「モリ……モリ!」
「…」
 ティナの前から歩き出してから、モリは終始無言だった。
 ハルが声をかけても、振り返りもしない。
 そして、どんなにハルが暴れてみても、掴んだその腕を離そうとはしなかった。
「モリ、いい加減に放してくれ」
 この台詞を言うのは何度目だっただろうか。 ようやくその言葉が聞き入れられたのは、ハルの家に戻り、暖炉に暖められた部屋に入ってからだった。
 きっと、痣になっているだろう。しびれた腕をさすりながら、ハルはモリを睨む。
 モリはと言うと、未だに黙り込んだまま、ハルの視線を受け止めていた。
 視線をかわしたまま、しばし二人とも口を開かなかったが、 やがてその沈黙に耐えきれなくなったのは、ハルの方だった。
 視線をおとし、小さな声で問う。
「…何で、ティナを魔物だって決めつけるんだ」
 コートを脱ぎながら、モリはハルのその言葉を受け止める。 脱いだコートを暖炉の前のイスに掛け、ソファに腰を下ろしたモリは、静かに答えた。
「アイツらは、ケイを奪った。それだけで十分だろ」
「だから、何でケイが精霊に殺されたって思うんだよ」
 確かにケイは冬の森から帰って来なかった。けれど、それだけだ。 それだけで、全て精霊の所為だと決めつけてしまうのは、嫌だった。
「じゃあ、何でケイは見つからない?」
 静かな調子のまま、モリは逆に問い返してくる。
「ずっと俺たちは探してるのに、どうしてケイは見つからない? 雪の下に埋まってる体だって、春になれば出てくる。 それなのに、何でケイの…ケイの遺体は、出てこない? 魔物が凍り付けにして飾ってるからに決まってる」
「…何処か…、森を抜けて、何処かに行ったのかもしれないじゃないか」
「何故だ? 何故、俺たちに何も言わずに村を出ていくんだ? ケイがそんなヤツじゃないことは、お前が一番よく分かってるんじゃないのか?」
「…」
「ケイは、魔物に殺されたんだ。そうに決まってる」
 きっぱりと、モリは言った。それ以外に考えられることはない、と。
「……何でだよ」
「ハル?」
 ハルの口から零れたその言葉が震えている事に気付いたモリは、ソファに深く沈めていた体を起こす。 ハルの表情を窺おうとしたが、彼の長い髪が、それを拒んでいた。
「何で、そんなこと言うんだよ…!」
 そのあとに嗚咽が続いてもおかしくない程、彼の声は震えていた。
 思わず立ち上がったモリを制止するかのようにハルは俯いたまま、再び口を開いた。
「お前はそんなにケイに死んでて欲しいのか? ケイに凍り付けになってて欲しいのか!?」
「…」
 その言葉で、モリは全てを悟った。
 彼は、未だに信じているのだ。ケイは死んだわけではない。 白い精霊に凍らされたわけでも、冬の森で遭難してしまったわけでもなく、この世界の何処かで生きているのだと。 今もあの時のまま、幸せだと微笑みながら、生きているのだと…。 どんなにそれが希薄な願いであろうとも、彼は信じ続けているのだ。
 ケイは生きている。
 いつか、帰って来る。
 あの幸せそうな笑みをつれて、必ず帰って来る、と。
「……」
 それを、自分はいつも否定してきたのだ。 彼は懸命に信じようとしていたのに、「ケイは魔物に凍り付けにされたのだ」と、 自分はいつも否定してきたのだ。否定されるたび、彼はどんなに辛い思いをしてきたのだろうか…。
「何でだよ…。何でそんなこと言うんだよ…!」
 再び、彼は繰り返した。
 その様子が駄々をこねている子供のようで…。
「ハル…」
 たまらず、手を伸ばす。
「触るな!!」
 彼の髪に触れようとしていた手を、勢い良く払われる。 そして自分に向けられたその瞳はどんなに鋭いのかと思いきや…
「────」
 なんて頼りなげな…。
 彼を守っているつもりで、けれどこの瞳を曇らせているのが自分だと思うと、胸を抉られるようだった。
「…悪かった」
「…」
 モリの謝罪に、再びハルは視線を伏せた。
「俺が悪かった」
 再度謝罪を述べたモリに、いいんだと言葉で返す代わりに、ハルは小さく首を振った。
 それを認めたモリは、僅かに安堵した後、再び彼に手を伸ばす。 遠慮がちに伸ばされた手を、今度はハルも拒まなかった。
「座れよ、な?」
 肩を叩かれ、促されるまま、ソファに腰を下ろす。
 ハルがおとなしく座ったのを見届けてから、 モリは彼と向かい合うようにしてソファに腰を下ろした。
「そうだな。ケイが死んだと決めつけたのは、俺が悪かった。 …でもな、ハル。アイツらが人を凍らせてしまうのは事実だ」
「…」
 モリの言葉を、ハルも否定はしない。
 彼は実際に精霊に凍らされた人を知っている。 その人を見ている。しかもその人は、彼の祖母だった。
「そうだろう? だから俺は、お前がアイツと会うことが心配なんだ」
「ティナが、オレを凍らせるつもりだって言うのか?」
 睨みつけるようにしてハルはモリを見遣る。
 その瞳を見つめ返しながら、モリは諭すよう静かに言葉を紡いだ。
「…今はその気がないとしても、いつか、そうなるかもしれないだろ。 お前に惚れたら、ずっと側に置いておきたいと思うようになる。 俺たち人間だってそうだろう? 好きな人には側にいて欲しい、そう思うだろう? ただアイツらは、本当にそうするんだ。絶対に離れていかないように、凍らせるんだ」
「……好きなのに?」
「好きだから、だ」
 それは、幼い頃祖父にしたのと同じ質問だった。 返ってきた答えも、祖父が返してくれたものと、同じだった。
「仕方ないんだ。きっと俺たちとアイツらとでは、好きだっていう表現の仕方が違うんだ。 最愛の人は凍らせて側に置く。それが、アイツらなりの愛情なのかもしれない。仕方ない。考え方が違うんだ」
「…」
 俯いたまま何も答えないハルに、モリは溜息を洩らす。そして、再び繰り返して聞かせる。
「ハル…分かるだろ? 俺たちとアイツらとでは、考え方が違うんだ」
「…」
「ハル」
 困ったように呼びかけると、ようやくハルから返事が返ってきた。 それは、彼が望んでいる答えではなかったけれど。
「…疲れた」
 再び溜息を洩らした後、モリは肩を竦める。
 ハルも、きっと分かっている。けれど今は、意地でも頷きたくないのだろう。
「…そうか。そうだな。何か、温かいものでも淹れてきてやるよ」
 ハルが小さく頷くのを見てから、モリは席を立ち、部屋から姿を消した。
 唇から零れ落ちそうになった溜息をとどめるかのように、ハルは両手で顔を覆う。 それでも、溜息は指の隙間から零れた。
「分からない…」
 もう、何も分からない。

 何故、ケイは帰って来ないのか。
 何故、モリが精霊を魔物と罵るのか。
 何故、精霊は人を凍らせるのか。
 何故、何故、何故……

 一つだけ…一つだけ確かなことがある。


 ───ティナは、魔物なんかじゃない。


「行かなければ…」
 顔を覆っていた手を外し、ハルは顔を上げる。その瞼裏まなうらに映るのは、白い頬を伝う、綺麗な涙。
 ティナが、泣いていた。
「行かなければ」
 もう一度呟いて、立ち上がる。
 迷わず踏み出した一歩。だが、そのあとに続くのは、少し重い足取り。
 きっと、モリは怒るだろう。そんな思いが頭の隅をよぎったからだった。
「…ごめんな」
 小さな声で、詫びる。
 彼は本当にケイを愛していた。 最初は可愛い幼なじみであったケイを、いつの頃からだろうか、本当に愛していた。 二人になるたびに、どれほどケイが愛しいのかを延々と語ってくれた。 大切な妹と、大好きな幼なじみ。幸せになってくれればいいと、心から思っていた。
 今だってそうだ。ケイはいなくなってしまったけれど、モリには幸せでいて欲しいと願っている。
 同様に、彼も自分の幸せを願ってくれているのだ。
 事故で、一度に両親を失い、さらには妹まで失ったハルを、彼はとても心配してくれた。 ケイを失った時も、ケイを守れなかったのは自分の所為だと己を責め… そして、せめてハルのことだけはと、彼を守ろうとした。 それ故に、冬の森に行こうとするたびに心配して声をかけて来たり、何かにつけて構ってきたり…。
 そんな彼の思いを、ハルは知っている。ありがたくも思っている。
 そんな彼に心配をかけるのは忍びない。だが、それでも今は行かなくてはいけないのだ。
 行って、ティナに言わなければならない。
 ───もう泣くな。泣かなくてもいいんだ。
 と。

「ハルー。お前、コーヒー駄目だったよなー?」
 部屋の扉を肩で押し開け、モリが顔を覗かせた。 その手には、ティーポットがある。
「おい、ハルー?」
 答える声がない。一度扉の向こうに姿を消したモリは、ティーポットを置いて居間に戻ってきた。
「ハル!?」
 その表情は、強張っている。
「ハル? ハル!?」
 いない。
 そこに、ハルの姿はない。
 パチパチと燃える暖炉の薪だけが、モリの呼びかけに応えていた。






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