雪が、降っていた。
森に、村に、山に。 一つ、舞い降りる。 そして、また一つ、舞い降りる。 静かに静かに、雪が降っていた。 「来ない…」 Shamrock Squareにも、雪が降っていた。そこで愛しい人を待つティナの上にも。 十字架の側に腰を下ろし、ティナは溜息混じりに空を見上げた。 どんよりと曇った空から、真っ白な雪が舞い降りてくる。一つずつ、一つずつ…。 不意に、頭の中、蘇ったのは、ハルの言葉だった。 『オレ、雪、すごく好きだ』 どうして? そう訊ねると、彼は空から舞い降りてくる雪を掌に受け止めながら答えてくれた。 『雪、真っ白だろ? 何か、オレの中にあるものも全部、真っ白にしてくれるような気がするんだ』 あなたの中にあるもの? 『そう。腹の立つこととか、悲しいこととか…孤独とか…。 オレの持っていたくないものを、全部白く染めて、溶かしてくれるような気がするんだ』 『オレ、独りぼっちなんだな、って思った時には、こんな感じの雪が好きなんだ』 一つ一つゆっくりと降りてくる雪が好きだと、彼は言っていた。 全てを真っ白に染めるような大きな粒の、沢山の雪ではなく、こうして静かに舞い降りてくる雪の方が好きだと。 『雪が積もった、真っ白な空間の中に立ってると、ホントに自分は一人なんだなって、 ちょっと淋しくなるんだけどさ、こうやって、一つずつ降りてくる雪に囲まれてると、 お前も一人なのか。オレだけが一人なんじゃないんだなって、思えるんだ』 『でも、無茶苦茶降ってくる雪は…逆に、淋しくなる。 雪も仲間と一緒に降りてくるのに…オレだけは一人でいるんだな、って。オレだけが一人なんだって、思うんだ』 そう言って、彼は笑った。 『考えすぎだよな』 と。 ひとしきり笑った後、彼は空を見上げて言うのだった。 『……綺麗だな』 と。 ───うん。 頷く瞳は、空ではなく、雪でもなく、彼だけを見つめていた。 ───綺麗ね。とっても綺麗。 綺麗なあの人に。優しいあの人には、もう会えないのだろうか? 「イヤ…」 嫌だ。 ───会いたい…。 窓から差し込む光に照らされ、ハルは目を覚ました。 ベッドに横になったまま、ぼーっと天井を見つめる。そこは紛れもなく、自分の部屋だった。 「……あれ?」 はっきり言って、記憶がない。 ティナと別れてから、自分がどうやって家まで戻って来たのか。 思い出そうとしても、何故か頭が働かない。何も、考えられない。 額に置かれた冷たいタオルの感触に気付き、何故かぼーっとするのは、 自分が熱を出しているからだということを知る。 「…昼、か?」 部屋に差し込む太陽の光に、ハルは自分がほぼ一日中眠っていたのだということを悟る。 寝起きの所為なのか、それとも熱の所為なのか霞んだ視界を正そうと、何度か瞬きを繰り返す。 その後、窓の外に視線を遣ったハルは、雪が降っていることに気付く。 少しずつ空から舞い降りる雪。それは、ハルの大好きな雪だ。 あの真っ白な雪に触れれば、熱だって消え去るかもしれない。 そんな気がして、ハルは体を起こす。途端に軽い眩暈が襲ってきたが、 それは突然響いた怒鳴り声によって消された。 「…何だ?」 そう言えば、人の声が聞こえる。 ゆっくりとした仕種で扉の方に視線を遣ると、その向こうから聞き慣れた声がした。 「やめろ! ハルが寝てるんだぞ!?」 誰でもない、モリの声だ。 寝ている人がいるのだから静かにしろと言っているらしいが、 その声が一番大きい。そのことに苦笑を漏らしながら、ハルはゆっくりとベッドを降りた。 「そんな馬鹿なこと、やめた方がいい」 扉を開く直前、聞こえてきたモリの真剣な声音に、ハルはノブへと伸ばした手を止めた。 「何を言うんだ、モリ」 「そうよ。何が馬鹿なことなの?」 「お前だって魔物を憎んでいるんだろ!?」 口々にモリに向けられるその言葉から、彼らが白い精霊 について話しているのだということに気付いたハルは、身を硬くする。 その声はどれも聞き覚えのあるものだった。 それは、冬の森で近しい人を亡くした者たちの声。 そして、大切な人が帰って来ないのは全て精霊の所為だと、 彼らを魔物と蔑み憎む村人達の声だということに気付く。 「魔物は…確かに、憎んでる」 モリの声が、彼らに答えている。 「だったら何故だ!?」 「私の娘も魔物に凍らされた。ケイちゃんと同じように…」 「私の弟もよ」 「これ以上奴等をのさばらせておくわけにはいかんだろ!?」 「だから、魔物を森から追い出そうって言うのか?」 「そうだ」 「いったいどうやって? 俺たちの方が凍らされるのがオチだ」 「じゃあ、このままでいいって言うのか!?」 彼らが何を話しているのか、何をしようとしているのか、ハルは全てを理解した。 精霊を森から追い出そうと言うのだ。 「……」 ハルは唇を噛む。 自分は、何をするべきなのだろうか。 疑問が頭の中を駆け巡るのに、答えを見つけだすことは出来ない。 「ティナ…」 精霊を追い出す。それは同時に、ティナに会えなくなる、ということ。 「ティナ」 振り返って、窓の外を見る。 雪が、降っていた。自分の好きな、雪。 扉の前から踵を返したハルは、静かに窓を開く。 ───もしかしたらティナは、またあそこに…あのいつもの広場にいるかもしれない。 そんな思いがよぎる。 こんな雪の日には、必ずケイの所に行くのだと言った自分の言葉を信じて、 ティナはあそこにいるかもしれない。自分を、待っているかもしれない。 ───行かなくては…。 「?」 ハルの部屋から物音がしたような気がして、モリはチラリとそちらに視線を移す。 だが、ハルが部屋から出てくる気配はなかった。 「どうなんだ、モリ!」 苛立った声。 ミイラ取りがミイラになるだけだと言った自分に、 だったらこのままでもいいのかと問われていた最中だった。 モリは溜息を一つ零した後、自分の目の前にいる数人の男女を代わる代わる見つめて言った。 「別に魔物を追い出す必要はない。俺たちが冬の森に入らなければいいだけだ」 「森を奴等に渡すのか!?」 「森は俺たちだけのものじゃないだろ」 「…」 モリの言葉に、誰もが口を噤む。彼の言っていることは、正しい。それも分かっている。 けれど… 「私たちは大切な者を奪われた。奪った奴等に仕返しをしたいと思うのは、 間違っていないんじゃないか?」 妻を冬の森で亡くした男の言葉に、今度はモリが黙る番だった。 その気持ちは、分かる。自分だって、ケイを凍らせたあの魔物を、 どんなに憎んだか。そう。今でも憎んでいる。殺してやりたいとすら、思っている。 この思いは、彼らが抱いているものと、何ら変わりはないのだ。 けれど… 「…私は行く。この森から、魔物を追い出すために」 「僕も行く」 「…駄目だ」 「私も行くわ」 「俺も行く。敵を討つって、決めたんだ」 「やめろ」 必死になって彼らを止めようとする自分に、モリは心の中で溜息をつく。 何故自分は、魔物を庇うようなことをしているのだろうか。 確かに、森から魔物がいなくなれば、魔物に凍らされる者はいなくなるだろう。 けれど、本当にそれが許されるのか? この森は自分たちだけのものではない。 動物や植物、同じように彼等もそこに棲んでいるだけだ。 それを追い出す権利など、自分たちにあるのだろうか? きっと、ない。 精霊に凍らされたくないのなら、自分たちが冬の間、森に行かなければいい。 彼等も村には入って来ないのだから、自分たちも森に入らなければいいのだ。 そもそも冬の森に入る理由などない。互いの領域に踏み込まなければ、何も起こらない。 …そう。あんな悲しいことは、起こらなくてすむ。 思い出すのは、氷の中で眠る美しい少女と、それを見つめる虚ろな瞳。 「無駄だ。奴等は魔物だ! 銃なんかで死ぬわけがないだろう!?」 「やってみなければ分からない!」 「無駄だと言って───」 「もういい。行こう」 「待て、オーディー!」 モリの声に、オーディーと呼ばれた男は振り返らなかった。 彼に続いて、残りの村人達もハルの家を後にする。 誰もが、モリを責めるような視線を残しながら。 「くそッ」 腹立たしげに舌打ちをし、前髪をかきあげる。 どうせ魔物を追い出すどころか、あの広大な森で、 その姿を見つけられもせず帰って来るに違いない。 そうすれば、自分たちの言っていたことがどんなに愚かなことだったか分かるはずだ。 溜息を一つ零した後、モリはハルの部屋へと向かう。 話し声―いや、あれはもう話し声などという可愛いらしいものではなかった。 怒鳴り声と言った方が正しいだろう―で、起こしてしまったかもしれない。 昨日、ティナと別れてから、ハルは一言も喋らなかった。モリの方も、 特に何かを話しかけるでもなく、無言のまま歩いていた。 そして、森を出るなり倒れたハルに、モリは驚かされた。 ケイは生きているかもしれない。帰って来るかもしれない。 そんな淡い希望が、無惨にもうち砕かれたのだ。 しかも愛しい妹の死体を、その目で見てしまったのだから、 もう、ケイは死んだわけではないと、 淡い期待を抱き続けることさえ許されなくなった。 いつか帰って来るのだ、と信じ続けることさえも許されなくなったのだ。 唐突に知らされた妹の死。唯一の家族である妹の死。 ……ああ、これで本当に、一人きり。 突然、目の前に開いた絶望の闇。 そこへ飲み込まれ、落ちる。落ちる。落ちる───……。 そして、奈落の底、叩き付けられた体は脆く砕け散った。 それは凄まじい衝撃だった。凍えた体に、というよりも、疲弊しきった心に、それは 襲いかかった。 その衝撃を、全てを拒むように、ハルは意識を失っていた。 ケイが白い精霊に凍らされていたその事実と、それを知ったモリの姿とに、 村の人たちは涙し、そして、近しい者を精霊に奪われた人たちは激昂し、銃を手に取ったのだ。 突然意識を失い、その後、精神的なショックから熱を出してしまったのだろうハルを寝室へと運び込んでから、 彼はずっと眠り続けていた。時折、熱が下がったかどうか確かめに行ったり、 彼の額に置いたタオルを替えるため部屋に入るたび、 心臓が跳ね上がる思いがした。ベッドで横になるハルの姿に、ケイを思い出して…。 僅かの逡巡の後、モリはハルの部屋のドアを押し開ける。 その途端、襲いかかってきた冷たい空気に、慌てて部屋の中を見回す。 「───いない…」 空のベッドと、開かれたままの窓。部屋の中、ハルの姿はない。 瞬間、血の気が引いていく音を、モリは聞いたような気がした。 彼は自分たちの話を聞いていたのだ。 村の人たちが精霊を森から追い出そうとしていることを精霊達に教えるために、 己のことも顧みず、窓から出ていったのだ。 雪に濡れたコートは暖炉の前にある。 ハルはコートすら着ず、飛び出していったのだ。 「畜生!」 その言葉を、いったい誰にぶつければいいのか、分からなかった。 白い魔物を森から追い出そうと考えた村の人たちにだろうか。 その村人達をこの家に上げた自分にだろうか。黙って飛び出していったハルにだろうか。 今は、そんなことはどうでもいい。 居間に戻ったモリは、暖炉の前のイスに掛けていたハルのコートを手に取り、 自分もコートを羽織ると、家を飛び出していった。 |