伏せていた瞳を、ハルはゆっくりと持ち上げた。 目の前にあるのは、やはり穏やかなケイの寝顔。 それが死顔だとはとても思えないほどに、穏やかな…。
「…お前か?」
 自分でも驚くほど、隣に立っている男に問う声は、低かった。
「ケイを凍らせたのは、お前か?」
 問いかけた後に視線を遣ると、虚ろな目に出会った。 じっと、逸らさずにいると、男は小さな声で答えた。あっさりと。
「そうさ」
「シュウ!」
 何の躊躇いもなく頷いた男を非難するようなティナの声が、洞窟の中、反響する。
 それがおさまるのを、ハルは目を閉じて待った。 ティナの声が完全に消えた時には、ハルの中にあったシュウという精霊への激しい憎悪も、 僅かに和らいでいた。それでも、固く握りしめられた拳が解かれることはない。 強く握りしめすぎた所為で、爪が掌を刺すのを感じていた。けれど、さほど痛くもない。 寒さで感覚が麻痺してしまったのだろうか。 それとも、痛みすら感じぬほど、混乱しているのか…。 それにしてはいやに冷静に言葉を紡ぐ自分が、まるで自分ではないかのような感覚を、ハルは覚えずにはいられない。
「…何故だ? 何故、ケイを凍らせたんだ」
 それは、幼い頃から問うてきたことだった。
 何故、精霊は愛する人を凍らせるのか。
 祖父に、父母に、幼なじみに問うてきたこと。 そして、ようやく精霊本人の口から、その答えを聞くことが出来るのだ。
 ────全然、嬉しくも何ともない。
 幼い頃から、ずっと聞いてみたいことだった。 答えの欲しい問いだった。けれど、 まさか凍らされた妹を前に訊ねることになろうとは… 何故妹を凍らせたのかと訊ねることになろうとは、思ってもみなかった。
 思いたくもなかった。
 ───最低だ…!
  毒づかずにはいられなかった。
 そして精霊から与えられたその答えは、ハルの中、未だ燻っていた怒りを消し去ってはくれなかった。
「…愛しているからだ。それだけだよ」


『…とても、好きで好きで仕方がないからなのかもしれないね』
『絶対に離れていかないように、凍らせるんだ。
好きだから、だ』


 同じだった。精霊から返ってきた答えは、祖父と幼なじみが返してくれたものと同じだった。
 それは、望んでいた答えとは違っていたのだろう。 彼の口にした言葉にカッとなる自分がいたのだから。 ならば、どんな言葉を望んでいたのだ、と問われれば、ハルは沈黙するしかなかったけれど… 今はただ、その答えが許せなかった。感情のまま、声を荒げることしかできなかった。
「愛しているからだと!? ふざけるな!!! ケイの何を愛してるって言うんだ!」
 鋭くシュウを睨みつけた後、ハルは視線を落とした。その先にあるのは、自分によく似た、妹の顔。
「アイツ…笑ってたんだぞ」
 小さな声で、呟く。震える声で、聞かせる。
「お前と会えて幸せだって、笑ってたんだぞ」
 冬の森へ行くのだ、あの人に会いに行くのだと言って浮かべた笑み。 それが、どんなに幸せそうだったか…。 ケイがもう二度とあの微笑を浮かべることはないのだと思うと、 瞼裏に焼き付いているあの眩しい笑顔が遠ざかっていきそうで… ハルは、きつく目を閉じる。目の前にある穏やかな寝顔を、今は見たくなかった。
「…」
 震えるハルの後ろ姿を、ティナは黙って見つめていた。


寒さに震えるその背を、撫でてやること。

それは、自分には叶わない。



怒りに震えるその背を、宥めてやること。

それは、自分には叶わない。



悲しみに震えるその背を、慰めてやること。

…それも、自分には叶わない…。



叶わない。


今の彼にしてあげられることは、自分には何もない。


 また、涙が零れそうになった。


「…そうだ。幸せそうに、笑ってたんだ…。それを…その笑顔を奪っておいて、何が愛してるだ!!」
 ハルの声が、洞窟の中にこだまする。
 それは耳に響くよりも先に、シュウの胸に響いた。 否、突き刺さったという方が正しかったのかもしれない。
 今まで無表情だった彼の眉が、ひそめられる。 その辛そうな表情に、顔を伏せていたハルが気付くことはなかった。
「ホントにこれで満足なのか?」
 ハルの視線も、シュウのそれも、じっとケイに注がれている中で、 ティナだけが違うものを見ていた。ティナの視線の先にいるのは、ハル。 見えるのは、背中だけだったけれど、今は顔を見るより、背中を見ていたかった。 彼の悲しそうな顔は、見たくない。でも、それでも彼を見ていたかった。


「なあ、お前はコイツの何が好きだったんだ? 直接触れなくても感じられるぬくもりが好きだったんじゃないのか?」
 冷たい空気を縫って伝わってくるその温もりが。
 ───そう。好き。


「ケイから貰う言葉は、大切だったんじゃないのか?」
 好きな人からの言葉。それが、冬の冷たい空気の中で、どれだけ温かかったか。
 ───そう。


「自分に向けられる笑顔が好きだったんじゃないのか?」
 雪に反射する太陽の光よりも、ずっとずっと眩しくて、でも優しいその笑顔が好き。
 ───好き。


「それとも…、それともケイはお前にとって、 飾っておければそれで満足な、ただの人形だったのか!?」
 不意に向けられたハルの鋭い問いと視線に、しかしシュウはケイを見つめたままだった。 その顔には、何の感情も浮かばない。あの辛そうな表情も、いつの間にか消えていた。
「……」
 シュウは、答えない。
「何とか言えよ!!」
 ハルの鋭い視線の先で、シュウは緩慢たる仕種でケイの傍らに膝をつく。 冷たい氷を愛おしげ抱き、そして、彼は小さな声で答えた。


「────それでも僕は………綺麗だと、思うんだ。こうしておくことが、一番いいんだって」


「!!」
 その答えに、ハルはシュウに向かって手を伸ばしていた。 彼の胸ぐらを掴んで、一発殴ってやろうと思った。
 けれどハルがその目的を遂げることはなかった。 彼の手は、シュウの胸ぐらではなく、虚空を掴んだだけだった。
「……畜生ッ」
 シュウの目の前で握りしめた拳を、洞窟の壁に叩き付ける。 苔が散り、同時に、フワリと光が散った。
 向かってくる人間の手…否、消滅を目の前にしながらも、シュウは微動だにしなかった。 ケイを見つめたまま、まるでそれを待つかのように。
「…殴らないのかい?」
 静かな声音で、問う。目の前に、苔と共に光が降りてきた。 それと同時にハルの唇から零された言葉は、シュウの予想だにしないものだった。


「──お前が消えたら、ケイが独りぼっちになる…」


 拳を叩き付けた所為で、ボロボロと氷の上に落ちてしまった苔を見つめながら、ハルは言った。
「こんな淋しいところに、ケイを一人、置いておきたくないじゃないか…」
 苔がなくなった所為で、そこだけぽっかりと黒い穴を開けた壁を、ハルは撫でる。 その指先は、少し震えていた。その理由を、シュウは知らない。 ティナも知らない。もしかしたら、彼自身も知らないのかもしれない。
「オレも、いつかは死ぬ」
 その唐突な言葉に反応したのは、黙って彼の後ろ姿を見つめていたティナだった。
 人間は、死ぬ。必ず、自分たちよりも先に。


 ───イヤ!!


 改めて彼の口から知らされるその事実は、ティナをひどく怯えさせた。 そして心の奥底に芽生えた思いは…更に彼女を怯えさせる。
 いつかは死んでしまうのなら……
 その感情は、きっとシュウがケイに抱いていたものと同じ。


『いつかは、死んでしまうんだ。それなら、こうして凍らせて、綺麗なまま、 自分の側に置いておきたいと願うのは当然だろう?』


 ───イヤ…駄目!!


 恐怖に瞳を見開くティナにチラリと視線を遣ったシュウは、何も言わず 目を逸らす。その視界の隅で、ハルの唇が動くのを見た。
「だから、オレはいつまでもケイの側にはいられない。 オレが死んだら、ケイに会いに来るヤツはいなくなる」
 ───ケイが独りぼっちになる…。
 この場所を知る人間はハル一人だ。 村の人に言ったとしても、こんな森の奥深く―しかも精霊の棲む森を目の前にしたこの場所― にまで墓参りに来ようという人はいないだろう。
 何より、ハルにこの場所を誰かに教えることは出来なかった。 決して、このことをモリの耳に入れたくはなかったから。 彼に知られるくらいならばまだ、自分一人でケイの元を訪れる方を選ぶ。 毎日、モリに叱られながらもここを訪れる方を選ぶ。 だが、もし自分が…ここに訪れることの出来る唯一の人間が死んだら。
「ずっとずっと土に還ることもないケイの側にいられるのは…、 ケイを愛し続けられるのは、お前だけだ」
 小さな声で、彼は言った。
「───」
 再び硬く口を閉ざしたシュウに、今度はハルも無理に彼の口から答えを聞こうとはしなかった。
「だからオレはお前に触らない。お前を消さない」
 その言葉に、シュウはチラリとハルを見遣り、すぐ、俯く。 そんなシュウを見つめながら、なおもハルは言った。
「だからお前は、ケイの側にいてやってくれ。せめて、コイツを一人にしないでくれ…」
 愛する人が永遠に側にいてくれるのなら、ケイも喜ぶだろう。 一人、淋しい思いをしなくてもいいだろう。そう、思う。
 ケイがいなくなってからの二年間。何にも代え難い存在が消えてからの二年間。 モリや村の人たちが、何かとかまってくれもしたが、それでも拭いきれない孤独感に、 何度胸を潰されそうになったか…。何度、泣き出しそうになったか…。
 ───一人は嫌だ…!
 と。
 シュウを消さないと言った時、俯いた彼のその瞳に浮かんだ哀しい色。 その意味を、ハルは知っている。
 彼はきっと、消えてしまいたかったのだ。
 知っていた。気付いていたけれど、ハルはそれを許さなかった。


 ───だって、一人は淋しいじゃないか。


 だから、もう一度、言う。
「ケイの側にいてくれ」
 何故、彼が消えてしまいたいと望んだのか、それを完全に理解することは出来ないけれど、
「それが、ケイを凍らせた、お前の…役目だ」
 言い切る。
「…役目…か…」
 凍り付いたように動かなかった彼の唇が、自嘲の笑みを刻むのを見た後、ハルはケイに視線を移した。
 今にも起き出しそうなケイ。浮かべているのは、まさに寝顔。けれどそれは、まぎれもなく、死顔。 どうあっても、ケイが起き上がることはない。どんなに待っても…どんなに祈っても。決して、決して…。
「───お前が、一番辛いんじゃないのか?」
「…」
 ポツリと訊ねてきたハルに、シュウは視線を、彼の横顔に移す。
「ケイを凍らせて、一番辛いのはお前なんじゃないのか?」
 シュウの切ない瞳が自分に向けられていることを知りつつ、ハルはなおも言葉を紡ぐ。 それは彼を責めるためにではない。どちらかと言えば、彼を労るような…。
「こんな、今にも起き出しそうな顔をしているケイを前に、期待せずにはいられないんじゃないのか? ケイが目を覚ますかもしれない。いつか、笑いかけてくれるかもしれないって。 ケイが起きることは絶対にないってのは、お前が一番よく分かってるのに」
「───…」
「………もしかしたら、凍らされたケイより、 妹を亡くしたオレより、もっと辛いのは、お前なのかもしれないな…」
 ハルのその言葉に、シュウは瞳を閉じる。
「…勿論、僕はずっとケイの側に居続けるよ」
 僅かな逡巡の後、はっきりとシュウは言った。


「それが、僕の役目だ。そしてきっと、罰なんだ……」


 罰。


 ケイを凍らせ、側に置いておくことが、彼女に対する最高の愛の形だと思っていた。 そして、自分たちは、永遠を手に入れたのだと。
 そう。確かに手に入れたのは、二人で過ごす、永遠という時間。 けれどその中に、望んでいたものはなかった。
 彼女の笑顔、温もり、言葉、愛…。


 ───そう。何一つ。


 どんなに愛を伝えても、彼女はもう、答えてくれなくなった。 好きだと告げるたび、いつも浮かべていたあの恥ずかしそうな笑みを浮かべることもない。
「恥ずかしいこと言わないで」
 と、拗ねたように…だけど、どこか嬉しそうに言い返してくることも。
 頬を染めて、
「私もよ」
と、愛を囁き返してくれることも…。


 ───手に入れたケイとの永遠の中に、
  本当に欲しいものは、何一つなかった……


 総て、自分が氷の中に閉じこめてしまったのだ。
 愛しい愛しいあの人と一緒に。
 あの日、彼女を凍らせた氷は、同時に彼の歩みをも凍り付かせてしまっていた。
 愛する少女と共に歩いていくことを誓ったというのに、今では一歩も歩けない。 終わりの見えない道の途中で、ただ一人、彼は立ち尽くしている。 歩き出すことも、身を翻し道を戻ることも出来ない。 凍り付いてしまったこの足では、もう一歩も動けなかった。あの日から、一歩も…。
 ただひたすら氷の中で眠るケイを見つめているしかないのだ。 思い出の中の彼女を思うしかないのだ。
 彼女を凍らせてから、ずっとそうしてきた。そうする以外に、することなど何もなかったのだから。
 目の前に愛しい少女がいるにもかかわらず、触れることも叶わない。 穏やかに眠る彼女を前に、目覚めを願うことすら出来ない。 過去だけを見つめ、過ごすしかないのだ。終わりの見えない、永遠という時間を。
 未来などない。
 寄り添ってくれる人もいない。
 何もない。
 ケイと共に笑い合えたあの時が、何にも代え難いほど、 大切な時間だった。幸せな時間だった。
 あの幸せが永遠に続くことを願っていたのに……
 今は何もない。
 本当に…何もないのだ。
 総てだった。
 そう。きっと彼女は自分の総てだったのだ。
 だから彼女を凍らせた自分には、何も残らなかった。
 ───いや、残ったじゃないか。
 それは、孤独と、罪悪感と、行き場のなくなった、彼女への愛情。


 ───いらない! 僕はこんなものが欲しかったんじゃない!!


 いっそ、総て…何もかも残らなければ良かったのに。 苦しい思いも、悲しい思いも、ケイを凍らせてしまった愚かな自分も…何もかも、溶けてしまえば良かったのに…。


 ───溶けてしまえば良かったのに……!!


 悲しい精霊の叫びを聞く者はいない。


 ───…誰か、僕を溶かしてくれ…


 悲しい精霊の望みを聞き届ける者もいない。
 これを罰と言わずして、何と言えばいいのだろう。


 ───これは、罰。


「罰なんだ…」


 言って、氷を…いや、ケイを抱きしめるシュウを、ハルは黙って見つめていた。
 胸の中、未だに様々な感情が渦巻いている。
 それは妹を凍らせたこの男に対する激しい憎しみ。 妹を亡くした悲しみ。妹は生きているのだという儚い望みが砕かれた、その破片。 それはどれも、行き場をなくし、ハルの中を彷徨うばかり。 何処かに吐き出してしまいたい。 けれど、この渦巻く思いを、目の前で冷たい氷を抱く哀れな男にぶつけてみても仕方がない。 この男の仲間であるティナを、代わりに詰ってみても仕方がない。 この男と一緒に、ケイに縋り付いて泣いてみても仕方がない。
 ───もう、どうしようもないんだな。
 それらが辿る道はない。
 それらが行き着く場所がない。
 しんと静まりかえった空間の中、耐えきれなくなったティナの涙が、地におちる。 嗚咽を漏らさぬよう唇を噛みしめ、ティナは静かに泣いた。静寂を壊さぬよう。
 ただ、頬を離れ、透明な雫の結晶へと姿を変えた涙が、地に落ちるたび、 コツコツと音をたててしまうのだけは、どうしようもなかった。






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