
 ティナはハルの頭を抱きかかえる。
 それでも雪は、降り注ぐ。ティナを包むように。ハルを包むように。
 ティナはますますハルを抱きしめる。
 ───嫌よ。
 ハルが愛した雪にでも、今は彼を触れさせたくない 。誰にも、何にも触れさせない。たとえ大地にであろうと、彼を渡しはしない。
 それが神に背くことであろうと。
 そう。神にだって、彼を返してなどやるものか。


 永遠に────。


「…愛してるわ。愛してる…」
 ティナの囁きに応えるように、キラキラと雪が舞う。 それは、僅かに光を放つその雪は、真っ直ぐにハルへと降り注ぐ。 空からではなく、ティナの掌から。仄かに光をまきつつ、ハルへと降り注ぐ。 その雪は次第に、彼を足下から覆っていく。
「────ごめんなさい」
 ハルを抱きしめたまま、ティナは小さな小さな声で詫びる。
 今、自分が何をしているのか、よく分かっていた。
 自分はまた繰り返すのだ。白い精霊と人間の、悲しい物語を。
 愛しい人を凍らせてしまった愚かな自分を忘れるなと、 シュウが諭してくれたにもかかわらず、自分は、彼と同じ道を辿っている。
 そっと、雪の上にハルの体を横たえる。 真っ白な雪の上に広がるのは、濡れ羽色の髪。それを、手で梳いて整える。
 僅かに空へと向けた掌から降り注ぐ雪が、彼に向かっていく。 艶やかな髪に、滑らかな頬に、赤い唇に、伏せられた瞼に。 その体に、永遠を授けるべく、キラキラと降り注ぐ雪。
 それを見つめながら、ティナは囁く。


「愛してる」


 最後にもう一度だけ。


「…愛してる」


 囁いた瞬間、ボロボロと涙が零れ落ちていくのを、ティナは感じていた。 頬を離れた涙の雫が、彼の髪を飾る。


『泣いてないなら、それでいいんだ』


 そう言って安堵し微笑んだ彼に、これでは申し訳がたたなくて、何とか涙を止めようとする。
 けれど、どうやって止めたらいいのか、分からない。 ぎゅっと目を閉じてみても、拭ってみても、頬をつねってみても、止まらない。
『泣くな』
 そう言っていつも涙を止めてくれたあの人はもういない。 自分では、どうしても涙を止めることは出来そうにない。 いったい彼は、どんな魔法を使っていたのだろうか。
 分からない。だからせめて、顔だけは笑っていよう。
 ティナは、その涙に濡れた顔に微笑みを浮かべた。


 ───今は、これで許して…。






BACKTOPNEXT