突然、その静寂に介入する者があった。 「ハル! ここか!?」 投げかけられた声に、ハルは洞窟の入り口を振り返る。モリの声だ。 だが、振り返ったハルの瞳に、モリの姿は映らなかった。 まだ、洞窟内に入ってきたわけではないらしい。 「モリ…! 駄目だ!!」 「ハル!」 来るな、と言うその言葉を遮り、再びモリが呼びかけてくる。 その声が先ほどよりも近くに感じるのは、気のせいではないだろう。 モリに怒鳴られた記憶の新しいティナが、慌てて洞窟の奥、ケイの氷の上に逃げる。 そんなティナとは反対に、ハルは洞窟の入り口に向かう。 「モリ、来るな!」 彼をここに来させてはいけないと思った。 ケイを愛していたモリは、どんなにか悲しみ、そして怒るだろうか…。 「駄目だ! 来るな!!」 「ハル!」 来るなという声に応えが返されたとき、すでに洞窟の中に、モリの姿はあった。 強張っていたその顔が、ハルの無事な姿を見て和らぐ。 だが、それも束の間のことだった。 洞窟の中に自分とハル以外の者の気配を感じたのだろう。 不意にモリは、洞窟の奥へと視線を移す。 洞窟内が仄かに明るいとはいえ、外からやってきたばかりの彼の瞳は、まだ暗所になれていなかったらしい。 何度か瞬きを繰り返した後、モリはその瞳を見開いた。 そこに認めたのは、前に一度会った精霊と、初めて見る顔の男だった。 「モリ!」 洞窟の奥を睨むようにして見ているモリの体を、ハルは両手で押す。 洞窟の奥にいるケイの存在に気付く前に、彼をこの洞窟から出したかったから。 けれどハルが必死に押しているにもかかわらず、 モリはまるで足から根が生えてしまったかのように、そこから動かなかった。 …いや、違う。モリが動かないのではない。 寒さの所為だろうか、彼を押すハルの腕に、うまく力が入っていないのだ。 腕にハルの力を感じながらも、モリの視線は洞窟の奥に注がれたままだった。 その視線の先、そこにいる男が、薄く白い服を纏っているのを見て、 モリは彼が白い精霊なのだということを悟る。と同時に、彼らの側に、 大きな四角い塊があることに気付き、モリは眉を寄せる。 「あれは…」 それに気付いたハルが、更に自分を押し返そうとするのを無視し、 モリは目を凝らした。そして、 「モリ、帰ろう! もう────うわッ」 必死で自分の体を押すハルの手を、モリは無造作に振り払った。 体重を掛けてモリを押していたハルは、地面に倒れ込む。 だが、それでもモリは止まらなかった。いつもならば少し怪我をしただけでも、 大丈夫か、大丈夫かと騒ぎ立てる過保護な彼が、 今は自分にかまうことなく洞窟の奥に向かっていくのを見て、ハルは悟る。 彼も気付いたのだろう。その塊の中に、愛しい少女の姿があることに。 近付いてくるモリに、ティナは洞窟の天井すれすれの所を通って、 彼を避けるようにして今度は洞窟の入り口へと移動する。 自分の下を、慌ててモリを追うハルが通っていく。 空中に逃げたまま、ティナは不安げな瞳でそれを見つめていた。 「モリ!」 待てというハルの言葉を無視し、四角い大きな塊を覗き込んだモリは目を瞠る。 ───…どうか…どうか今、この時が、夢でありますように…… 「……ケイ……」 震える息と共に、透明な塊の中で眠る少女の名を呼ぶ。 そこには、最後に会った時と変わらぬ姿で、ケイがいた。 地面が、足下から崩れていく感覚。その下に見えるのは、底なしの闇。 幼い頃から妹のように可愛がってきたケイ。 そして、いつしか妹としてではなく彼女を愛している自分がいた。 彼女が、他の誰かを想っていることも知っていた。 その誰かを想い、幸せそうに微笑む彼女はとても綺麗だった。 その誰かのことを妬ましく思ったこともある。 それでも、彼女のその綺麗な笑みの前では、そんなこと、 どうでも良くなってしまうくらい、彼女の微笑みが好きだった。 ───ケイが、好きだった。 「ケイ…ケイ…ッ!」 愛しい彼女がいなくなったあの日、どんなに嘆いたことか…。 彼女が帰って来るのだと、必ずまた会えるのだと、頑なに信じていたハル。 そんな彼の言葉は、本当だった。 また、会えた。 でも… 「でも俺は…俺は、こんな再会を望んでたんじゃない…!!」 自分も、ハルも、こんな再会を望んでいたのではない。 こんな、冷たい氷に阻まれたままの再会を、いったい誰が望もうか。 否、望むどころか、自分はこれを恐れていた。 冬の森に向かう彼女が、いつかこうなってしまうのではないかと…。 それでも彼女を止めなかったのは、あの笑顔の所為。 あの幸せそうな、笑顔の所為。あの笑顔を、曇らせてしまうのが怖かった。 でも、もしもあの時、彼女を止めていたら…。 「…」 そっと視線を巡らせると、血の気を失っているだろう自分よりも、 更に青ざめた顔をして、それでも心配そうに自分を見つめているハルと、 その隣に、見知らぬ男の顔があった。じっとケイを見つめるその男の瞳は、愛おしげで。 ───この男が、ケイの想い人…。 そして、ケイを凍らせた魔物。ケイを自分たちから奪った魔物。 そう思った途端に沸き上がってきた感情を、モリは抑えることが出来なかった。 「……この野郎、よくもケイを!!」 怒りのまま振り上げたその拳を受け止めたのは、その男の頬ではなかった。 「やめろ、モリ!!」 モリの拳を止めたのは、彼とシュウとの間に立ったハルだった。 「ハル!!?」 突然、目の前に立ったハルに、モリは自らの拳が彼を傷付ける前に慌てて拳を止める。 「何故止める!?」 その問いに返ってきた答えを、モリは完全には理解できなかった。 「……いいんだ。コイツはもう十分に、罰を受けてるんだ。受け続けるんだ…」 「……」 モリは、何も問わなかった。 ハルの浮かべた悲しい表情と、その向こうに見えた、男の虚ろな瞳の所為で。 「帰ろう。もう、帰ろう、モリ」 「…ああ」 聞きたいことは、まだたくさんあった。 何故ケイを凍らせたのか。 凍らせて満足したんじゃないのか? それなのに何故、そんな虚ろな瞳をして、ケイを見つめているのか。 言いたいことも、たくさんある。 けれど、これ以上ここにいたくないと、ハルに腕を取られては、 それに従わざるを得なかった。今、一番傷ついているのは、 ケイは生きている、いつか必ず帰って来てくれるのだと信じ続けていた、ハルだったろうから。 モリが頷いたのを見たハルは、ゆっくりとシュウを振り返る。 相変わらずシュウは、ケイを見つめていた。横髪に隠され、 今は窺うことの出来ない瞳は、きっとあの、虚ろなものなのだろう。 表情の窺うことの出来ない横顔を眺めながら、ハルは彼に言った。 「…悪かった」 その言葉に、モリやティナだけでなく、シュウまでもが彼を見た。 ここで謝罪の言葉を述べねばならないのは、明らかに彼ではなかったのだから。 何を謝られているのか全く分からないと驚いているシュウに、 ハルはもう一度謝った後、ケイに視線を移しながら答えた。 「ケイの笑顔を奪っておいて、何が愛してるだ、って、そんなこと、 オレに言う筋合いなんてなかったんだ。オレは、オレの考えで、 ケイは今悲しんでるんじゃないかとか、勝手に考えてたけど…もしかしたらケイは今でも、 幸せなのかもしれない…。声が聞けたなら、もしかしたら今でもケイは、 幸せだって答えるかもしれない。でも、もうオレには聞こえないんだ…」 ケイの言葉は、もう聞けない。 氷の中で眠ることになっても、それでも愛する人の側にいられることを、 ケイは幸せだと思っているのかもしれない。 ───今でも幸せなのか? 答えは、聞けない。 「オレには分からない。幸せなんて、人それぞれに違うもので…。 他の誰がそれを見て不幸だと言っても、その人にとってはそれが幸せだってこともあるし…」 氷の中にいるケイを見て、それを不幸なことだと思っていても、 『ねえ、聞いて。私、幸せよ。本当に、幸せなの』 彼女はそう言って、氷の中で微笑んでいるのかもしれない。 分からない。 分からないけれど、 「でも、オレは…オレはこんなの幸せだとは思えない。 オレは好きな人と話せなくなるのは嫌だ。笑いかけてもらえなくなるなんて嫌だ」 好きな人と、いろんなことを話したい。 それは、自分の見た綺麗な風景の話だったり、自分が今何を思っているかだったり。 自分が、どんなにその人のことを愛しているのかという愛の言葉だったり。 そして、笑い返して欲しい。優しく、楽しそうに、幸せそうに…。 そうしたら、きっと自分も笑顔を返すだろう。 そして、 「そんな…淋しそうな目で見られるのも嫌だ」 ハルのその言葉に、シュウは何も言わず、瞳を閉じた。 「こんなの…こんなのオレは嫌だ…! オレは、嫌だ…」 言ったきり、俯いてしまったハルを、モリは黙って見つめていた。 彼の握りしめすぎて白くなった手が、僅かに震えている。 そんな彼の手から視線を外したモリは、己の足下に手袋が落ちていることに気付く。 ハルのものだ。黙ってそれを拾うと、モリはハルの手に握らせた。 「…ハル、帰るぞ」 感覚のなくなった手で、それでもしっかりと手袋を握りしめ、ハルは小さく頷いた。 手袋をはめる前に、もう一度、ケイを包む氷に手を触れさせる。 感覚のなくなったその手でも感じることのできる冷たさ。 「ケイ…」 愛しい妹の名を囁き、そっと、口付ける。 温かく柔らかかったケイの頬まで、それは届かなかった。 「ケイ、────」 再度呼びかけた後に、続く言葉が出てこない。 いったい、この場に相応しい言葉は何だろう。 ───愛してる…? ───幸せに…? ───さようなら…? 冷たい唇に乗せるには、どれもしっくりこなくて……立ち尽くす。 もしかしたら、ただその場を離れたくなかっただけなのかもしれない。 「ハル…帰るぞ」 遠慮がちにかけられたその声にも、ハルはしばらく答えなかった。 何かを考えているのか、それとも、何も考えてはいないのか。 ただ黙ったまま、ケイを見つめていた。 「ハル…」 二度目の呼びかけに、ハルはようやく頷いて見せた。 「帰ろう、モリ」 最後にもう一度だけケイに視線を遣った後、ハルは踵を返した。 もう、ケイにも、シュウにもかける言葉はない。 見つからない。 探せない。 今はとにかく、家に帰って、休みたかった。 自分の下を通り、洞窟の狭い入り口をくぐっていくハルを、 ティナは黙って見送っていた。きっと、今の彼は、自分の存在など、 覚えてもいないのだろう。もう、思い出してもくれないかもしれない。 そう思うといても立ってもいられず、ティナは慌ててハルと、 彼の後ろについて歩いていったモリの後を追う。 洞窟を出る前に、ティナは不意に振り返った。シュウはと言うと、彼は、相変わらずケイを見つめていた。 「……シュウ……?」 すぐに踵を返すつもりが、ティナはその場から動けなくなってしまった。 コツン… 硬い音が洞窟内に響く。 淡い輝きをたたえ、ケイの眠る氷の上に落ちるのは、精霊の涙。 コツン… ───シュウが、泣いていた。 コツン… 声を上げることもせず、静かに涙を流していた。 「……」 声をかけても、いいのだろうか。 いくらかの逡巡の後、ティナは小さな小さな声で、彼に問うた。 「…消えてしまいたかったの?」 ハルの拳を避けようとしなかったシュウ。 それは、消えてしまってもいいと、そう思っていたからだろうか。 その問いはあまりにも小さくて、シュウにも届かなかったのかもしれない。 シュウは、黙したままだ。 けれど、届かなければ届かないで、それでも良かった。 踵を返そうとしたティナに、不意に返されたのは、 「どうして…今更…」 シュウの、涙に濡れた声。 「今更なのに…。どうせ、消えてしまいたいと願うのなら、 どうしてあの時僕は…彼女のぬくもりに、消えてしまわなかったんだろう……。 どうして…ッ」 「──」 ティナは何も答えず、彼に背を向けた。 もうそれ以上、彼の言葉を聞いていられなかったから…。 「ティナ」 そんなティナを引き止めたのは、誰でもなくシュウだった。 首だけ振り返ったティナに、シュウは視線をケイに向けたまま、言った。 「忘れてはいけない」 「え?」 「この愚かな男の姿を、決して忘れてはいけないよ」 「…」 それは、自分と同じ道を辿るな、と…。 ケイを見つめ続けている彼には見えないだろうが、ティナは深く頷き、洞窟を出た。 「……あ」 洞窟を出た途端、不意に歩みを止めたハルに、モリは洞窟の出口を彼の体によって塞がれる。 「ハル、どうしたんだ?」 問いかけ、彼の体を押して洞窟から出ると、冷たいものが頬にあたる。 雪が、降っていた。 静かに降り注ぐその雪は、 モリが辿ってきたハルの足跡を消し始めていた。 「雪が…降ってる…」 一歩、二歩と足を踏み出し、ハルは呟いた。 彼の後を追いながら、モリがそれに答える。 「そうだな。さっきまで、降ってなかったのに…」 きゅっきゅっと雪を踏みしめながら歩いていたハルが、 再び歩みを止めた。そして、何を思ったか、辺りを見回す。 「ハル?」 訝るモリの呼びかけには答えず、ハルは雪の積もった地面を見つめていた。 彼が探していたものは見つからなかった。ここまで辿ってきた、ティナの涙。 もう、雪に埋もれてしまったのだろうか。ハルの瞳には、もう映らなかった。 「───もっと、早く、降り始めれば良かったのに…」 もっと早く。 自分が家を出る前に。 ティナがケイの墓の前から、ケイの元へ向かう前に。 モリが自分を追って、家から出る前に。 「…ティナの涙を…オレの足跡を、この雪で、消してくれれば良かったのに…!」 そうすれば、ケイに再会することもなかった。今まで通り、 いつかきっと帰って来るのだと信じ続けていられた。 ケイを愛していたモリに、ケイの死を知られることもなかった。 「なんで…なんでもっと早くに…ッ!」 それに応えるかのように、白い雪が、ハルの頬を優しく撫でていく。 その様子は彼を慰めているようでもあり、彼に詫びているようでもあった。 「ごめんなさい!!」 突然響いた高い声に、驚いて振り返ったモリは、そこにティナの姿を認めると、 途端に表情を険しくする。ケイが魔物に凍らされたことがはっきりしたのだ。 これからも彼は、精霊を憎み、生きていくことになるのだろう。 「ティナ…」 モリに続いてゆっくりと振り返ったハルが、今まで忘れていたティナの存在を思い出す。 そう言えば、彼女を追ってここまで来たのだった。 「ごめんなさい…ごめんなさい、ごめんなさい!!」 ティナは、ハニーブロンドの髪を激しく揺らし、頭を下げる。 その拍子に、彼女の瞳から溢れた涙が、雫に姿を変えて地面に散らばる。 真っ白な雪の上に落ちた涙の雫はすぐ、降り注ぐ雪に消された。 それでも、零れ落ちる涙は止まらない。 ティナの頬からキラキラと落ちる涙を、ハルは黙って見つめていた。 「ティナ」 「おい、ハル!?」 ハルがティナの方に足を向けたことに気付いたモリは、慌てて彼を止めようとしたが、 無駄だった。背中にかかるモリの声を無視し、ハルはティナの前に立つ。 思い出したのだ。 何故、家を出たのか。何故、ティナを追ってきたのか。 「オレ、言おうと思ってたんだ」 「え?」 自分に向けられる穏やかな声と表情に、ティナは戸惑う。 妹を凍らせた魔物の仲間だというのに、彼は、自分に笑いかけてきたのだ。 そして… 「ティナ、お前が泣くことは、何もないんだ」 「───」 「だから、泣くな」 大好きな大好きな、優しい笑顔。 泣いていると、いつも言ってくれた言葉。 ───大好き。 「じゃあな」 遠ざかっていくハルの後ろ姿に、ティナは心の中で問うことしか出来なかった。 ───また、会いに来てくれる? 否定されるのが怖くて、口には出せなかった問い。 それでもティナは、ずっとその場に佇んでいた。 まるで、その答えが返ってくるのを待つかのように、ずっとずっと…。 真っ白に染まる時の中、答えが返ってくることはないと、分かっていても。 |