Shamrock Squareへと続く通い慣れた道を、ハルは懸命に進んでいく。 雪の所為で足が思うように進まないのがもどかしい。
 それでも真っ直ぐに前を見つめ、進む。
 そうしてやっとで辿り着いたその場所に、しかしティナの姿はなかった。
「いない…」
 ここにいないとなると、ハルにティナと会う術はなかった。
「いるわけ、ないか…」
 よく考えてみれば当たり前のことだ。 あんなに酷いことを言われた上、それをろくに否定してもやれなかった自分のことを、彼女が待っているはずもない。

 ───もう、会えないかもしれない…。

 そう思った途端、胸に広がった喪失感は、彼のよく知ったものだった。
 それは、ケイが帰って来なくなったあの日から、胸の中に巣くっているものと同じ…。
 ぎゅっと唇を噛みしめ、胸の中に広がる不快な感覚に耐える。 と、ふと視線を遣った先、十字架の周りが、キラキラと光っていることに気付く。
「…ティナの涙?」
 十字架の前に、たくさんの涙の粒が転がっていた。
 ティナが、泣いていた跡。
 ケイの十字架の前で、泣いていたのだ。いったい何を思い泣いていたのだろう…。
「アレ?」
 涙の粒を眺めていたハルは、それが十字架の前から点々と何処かへ続いていることに気付く。 珍しく顔を見せた太陽に照らされ、涙の雫はキラキラと輝いている。 その輝きは広場を抜け、森の奥深くへと向かっていた。涙を流しながら、ティナは森の奥へと帰っていったのだろう。
 ───これを辿っていけば…
 これを辿っていけば、ティナの元へ行き着くことが出来るかもしれない。
 彼女に「泣くな」と、その言葉を伝えるために行くのだというのに、 どうか自分が辿り着くまでは涙を零していてくれと願ってしまう 自分に苦笑を浮かべながら、 ハルは涙の雫を辿って歩き始めた。




 ふらふらと宙を舞いながら、ティナは再びあの洞窟へと戻ってきていた。 しっかりと手中に収めていた指輪とチェーンに視線を遣る。 ハルからケイへの誕生日プレゼント。渡してあげたら、ケイは喜んでくれるだろうか。
「……」
 洞窟へと踏みだした足が、二歩目を踏み出す前に止まる。ティナは、洞窟に入ることを躊躇っている自分に気付く。
 怖かった。
 またあの美しい寝顔を見るのが怖かった。 氷の中で眠る彼女の姿こそが、自分たちが魔物だと罵られるその証だったから…。
 けれど、ここで立ち尽くしているわけにもいかない。 意を決し、ティナは狭い穴の中へと足を踏み入れた。 永遠にこの暗い道から出られなければいいのに…。 あの少女の元まで、辿り着かなければいいのに…。 そう思いながら。
 やがて、ティナの眼前に広がったのは、やはり先ほど見たのと同じ、淡い光の空間。
「あ」
 いや、同じだと思われていたその空間は、僅かにその姿を変えていた。 淡い光の空間は、あの少女の隣、そこに一人の青年を受け入れていた。 それは、この洞窟の主。
「シュウ…」
 小さな小さな声だった。けれど、洞窟内で反響したその声が、彼に届かないはずはない。 しかし、彼は振り返らなかった。少し長めの前髪から覗く彼の瞳は、 氷の中で眠る少女にだけ注がれていた。 前髪と同じく、顔の輪郭を覆う少し長めの髪は、彼の表情を隠している。 時折垣間見える瞳は虚ろで、美しい少女と虚ろな目をした青年のいるその空間は、どこか異様な雰囲気を漂わせていた。
「シュウ」
 今度は、もう少し大きな声で彼を呼ぶ。
 まだ、彼には届かない。
「…シュウ!」
「…」
 ようやく、彼は顔を上げた。その顔には、何の感情もない。 ゆっくりと彼がこちらに視線を向ける。 けれど、その瞳に映っているのがティナだということに、気付いているのかいないのか、よく分からない。 彼は無表情にティナを見つめていた。
「シュウ?」
 視線を動かしたきり、何の反応も示さないシュウに、ティナは再度その名を呼ぶ。
「……ああ、ティナか」
 訝しげな声に呼ばれ、ようやくシュウはそこにティナがいることを認めたようだった。 それと同時に、彼は僅かに眉根を寄せる。
 何故ここに?
 その表情は、そう問うていた。
 同時にゆっくりと立ち上がったシュウは、ティナの視線からケイを遠ざけるかのように、氷の塊の前に立った。
「何しに来たんだい?」
 抑揚のない声音で問うてきたシュウに、しかしティナは答えなかった。逆に、問い返す。
「その子でしょ、ケイって」
「…」
 シュウは、答えない。
「一昨年、知り合った人間がいるって、あたしに話してくれたよね? ケイって言う、可愛い女の子なんだって」
「…」
「その子なんでしょ?」
「…」
 じっとティナの瞳を見つめ返すシュウの口から、答えが返されることはない。それでも、ティナは訊ね続けた。
「ケイのことが大好きだって、言ってたよね? ケイも、シュウのこと好きだって言ってくれるんだって、シュウ、言ってたよね?」
「…」
「…お願い。これだけは答えて」
 どうあっても口を開くまいとしているかのようにだんまりを決め込んでいるシュウの元に駆け寄ると、 ティナはその瞳を間近に見上げて問った。
「…ケイを、凍らせたの?」
「…」
「あなたが、凍らせたの?」
「…他に誰がいる?」
「───」
 返ってくる答えは分かっていた。けれど、まさかこんな答え方をされるとは思ってもいなかった。
 ティナに返されたその言葉はまるで、当然だとでも言いたげな…。自分は当然のことをしたのだと。
 彼女の手から、氷付けの花が落ちていった。
「どうして…」
 茫然と呟くティナと、割れることなく地面に着地した花とを、シュウはどこか冷めた瞳で見つめていた。
「ねえ、どうして!? 好きだったんじゃないの? この子のこと、好きだったんじゃないの!?」
「…どうしてそんな当たり前のことを聞くんだい? 好きだったから、こうしたんだろ?」
「……」
 言葉が、出てこない。
 それでもティナは、必死で首を振った。
 好きだったから…凍らせた…?
 ───そんなの違う…!!
 シュウは、首を振るティナを、黙って見つめていた。 そして、ゆっくりと視線を氷の塊へと移す。 そこでは、愛しい人が眠っていた。それは、永遠の眠り。 老いることなく、朽ちることなく、そこにあり続ける永遠の眠り。
 愛しい少女と会うたび、いつも考えていたこと。
 ────自分は精霊。でも…
 彼女は、人間だ。永遠の命を授かっている自分とは違い、いつ死ぬか分からない。 それは明日かもしれないし、楽しく笑い合っている、今、この瞬間かもしれない。 確実なのは、必ず自分を置いて死んで逝くのだということ。
 けれど今、彼女は側にいてくれる。自分を置いて、何処かへ行ったりもしない。
 …手に入れたのは、永遠。


 ───誰が、何と言おうとも…。


「ティナ…」
 腰を屈め、ティナの手から地面へと落ちた花を拾い上げながら、シュウは静かな声音で話しかけた。
「自分の愛する人を、美しい姿のままでいさせたいと思うのは、当然のことなんじゃないのか?」
「だからって…だからって凍らせるなんて―」
「ティナ。お前だって、そうするよ」
 ティナの言葉を遮り、シュウは言い切った。
「この花…」
 言って、シュウは己の手中にある氷付けの花に視線を落とす。 自分と同様に花に視線を遣ったティナに、彼は言った。
「花弁を広げた、その綺麗な時のままにしておきたかったから、凍らせたんだろう?」
「…」
「同じだよ。凍らせたものが違うだけで…僕たちの考えは、みんな同じだよ」
「…そんな…」


「いつか君にも分かるよ。どうしようもなく愛しい人が出来たら、その時に…」


「……」
 どうしようもなく愛しい人が出来た時…。
 その時には、自分もその愛しい人を凍らせるのだろうか。 この、虚ろな目をした青年のように、愛する人を凍らせてしまうのだろうか。 それが、白い精霊である自分たちにとっては、当然のことなのだろうか…?
「分かんないよ…」
 自分には、分からない。
 大好きな人を、若い時、綺麗な時のままにしておきたいからといって、 その大好きな人を凍らせてしまうなんて。大好きな人を、自分の手で殺してしまうなんて…。
「何が分からないんだい? 何故、僕がケイを凍らせたか、か? …どうして分からないんだ? 簡単だ。愛しているから、だろ? それ以外に理由なんてない」
 ケイの側に寄っていきながら、シュウはティナに言う。 その口調は、何故ティナが分からないと言っているのかが、 自分には分からないのだと、そう言っているようだった。
「どんなに愛し合っていても、人間は死ぬ。いつかは、死んでしまうんだ。 それなら、こうして凍らせて、綺麗なまま、自分の側に置いておきたいと願うのは当然だろう?」
 愛しげにケイを包む氷を撫でながら、シュウは続ける。 その瞳にあるのは、どこか、狂気を秘めた光。
「ケイだって、きっとそう思ってる。いつか死ぬのなら、 今、僕に凍らされて、僕の側に居続ける方がいいって―」


「そう、ケイが言ったのか?」


「!?」
 洞窟内に響いたのは、低い声。
 突然背後から発せられたその声に、ティナは驚いて振り返る。
「……あ!」
 そこにいたのは、誰でもなく、やはり、ハルだった。
 血の気が引いていくその音を、ティナは聞いたような気がした。
 顔色を失うティナには目もくれず、ハルはシュウを見つめていた。 その表情は、何も映さない。怒りも、悲しみも、何も…。
「…」
 突然現れたその人間を、シュウは愕然と見つめていた。 その面差しが、彼の愛する少女と、よく似ていたから。
 そう言えば、兄がいるのだと、ケイは言っていた。きっと、彼がその兄なのだろう。
 ゆっくりと自分の方へ…いや、妹の方へと歩を進めるハルを、シュウは黙って見つめていた。 青ざめた顔をしているティナと、そんな彼女の横を、何の言葉もかけることなく通り過ぎるハル。 そして彼は、シュウにさえ声をかけなかった。
「ケイ…」
 震える声で、呼びかける。
 久し振りに会った妹は、穏やかな顔で眠っていた。 一昨年の冬、幸せだと言い、そのまま冬の森に消えていった、 あの時のままの姿で、眠っていた。
「ケイ」
 そっと、彼女を包む分厚い氷に手を這わせてみる。 手袋越しにも、その氷の冷たさが伝わってきた。
 ハルは、何を思ったか手袋を外し、氷を撫で始めた。 何度も何度も、指が凍えるのもかまわずに。
 そんな彼の様子を、シュウもティナも、黙って見つめていた。
 やがて、ハルは氷から手をはなす。赤くなった指に、もう感覚はなかった。 そうなるまで撫でたというのに、ケイを覆っている氷には、 少しも溶けたあとはない。溶ける気配を見せない氷。 それは、ティナが持っていた、あの氷付けの花のように…。
 冷たく凍えた指を握りしめ、ハルはただ立ち尽くしていた。
「ケイ」
 しばしの沈黙の後、彼は再び妹の名を呼ぶ。穏やかな表情で眠るケイに、そっと問いかける。
「…お前は今でも、幸せなのか?」
 それは、ずっと彼女に問いたかったこと。心の中で問い続けてきたこと。
 あの冬の日、幸せだと言って微笑んだケイ。 その言葉に、その笑顔に、自分も幸せを感じたあの日。
 そしてあの日、幸せだという言葉と笑みを残し、ケイは冬の森へと出掛けて行った。
 …それきり、帰って来なかった。
 ───何がいけなかったんだ…。
 ケイを冬の森へ行かせたことが?
 危ないからやめろと、たとえあの幸せそうな笑みを曇らせることになっても、 それでも冬の森へ行くのはやめろと、叱りつければ良かったのだろうか?
「オレは…」
 …信じていた。
 ケイは今でも、あの笑みを浮かべたまま、何処かで暮らしているのだと。
 冬の森で出会ったのだという愛しい人を愛し、愛され、幸せに暮らしているのだと。
 そして、いつか、ケイが帰って来ることを。
「心配かけてゴメンね」
 そう謝りながら、あの笑みをつれて、ケイが戻って来てくれることを…。


 ───オレは…信じてたんだ。


 だから、信じなかった。
 ケイが帰って来ないなんて。
 ケイが白い精霊に凍らされてしまったなんて。
 ――ケイが、死んだなんて…。






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