未だ僅かに冷たさを纏ったままの風が、寝起きの肌に心地よい。
 大事そうに赤子を腕に抱いて村へと帰っていった母親の小さな足跡を、何ともなしに見つめていると、黙って隣に立っていた火群様が、ぽんと私の肩を叩いた。
「藤、戻るか」
 気付けば、朝焼けもいつの間にかその姿を消し、空はすっかり青色へと変じ切っていた。
 母子を見送ってから、しばしの間佇んでいた私に、火群様も、そして丈爺様も後神様も、黙って付き合ってくださっていたらしい。
 母子の後ろ姿を見送りながら、馳せたのは様々な思い。
 母と暮らした村での侘びしいけれども、それでも幸せだったあの日々のこと。
 母と死別し、大きなお屋敷でひたすら体を縮めて生きていた窮屈なあの頃のこと。
 向けられた椿さまの優しい笑みと、熱い想いを込めたあの瞳のこと。
 そうして、天狗様と出会い、今、ここに居る、己のこと。
 苦しい生活に子を手放すことを考えた母親と、それを必死で繋ぎ止めた赤子の涙のこと。
 困窮した村の現状を目の当たりにして痛む心と、その痛みによって気付かされるのは、思ったよりもあの村を愛しているらしい自分の心。
 どうか、幸せであって欲しいと願うのは、あの母子だけでなく、椿さまだけでなく、村の人々、皆。
 椿さまも、お屋敷の旦那様も奥様も、私たち母子を恐ろしく見つめていた村の人たちも、みんな幸せであって欲しいと願っている。
 忘れたわけではない。あの冷たい瞳を忘れることは出来ない。
 けれど、それでも村の幸せを祈ることが出来るのは、きっと今、私が、幸せだから。
 此処に生き、幸せだと感じることが出来ている。だから、そういう風に思うことが出来るのだ。
 それはただの余裕ある者の驕りなのかも知れないけれど、それでも人の不幸せを祈るより、幸せを祈る方が良い。
 そうして祈ることが出来ることを、心の底から有り難いと思う。
「ありがとうございます」
 知らず、声にしていた。今、ここにこうして居ることが出来ることへの思いを。
 唐突な私の言葉に、隣に立つ火群様が首を傾げたのが分かった。
「いえ。戻りましょうか」
 何でもないのですと答え、火群様に向き直る。
 その彼の肩の向こうに、山から顔を覗かせた太陽が見えた。
「よし、行くぞ」
「はい」
 いつも通り、伸ばされた手に素直に甘えることにした、その時だった。一足早く翼を羽ばたかせ空へと体を浮かせていた丈爺様が声を上げる。
「若! また人の子じゃ!」
「あァ?? またか」
 村からの参道を指さしながら鳴いた丈爺様に、火群様は私へと伸ばしていた手を下ろし、あからさまに嫌そうな顔でそちらへと視線を向けた。
「藤、祠に入ってろ」
 火群様に背を押されるがままに、祠へと足を踏み入れた私を止めたのは、
「待て、藤! あのおなごじゃ!」
「え?」
丈爺様の声。
 あのおなご、と言われて思い浮かぶのは、ただ一人。
「椿さま?」
 私が参道を振り返るのと、そこに彼女が姿を見せたのとは、ほぼ同時。
藤貴ふじたか!!」
「椿さま」
 椿さまが祠の前にいる私の姿を見て足を速める。
「何だ? またあの娘か」
 一体何をしに来たのだと不機嫌な顔のまま腕を組んで立っている火群様に、一瞬椿さまは表情をこわばらせる。
 どうやら今日もまた火群様は、椿さまにご自身のお姿を見せているらしい。
 恐る恐る火群様の前を通り過ぎ、椿さまが私の前へとやって来る。
 火群様のお隣に居る後神様のお姿は、椿さまには見えていないようだった。
 私の前までやって来た椿さまは、しばし沈黙した後、くるりと首を巡らせ、火群様を振り返った。
「天狗様。少し、貴方の藤貴とお話をしても?」
 椿さまの問いに、火群様は腕を組んだまま、ただ頷いて見せる。そんな火群様に小さく頭を下げた後、椿さまは改めて私に向き直った。
「藤貴。私、一晩ずっと考えていたの」
 そう言って真っ直ぐに私を見上げる椿さまの瞳は、その言葉の通り一晩中寝ずに何事かを考えておられたのだろう、赤く充血していた。
 親の決めた相手と結婚しなくてはならないのだと憤っていた瞳。
 私のことを想っていたのだと告げてくれた熱い瞳。
 その想いと、彼女は語らなかったけれど、困窮した村を抱える村主の一人娘としての葛藤とに揺れていた瞳が、今は、揺らぐことなく私を真っ直ぐに見つめている。
「藤貴。私、決めたわ」
 その先の答えが、私には分かっていた。
 彼女は、自分の考えを曲げることの大嫌いな人だったけれど、それでも、大好きな村を思いやることを忘れることの出来ない心優しい人だということを知っていたから。
 彼女が、その薄紅色の唇に乗せたのは、
「私、嫁ぐわ」
「・・・・」
 迷うことなく告げられた、彼女の選んだ答え。その答えに、どんな言葉を返せば良いのか、一瞬、迷った。
 まず浮かんで来たのは、「すみません」という謝罪の言葉。
 彼女と添い遂げることが出来ず、彼女の願いを叶えることが出来ないことへの謝罪。彼女はあの村で唯一私に温もりをくれた人だった。大好きな人だった。それでも、私はその人よりも此の場所を選んでしまった。
 だから、そのことを、詫びたいとまず思った。
 けれど、その言葉を必死で堪える。
 きっと、違うと思ったから。
 彼女が望んでいる言葉は、それではないと思ったから。
 迷った末に、
「どうか、お幸せに。椿さま」
 その言葉を、選んだ。
 彼女と自分が添い遂げることは出来ないけれど、それでも、自分ではない誰かと共に幸せになって欲しい。
 自分勝手だけれど、そう願っている。
 私の言葉に、椿さまは大きく頷いてくれた。
「ええ。幸せになるわ」
「はい」
 彼女が浮かべた笑みは、とても明るくて、強い。
 迷いのない瞳に、私も微笑みを返す。
「大好きよ。藤」
 不意に告げられたその言葉にも、彼女の瞳は少しも揺れていなかったから、
「はい。私もです、椿さま」
 素直に、伝えることができた。
 私の答えに満足したように椿さまは笑った。そして、いつも彼女が浮かべていた悪戯っ子のような瞳で私をじっと見つめる。
「でも、私よりも天狗様の方が好きなのよね」
「はい」
 素直に首を縦に振った私に、椿さまは大きな溜息と共に言った。
「それじゃあ、振られてあげなくてはね」
 冗談めかして肩を竦めた椿さまは、不意に火群様を振り返り、そして笑いながら言った。
「私の旦那様は、天狗様ほど美丈夫ではないけれど、天狗様に負けないくらいお優しい方みたい」
 そうして、再び私に向き直る。
「仕方がないから、あの方で我慢するわ。私も、藤貴みたいに幸せにしてもらうんだから」
 そうして笑った椿さまに、私も笑みを零す。
 仕方がないから、などと言いながらも、瞳の奥に優しさを秘めている椿さま。
 とんだ天の邪鬼な台詞。
「負けないんだからね、藤貴」
 私の方が幸せにしてもらうのだからと笑った椿さま。それが私に、お転婆過ぎるとみんなから心配そうな目を向けられていた、幼い頃の彼女の姿を思い起こさせた。
 あの頃と変わらない。
 けれど、変わっていく。
 それを少し寂しいと思ったけれど、今は笑顔を曇らせてはならない。彼女が、変わることを決めたのだから。もう揺らがないと、強い瞳で笑って見せてくれたのだから。
「はい。お式、見に行きます」
「ええ。綺麗すぎて、惜しいことをしたと悔やんでも知らないわよ」
「はい」
 椿さまの椿さまらしい言葉に、笑う。
 椿さまも、笑った。
 変わっていくけれど、変わらない。
 それを嬉しいと、思う。
 そして、最後に椿さまは少しだけ瞳を細めて、小さな両の手で、私の手を握った。
「では、ね。藤貴」
「・・・はい」
 これで、屹度、最後。彼女が私へと、愛しさを込めた瞳を向けるのは、これで、最後。
 これからは、彼女が決めた旦那様へと、この瞳を向けるのだろう。
 もう一度だけ、ぎゅっと握られた手。それが、離れていく。
「元気でね、藤貴」
 別れの言葉と共に、椿さまが背を向ける。
「藤貴を、宜しくお願いいたします」
 天狗様の前で、彼女は体を折った。
 火群様は腕組みをしたままではあったけれど、
「・・・・・分かった」
 今度は言葉で、椿さまにそう返した。
 それに満足したのか、椿さまは小走りに彼の前を過ぎ、そして、後神様の前を通り過ぎる。
「あ!」
 眼前を通り過ぎようとした椿さまの髪へと、後神様の手が伸びる。
 それは、人間の後ろ髪を引く妖怪の習性。けれども、今ばかりは引かないで欲しい。慌てて後神様を止めようとした私の前で、
「─── 」
 徐に、後神様が体の脇へと、伸ばしていた手を落とした。
「ではね、藤貴!」
 椿さまは髪を引かれることなく、後神様の前を通り過ぎ、その姿を木々の間へと消した。
 軽やかな足音が、遠ざかって行く。
 彼女は、もう、一度も振り返らなかった。
「後神様、ありがとうございます!」
 椿さまの後ろ髪を引かないでくれた後神様。
「なに、今日の分の仕事はすでに終わっていただけのこと」
「ありがとうございます」
 あの年若い母親の髪を引いて、今日はお終いだったのだと言った後神様に、私は再度頭を下げる。
 そんな私に、「良いのじゃ」と手を振った後神様の口元が穏やかな弧を描いているのが、僅かに垣間見えた。
 そうして微笑んだ後神様は、「さて」と参道へと足を向けた。そして仰ったのは、あまりにも唐突な別れの言葉だった。
「何やら鬱の気も散ったようじゃ。次なる村へ行くかのぅ」
「そんな、急に・・。せめて朝餉くらい───」
「おう。行け行け」
 朝食くらいご一緒にと誘う私の言葉を遮ったのは火群様。さっさと出て行けと、まるで犬猫でも追い払うような仕種で、しっしっと手を振る火群様に、けれどご機嫌なまま後神様が言った。
「天狗の面白い一面も見たことだしのぅ。お前はなかなか焼き餅焼きなのじゃな」
「さっさと行きやがれ!!」
「ひっひっひ。ではな」
 ご機嫌に笑いながらくるりと背を向けた後神様に、つい、手が伸びた。
「あ」
 気付けば、伸びた手が、去ろうとしていた後神様の髪を引いていた。
「・・・・」
 ピタリと後神様の足が止まり、私を振り返る。頭のてっぺんにある目が、パチパチと瞬かれているのを見ると、どうやら驚いておられるらしい。
 あまりに唐突だった別れが惜しくて、つい彼女を引き止めてしまっていたが、どうやら無礼なことをするとお怒りではないご様子に、ほっと安堵しながら、後神様に告げた。
「どうぞ、またお越しくださいませ」
「・・・・何と。花嫁、私の髪を引いてくれるというのか」
 どうやら、散々人間の髪を引いてきたこの妖怪も、自身の髪を引かれるのは初めのことだったらしい。疫病神と常に嫌われてきた自分を引き止めようとする腕は初めてのことなのだと、驚かれているご様子。
「誰でも、別れは寂しいものです。髪を引く後神さまのお気持ちが、少し分かりました」
「───── 」
 確かに陰気で泣き虫で鬱の気の強いこの疫病神様をお側にとどめようとする者は稀かもしれない。それでも、共に食事をし、眠りを共有すれば、別れを寂しいと思う情も湧こうというもの。
「・・・・こんな陰気な妖怪の髪を引くとは、やっぱ変わり者だな、お前」
「貴方の嫁ですから」
「どういう意味だ、おい
 私たちの遣り取りを聞いていたのかいなかったのか、それは分からないけれど、後神様はしばらく黙っていたが、不意に、
「ひっひっひっひっひ〜」
 笑った。
 どうにも陰気さを拭い切れていない笑い方だったが、それでも何だか楽しそうなことは伝わってきたので、文句は言わない。
 ひとしきり笑った後、後神様は言った。
「うむ。髪を引かれるのも、なかなかに良いものだな」
 少し、己の習性に自信が生まれたらしい。
 意図していたわけではないが、思いがけず後神様を励ます結果になったらしい。
 猫背だった背を僅かに伸ばし、後神様は今度こそ私たちに背を向けた。
「ではな、天狗の花嫁。また会おうぞ」
「はい。また!」
 のそのそと遠ざかって行く後神様の背に、さようならと手を振る。
「・・・・・・・足、遅ェな、お前! さっさと去れ!」
 本当にのそのそと遅い足取りでなかなか後ろ姿が消えない後神様に、焦れたご様子の火群様が乱暴にその背をお見送りしている。
 それでも、彼女の姿が木々の間に消えるまでの間、文句を言いながらではあったが、彼は律儀にそこに立っていた。






 その日、空はまるで新たな夫婦の門出を祝福するかのように、青く澄み渡っていた。
「良い天気で良かったのぅ、藤」
「はい。丈爺さま!」
 今日は、村を挙げての結婚式。
 村主の一人娘─椿さまが、婿を迎える日だった。
 村の家々の前には花が飾られ、同じく花に飾られた輿に乗った美しい花嫁が、傍らに立つ新郎と共に村中を回る。
 それが、この陽稲ひいな村での結婚式。
 幼い頃、何度か目にしたそのささやかだが美しい花嫁行列。今、その中心の輿にいるのがあの椿さまだと思うと、感動もひとしお。
 村の子供たちから花を受け取りながら、お屋敷への道を進んでいくお輿を、私は上空─火群様の腕の中で見つめていた。
 朝、目覚めるなり、
「出かけるぞ」
「え?」
 唐突に告げられ、何処に行くのかも分からぬまま身支度を調えた。そして、人から姿を隠す笠を被せられ、強引に空へと攫われた。
 ひたすら黙ったまま空を駆けて行く火群様に、いい加減何処に行くのか気になって仕方がなくなった私が問う前に、私たちを追いかけてきた丈爺様がその答えをくれた。
「藤。今日はあの娘の結婚式じゃ。行きたかったのであろう?」
 そう。どうしても、行きたかった。
 椿さまにも、「見に行きます」とお約束をしてしまっていたし、私自身、目の前でお花を渡すことは叶わないだろうけれど、椿さまの花嫁姿を一目なりとも見たいと思っていた。
 思っていたけれども、それを火群様に告げることが出来なかった。
 村に─椿さまに未練を残し過ぎていては、火群様とてご不快に思うに違いないと思っていたから。
 だから、言えなかったのに。
 不機嫌な顔をして、それでも私のためにこうして村へ連れてきてくれたのだ。この優しい天狗様は。そして今、私の隣で僅かに不機嫌顔を緩め、花嫁行列を一緒に見つめてくれている。
 村を回る輿は綺麗に花で飾られ、中で腰を下ろしている椿さまも、豪奢な花嫁衣装を身に纏っている。そんな美しい花嫁に、村の子供たちが花を手渡し、女の子は新婦から輿に飾られた花を貰う。この花嫁のように良い人と巡り会うようにと、昔から繰り返されてきた光景。それを見つめる村人たちの中に私は見知った顔を見つけ、火群様の腕を引いていた。
「あ。火群様、あれ・・!」
「お、あの時の、か」
 花嫁に花を投げ、楽しそうに笑っているのは、あの日、天狗の祠へと赤子を捨てに来た、あの年若い母親だった。
 その腕には、小さな手で小さな花を握って花嫁へと差し出している、あの日の赤子が居た。
「おお。あの赤子も、おなごだったのですなぁ」
 ぐずりながら、それでも花嫁へと花を渡した赤子に、椿さまが笑いながら輿の花を取り、その小さな手に握らせてやっているのを見て、丈爺様が微笑んでいる。
 私も、そして火群様も、同じ顔をしてそれを見つめていた。
 陰気な疫病神様が救った、一つの小さな幸せがそこに咲いている。
 甘い花の香りと、祝福の声が、村に満ちていた。
 それを見つめていると、不意に火群様が翼を羽ばたかせた。
「え!? 火群様、何処へ??」
 まだ結婚式は終わっていない。出来ることなら、最後まで見届けたいと思っていた私は、つい不服の声を上げてしまっていた。
 しかし、それに構うことなく、火群様は翼を羽ばたかせ、村から離れていく。
 火群様も結婚式を楽しく見ておられたと思ったのだが、私の勘違いだったのだろうか。
(つまらなかったのかな・・・)
 とりあえず火群様に身を任せることしかできない私は、仕方なく口を噤む。
 けれど、村を離れ彼が向かったのは、あのねぐらのある雛菱ひなびし山ではなかった。
「お。藤、見てみぃ!」
 山をいくつか越えた先で、丈爺様が声を上げた。
「え?」
 丈爺様が指さす先へ目を凝らせば、そこは───
「わぁ・・! 凄い!」
 そこは、一面の花畑。
 村を離れた火群様が目指していたのは、此処だったのだ。
 何故なら、
「さあ、藤。両手一杯、持てるだけ摘め。お前もあの娘に、花をやりてーんだろう?」
「───はい!」
 お優しい天狗様。彼は、知っていたのだ。
 私がどうしても椿さまの結婚式を見たいと思っていたこと。
 そして、叶うならば、祝福の思いを込めた花を彼女に贈りたいと思っていたこと。
 それをどうしても言い出せなかったのだということも、全部。全部。
「さあ、急げよ、藤。今日は弔いの花じゃない。祝いの花だ。明るい色を選べよ」
「はい!」
 その言葉で、分かった。
 以前、母の墓に手向けてくれた花も、ここから摘んで来てくださったのだろう。母の冥福を祈り、墓標へと供えるのに相応しい花を手ずから選んで摘んで来てくださったのが此処だったのだ。
 一面の花畑。
 そこでこの天狗様が一人、花を摘んでいる姿を想像すると、少し笑える。
 可笑しくて可笑しくて、でも少し、涙が出そうになった。
「ありがとうございます、火群様」
 何に礼を言ったのか、自分自身、分からなかった。
 私の願いに気付いてくださったことに?
 此処に連れてきてくれたことに?
 母に花を摘んでくれたことに?
 私と共に居てくださることに?
(嗚呼、屹度きっと・・・)
 全てに───。
 瞳を真っ直ぐに見つめて礼を言った私に、火群様はお答えにはならなかった。僅かに頬を赤くして、
「行くぞ、藤!」
 花を両手一杯に摘んだ私を、少し乱暴にその腕に抱き上げた。
「ちょっと急ぐぞ」
「はい」
「あい!」
 お輿がお屋敷に着いて、椿さまがお屋敷に入ってしまっていては、もう遅い。
 火群様はいつもより力強く翼を羽ばたかせる。
 嘴に花をくわえた丈爺さまと共に、風を切るように空を駆け、村へと辿り着き上空からお輿を探せば、
「お、間に合ったな」
 お屋敷の前に到着したお輿を火群様が見つけた。
 ゆっくりとお輿が屋敷の玄関の前に下ろされ、その中から、新郎の差し出した手を取って、椿さまが出てくるところ。
「さあ、藤」
「はい!」
 火群様の声に促されるまま、両手一杯に抱えていた花を、空へと放った。
「そら! 儂もじゃ」
 丈爺様も、小さな嘴にくわえていた花を放つ。
 ひらりひらりと舞う、花の雨。
 花嫁の紅と同じ、赤。
 花嫁の纏う無垢と同じ、白。
 花嫁の頬と同じ、薄紅。
 花嫁の笑みの様に明るい、黄。
 花嫁を祝う空と同じ、青。
 色とりどりの花が、花嫁の頭上に降り注ぐ。
「な、何だ何だ??」
「何と、これは・・・!」
「天狗様の祝福だ!」
「祝いの花だ!」
「めでたい」
「めでたいの」
 空を見上げ、人々が顔を綻ばせる。
 そして、
「───藤貴・・・」
 眼前に降り立った花を掌に掬い、空を見上げる椿さま。
 僅かに涙を浮かべたその瞳と、目が合ったような気がした。不思議な笠の所為でこの姿は椿さまには見えていないはずなのに、確かに、彼女と目が合った気がして───。
「おめでとうございます、椿さま!!」
 祝福の言葉を、送る。
 それが届いたか否か、分からなかったけれど、
「ありがとう───藤貴」
 つっと、椿さまの頬を涙が伝ったのが見えた。けれどその面には、花の色彩も霞むほどの美しい笑みが浮かんでいた。
 全ての花が花嫁へと降り注いだのを見届けてから、私たちは其処を離れた。
 もう、後ろ髪を引かれることはない。
 椿さまも、私も、誰も。
 宙を駆けながら、ぽつりと火群様が呟いた。
「なかなか美しい花嫁だったなァ」
 馬子にも衣装だと意地悪く笑いながらではあったが、おそらく本当にそう思われたのだろう火群様の言葉に、私は返す言葉が見つからず、黙る。
「そうでしょう?」
 と、答えれば良いだけなのだけれど、その簡単な言葉が出てこなかった。
 先日、お屋敷でお見合いをしていた椿さまを見て「美人だ」と火群様が仰った時と同じように、「はい」と答えれば良いだけだったのだけれど。
「・・・・」
「藤?」
 黙り込んでしまった私に、火群様が訝しげに眉を寄せる。
 ふと、思い出しただけ。
 青空の下、人々から花を渡され祝福を受けるあの花嫁の姿を見て、真っ暗な宵の下、たった一人、獣の声を聞きながら天狗様を待っていた、憐れな花嫁のことを。
 そして、気付けば、
「・・・・・・・・椿さまの方が、良かったですか?」
 つい、そんなことを訊ねてしまっていた。
「火群様の、花嫁は」
「はァ??」
 火群様の訝しげな声に、私はようやく我に返る。
(な、何てことを・・・っ!!)
 そして、赤くなる。
 あまりにも当然すぎる問い。答えは分かりきっている。
 男の花嫁よりも、美しい本物の花嫁の方が良いに決まっている。
 それでもつい、聞いてしまっていた。
 椿さまを美しい花嫁だとお褒めになった火群様に、やはり私では不服だったのだろうかと、思ってしまったのだ。そして、椿さまを羨ましいと、思ってしまった。それは、するのもおこがましい、嫉妬。花嫁には成り得ない私の、椿さまへの嫉妬からの言葉。
「い、今の言葉は、お忘れくださいッ!!」
 恥ずかしすぎる。
 きっと真っ赤になっているだろう顔を見られたくなくて俯く。
 すると、てっきり笑っておられるだろうと思っていたのに、頭に降ってきた火群様の声は、静かだった。
「まあ、確かにあの娘は美人だったけど」
「・・・はい」
 一体何を仰るつもりだろうとドキドキしながら、その言葉の続きを待つ。
 次に火群様は、僅かに笑みを含ませながら、言った。
「オレが求めたのは村一番の美人だ。お前でなければ、突き返していたぞ」
「──── ・・」
 ───また、頬が熱くなった。
 思わず顔を上げると、可笑しそうに笑っている火群様の瞳とぶつかった。
「あの花嫁には悪いがな。お前の方が美人だ」
 その赤い瞳が楽しそうに笑っていたので、私もつられて笑ってしまう。
「椿さまがお聞きになれば、烈火の如くお怒りになるでしょうね」
 あの方は、とても負けず嫌い。私よりも幸せになるのだと、あの日も啖呵を切っておられたくらいだから。
 私の言葉に「それは怖ェな」と大仰に肩を竦め、火群様はバサリと翼を大きくはためかせた。
「よし、では逃げるぞ、藤」
 華やかな笛の音が響く村を背に、
「はい。お供いたします。何処までも」
「無論だ」
天狗様の住む、静かな御山へ。
「儂もですぞ」
「はい!」
 其処が私の、生きる場所───。


 嗚呼、どうか。
 幸せに。
 永久とこしえに───。


 村人が願う。
 新婦が願う。新郎が願う。
 母が願う。子が願う。
 天狗の花嫁が願う。


 願う人の髪を引く未練は、もう、ない。









 



「後神の憂鬱」読破ありがとうございました。
い、いかがだったでしょうか??
よろしければ、感想などいただけると嬉しいです
掲示板、メールフォーム、↓の拍手等々、
何でも構いませんのでお声をきかせていただけると嬉しいですっ!


そして、「天狗の花嫁」まだまだ続きます♪
次なるお噺も、どうぞ宜しくお願いします


2011.8.20.てん


お礼文 5話ご用意★