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ふと瞼を持ち上げれば、世界は朝。 火群様のお言葉に甘えて先に床についたのだが、いつ夢に落ちたのか、覚えていない。 冷たい布団に一人横になったその時には、いつも隣にあるはずの温もりがないことに多少の寂しさを覚えたのだけれど、それも一瞬のことだったらしい。 天井から隣へと視線を遣れば、そこには火群様の姿があった。 火群様が隣に入ってきたのも覚えていない。 「・・・・」 いつの間にか見慣れてしまった、火群様の寝顔。 こうして朝目が覚めれば、火群様が隣に居る。 その事実が、すっかり辺り前の光景になっていた。 ここに来るまでは、一人ぼっちだったのに。 固い布団で目覚めても、隣は誰もいない。母は早くに他界したし、父は知らない。兄弟もなく、他人の中で一人ぼっちで生きてきた。温もりを分け与えてくれる人なんて、居なかった。 それが、今は。 「・・・・・」 何て幸せなんだろう、と思う。 勿論、火群様と血が繋がっているわけではないけれど、それでも同じ屋根の下で生活を共にし、一緒に食卓を囲み、こうして寒い夜には温もりを与えてくれる。 思わず零れた息は、幸せな溜息。 火群様を起こさないよう、そっと体を起こす。 穏やかな朝は、そこで終わった。 「─────ッッ!!!」 体を起こし視線を巡らせれば、そこにあったのは、巨大な目玉。 辛うじて悲鳴を堪えたのは、眠っている火群様を起こさないためと、目の前においでの後神様を気遣ってのこと。 私を起こそうとしておられたのか、単に覗き込んでおられただけなのか、目覚めの直後に黒い髪の毛に覆われた巨大な一つの目玉を至近距離で見せつけられた私の心の臓は、極限までに大きな鼓動を刻んでいる。我ながらよくぞ悲鳴を堪えることが出来たものだと、自分をほめたい気分だった。 そう言えば、お隣に床を用意させていただいたのだった。 「う、う、う、後神様。おはようございます 」嫌な高鳴りを訴えている心臓を抑えながら、何とか朝のご挨拶をした私に、後神様はご機嫌なご様子で僅かに垣間見えた口元を弓形に変えた。 「おう、花嫁。良い朝じゃ」 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ええ、本当に 」あまり両手を挙げて賛同いたしかねるのだけれど、後神様の気分を害してはならないと、何とか首を縦に振った所で、不意に隣で声がした。そして、まるで私の心中を代弁するかのような台詞が、後神様に投げかけられた。 「朝っぱらから辛気くさい顔見せるなよ」 驚いて振り向けば、私が悲鳴を堪えた甲斐もなく目を覚ましてしまったらしい火群様が、不機嫌そうな顔で布団の上に半身を起こしていた。 そんな火群様に構うことなく、後神様が不意に窓の外を細い指で示す。 「おい、天狗。下に人間が来ておるぞ」 「あァ??」 「え?」 面倒そうに眉をひそめる火群様と、誰だろうと目を瞬かせた私の耳に、寝屋の外から丈爺様の声が響いてきた。 「若 ! 人の子が来ておりますよ!!」どうやら後神様の仰ることは本当のことであったらしい。 「仕方ねーなァ」 ボリボリと頭を掻き、火群様は寝乱れた夜着の前を簡単に整えられてから、バサリと黒い翼を広げた。どうやら様子を見に行かれるらしい。 だが、火群様が不意に私へと視線を向け、 「・・・来るか?」 そう声をかけてくれた。 誰が来たのだろうか。もしかして、椿さまではないだろうか。 そんな疑問を顔に出してしまっていたのだろう。 「はい!」 気遣って訊ねてくださった火群様に甘えて、私は首を縦に振り、彼の差し出してくれた手に掴まり、立ち上がる。 「妾も───」 自分も行きたいと仰っていたのだろう後神様を完全に無視して、火群様は窓から飛び出してしまっていた。 僅かに翼を羽ばたかせ、ゆっくりとご神木の根元にある祠まで下りて行く。 朝の風は、未だ肌に冷たい。 太陽も完全には姿を現しきっておらず、空は僅かに青色を混じらせている時分。こんな時間に、誰が、何故、かような場所までやって来たというのだろうか。 「あの女は・・・」 私よりも先に祠の前にいる者の姿を、火群様の瞳は捉えたようだった。驚いたように呟き、落下に任せていた体を止めた。 どうやら火群様の知っている女性がそこにいるらしいことを察し、慌てて視線を祠へと向ける。 そこには確かに女性らしき者が立っていた。 ただ、私の視力ではその女性の顔を見取ることは出来ない。 それでも、私は安堵の溜息を零していた。 遠目でも、そこに立っているのが椿さまではないことが分かったから。 バサバサと羽音が聞こえてきて視線を遣れば、丈爺様が近付いてきた。その視線はやはり祠の前の女性へと向けられている。 そこに居るのが誰なのか、丈爺様も既に知っているらしい。 「若。あのおなご・・」 「ああ。だな」 私一人が首を傾げていると、火群様は再びゆっくりと祠へ向けて下り始めた。女性に気付かれぬよう、祠とは反対のご神木の幹を沿って降下していく。 天狗である火群様が人間の瞳に映ることはないけれど、ただの人間である私はそうはいかない。それを気遣ってくださったらしい。 そして、根元から人二人分は高さがあるだろうか。そこで火群様は降下を止めた。そして、ご神木の幹にぽっかりと空いた穴へと私を押し込む。足音を立てぬよう注意しながら、ご神木の幹の中にある階段を下り、祠の中へと足を踏み入れる。 そこには、先客がいた。 置いてけぼりをくらっていたはずの後神様がそこには既に居た。 (は、早い・・っ!!) どうやって下りて来たのだろう。あの恐ろしい数の階段を転がって落ちるのが一番の方法であるように思われたが、それを実行した痕跡はない。転がり落ちたのならば、今頃は血だらけになっているだろうけれど、何処にもお怪我はないご様子。 どうやってと気になって仕方がなかったのだけれど、それを察したのか後神様が「しーっ」と口元に指をあて、祠の外を指さした。 火群様と共に足音を立てぬようと祠の外がうかがえる格子窓へと寄り、そっと外を見遣れば、 「あ。あの人は・・!」 そこに居たのは、私も知っている女性だった。 跪くことも、手を合わせることもなく、ただただ立ち尽くしていたのは、先日、火群様に連れて行ってもらった村で見た、あの女性。夫が見守る前で、元気な赤子を生んだ、あの年若い母親だった。 今は、その手に子供の姿はない。 「・・・何故?」 何のために一人祠の前で顔を俯かせ佇んでいるのか、その理由が私には分からない。 願いを告げるわけでもなく、恨み言を吐くわけでもなく、ただただ、そこに立ち尽くしている。 その理由を教えてくれたのは、火群様の肩に止まっていた、丈爺様だった。 「藤、祠の扉の前、見てみぃ」 「はい」 言われたとおりに見遣れば、 「あれは・・」 そこには、産着にくるまれすやすやと寝息を立てている赤ん坊が居た。 おそらく、この人の子供なのだろう。 母親は、じっとその子を見つめている。唇を真一文字に引き結び、細められた瞳で、じっと見つめている。 赤子の姿を見ても、私にはまだ分からなかった。 この母親が何のために此処を訪れたのか。 その理由が分かったのは、 「え!?」 「何と・・・っ!」 私と丈爺様が声を上げる。 くるりと、母親が踵を返したその時になって、私は初めてその女性が此処を訪れた理由を知った。 「捨てに来たのか」 丈爺様の言葉に、私は己の考えが合っていることを知らされる。 戦の準備のため、村が困窮していたのは知っている。赤子の誕生に、 これからどう生活していけば良いのかと思案に暮れていたあの赤子の父親と祖母の顔も知っている。無事に子を産んだ母の、けれど悲しい顔も知っている。 それでも、望まれて生まれてきた子。 貧しくても、どうあっても頑張って育てていくのだろうと、単純にそう思っていた。 だって、自分の子供なのだから。 何にも代え難いほど、大切な存在なのだから。 「それなのに、駄目なの・・・?」 一人、子を捨てに来た母親。 夫に言われたのだろうか。姑に言われたのだろうか。それとも、自分一人で決めて、やって来たのだろうか。 自分たちでは育てられないから、天狗様に託しに───? 何て、辛い。 辛い、世界。 祠を飛び出して行って、その人を振り向かせたい衝動を、必死に堪える。 そうして、沈黙の後、私の鼓膜を震わせたのは、母親の掠れた声。 「───ごめんね」 祠に背を向け、震える声で詫びる母親の肩が、震えている。 泣きながら、覚悟を決めたのだ。 そうして、一歩、足を踏み出す。 「あっ!」 思わず声を上げた私の肩を、ぐっと火群様が掴んで止めた。 何故止めるのですかと火群様を見遣った私に、火群様は黙ったまま、持ち上げた指を振った。 不意に巻き起こった風が、赤子の頬に吹き付ける。 赤子が目を覚ました。 そして、大きな声で、泣き始めた。 「──────」 その声に、祠から離れようとしていた母親の足が、止まる。けれど、振り返ってくれない。 「お願い・・!」 私は胸の前で手を合わせる。祈ることしか出来ない。 どうか、頑張って泣いて。お母さんを、振り向かせて。 赤子の泣き声だけが、響いている。それでも、彼女は、 「─── ごめんなさい」 「──── !」 もう一歩、歩みを進めた。 お母さんが、居なくなる───! あの子が、一人ぼっちになる───! 気付けば、私は祈りの手を解き、隣で私と同様にただ母子を見守っている後神様のお着物の袖を掴んでいた。神様に対して無礼であることは百も承知で、私はその裾を引く。 「! 後神様!!」 「な、何だ、花嫁?」 驚いたように私を見る後神様に構うことなく、私は今度は火群様に止められる前に、祠の扉を押し開き、 「お早く!!」 掴んでいた後神様を、女性の方へと突き飛ばしていた。 「なっ!!」 「藤!?」 驚きに声を上げたのは、突き飛ばされた後神様と、隣に立っている火群様。丈爺様も目をぱちくりとさせている。 それに構うことなく、私の方を振り返っている後神様に、伝えた。声を出せば女性に気付かれてしまう。唇だけを動かし、そして、肩にかかっている己の髪を引っ張る。 引いてください! 彼女の髪を。 私の声のない言葉とその動作で、後神様は察したようだった。 女の方を振り返ると、 「ごめんね」 再度詫びの言葉を口にし、歩み出した女の後ろ髪を、 「それ!!」 思いっきり、後神様が引いた。 「!!」 途端に女は立ち止まる。そして、 「・・・・・」 ゆっくりと、赤子を振り返った。 まるで自分を呼んでいるかのように激しく泣いている、子。 「─────」 女の目から、大粒の涙が零れ落ちた。 「お願いです!」 どうかそのまま、戻ってきて!! 祈る私の声に続いたのは、 「仕方ねーな」 火群様。その声が 、 「戻れ、女」 祠の中から、母親へと呼びかける。 「え・・!」 突然祠から響いてきた声に、女が涙に濡れた瞳を瞠る。 それに構うことなく、火群様は告げた。 それは、天狗神の御言葉。 「手放すな。それが、最善の選択。幸運を授ける」 その言葉に、丈爺様が祠から飛び出して行った。そして、 「カー」 一声鳴いて、赤子の額を嘴で付く。嘴が離れたそこには、小さな黒子が生まれていた。 それを見遣り目を瞬く女に、再び火群様が厳かに告げた。 「二度と、幸運の子を手放すな」 幸運を授けたのだから、手放すな、と。 「は、はい・・!!」 ぼろぼろと涙を零し、女が転ぶような勢いで赤子に駆け寄り、その体を抱きしめる。 「良かった」 私は、知っている。 幸運を授けられたから、手に抱いたのではない。ただ、最後の一押しを火群様がしてくださっただけ。 子を強く抱きしめる腕が、とめどなく流れる涙が、それを物語る。 ひとしきり泣いた母親は、よろよろと立ち上がる。その両の手に、しっかり赤子を抱きしめ、そして、深々と祠へと頭を垂れた。 「ありがとうございます。ありがとうございます、ありがとうございます!!」 何度も何度も礼を述べて、母子は祠に背を向け、ゆっくりと歩き出した。 黙って母子を見つめている後神様の横を通りすぎ、やがて、山の緑の中へと消えていった。赤子の元気な泣き声だけが、いつまでも耳に残っていた。 「良かった・・」 安堵の溜息が零れる。 私のように此処で幸せになる者もいるだろう。けれど、あの子には母親がいる。父親もいる。居るのならば、共に幸せになるのが、一番だと思うのだ。 どんなに苦しくても、貧しくても、辛くても、私が生きていたのは母が側に居てくれたから。居てくれるだけで、良かったのだから。きっと其れは、死んだ母にとっても同じことだったのだと、思っている。 あの母子も、そうであって欲しい。 いつまでも母子を見送る私の隣に、私が乱暴に扱った所為で乱れた着物を直しながら、後神様が戻ってくる。そうして改めて、私は神様にした無礼な振る舞いを思い出す。 疫病神とはいえ神様と名の付く妖怪をむんずと掴み、力一杯突き飛ばしたのだ。 「後神様! あの、すみませんでした! つい・・。あの、でも、ありがとうございました!! 本当に!!」 ついうっかりでは到底済まされることではないのだが。 大きく頭を下げた私に後神様が向けたのは、お怒りの言葉でも、いつもの大号泣でもなかった。 「ふむ。これは、初めてだ。礼を言われるとは・・・」 もう見えなくなった母子の方をじっと見つめたまま、後神様はそう呟いた。 これまでは、人間の後ろ髪を引いてはその人間を大いに悩ませ、そしてご自身もそうして人間を悩ませることしかできない自分の性を憂えていた後神様。 初めて髪を引いて礼を言われたのだと、髪を引かれた者が晴れ晴れとした顔で歩いていくその背を初めてみたのだと告げる後神様の横顔も、どこか晴れ晴れとしている。 どうやら神様を引っ掴んで突き飛ばしたことについては不問になるらしい。 密かにほっとしていると、祠の階段に座りながら、火群様がニッと笑って言った。 「おい、後神。珍しく良い仕事したんじゃねーの?」 「うむ。そうじゃな」 ご機嫌なご様子の後神様に、火群様は「現金なヤツ」と笑っている。そんな彼にも、私は頭を下げた。 「火群様」 「ん?」 「ありがとうございました。丈爺様も」 あの母親を振り返らせたのは後神様。そして、赤子を抱き上げる最後の一歩を導いてくれたのは、火群様。 ありがとうございましたと礼を言った私に、最初は何のことだか分からないと首を傾げていた火群様だったが、すぐに思い当たったらしく、ひらひらと手を振りながら答えた。 「別にオレは何もしてねーよ。幸運を授ける力なんて、オレにはないし。ただ、黒子くっつけてやっただけだ。ああすれば天狗様のお印だなんだって、あの子が捨てられることはもうねーだろ」 あの母親が自ら子を捨てに来たのか、それとも家族に言われて子を捨てに来たのかは分からない。だが、天狗神から幸福を授けられたのだとすれば、どちらにしろ、胸を張って家に帰ることが出来るに違いない。 優しい火群様は、きっとそこまで考えてくださっていたに違いない。 「本当に、ありがとうございました」 後神様に、火群様に、丈爺様に丁寧に頭を下げる。 あんな時、天狗神様がどうするのか、私は知らない。可哀相な子を拾って育ててやるのか、捨てておくのかは分からないけれど、私が口を挟んで良いことではなかったはずだ。だって、あの子を託されたのは私ではなく火群様だったのだから。勝手に口を挟んでしまった私。そしてそれを許してくださった火群様。 感謝の意は、どんなに言葉にしても足りないくらい。 「もう良い、藤。たまには善行もせねば、若はただの駄天狗のままじゃからの」 「何だと、爺。オレのどこが駄天狗だ、おい 」「そうしてすぐ怒る所じゃ、天狗よ」 「うるせー。黙ってろ、鬱神」 そうして騒ぐ間に、すっかりお天道様は山から顔を出していた。 あの母子は、もう山を下りた頃だろうか。 「・・もう、泣き止んだよね」 あの赤子。 今頃はきっと母の腕の中ですやすやと眠っているに違いない。 良い夢を見てねと、そう祈らずにはいられなかった。 |