昨夜から降り続いた雪は、完全に森を白く染めあげていた。
完全な冬の装いまで、あと少し。 「来ちゃった…」 誰にともなく少女―ティナは呟く。 雪に溶け込むような白い肌に、暖かなハニーブロンド。ふっくらとした頬はピンク色。 真っ白なワンピースを纏い、 そこから伸びた足は、地面を踏みしめることなくふわりと宙に浮いている。 白い精霊。 人間は彼女らをそう呼んでいた。 頬と同じくピンク色の唇から零れた呟きを聞くのは、白い粉雪達。 彼女の呟きに答えるかのようにヒラヒラと彼女の周りを舞う。 ティナは今日も森の広場−Shamrock Squareに来ていた。 春になると、そこは一面シロツメクサで覆われた広場に変わる。 だから、シロツメクサの広場−Shamrock Square。 だが、今そのシロツメクサの変わりに広場を埋めているのは、白い白い雪。 彼女の足下では、雪を纏った十字架がひっそりと立っている。 昨日までは誰のものかも分からなかった十字架。 けれど、その十字架が、そこで誰かが眠っているのだということを示しているのは知っていた。だから、 時々花を供えていた。 昨日もそうだ。冬の訪れにも負けず美しく咲き誇る花を見つけたので、 供えてあげようと思い、この広場に来たのだった。 そして、人間と出会った。 ハルという名の少年。 彼が、ティナが出会った、初めての人間だった。 驚いた。 仲間達から聞いていた人間と、彼はまるで違っていた。 仲間達は皆、人間はとても残忍な生き物で、 自分たちを魔物と罵り、嫌っているのだと言っていた。 それなのに、彼は、 『ありがとな』 そう言って、とても優しい顔で笑った。 自分が白い精霊だと知っても魔物だと罵ることなく、それどころか、 『オレ、精霊に会うのって初めてなんだよな』 そう言って、とても嬉しそうに笑ったのだ。 驚いた。とにかく驚いた。 優しい笑顔。 とても優しい人。 だから、頷いてしまった。 『また明日も来るのか?』 その問いに、頷いてしまった。 すると、彼はまたあの笑顔を浮かべて言った。 『そっか。じゃあ、オレも来るな♪』 その言葉を信じてここに来てしまった自分が、正直信じられない。 昨日まで人間は怖い生き物だと思っていた。 一生出会うことなどなければいいと。 それなのに、今は自ら人間に会いに来ているのだ。 「変なの…」 彼が? 自分が? ───きっと、あたし。 ティナは手に持っていた氷付けの花を、十字架の側にそっと供えた。 十字架には繊細な銀の鎖と、それに通された銀の指輪がかけられてあった。 昨日、彼がかけて行ったものだ。 誕生日プレゼントなのだと、彼は言っていた。 彼は、あの墓で眠る人の縁者なのだろう。 「・・・なんて言ったかな?」 十字架に刻まれているこのKEI≠ニいう印が、 ここで眠っている人の名前だと教えてくれた。 いったい何と言っていただろうか。 思い出すのは、彼の表情だけ。 とても優しい目をして、この人のことを語ってくれた。 その人が女の人だということは分かった。 けれど、彼といったいどんな関係の人だったのかは知らない。 ティナがもう一度十字架に目を遣った時だった。 「ティナ」 突然背中にかけられた声に、ティナは飛び上がる。 今の今まで思いを巡らせていたその人、ハルの声であったのだから、なおさら驚いた。 本当に文字通り、彼女はその体を宙に浮かせ振り返る。 そこにいたのは、やはりハルだった。 昨日はマフラーをしてこなかったことを失敗したと愚痴っていたが、 今日はしっかりとマフラーを首に巻きつけている。 長い髪の毛は一つに結ばれていた。 それをみて、ティナは少しがっかりする。 自分のものとは違う、濡れ羽色の髪が揺れるのを見ているのが、好きだったから。 「よう♪」 陽気に片手をあげて見せたハルは、 昨日よりもさらに降り積もっている雪を踏みしめ、 十字架の傍までやって来た。 そして、十字架の下の花が増えていることに気付き、 宙に浮いたままのティナを見上げた。 「ありがとな。こいつも喜ぶよ」 そうして向けられた笑みは昨日と同じ、とても優しくて…。胸の中に、温かくて、 けれどどこかくすぐったいような感覚が広がっていくのを、ティナは感じていた。 どういたしましての変わりにブンブンと首を振ったティナは、更に体を浮かせた。と、 「いッ、いったァ───い!」 頭上にあった木に頭をぶつけ、慌てて地に降りる。 勢い良く浮いた所為で、したたかに打ち付けた頭を抱え、涙ぐむ。 「ははは。大丈夫か?」 おっちょこちょいだなと笑いながら、 ハルは頭を抱えたまま座り込んでしまったティナに寄り、手を伸ばす。 「あ!」 「え?」 頭を撫でてやろうと思っていたハルは、 突然自分の手を避けるようにして飛んでいったティナに目を丸くする。 「ティナ?」 「あ。ご、ごめんなさい」 驚いている彼に、ティナは慌てて謝る。 「触っちゃダメなの」 「触っちゃ駄目?」 ティナの言葉が足りなかったのだろう。 訝しげに眉を寄せ、ハルは首を傾げている。 「えっと…あの…」 言って良いものかどうか迷っていたティナがその結論を出すよりも早く、 ハルが「もしかして…」と口を開いた。 「やっぱり、凍るのか?」 今度はティナが首を傾げる番だった。 「え?」 「白い精霊に触れられた人間は凍るって…」 人間の間ではそんな噂があったのかと少し驚きながら、 ティナは左右に首を振って見せた。 「違うのか?」 「うん。逆なの」 「逆?」 「あたしたちは人間に触られたら、溶けちゃうの」 ティナの言葉に、ハルは一瞬言葉を失う。 「……溶ける?」 気がつくと、意味もなく問い返していた。 「うん。溶けるの。人間のぬくもりは、あたしたちには熱すぎるから」 「そっか」 「うん。ゴメンね」 辛そうに視線を落とし謝るティナに、ハルは明るく笑って見せる。 「ティナが謝ることは何もないぞ。でも…」 「でも?」 不意に言葉を切ったハルに、ティナが不安げに彼を見遣ると… 「どうしたの?」 彼は可笑しそうに笑っていた。 そして、ティナを指差す。 「デコから、血ィ出てるぞ」 慌てて額にやった手には、確かに赤いものが付いていた。 「あッ、ホントだ! ヤだ、痛い〜」 今の今まで自分が怪我をしていることにすら気付いていなかったティナが、 血が出ているのを知った途端に痛い痛いと騒ぎ出したのが可笑しかったらしく、 ハルは楽しそうに笑っている。 それを見たティナは、自分が笑われていることへの恥ずかしさよりも、 彼が笑っているということ…彼の笑顔が見られたということを喜んでいる自分に気がついていた。 「大丈夫か?」 笑いがおさまったところで、ハルはティナに問う。 少し枝がかすった程度の擦り傷だ。 何ともないだろうとは思いつつ、一応訊ねてみる。 「うん。大丈夫!」 案の定、ティナからは元気の良い返事が返ってきた。 そして更に、彼女は驚くべきことを言ってのけた。 「どんな怪我しても、死なないんだしネ」 「…死なない?」 驚いたように問い返してきたハルを、ティナも驚いたように見つめ返す。 「そうだよ? え? 変?」 「いや、変じゃないけど…変なのか? ん? あれ?」 当然でしょ? とでも言いたげに問い返されたハルは、一瞬混乱する。 そんなハルを見て、ティナは気付いた。 「…そっか。人間はそうじゃないんだよね」 ティナの言葉に、ハルは頷いて見せた。 「そう。人間は……簡単に死ぬからな」 ゆっくりと移された視線の先にあったのは、あの十字架だった。 「あ、ごめんなさい!」 彼が彼女のことを思い出してしまったのだということに気付いたティナは、 慌てて謝る。深く頭を下げた拍子に、ハニーブロンドの髪が揺れた。 「何で謝るんだよ」 ケイを思い出させてしまったことに謝っているのだと分かっているくせに、彼は言う。 「ティナが謝ることなんて何もないだろ」 そして、微笑む。 優しい笑顔。優しい人。 とてもとても優しい…。 「そうだ、ティナ」 「え? あ、な、何?」 ぼ〜っと彼の顔を見つめていたティナは、そんな自分に気付いて僅かに頬を染める。 だが、そんなティナにかまうことなく、ハルは真剣な眼差しを彼女に向けていた。 「人間に触られたら溶けるって言ってたよな?」 「うん」 「それは、どうなんだ?」 「え?」 「それは、死ぬのとは違うのか?」 ハルの問いに、ティナは細い指を口許に当て、考え込む。 今まで考えたことがなかったのだ。 この森で生きていく上で、ティナは死というものを知らない。 周りにいる仲間達はずっと変わらずそこにいた。 どんなに時を経ても、そこにいた。 彼女が知る死は、枯れていく花であったり、 寒さに絶えられずに倒れる動物であったり…。 死というものが自分たちに関係してくるなどということは考えてもみなかったのだ。 生きているものには、必ず死が訪れるのだと、誰かが言っていた。それは、 自分たちも同様なのかもしれない。 そして、体にどんな傷を負っても死ぬことのない自分たちにとって、死とは… 「…そうかもしれない。あたしたちにとって溶けることは、唯一、死ぬことなのかもしれない…」 「ティナ」 「…なァに?」 考え込んでいたティナの意識は、ハルの声で現実に戻ってきた。 彼に視線を遣ると、彼はまだ、真剣な瞳をしていた。 「絶対に、オレに触るなよ」 「…」 「オレも、絶対に触らないから」 ここにきてようやくティナは、自分のしたことの愚かさを知った。 そして、同時に疑問に思う。 何故、自分は彼に、教えてしまったのだろうか。 人間に触れられれば、自分たちは消えてしまう。 言うなれば、これは自分たちの弱点だ。 このことを、自分たちを憎む人間に知られてしまったら、大変なことになるだろう。 それなのに、自分は彼に言ってしまった。 あの時、白い精霊に触れれば人間は凍るのかと彼が問うたあの時に、 そうだと頷いてしまえば良かったのだ。 そうすれば人間に自分たちの弱点を知られることもなく、かつ、 人間に触られることも避けられたのだ。 それなのに、何故自分は正直に本当のことを話してしまったのだろうか。彼に…。 ───ああ、そっか。 彼だから、だ。 そう。 きっと、ハルだったから言ったのだ。 彼に、嘘はつけない。 つきたくない。 「いいな、ティナ。絶対、触るなよ」 「うん!」 ハルの言葉に、ティナは笑顔で頷いて見せた。 思えば、いつも彼に笑顔を見せてもらってばかりだった自分が、 彼に笑顔を見せたのは、これが初てのことだったかもしれない。 …いつの間にか、雪がやんでいた。 相変わらず空は、灰色の雲をその腕に抱いていたけれど。 |