寒さを防ぐ為、やたらと分厚く作られている扉を押し開けると、外気より幾分温かな空気に迎えられる。暖炉のおかげだ。
 この村では、冬になると暖炉の火が絶やされることはない。そうしなければ、冬を越すことが出来ないのだ。 ハルの家でも同様に火が絶やされることはない。
「ただいまー」
 返事はないと分かっているのに、ついそう口にしてしまったあと、ハルは苦笑を浮かべる。
 この家で彼の帰りを待つ者は、もういない。
 かつてこの家には、四人の人間が住んでいた。
 仲の良い夫婦と、元気な子供たち。
 村を見下ろすかのようにそびえ立つ山から氷を切り出し、その氷を街に売りに行くことで生計を立て、 子供たちを養ってくれていた父母。 厳しい冬の寒さの中、彼らを暖めてくれていたのは赤い炎を灯す暖炉と、 そして、限りない愛情を注いでくれていた父母だった。その優しさは、ぬくもりは、本当にかけがえのないものだった。
 かけがえのないものだったのに…
 突然、彼ら兄妹からをそれを奪っていったのは、雪崩だった。
 十年前。
 ハルが六つになってすぐの事だった。
 春が訪れ、いつも通り氷を切り出しに山へと向かった父母を、雪崩が襲ったのだ。 白い巨大な波は、一瞬にして彼らから庇護者を…大切な者を攫っていった。
 そして、ハルに唯一残された妹も、二年前、消えた。
 それが、ケイ。
 あの日から、彼を冬の厳しい寒さから守ってくれるのは、暖炉の火だけになってしまった。
 ハルは、一人になった。
「…」
 明かりの灯っていない部屋の中は薄暗かったが、暖炉の火が部屋の中を仄かに照らしている。 その光景は、とても穏やかだった。
 彼が家に戻ってきたのは、日も暮れかけた頃。
 その手には、十字架に供えられていたものと同じ、氷付けの花がある。 それは、ティナと名乗ったあの白い精霊から貰ったものだった。 暖かい部屋の中に入っても、それは溶ける気配を見せないでいる。
 そんな氷付けの花を、部屋の入り口にある棚の上にそっと置くと、ハルは暖炉の側による。 手袋をしていていても、やはり寒さは指を凍り付かせていた。
 冷たくなった指を暖めながら、ハルは不意に首を傾げた。 暖炉にくべられた薪が、彼が家を出た時とほとんど変わりがないことに気付いたのだ。
「あれ?何でだ?」
 と、再度彼が首を傾げた時だった。
「やっと帰ったか」
「ぅわッ!!」
 突然背後からかけられた声に、ハルは飛び上がる。
 振り返るとそこには、呆れた顔をしたモリがいた。もっと早くに気付け、と言いたそうな顔だ。
「な、何だ、いたのか」
「ずいぶんとお早いお帰りじゃないか、ハル」
「……」
 嫌味ったらしいモリの言葉に言い返そうかとも思ったが、思いとどまる。
『大丈夫だ。すぐ戻ってくるさ』
 そう言ったのは事実だったから。
 彼の嫌味には答えず、ハルは精一杯爽やかな笑みを浮かべて言った。
「ありがとな、モリ。薪、くべといてくれたのか」
「誤魔化すな。こんなに遅くまで何やってたんだ?」
「……」
 ハルの笑みを一蹴し、ズバリ訊ねてきたモリ。
 まさか、
「白い精霊に会ったんだ〜v」
 なんてことは口が裂けても言えない。 そんなことを言おうものなら、本当に明日から外出禁止をくらうかもしれない。 彼に外出禁止を言い渡す権限などないのだが、このモリという男は 平気でやってのけるだろう。 現に今、不法侵入だってやってのけている。 それも一度や二度ではない。いくら幼なじみ同士でも、 声をかけることもなく、勝手に人の家に上がり込むのはいかがなものか。
 思い返せば、そのことについて謝りもせず、逆に詰問を始めるような男だ。 彼ならば人の自由を奪うことだってさくっとやってのけるだろう。
「……別に。ぼ〜っとしてただけだ」
 とりあえず、無難な答えを口にしておく。
「…」
「……;」
 ちくちくと突き刺さるモリの視線が痛い。
「…じゃあ、アレは何だ?」
「アレ?」
 モリが指差した方に視線を遣ったハルは、
 しまった──────────────ッッッ!!!
 と、心中で絶叫する。
 彼が指差していたのは、ティナから貰った氷付けの花だった。
 ガラスの花だと言ってしまえばいい。けれど、モリはそれでは納得しないだろう。 彼は自分がこの部屋に入ってきてから今までの一部始終を見ているのだ。 自分がそれを外から持って帰って来たことだって知っている。 それさえなければ、「前からあったじゃないか」で済ませられるのだが…。
 買ってきた。と答えれば「何処でだ?」と聞かれるだろう。 貰ったのだと答えれば「誰にだ?」と返ってくるのは必至。 この小さな村の中で店は限られてくる。同様に人も、だ。 彼ならば村中の店に、そして村の人、一人一人に聞いて回るかもしれない。 いや、聞いて回るに決まっている。
 ダラダラと冷や汗を流すハルをよそに、モリはハルが棚の上に置いた氷付けの花の側に寄っていく。
「何だ?コレは」
 ガラスよりももっと透明なそれに、モリは訝って眉を寄せる。 そして手に取ったそれは、とても冷たかった。 外から持ち込んだから、というわけではない冷たさ。
 途端にモリの表情が険しくなるのを見て、ハルは逃げ出したい衝動にかられる。 が、この部屋を出るには、入り口の棚の側にいるモリの横をすり抜けなければならない。 モリが凍り付けの花に気を取られている隙に、音もなくスタートダッシュをかまし、 マッハで彼の隣をすり抜ければ何とかなる…!
 ───…無理だ。
「ハル」
 低い声で呼ばれ、ハルは一歩後ずさる。
 思い切って、窓から逃げようか…。
「コレは何だ?…いや、コレを何処で手に入れたんだ?」
「………ひ…」
「何だ?」
「……拾っ−」
「嘘付け」
「…;」
 即行、否定される。しかも、皆まで言わせてももらえなかった。
 氷付けの花を棚の上に戻し、モリはハルの方にじりじりと寄ってくる。
「…まさか、魔物に会ったりはしてないだろうな」
 ハルの前まで来ると、モリは強い口調で問う。 その瞳からは、怒りさえ窺える。それはハルに対するものではなく、彼の言う魔物…白い精霊に対してで…。
 そんな彼に、本当のことなど言えるはずがない。が、
「……あ、会ってない」
「会ったんだな」
 睨みつけるようなモリの視線から目を逸らしながらでは、説得力も何もない。
 決めつけるように言ったモリに、ハルももう誤魔化すことをやめる。 何を言っても彼は信じてくれないだろうし、白い精霊に会ったのは事実だ。
「……会った。だけど、ティナは魔物なんかじゃない」
 真っ直ぐに自分を見つめてくるハルのその言葉に、モリは驚いたように目を瞠る。 それは、ハルが正直に、魔物と会ったのだと認めたことに対してではなかった。
「魔物じゃない、だと?」
 精霊を魔物ではないと、そういったことに対して、だ。
 信じられないと目を瞠るモリに、けれどハルは繰り返す。
「……魔物じゃない」
 低く険しい声音で問われても、ハルは彼の瞳を真っ直ぐに見つめたまま答える。
 そのハルの答えに、モリはついに声を荒げた。
「お前は忘れたのか!? ケイがあの魔物に殺されたんだってことを!!」
「…そうと決まったわけじゃないだろ」
「じゃあ、何故…何故ケイは帰って来ないんだ!?」
「───ッ」
 高ぶった感情のまま、相手の腕を掴んだモリは、掴まれた腕の痛みに眉を寄せたハルに、 すぐさま落ち着きを取り戻し、彼の腕を解放する。
「…すまん」
「いや、大丈夫だ」
 沈黙が落ちる。
 暖炉で燃えるパチパチという薪の音が、いやに大きく響いていた。
「…ハル」
 沈黙を破ったモリの声は小さくて…そして、僅かに震えているようだった。
「…なに?」
 その理由を、彼は知っている。モリが何を恐れているのか、彼は知っている。モリが何を言うのかも、知っている。
 きっと…
「もう行くな」
「───」
 ───やっぱり。
 もう行くな。たとえケイの所へ行くためであっても、あの森には行くな。 もう、白い精霊には会うな、と。
 彼は恐れている。ハルがケイと同じように冬の森から帰ってこなくなることを。
「いいな。行くな」
 ハルの肩に両手を置き、その瞳を間近に見つめながら、モリはもう一度言った。
 だが、その言葉にハルは頷かなかった。首を振りもしなかった。 ただ、真っ直ぐモリに向けていた瞳を、そっと伏せただけだった。
「じゃあな」
 瞳を伏せたハルの仕種を肯定ととったのか、モリは彼の肩から手を外し、小さな声で別れを告げると、部屋から出て行った。
 ハルは、彼が家の外に出るのを待ってから溜息を洩らす。
 ずっと伏せていた瞳を、ゆっくりと上げる。 そのまま視線を巡らせ、やがて辿り着いた窓の外の風景は、白一色に染まっていた。
 彼の大好きな、雪の白に…。







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