唐突に空気が止まったこと、彼の手が止まったことにティナが気付き瞼を持ち上げた時、 目の前には表情を硬くしたハルがいた。その瞳はティナを通り越して、何か別のものを見ていた。
「ハル!!」
 ティナが全てを悟ったのは、鋭い声で彼の名を呼んだ男の手が、ハルを自分の目の前から奪い去ってからだった。
「うッ、わ」
 思い切り引かれた腕と、足下に積もった雪とでバランスを崩し、ハルは雪の中へ倒れ込んでいた。
 突然現れた人間に驚いて、ティナが慌てて体を宙に浮かせ、彼らから離れる。
「い…ッ」
 雪の上に倒れたハルの腕を再び掴み、無理矢理引き起こしたのは誰でもなく、モリだった。
「おい、モリ…痛―」
 痛いから手を離せ。
 その言葉を、ハルは最後まで紡ぐことが出来なかった。
 睨むように見上げたモリのその表情は、彼の仏頂面を見慣れているはずのハルでさえ、一瞬怯むほどだったから。
 彼は憎しみを込めた瞳で、ティナを見つめていた。 彼にとってティナは、愛しいケイを奪った仇であり、 そして今は、幼なじみをも奪おうとしている魔物にしか見えていなかったのだろう。
 ティナをじっと見つめたまま、モリはハルに声をかける。
「ハル、コレは、何だ?」
「……」
 モリは知っている。けれど、聞いてくる。
 その口調には、何故白い魔物なんかと一緒にいるんだ、とハルを責める響きがあった。
「答えろ。何だ?」
 再び強く問うてきたモリに、ハルは小さな声で答えるのが精一杯だった。
「…精霊だ…」
 だが、その答えをモリは許さなかった。
「違うだろ。こいつは精霊じゃない。魔物だ」
「……精霊だ」
「魔物だ」

「違う。コイツは―」
「何が違うんだ!? コイツはケイを殺したヤツの仲間じゃないか! そうだろ!!?」
「……」
 燃えるような瞳をティナからハルに向けたモリは、木々の枝葉を震わせるほど、声を張り上げた。
 その剣幕に圧倒されたハルとティナは、ただ茫然と立ち尽くしていた。
 ハルの腕を掴んだモリの手は、僅かに震えていた。それは、力を込めすぎたからなのか。それとも…。
 モリは黙り込んでしまったハルから、視線をティナへと戻す。
「お前らが精霊であるものか! 俺とハルからケイを奪った魔物だ!!」
「モリ…!」
「お前は黙ってろ。さっさと消えろ、魔物!」
 ティナは、彼の言葉をただ受け止めていた。
 何も、言い返さなかった。否、言い返せない自分がいた。
「ケイだけでなく、コイツまで凍り付けにする気か!?」
「な…ッ、違う!」
 ハルを凍らせる気など全くない。
 それだけは、ティナも自信を持って答えることが出来る。 自分の愛する人を、氷付けにしたいなどと、いったい誰が望むだろうか。
「俺は騙されない! 魔物の言うことになど騙されるものか!!」
 ティナにそう言葉をぶつけたモリは、ハルの腕を掴んだまま歩き出す。
「ちょ、モリ!? 待てよ―」
「うるさい」
 行きたくないと抵抗するハルを、モリは有無を言わさず、半ば引きずるようにして歩を進める。
 それでも、ハルは必死に腕を取り戻そうとする。
「待てってば! ティナに謝れ。ティナは―」
「黙れ」
 視線を寄越すこともなく、ただ一刻も早く自分を魔物から引き離そうとする彼に、 もう何を言っても無駄だということを、ハルは悟った。
「ティナ…」
 モリからティナへと視線を戻したハルは、彼女の瞳から再び透明な雫が零れ落ちていくのを、 ただ見つめていることしかできなかった。
 心の中で囁いた「ごめんな」 は、彼女に伝わっただろうか。
 そして、「泣くな」。その言葉は…。
「…」
 遠ざかっていくハルの姿を、ティナは涙で滲んだ視界で追うことしかできなかった。
 何故、泣いているのだろうか?
 魔物と罵られたから? 否。
 分かっている。もう、彼に会えないかもしれない。だから、涙か出るのだ。
 完全にハルの姿が見えなくなった時には、彼女の瞳から涙は消えていた。 けれど、ティナの足下にはたくさんの涙の雫が、キラキラと切ない輝きを放っている。
 視線を落とし、しばしそれを眺めたあと、ティナは顔を上げた。 その瞳に、もう悲しい色はない。あるのは、強い光。それは何かを覚悟したような…。
 その光が鈍らない内に、ティナは宙を駆け始めた。 冷たい空気を切り、器用に木々を避けながら、ひたすら目的の場所を目指す。

 ───きっとそこに、ケイがいる。

 ひたすら宙を駆けていたティナが動きを止めた時、彼女の目の前には、土の壁があった。 断層だ。森を二つに分けるかのように、地面がそこから高く盛り上がり、まるで壁―と言っても、 それは簡単に乗り越えてしまえる程の高さでしかないが―のようになっている。 ここから先が、白い精霊達の棲む森。
 今度はその断層に沿って、ティナは駆け始める。
「確か、こっちだったはず…」
 靄のかかっていた記憶が、目的の場所に近づくにつれ、はっきりとその姿を現し始めていた。
 そう。
 人間の少女と仲良くなったのだと、嬉しそうに語っていた仲間がいた。
「シュウだった…」
 そして、その人間の名がケイというのだと、優しい瞳をして話して聞かせてくれた青年がいた。 それは、一昨年のこと。
 それからどうなった?
 彼は、どうした?
 彼女は、どうなった?
 その答えは、きっと目的の場所にある。
 ティナの記憶通り、断層沿いにしばらく行くと、彼女の目指していた場所が現れた。 それは、小さな洞窟。断層に、ぽっかりと開いた穴。 入り口こそ人一人通るのが精一杯の大きさではあったが、その中はとても広くなっていることを、 ティナは知っている。 そしてそこが、彼女の良く知っている仲間の住処になっていることも。
 ティナは迷わずその中に滑り込んだ。 狭い道を抜け、彼女を迎え入れたその空間は、光が注ぐ場所でもないのに、仄かに明るい。 洞窟独特の湿っぽさもない。だが、床を除くその岩肌には、びっしりと白い苔が生えていた。 いや、苔が白いわけではない。白く見えたのは、そして、ここが洞窟の中であるにもかかわらず、 仄かに明るかったのは、その苔が、ぼんやりと白い光を放っているからだった。
「シュウ!」
 周りを見回すよりも先に、その名を呼ぶ。この洞窟の主の名を。
 洞窟の中、ティナの声はワァ…ン、と響いただけで、それ以外に彼女の呼びかけに答えるものは何もなかった。
 何処かに出掛けているのだろうか。
 静まりかえった洞窟の中、ティナは恐る恐る視線を巡らせる。 その瞳に、探しているものが見つかりませんように…。そう、願いながら。
 だが…
「───」
 ティナは、そっと瞳を伏せた。
「やっぱり…」
 溜息と共に、震える声が漏れた。
 洞窟の奥、ひときわ明るい場所に、彼女の探していたものはあった。できれば見つけたくなかったもの。
 高鳴る胸が、煩い。
 頭が痛い。
 ゆっくり、ゆっくりと歩を進めたティナは、それを覗き込んだ。
 そこでは、一人の少女が眠っていた。
 肩に掛かるかかからないかの濡れ羽色の髪を広げ、眠る少女が。
「ケイ…」
 閉じた瞳を縁取る長い睫毛と、すっと通った鼻梁。赤く色づいた唇。 そのどれもが、ハルを思い起こさせる。それが、彼の妹、ケイである証。
 彼女は眠っていた。
 恐ろしいほどに、綺麗な寝顔。
「…ねえ、起きて」
 声をかけてみる。けれど、彼女は目覚めない。
 もう一度。
「ねえ、ケイ」


 ───目を覚まして。


 きっと、開いたその瞳も、あの人と同じ色をしているのだろう。
 見てみたい。


 ───だから、目を覚まして。


「ねえ、起きてよ」
 ケイの肩を揺すろうと伸ばしたティナの手は、けれど彼女には届かなかった。
 彼女の手を阻んだのは、分厚い氷。 それはまるで、何者にも彼女を触れさせまいとするかのように…分厚くて、冷たい氷。
 ケイは眠っていた。
 氷の中で、眠っていた。


『ケイは何処かで生きているかもしれないんだから。…いや、きっと生きてるんだ』


『俺とハルからケイを奪った魔物だ!!』


 ハルの切ない囁きと、モリの鋭い怒声とが、ティナの中を駆け巡る。
「……何で…」
 力無く、ティナは首を振った。何を否定しているのか、自分でも分からない。
 考えられることと言えば、


 ───これは現実じゃない。夢に違いない。


 しかし、どんなに否定してみても、事実はそこにあって…。
 見つけてしまった。自分で探し、見つけ出してしまったのだから…。
 ティナは、再び駆け出していた。
 何故、そうしたのかは分からない。けれど、もと来た道を、一目散に駆け出していた。
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめんなさい…!」
 唇から零れるのは、ひたすら許しを請う、震えた声。いったい誰に謝っているのか、分からない。
 ケイに?
 モリに?
 大好きなあの人に?
 …分からない。
 震える吐息が嗚咽に変わった頃、ティナはShamrock Squareにいた。そして、十字架の前にいた。
「ごめんなさい…」
 やはり、零れるのは涙に濡れた、許しを請う言葉。
 涙を流すたびに、「泣くな」と言ってくれたあの人は、彼女の見つけ出した現実を知っても、その言葉をくれるだろうか。
「ティナが謝ることはない」
 と、優しく笑ってくれるだろうか? それとも…
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
 十字架の前に、ティナは泣き崩れる。ポロポロと頬から零れ落ちた涙は、十字架の周りに光を散りばめていく。 涙を零しながら、ティナは氷付けの花をその手に取った。次に、十字架に掛けられているチェーンと指輪を。
 それは、ハルがケイに送った、誕生日プレゼント。
 ───せめて…、せめてこれをケイに届けてあげたい。
 しっかりと掌に収め、ティナは歩き始める。
 その道筋に、キラキラと光を零しながら。





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