今宵は下弦の月。
 美しい弓なりの月が、ここ、天狗様のお家では地上よりも大きく見える。
 手を伸ばせば、届きそう。
 火群様と丈爺さまと私、そして、後神様、4人での夕食を終えた家を、柔らかな月光が照らしている。
 ゆらゆらと揺れる燭台の炎だけでは心許ない夜の闇。今宵は白銀の月光が炎を助けているようだった。
 静かで、美しい夜。
 火群様はお酒を片手に、何処かへお出かけ。おそらく屋根の上で月見酒の途中。
 丈爺さまも、今宵は既に寝床へと戻っていた。
 残されたのは、私と後神様。
 昨日までの憂鬱ぶりは何処へやら。無理矢理、火群様にここへ連れて来られた割に、楽しそうに夕食を召し上がりになり、今はお茶を啜りながら、長い髪を梳っている。
 人の後ろ髪を引き、決心を鈍らせるという疫病神様。
 私への想いから縁談に踏み切れないでいた椿さまの後ろ髪を引いていたのが、この方。
 思い出すのは、必死な瞳をして告げられた椿さまの願い。


「お願いよ、藤貴。お願い・・!」


 共に居て欲しいと、それ以上は望まないからと告げた椿さま。
 差し出された手を前に、迷った。
 椿さまは、この陽稲村で唯一の、暖かな思い出の人。この人が居てくれたから、母を失い、気味の悪い子だと蔑まれながらも生きることが出来た。
 とても優しい人。
 大好きな人。
 けれど、私は、此処に居たいと、そう思った。
 椿さまを悲しませることになるのだとしても、初めて望んだ場所が、此処。
 母の隣を失い、放り込まれたお屋敷の中に居場所は無かった。それでも、そこを飛び出しては生きていくことが出来なかった。
 一人で生きるには、幼すぎた。


 私が参ります。


 初めて、自分で手を伸ばし、得たのが此の場所。
 それを誰が憐れだと囁こうとも、それを誰がおぞましいと眉をひそめようとも、私にとっては、私自身で初めて手に入れた居場所。
 望んだ場所。
 そして今宵、この居場所に残りたいのだと望んだ自分に、この居場所の主である火群様は、言った。


「これは、返さぬぞ」


 行かないで欲しいと、そう思ってくださったのだろうか。
 そうであれば、嬉しい。
 けれど、そうであれば、何故。
 何故、私などを此処に止めたいと思うのかが、分からない。
 そもそも、私は火群様が望んだ花嫁ではない。まずもって男児である時点でその資格がない。けれど、そんな私を火群様は面白いと言って、此処に置いてくださっている。言葉の通り、丈爺さまとの二人きりの生活に別の者─しかも人間が入ってくることに興味を抱いたのも事実だろうけれど、一番の理由は、きっと。
(火群様は、お優しいからなぁ・・)
 少しぶっきらぼうで、そっけないように見えて、彼はとても優しい。
 私に居場所がないことを、この天狗様は察してくださったに違いない。
(だから、仕方なく・・・)
 自分の言葉に、胸がチクリと痛んだ。
(矢張り、仕方なく、だよね)
 憐れな人の子を放り出すことが出来ず、仕方なく此処に置いてくださっているのだ。それ以外に、男の花嫁をお側近くに好きこのんで置くはずもない。
 直に飽きるのは、きっと火群様の方。
(あ。悲しくなってきた)
 まるで昨日の後神様の憂鬱が、私に移ってしまったかのよう。
 チラリと後神様を見遣れば、ご機嫌な様子で茶菓子に手を伸ばしている。人の後ろ髪を引いてばかりだとわんわん泣いておられたのは一体誰だったのだと疑いたくなるくらい。
(───人の、後ろ髪・・?)
 ふと、思った。
 思ってしまった。
(もしかして、火群様の髪を・・・?)
 もしや、この後神様が火群様の後ろ髪を引いてくださったのではないだろうか、と。
 思い当たり、更に気分が沈む。
 そう言えば、今日家に帰ってきてからの火群様は常よりも口数が少なく、夕食の時も何か考え込んでおられるご様子で、箸が止まりがちだった。
 もしかして、後悔しておられるのだろうか。
 私を、引き止めたことを。
「──── ・・」
 胸が、痛い。
「・・・め」
「・・・」
「おい。花嫁!」
「は、はい
 チクチクと胸を苛む痛みをやり過ごそうと瞳を伏せていた私は、ようやく後神様が私を間近に見つめていることに気付いた。
 頭頂の大きな瞳が、じっと私を見つめている。
「暗い顔じゃ。どうかしたのかい?」
「いえ。少し、考え事を」
 聞いてみれば良いだけ。
 火群様の後ろ髪を引いたのですかと、聞けば分かることなのに、聞くことが、怖い。
 曖昧に言葉を濁した私に、突然後神様はガバッと卓袱台に顔を突っ伏した。
「分かっておる! どうせお主も妾のような疫病神がいつまでも居座っていることを憂えておるのであろう!」
「え。い、いえ、別に───」
「妾は何処に行ってもそうじゃ! あああああああああああああああ。これだから疫病神は嫌なのじゃああああああああああああ」
「お、お、落ち着いてください! 違うんです! 本当に
 先刻までせっかく機嫌良くしていたのに、突然の号泣に私はただ吃驚するしかない。
 必死で宥めようと、私は再度「違うのです」と告げた。
「考えていたのです」
「うっ。うっ。何をじゃ? 妾をどうやって追い出すかであろう!? うああああああん」
「ち、違います! あの、後神様が、火群様の後ろ髪を引いてくださったのだろうか、と」
 思い切って、問うた。
 その言葉に、ピタリと後神様は泣き止む。そして、涙に濡れた頭頂の瞳を不思議そうに瞬かせる。
「・・どういうことじゃ?」
 もう、何でもないとは言えない。
 僅かの逡巡の後、私は思いきって問うことに決める。
 恐れていた答えを突き付けられようとも、受け止める覚悟は、急拵えではあるが、今決めた。
「・・・村に戻るかここに止まるか迷っていた私に、火群様は言ってくださいました。返さない、と」
「おお。言うておったな」
「それは、後神様が髪を引いたからなのでは、と。そうでなければ、火群様が私などを此処にとどめようと思われる理由がございませぬ」
「・・・・」
 後神様は再び瞳をパチパチと瞬かせた。
 そして、僅かな沈黙の後、問うてきた。
「花嫁よ」
「はい」
「引かぬ方が、お主は良いか?」
「───」
 其れは矢張り、後神様が火群様の髪を引いたということ。


「これは、返さぬぞ」


 あの言葉は、火群様の心からの言葉ではなかったのか。
 つい、口にしてしまっただけの言葉だったのか。
「花嫁?」
「あ、いえ。あの・・」
 胸が痛くて、言葉が出ない。
 何を語って良いものか、分からない。
「言うてみよ」
 それでも後神様は私に黙することを許してはくれなかった。けれど、告げよと促す声は、穏やか。
 それに甘えて、まとめられぬまま、言葉を唇から零す。
「私は、ただ・・。あの、本当に、火群様が私を此処にとどめたいと、そう思ってくださっていたら嬉しいのにと、そう思ったのです」
「ふむ。お主は、此処に居たいのじゃな?」
「はい。ご迷惑なのは、分かっているんです。そもそも私は男ですし。火群様は私が身寄りのない憐れな子だから、置いてくださっているだけで・・・。だから、きっと、あの時、私は椿さまの手を取っていた方が良かったのです。そうすれば、もうご迷惑は───」
「・・・・」
 胸が痛い。
 痛くて、涙が滲みそう。
「何故、火群様の髪をお引きになったのです。そうすれば火群様は私などというお荷物から解放されていて、私も───」
 私も─── 無駄な期待をしなくても良かったのに。
 いつの間にか後神様を責める言葉を口にしてしまっていた。しまった、と思ったときには、既に遅い。後神様は大きな目で真っ直ぐに私を見つめていた。
 お怒りになるか、それとも、再び号泣を始めるのか。
 けれど、結果はそのどちらでもなかった。
「花嫁よ」
「・・・はい」
 穏やかな声で呼ばれる。次に告げられた言葉も同様に、穏やかなものだった。
 髪で覆われていたその面は伺えなかったけれども、きっと声と同様に穏やかな笑みを浮かべておられたに違いない。そう思える程に、優しい声音だった。
「聞け、花嫁。あいにくと、あやつの髪は引いておらぬ」
 それは、思いがけぬ言葉。
「え?」
「妾は、引いたなどとは言うておらぬぞ」
「・・・」
 てっきり、後神様が火群様の髪を引いたのだと思っていたが、思い返してみれば確かに後神様は「引いた」などとはお答えになっていなかった。
 私の、早合点だったのだ。
 では、あの火群様の言葉は。
「─── では、何故、私などを引き止めてくださったのですか」
 後ろ髪を引かれたのではなければ、何故、男の花嫁を「返さぬ」などと言ったのか。
「何を言うておる。引き止めたかったからに決まっておろう」
「・・・・」
 簡単なことではないかと、後神様は笑った。
「難しく考えるでないよ、花嫁。簡単なことよ。あやつはお主のことを好いておる。お主は良い子。妾も好きじゃ」
「後神様」
 そっと手を伸ばし、後神様が私の頭に手を触れさせた。
 幼子にそうするように、ゆっくりと頭を撫でる。その語り口も、幼子を諭すように優しいものだった。そして、笑いながら言う。
「お主がいなくなっては、あやつは寂しいのじゃ。天狗殿はまだまだ子供ゆえな。可愛い嫉妬じゃ。娘に顔を見せたのもそうじゃ。お前などより此の俺の方が藤には似合いであろうと、わざと姿を見せたのであろうよ。自信過剰な男よのぅ。まあ、其れが天狗という者ではあるが」
 まるで全てを察しているかのような後神様の言葉。
「後神様は、全ておわかりになっておられるのですか?」
「妾は常に人の背に張り付いておるでな。心の機微には聡いつもりじゃ。天狗殿の何十倍も生きておるしのぅ」
 そう言って、後神様は微笑した。
 真っ黒な髪の隙間から、薄紅色の唇が弧を描くのが見えた。
「良いか、花嫁。お主が未だ此処を離れたくないと思っているように、天狗殿もお主と未だ別れたくないと思っている。それだけのことなのじゃ。簡単なことであろう?」
 再度、後神様の手が私の頭に触れる。
 それは母を思い出させる、温かな手。本当にそうだろうかと心の何処かで疑いながらも、それでも、
「はい」
 つい、首を縦に振っていた。
 気付けば、胸の痛みが消えている。
「そう。それで良いのじゃ」
 満足げに笑っている後神様の手は、まだ私の頭を撫でてくれていた。
「藤─── !」
 不意に、外から私を呼ぶ声。
 それは、火群様の声。
「さあ、花嫁。寂しがり屋の子天狗が呼んでおるぞ。妾のことは気にせず、天狗の元へ行っておやり」
 さあさあと背を押され、
「すみません」
 腰を上げる。ひらひらと手を振る後神様に申し訳ありませんと軽く頭を下げ、火群様の声がした物干し場の方へと足を向ける。
 扉を開ければ、目の前には闇。
 未だ闇に慣れぬ瞳で恐る恐る足を踏み出そうとした所へ、
「藤。起きてるか?」
 再度自分を呼ぶ火群様の声。
「はい。今、参ります」
 声に呼ばれるまま、外へ。
 視線を足下から空へと遣れば、闇夜にぽっかりと浮かぶ、下弦の月が飛び込んできた。
 火群様の姿を探して視線を巡らせれば、物干し場の先、床板が途切れたその先、木の枝に腰を下ろし、月を見上げている端正な横顔があった。
「火群様」
 どうかされましたかと声をかければ、赤い瞳が私の方へと向けられ、ちょいちょいと手招きをされる。
 月明かりのおかげで足下は辛うじて見えようになってきた。けれど、その先は、闇。陽が明るい内でも下を見れば足が竦むのに、この底のない闇が待つ足下が今は更に恐ろしい。
 ゆっくりと歩を進め、物干し場の端まで歩み寄った私に、火群様が己の横の枝を叩き、座れ、と促す。家を支えている太い枝ではあれど、足を踏み出すことには勇気が要る。
 躊躇っていると、そんな私に、火群様が手を伸ばしてきた。掴まれ、ということらしい。
 その手を取り、私はゆっくりと彼の隣へと腰を下ろした。
 枝から下ろした足に、夜風がさわさわとまとわりつく。まるで、底なしの闇に誘い込もうとしているかのよう。
 僅かに身震いした私に気付いたのか、火群様が視線を向けてきた。
「大丈夫か、藤」
「はい」
 下を見れば足が竦むので、視線を上げ、ただ火群様とお月様だけを見つめることにする。そうして細い月に視線を遣った私の名を、火群様が静かに呼んだ。
「藤」
「はい」
 夜の静寂を壊さぬようにか、いつになく静かな声で私の名を呼ぶ。
 視線を彼へと向ければ、視線を己の手元に落としている憂えた横顔に気付いた。手にはおちょこを持っていたけれど、その中にお酒はない。
 家に帰ってきたその時から、何処がご様子がおかしかった。
 それは、私を引き止めてしまったことを後悔しているのではと胸を痛めていたが、後神様曰くは、あれは火群様自らが口にした言葉らしい。
 けれど、矢張り違ったのだろうか。
 彼が憂えているのは、己の所為───?
 再び胸がざわつくのを必死で抑えながら彼の言葉を待っていると、小さな声で火群様が口を開いた。
「昼間は、勝手に決めちまったけど・・・良いのか?」
 問われたことの意味が、私には理解できなかった。
「何のことです? 火群様」
 首を捻って問い返した私に、火群様は手元に落としていた赤い瞳を私へと真っ直ぐに向け、先程よりも大きな声で私に告げた。
「・・・・藤。村に戻っても、良いんだぞ?」
 嗚呼、その言葉で、分かった。
 火群様は矢張り、私を引き止めたことを後悔しておられるのだ。
 けれどそれは、私が邪魔だからというわけではなく、人間である自分の生きる道を考えてくださってのこと。
 私のことを心配しておられるのだということが、火群様の瞳を見て、分かった。
 火群様が私を追い出せなかったことを悔やんでいるのでは、と先程までの自分であったのなら、そう卑屈な疑いを持っていたに違いない。けれど、今は違う。
 きっとそれは、後神様のおかげ。
 優しく言い聞かせてくれた言葉が、温かな手の温もりが、私の中の嫌なものを取り払ってくれたから。
「藤、お前は人の子だ。人の中で生き、恋をして嫁を貰い、子を育て、そして数十年でその生を終える。それが人としての道。だが、オレの元では子も成せぬ」
 再び視線を己の手元へと戻した火群様は、しきりにお酒の入っていないおちょこをいじりながら、語る。それを私は黙って聞いていた。
 食事の箸が止まっていた理由はこれ。
 彼は、ずっとこんなことを考えていたのだ。私のためを思って、頭を悩ませてくれていた、優しいお方。
「つい止めちまったけど、村に戻って、あの娘と共に生きる方がお前にとっては幸せなんじゃねーのか?」
 その問いに、私は答える。
 素直に、私の思いを。
「・・・私は、嬉しかったのですよ。火群様」
「は?」
 何が? と訝しげに私を見た火群様の目を真っ直ぐに見つめさせていただいて、私は更に告げた。
「火群様に、自分の嫁だから渡せぬと、そう言っていただけて、嬉しかったのです」
「藤」
 驚いたように目を瞠った火群様のお顔は、まるで豆鉄砲をくらった鳩、その言葉がぴったり。子供っぽいその表情に、思わず笑みが零れる。
「火群様。私は、覚悟を決めて参ったのですよ。全てを捧げると。ようやくそれが叶ったのに、火群様は私を追い出してしまわれるのですか?」
 己で望み、この方ためにあろうと全てを捧げる覚悟でやってきたこの場所は、思った以上に居心地が良く、離れがたい場所となってしまった。
 どんな方でも尽くそうと決めていた天狗様が、この方だったからに違いない。
 少々乱暴者で、ぶっきらぼうで、けれどお優しく、けれど子供っぽい天狗様。
 彼だったから、こうして私は、今、此処に居たいと思うことが出来る。その我が儘を、こうして告げることができる。
「どうか、此処に置いてくださいませ」
 戸惑う赤い瞳を見つめ懇願すれば、その瞳がすいっと逸らされ、細い指が苛立たしげに赤い髪の毛を掻き上げた。
「藤。オレはお前のためを思って言ってやってるんだぞ」
 少し、不機嫌そうな声。
 人の子としての幸せを、道を示してくださっている火群様。
 けれど、それを幸せと決めるのも、不幸せと決めるのも、私。
 私が望むのは、此処で生きる道なのだから、「分かりました」と頷くことは出来なかった。
 一生、とは言わない。せめてもう少し、この天狗様が飽きるまでで構わない。もう少しだけ、此処に居させて欲しい。
「申し訳ありませぬ」
 私のためを思ってくださっている火群様の言葉に、頷くことができない。
 頭を下げた私に、火群様が慌てる。
「いや。別に、怒ってるわけじゃねーって」
 そして、頭を上げた私に、小さな声で照れくさそうに告げた。
「ただ・・・お前は、オレには勿体ない」
 それが、本当に嫁を娶ろうとする男が口にする言葉そのもので、可笑しくなって私は思わず笑ってしまった。
 そうして初めて己の言葉を意識したらしい火群様がそっぽを向かれるのを見ながら、私も告げた。
「火群様。それこそ、勿体ないお言葉です」
 くすくすと笑いながら答えた私に、バツが悪そうに鼻の頭を掻きながら、火群様は息を吐いて、徳利からおちょこへとお酒を注ぎ、それを一気に飲み干した。
 そして僅かな沈黙の後、再び視線を私へと向けた。
「なあ、藤。オレはお前にそんなに慕ってもらえるような立派な天狗じゃねーぞ。恥ずかしい話だが、オレは大天狗にはまだまだほど遠い若輩者だぞ」
 だからお前が此処に居たがるわけが分からないと告げた火群様に、私はきょとんとする。
 どうやら、天狗様の中にも、ご身分のようなものがあるらしいと、初めて知った。だが、
「かようなことは、藤には関係ございませぬ」
「・・・・は?」
 どうでも良いのですと正直に告げた私に、今度は火群様がきょとんと目を瞠った。
「火群様が火群様だから私は参ったのです。天狗様の序列になど、私は全く興味がございませぬ」
 どうやら天狗様の世界では、そういった身分のようなものが重要視されるようだと察することが出来たが、人間である自分にそれは何の魅力もない。
 火群様が火群様であること以外に、此の場所を選んだ理由はないのだから。それはこれからも変わらない。彼が大天狗になろうとなるまいと、変わることなどない。だから、正直、どうでも良いこと。
 正直すぎる私の言葉に、火群様はあっけにとられたように口をぽかんと開けて私を見つめていたが、すぐに、破顔した。
 お笑いになりながら、再度お酒を召し上がり、そして、再び私を見て笑った。
「そうか。矢張り変わったヤツだな、お前は」
 可笑しくてたまらないと笑い続ける火群様の横顔を、私も微笑みながら見つめる。
 もう、いつもの火群様のお顔。
 どうやら、私を村へ帰そうという算段を、諦めてくれたらしい。
 これで、もう少し、此処に居られる。
 彼がいつまた私を村へ、と思うかは分からないけれど、彼の人生の中で一時でも存在していられることが嬉しい。その一瞬の時の中で、何かお役に立たなければならない。
 それが、私の役目なのだから。
 火群様は必要ないと仰るかも知れないけれど、私が決めた幼い日の約束。
 それを果たすまでは、未だ、離れられない。

「火群様」
 ようやく笑いをおさめた火群様に、私は問う。
 ずっと気になっていたこと。
「何だ?」
「天狗様は、どれくらいの寿命をお持ちで?」
 その問いに、火群様は一瞬考え込んだ後、首を捻った。
「さぁな。いつまでの命なのかは教えられてない。だが、オレの母様は800までは年を数えたと言っていたな」
「そうでございますか」
 やはり、天狗様は人間などより遙かに長命らしい。
 火群様も、きっと悠久の時を生きるのだろう。そんな中で、私が共に居ることができるのは、ほんの一瞬に違いない。なれば、
「では、火群様の生の一瞬で、この藤は大きなことを成さねばなりませぬね」
「何故だ?」
 不思議そうに問い返す火群様に、私は微笑しながら言った。
「忘れられてしまうのは、少し悲しゅうございますゆえ」
 長い長い旅の途中で、ほんの一瞬足を止め一言二言、言葉を交わしただけ。そんな存在にはなりたくない。
 それでは、約束を果たせたとは言えぬのだから。
 私の言葉に僅かに沈黙した後、火群様は再びお笑いになった。
「大丈夫だ、藤」
 何がと首を傾げれば、火群様は笑いながら言った。
「すでに忘れられぬほど、強烈な出来事だったぞ。男の花嫁とは、本当に驚いたからな」
 そう言って笑いながらお酒を飲む。そのお顔は楽しそうに笑っておられて、見ている私もつられて笑みを零してしまっていた。
「そうですか。良かった」
 もう忘れられぬと、そう仰っていただけて、十分。
 今宵の胸の痛みは、全て癒された。
「変なヤツだな、お前」
 嬉しいですと笑った私に、火群様も笑う。
 男の花嫁をお側に置いてくださる火群様も十分に変わったお方だと思いながらも、口に出すことはよした。
 視線を上げれば、下弦の月が私たちを見下ろしている。
「良い月夜にございますね」
「そうだな」
 柔らかな光に反して、風はまだ冬の寒さを脱ぎ去っていない。
「藤、冷えるだろう? 戻っていろ」
 言われて初めて気付く。
 無意識の内に冷えた体を温めようと自らの手で、もう片方の腕をさすっていたらしい。
「でも──」
「良いから。オレはもう少しここで呑む。先に休んでろ」
 火群様の言葉に迷ったけれど、私は酒の相手も出来ぬし、素直に彼の言葉に甘えることにした。残してきた後神様の寝所の用意も、そう言えば未だだった。
「分かりました。それでは火群様、お休みなさいませ」
「ああ」
 木の枝から物干し場の板へと体を移し、立ち上がる。
 頭を下げれば、「おやすみ」と手を振る火群様。再度彼に頭を下げ、家へと足を向けた。
 風が枝葉を揺らす。少し、冷たい風。
 家に入る直前、ふと振り返って見れば、月明かりを見上げる火群様の姿。
 その横顔に憂いの色はない。
 私の中の憂いも、完全にその姿を消した。