「あ! ティナ、ちょっと隠れろ!!」
「え? え!?」 「いいから、早く!」 突然の命令に問い返す間もなく、ティナはハルに言われた通り、ふわりと体を浮かせ、木々の間に姿を隠す。 目をパチクリさせたまま、ティナは己の眼下にいるハルを見つめていた。 ハルはと言うと、自分が村からやってきた道を見つめている。 そのことに気付いたティナがそちらに視線を遣ると、 Shamrock Squareに向かってきている人間が、ハルの視線の先にいるのを見つける。 険しい表情をした人間。ティナはますますその身を、常緑の木々の間に隠した。 チラリと横目で、ティナが彼から見えないところに隠れたのを確認したあと、 ハルは眉根に皺を寄せて自分を睨んでいる青年に視線を戻した。言わずもがな、 「モリ…」 である。 「…どうしたんだ? モリ。ケイの墓参りか?」 わざと明るく声をかけてみると、彼の眉根の皺が一本増えたようだった。 と同時に、無言のまま肩を掴まれた。 「ハル…」 低い声。 「…;」 こんな時、彼には何を言っても無駄だということはよく分かっていた。 当たり前だ。 もうケイの所へは行くなと釘を差された昨日の今日でここに来たのだ。 しかも、彼の目を盗むようにして、玄関からではなく、裏口からこっそりと出てきたのだから。 ───絶ッッ対に怒られる。 しおらしく反省したように視線を伏せて見せたハルに、だがモリは険しい表情を解いたりはしなかった。 「ハル、お前…」 そこで言葉を切ったモリは、視線を巡らせた。 そのモリの仕種に、ハルもティナもドキッとする。 「お前、一人だったか?」 「…一人じゃなかったら、誰といたって?」 一人だったに決まっているだろうと言うハルに、モリは険しい表情のまま、再び口を開いた。 「…昨日お前の言っていた、ティナっていう魔物じゃないだろうな」 「だから、オレ一人だって言ってるだろう?」 「…魔物じゃ、ないんだな?」 「違うって言ってるじゃないか!」 ついに声を荒げたハルに、モリはそれ以上の問いを諦めたようだった。 ようやく眉根の皺を解く。 「そうか」 そうだと答える代わりに、モリを睨みつけてやる。 その視線を受け止め、モリは小さく息を吐いた。 溜息をつきたいのは自分の方だと、ハルは思った。 「もう、帰るか?」 「まだ帰らない」 モリの問いに、素っ気なく返す。 今日はモリも、彼を無理矢理引っ張って帰ることはしなかった。 そうかと頷いただけで、ハルに背を向け、もと来た道を戻り始めた。 そんなあまりにも潔い彼の行動を少々訝しく思いつつも、ハルはホッと安堵の溜息を洩らす。 が、突然彼が歩みを止めたことに気付いたハルは、どうしたと声をかける。 「早く帰って来いよ」 「……分かってる」 もう放っておいてくれ、とは言えなかった。 溜息混じりにそう返すのが、精一杯だった。 今度こそモリは彼に背を向け、森の中に姿を消していった。 「はぁ」 唇から零れ落ちたのは、溜息だった。 他に、唇に何を乗せればいいのか分からなかった。 毎度毎度世話を焼いてくる彼への、もういい加減にしてくれ、という罵りとも違う。 こうして自分のことを異様に心配するようになってしまった彼に対する、憐れみの言葉でも良かったのかもしれない。 もう一度溜息を零したあと、ハルは隠れているティナに声をかけた。 「ティナ、もういいぞ」 少し不安げに瞳を揺らしながら姿を現したティナに、ハルは優しく微笑んで見せる。 「悪かったな。急に隠れろなんて」 いいんだと、ティナは首を振って見せたあと、青年の去って行った方へ視線を遣る。 「ああ、あいつか?」 誰だろうとティナが疑問に思うのも当然のことだろう。 ハルは苦笑混じりに彼のことについて話し始めた。 「あいつはモリ。オレの幼なじみだよ。アイツの方が三つ年上でさ、ホント兄貴ぶって困る。心配性なんだ、アイツは」 「……あの人、あたしたちのこと、嫌いなの?」 彼の言う魔物が自分たちであることを、ティナは知っていた。 ティナの問いに、ハルは少し困ったような表情をする。 「アイツは、冬の森が怖いんだ」 すぐにはティナの問いに答えようとはせず、ハルは静かな調子で言った。 「怖い?」 「ああ。ケイを…亡くしたから…」 「ケイ…」 その名には聞きおぼえがあった。確かハルが口にしていた…… いや、それ以前に、誰かがその名を口にしていた記憶がある。 あれは、いったい誰だっただろうか? 「この墓の主だよ」 ハルは、十字架に視線を落として言った。 「コイツな、一昨年の冬にいなくなったんだ。この森に行ったきり…帰って来なかった。 今でも、何処にいるのか分からない。 だから、この十字架の下に、ケイはいないんだ。 もしかしたら、こんなもの必要ないのかもしれない…ケイは何処かで生きているかもしれないんだから。 …いや、きっと生きてるんだ」 ティナに聞かせていると言うよりも、それは、彼が自分自身に言い聞かせているようだった。 「一昨年…」 ティナの中に、嫌な感じが充満していく。 ───もしかしたら、そのケイという人を知っているかもしれない。 「モリは、ずっとケイが好きだったんだ」 薄い微笑を浮かべて、ハルは言った。 その言葉にティナは、胸の内に巣くう嫌な予感よりも、もっともっと大きな不安を覚えていた。 そして、 「あなたは?」 思わずそう訊ねていた。ずっと聞きたかったこと。 彼が優しい目をして十字架を見つめるたびに、聞いてみたかったこと。 「あなたも、ケイのこと好きだったの?」 ティナの問いに、ハルは口許に笑みを刻んで言った。 「好きだったよ。何にかえても、守りたかった…」 彼の浮かべた、何処か寂しげな微笑を見つめ、ティナは彼の言葉を何も言わずに受け止めていた。 その瞳が、ハルの浮かべた微笑と同じ、切ない光を浮かべていたとは、露ほども知らず。 僅かに表情を曇らせたティナに、ハルはいつも通りの微笑みを向けた。 ティナがそんな顔をする必要はないんだと、そう言うように。 そんな彼の微笑みに、ティナはますます表情を曇らせる。 ───違う。 ケイを亡くしてしまったハルの心中を察して悲しくなったんじゃない。 ケイという女の人のことを、本当に愛おしそうに語っていたハルを思いだして、悲しくなっただけ…。 彼のあの瞳が、ケイという人だけを思っていたんだと思うと、悲しくなっただけなのに。 これは…? この感情は? ────嫉妬? 「ケイはな、オレの妹にしてはできすぎた子だったよ」 足下の雪を手袋で掬い、虚空に放り投げながらハルは言った。 その表情は僅かにだが、明るさを取り戻していた。 彼のその仕種より、表情よりも何よりも、ティナは彼の口にした言葉に目を瞠る。 「……妹?」 「そう、妹。オレの、唯一の家族だったんだ」 ティナは気付いていた。ケイという人が妹であったと聞いた瞬間に、自分が安堵の溜息をついていたことに。 そしてそれが、いったい何を意味するのかということにも…。 ───あたしは、あなたが…… 「アイツはすごくしっかりした子でさ、コートも着ずに外に遊びに行くオレをいつも叱ってたよ。 風邪ひくでしょ? って。母親みたいなやつだった。モリは父親だな。 アイツ、オレより三つ年上なだけのくせして、何かと煩かったからな〜。今はもっと煩いな」 語りながら、ハルはずっと空を見上げていた。 そこには、彼の放り投げた雪が、キラキラと舞っていた。 それを目を細めて見つめながら、彼はティナに聞かせる。 「一昨年の冬、アイツ、オレやモリに何も言わずに森に行くようになったんだ。 アイツはしっかりしたヤツだったから、オレもモリもさして心配しなかった。でも…」 そこで言葉を切ったハルに、ティナは小さな声で訊ねた。 「…帰って、来なかったの?」 「ああ。帰って来なかった」 あっさりと、ハルは頷いて見せた。 ティナはというと、僅かに眉根を寄せていた。 口許に手を当てて、何かを考えているようだった。 「…ケイ…一昨年の、冬…」 小さな声で、繰り返す。 聞いたことがある。このケイという名を。 いつ? それは彼女が消えたというその年に。 何処で? あれは‥確か… ───自分は、もしかしたら、彼女を知っているかもしれない。 ハルは再び足下に積もった雪を、宙へと放り投げる。 サラサラの雪は、しばしの間飛行を楽しんだあと、ハルの元へと戻ってきた。 「何があったのかは、オレにも分からない。でも、モリは白い精霊に凍らされたんだって言って聞かないんだ」 「…」 「だからアイツは、オレをこの森に行かせたくないらしい。 いつも監視してる。ははは。ホント、オレは箱入り息子かっての」 ティナの方を振り返ったハルの顔には、苦笑が浮いていた。 「…ケイはさ、いつも森に行く時、とても幸せそうな顔をしてたんだ。 幸せだよって、オレに言ったこともある。冬の森は危ないけど、だからオレは止めなかった。でも…」 彼がきつく唇を噛みしめたのを、ティナは大きな瞳で見つめていた。 彼の優しい笑顔が好き。 彼の、自分を責めるような表情は、見たくない。 でも、そうさせているのはもしかしたら… 「ティナ?」 困惑したように名を呼ばれて初めて、ティナは己の頬を伝うものの存在に気付く。 いつの間にか、瞳から涙が溢れていた。 その涙が、妹を失った彼へのものでも、冬の森に消えていったケイへのものでもないことが、 ティナの瞳からますます涙を零れさせることになった。 自分は、ケイを知っているかもしれない。きっと、彼女が何処へ行ったのかも、知っている。 そして、それを彼に知られた時、彼はいったいどうするだろう。 あの、幼なじみのように、自分たちを魔物と罵るだろうか。 自分のことを、嫌いになってしまうのだろうか…。 それを思うと、涙が出た。 まったくもって自分勝手なことを考えている自分が最低で、それでまた、涙が出た。 滑らかな頬を伝っていった涙は、太陽の光を反射させ、消えることなくそこにあった。 気温が低いからではない。 彼女の涙は、特別だった。 「キレイだな…」 ハルは、ティナの足下に落ちている涙の雫を見て微笑む。 ゆっくりとティナの方に寄っていったハルは、雪の上に転がっているガラスのような涙を手に取った。 ティナの瞳から零れ落ちた涙は、彼女の頬を離れた瞬間、石に変わった。 いや、正確には石ではないのかもしれなかったけれど、ハルが掌に乗せたそれは、石のように硬かった。 そしてそれは、ケイの墓に供えられている花を覆っていた氷によく似ていた。 一つ、また一つと彼女の足下に増えていく涙の雫を見つめ、ハルは苦笑する。 「ティナ、もう泣くな」 腰をかがめ、頭一つ分は背の低いティナの瞳を覗き込む。 「涙はキレイだけど…泣くな」 優しい瞳を、ティナはただ見つめ返していた。優しい声を、ただ聞いていた。 それだけで、不思議と涙は止まった。 胸の中を渦巻いていた嫌な予感が薄れる。 それでも消えてくれないのは、きっともう、それは予感ではない。確信だったから…。 「よしよし、泣きやんだな」 手の甲で涙を拭ったティナを見て、ハルは満足そうに微笑むと、何を思ったか、 手袋を外しティナに向かって手を伸ばした。 「…」 近付いてくるハルの手を、ティナは黙って見つめていた。 『人間のぬくもりは、あたしたちには熱すぎるから』 そう言ったのは自分。近付いてくる彼の手を避けようとしないのも自分。 ───消えても…いいの? ───…いいの…。 そっと瞳を閉じたティナの頭の上で、ハルは手を止めた。 「よしよし」 そして、彼女の頭を撫でるように、ティナの頭の上の空気を、撫でる。 優しく。何度も、何度も…。 「…」 冷たい空気の中で、ひときわ彼の手のぬくもりは、温かく感じられた。 直に触れられたわけでもないのに、冷たい空気を通して感じられる彼のぬくもりは、確かにティナを慰めてくれた。 ティナは、それを目を閉じたまま感じていた。 優しい優しいぬくもり。 ───このぬくもりになら、溶けてしまってもかまわない…。 |