銃声が、やんだ。
「───くそッ、何処だ!?」
 雪も、やんだ。
 自分の苛立った声だけが、静まりかえった森の中、虚しく響いている。
 精霊を森から追い出すのだと言って森に行った村の仲間達。 そして、精霊を守るために森へと向かった幼なじみ。
 彼らが森に入ってから、すでに二時間が経とうとしていた。 先ほどまでは一寸先も見えないほど激しく降り注いでいた雪が、忽然とやんだ。 そして、風の鳴る中、時折響いていた銃声も、同時にやんでしまった。 銃声を頼りに歩を進めていたモリは、足止めを喰らうこととなった。
「畜生。何処だ…!?」
 仕方なく、今まで銃声のしていた方へと駆け出す。 足下に積もった雪がなかなか前に進ませてくれない。そのもどかしさに、 モリはきつく唇を噛む。 冷たくなった唇と同様に、冷たくなっていた頬に、白いものが触れる。
「またか…」
 やんだと思っていた雪が、再び降り始めていた。今度は静かに。
 静かに舞い降りる雪と、それを受け入れる森。その穏やかな光景に、 さらに不安と焦燥は募っていく。思わず止めてしまった足を、モリは再び動かし始めた。 とにかく、走るしかない。胸の中で暴れているこの不安を晴らすためには、行くしかないのだから。
「?」
 不意に、モリは前方に目を凝らす。木々の向こう、何かが動いているのが見えたのだ。 それは、目の前を横切る白い影。一瞬、精霊かと身を硬くしたモリだったが、 すぐにその白い影が自分の探していた人の影であることに気付く。 鼓膜を揺らすのは、確かに人が雪を踏みしめる音だったから。
「ハル!?」
 大きな声で呼びかける。けれど、その影は止まらなかった。 モリの目の前を、虚しく通り過ぎていく。
「おい、待ってくれ!」
 モリはその影を追って走り出す。
 ───ハルではない。
 追いかけるその背の小ささに、モリは気付く。女だ。
「待て! 俺だ!!」
 容易に彼女に追いついたモリは、その細い肩を掴んだ。
 怯えた瞳で振り返ったのは、やはり村の仲間。冬の森で、父親を亡くした少女だった。 真っ青な顔をして、体は小刻みに震えている。
「レイナ、どうしたんだ!?」
「…モリ……モリ!」
 モリの姿を認めた彼女は、震える体でモリにしがみついてきた。
「モリ! どうしよう。みんなが…! ハルが…ッ!」
「何があった!?」
 完全に錯乱状態にある彼女を落ち着かせるように、モリはしがみついてくるその体を離し、瞳を覗き込む。
 それでも、彼女は怯えた瞳のままだった。モリの問いに、答えられそうもない。
「どうしよう、ねえ、どうしよう!!」
「落ち着け! おい、どっちだ!? ハルは何処だ!?」
 もう彼女から詳しいことを聞き出すのは無理だと判断したモリは、 とにかくハルの居場所を問う。掴んだ肩を揺さぶると、彼女は震える指で、自分の元来た道を指差した。
「お前は村に戻れ。いいな」
 弱々しくも彼女が頷いたのを認めたモリは、すぐさま駆け出していた。
「くそッ、邪魔だ!」
 ヒラヒラと舞い降りる雪も、煩いほどに高鳴る鼓動も、渦巻く不安も。
 そう言えば、こんな風に静かに舞い降りてくる雪が好きなのだと、あの兄妹は言っていた。
 何故だと問えば、返ってきたのは、
『綺麗じゃない?』
 いつも、当然だと言うように、彼らはこう答えたのだった。
「…俺は、嫌いだ」
 誰にともなく、言う。
 嫌いだ。
 あの日も、こんな雪が降っていたではないか。
『ケイが───いないんだ。どこにもいないんだ…』
 Shamrock squareに立ち尽くし、青ざめた顔でハルがそう言ったあの時も、こんな雪が降っていたではないか。
 ケイが氷の中で眠っているのだと知らされた後にも、こんな雪が降っていたではないか。
 そして、不安で胸が潰れそうな、今、この瞬間にも。
「───ッ」
 不意に、モリは目を閉じる。
 体が、光に飲み込まれたような感覚。眩い光の洪水が、モリに襲いかかってきた。
 ゆっくりと瞳を持ち上げると、目の前に広場があった。 ケイの墓があるあの広場よりもそれはもっと大きな。
 太陽の光を浴び、キラキラと輝く雪の白。 それは、全てを包み込むかのように優しく、全てを洗い流すかのように強い。 その白は、モリの中にあった不安や焦燥すらも洗い流していたのかもしれない。 自分がいったい何をしに来たのかも忘れ、モリは茫然と立ち尽くしていた。 その瞳は、白に奪われたままで。
 彼がようやく我に返ったのは、自分の行く手を阻むかのようにして目の前にある、 五つの白い塊が目に入ったからだった。
「何だ、これは…」
 それは雪で出来たオブジェ。
 自分の背丈よりも大きなものであったり、小さなものであったり。
 それはすべて、人の形をした白い塊。
 腕を上げて顔を庇おうとしているような。広場の中心に背を向け、 必死で逃げ出そうとしているような。恐怖にうずくまっているような。
「……まさか……」
 茫然と呟く。
 そのまさかだ。
 それを知らせるかのように、白い塊の側に銃が落ちていた。それは、紛れもなく、
「オーディー!」
 そう。彼のもので。
「クリス!?」
 ただ立ち尽くしているその白い塊の名を…姉を冬の森でなくした少年の名を呼ぶ。
 その隣でうずくまっている白い塊は…その隣の、必死で助けを求めるかのように腕を上げる塊は…そしてその隣。
「スカイ!? クレア!! ギル!!」
 彼らから、答えはない。代わりに何処からともなく返ってきたのは、 白い塊の名を必死に叫ぶ自分を嘲るかのような笑い声。クスクスと、耳に障る笑い声。
 弾かれたように白い塊から広場の中心へと視線を遣った彼は、 その時初めて、この広場の中心に大きな木が立っていることに気付く。 雪の白に覆われても、それでも枯れることなく葉を広げているその木は、常緑樹。 その広場で唯一、白に染まっていないもの。そして、その木の根本に笑い声の主はいた。
「……お前は…」
 唇の端を吊り上げ、幼い顔にどこか妖艶な笑みを浮かべた少女が、そこにはいた。
 体を宙に浮かせ、虚空で足を組んで座っているその少女を、モリは知っていた。
 いや、彼は、知らない。
「…ティナ…?」
 妖しく笑う彼女は、モリの知っている彼女ではなかった。 ハルと楽しそうに話していた彼女ではない。自分の投げつけた言葉に涙していた彼女ではない。
 そこにいるのは、紛れもなく白い魔物。
「ふふふ。こんにちは」
「……コイツらを凍らせたのは、お前か?」
 その問いかけに、ティナはまたクスリと笑った。
「そうよ」
 無邪気に、言い放つ。
 背筋を駆け抜けていった悪寒は、きっと気のせいではない。 ただ、それが恐怖によるものなのか、それとも胸の内に渦巻く不安の所為なのか、 それは定かではなかった。
「────おい、ハルは、何処だ?」
 早く、ここから去りたかった。ハルを連れて、早く彼女の側から離れたかった。
 モリの問いに、ティナは口許を歪める。
「さあ、何処でしょうか?」
 まるでクイズを出しているような口調。
 逆に問い返されたモリは眉を寄せてティナを見つめる。
 睨みつけてくるかのようなモリの視線を感じながら、ティナは再び笑いを洩らす。 そして、視線を落とした。
「─────」
 その時、ようやく彼は気付く。ティナは、宙に浮いているわけではなかった。 彼女は何かに腰掛けていた。ただ、それが透き通っていたので気付かなかったのだ。
 ───気付かなければ、良かった。
 それが、あの洞窟で見たものと、同じだということに。
「…お前、まさか……ッ!」
 彼女の小さな手がそれを撫でるのを見たモリは、彼女への恐怖心も忘れ、 木の根本へと駆け寄っていた。
「───ッ」
 思わず、息を呑む。


「は……ハル……」


 ティナが腰掛けているそれは、大きな氷の塊だった。 切りそろえられたかのように綺麗な四角をしている氷。
 否。それは、正確には氷ではないのかもしれない。 氷にしては、それはあまりにも透き通りすぎていた。
 空気の泡を一つも閉じこめることなく透き通ったそれは、ただ、 ハルだけをその中に閉じこめていた。決して誰にも触れさせまいとするかのように。
 そんな氷の中で、ハルは穏やかな表情を浮かべていた。いや、微笑んでいた。
 いやに白い肌が、伏せられた睫毛の長さと唇の僅かな赤を強調している。 濡れ羽色の髪は、まっすぐに広がっていた。その髪を、ところどころ宝石のようなものが飾っている。
 その様子はまるで…、


 眠り姫−Sleeping Beauty。


「ふふふ。キレイでしょ?」
 モリの意識を現実に引き戻したのは、無邪気な…否、残酷な魔物の声。楽しそうな、笑声。
 耳障りなそれと同時に、蘇ったものがあった。
『ティナは魔物なんかじゃない』
 そう言ってティナを庇っていたのだ、氷の中で眠っているこの男は。 ティナは、絶対に自分を凍らせたりはしないのだと、そう信じていたハルが…今は…。
「何故だ…」
 自分でも驚くほどに低い声だった。その声が震えていることにも驚いた。 けれど、その震えを止めることはできない。
 わき上がるその感情に、何という名を付ければ適切だろうか。


 怒り?
 悲しみ?
 絶望?


「何故、凍らせた…?」
 その問いに、ティナは笑うのをやめた。
 そして、彼女の脳裏に蘇ってきた言葉。それは、


『花を広げた、その綺麗な時のままにしておきたかったから、凍らせたんだろう?』


『自分の愛する人を、美しい姿のままでいさせたいと思うのは、当然のことなんじゃないのか?』


 それは、シュウの言葉だった。愛する少女を自らの意志で凍らせ、 それを悔やんでいた仲間の言葉。その言葉の所為だろうか、
「…キレイなものを、キレイなままにしておきたかったの…」
 驚くほどすんなりと、そんな言葉が出た。そのことに、 自分自身驚いているティナがいた。もしかしたら、 心の何処かにそんな感情があったのかもしれない。
 ティナは、再び笑った。本気で、笑った。


 ───やっぱりあたしも、魔物でしかないんだ。


 そう思うと、笑う以外に何も出来なかったから。
 おかしくてたまらないという風なティナ笑い声を聞きながら、 モリはハルを見つめていた。その姿は、あの洞窟の中で見たケイによく似ていた。
 同じ運命を辿った兄妹。
 ケイを愛していた。けれど、その愛した彼女を守ることが、 自分には出来なかった。どんなに彼女を愛していたか…それでも、 彼女を守ることは出来なかったのだ。彼女が自分ではない誰かに恋をしていることも知っていた。 そのことに胸を痛めたこともあった。けれど、良いと思った。 彼女が幸せならそれでも良いと思った。彼女を守るのだというその役目を、 彼女の愛したその人に譲ってしまっても、彼女が幸せなら、 それで良いと思った。けれど、それは間違いだった。
『ケイが、帰って来ないんだ…』
 そう言って雪の下で涙を流したハル。
 彼女を守るべき者が、 彼女を殺したのだと知ったとき、自分の甘さに腹が立った。 やはり、自分が彼女を守るべきだったのだ、と。ケイに嫌われてもいい。 それでも、彼女が森へ行くことを止めていたら…。
 もう二度と、こんな思いはしたくない。
 そして、彼女を失ったとき、もう一人の幼なじみ―ハルだけは、 ケイのように悲しい運命を辿らせまいと誓った。
 それなのに、また失うのか。
 いや、すでに失ってしまったのだ…。
 いや、また、奪われたのか…?
「……それだけか? それだけの理由で、ハルを―」
「他に何があるの?」
 モリの言葉を遮るように、ティナは言った。
 返されたその言葉は、モリの怒りを爆発させるには十分だった。 否、爆発したのは怒りではなく、はかり知れない悲しみだったのかもしれない。
「…お前…ッ!」
 モリは、ティナに手を伸ばしていた。


『精霊に触れてはいけない。凍らされてしまうから』


 幼い頃、そう聞かされていたにもかかわらず、 今の彼にはもうそのことで躊躇するほどの余裕はなかった。
 ───たとえ凍らされても…!
 だが、モリは、凍らなかった。
「!?」
 変化が起こったのは、モリに腕を掴まれたティナの方だった。
 突然、掴んでいた彼女の腕から光が溢れ始めたのを見て、  モリは驚いてその腕を放す。けれど、その光は消えなかった。  消えないどころか、弱まりもせず、ティナの腕から首へ、そして体中へと広がり始めたのだ。
「これは…」
 茫然と立ち尽くすモリに、ティナは口を開く。
「……ありがとう。ごめんなさい……」
 その顔に、あの妖艶さは微塵もない。あるのは、喜びと悲しみとを混ぜたような笑み。
「ティナ?」
 それは、彼の知っているティナだった。
「私を消してくれてありがとう。この人を守れなくて…ごめんなさい…」
「守れなくて…?」
 そのティナの言葉に、モリはハルに視線を戻す。 その視線が、彼の白い服に広がった赤い花で止まる。 赤黒く変色する前の、あまりにも鮮やかすぎるその赤は、彼の体から溢れ出したのであろう、 紛れもなく大量の血だった。その原因は、
「…銃…?」
 違ったのだ。
 ティナが、ハルを凍り付けにして殺したのではなかったのだ。
 そのことに気付いたモリがティナに視線を戻したとき、 彼女は全身を淡い光に包まれていた。その光が、ハルの上に降り注ぐ。 そして、彼を包む氷に溶け込んでいく。
 その光は、氷に触れてもその輝きを失うことはなかった 。美しく、氷を飾っていく。氷の側面を。 そして、氷の中で眠るハルを隠さぬよう、 上面の縁を。
 氷に光り輝く模様が刻まれていくに従って、ティナはその体を失っていく。 ティナの指先から、髪の毛から、光は降り注ぐ。


 それはまるで、ハルの愛した静かな雪のように、ゆっくり、ゆっくりと…。


「これが…」
 小さな小さな声で、ティナは問う。
 これが、死なのか、と。
 全く恐怖は感じない。ハルが死ぬのだと悟ったときは、あんなにも恐ろしかったのに。
「…あたし、死ぬの?」
 死んでも、自分は彼と同じ所にいけるかどうかは分からない。
 いや、きっといけないのだろう。
 だから…。
「…一緒よ…ずっと…」
 ティナの優しく細められた瞳は、ただただ、ハルだけを見つめている。
「ずっと、一緒にいるわ。決して、あなたを一人になんてしない…」


『ずっとずっと土に還ることもないケイの側にいられるのは…、ケイを愛し続けられるのは、お前だけだ』


 妹を凍らせた精霊に、ハルは言った。
 せめて、妹を一人にはしないでくれ、と。だから、


「…あたしじゃ役不足かもしれないけど…一緒にいてあげる」


 孤独を嫌う彼を、一人にはさせない。
 彼が悲しい思いをしなくていいように、ずっと、傍にいてあげたい…。
 いや、違う。


 ───傍に、いさせて…。


「愛してる。ずっと…ずっと…」


初めて出逢った人間。
初めて愛した人。


あの優しい笑顔が好き。
温かなぬくもりが好き。
その一つ一つの仕種が好き。
涼やかな声が好き。
少年の光を閉じこめたままの瞳が好き。




───あなたが、好き。
     ずっとずっと…あなただけが…


愛しい人の傍に、ずっといられたら…。
それがたとえ、彼に永遠を授ける、冷たい氷の一部分でもいい。


───あたしも、あなたと一緒に永遠を過ごしたい───




…雪が、降っている。

真っ白な、真っ白な雪が…。


「…降り注げ…」


天を仰ぐ瞳から零れ落ちる、涙の雫。
地上を見下ろす空から舞い落ちる、白い雪。
それは、永遠に溶けることのない雪。


───降り注げ…。
総て、埋め尽くせ。


穏やかに眠る人と、消えゆく精霊と、立ち尽くす人。


何もかも、総て…その白で埋め尽くしてしまえばいい。

そう。

何もかも、白に染めて…




…ただ、この永遠だけは、壊さぬように…





真っ白な 真っ白な 雪景色に








BACKTOPNEXT