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今日も、天気は快晴。 気持ちよく晴れ渡った空に反して、この胸の中では晴れることのない思いがくすぶっているよう。 夜半に村へと戻っていった後神様の行方が、気になって気になって仕方がない。 村へ戻り、また椿さまの後ろに憑いているのだろうか。そう思うと、居ても立ってもいられなくなってしまっていた。 ついに私は意を決して火群様へのお願いを口にしていた。 「火群様」 「ん?」 「あの、少し、笠をお借りしても?」 それは、人間から姿を隠す不思議の笠。先日村へ下りたとき、火群様がかぶせてくださったもの。 それを貸して欲しいとお願いをした私に、火群様はその言葉の先にある本当の願いに気付いてくださったようで、床に横たえていた体を起こした。 「何だ? 村へ行くのか?」 その言葉に、素直に首を縦に振る。 「はい。あの、気になってしまって」 「・・・あの娘か?」 「はい」 「・・・・」 何事かを考えておられるのか黙り込んでしまった火群様。嫁いできた身で、心を村に残していては、火群様も良い気がしないに違いない。 (言うんじゃなかったな) でも、気になるものは仕方がない。黙ってこっそり村へ行く方が火群様はお怒りになるに違いない。行かなければ私の心は晴れない。 ここはどうあっても、我が儘を通させていただこう。 「あの、いけませぬか?」 どうしても行きたいのだと訴えると、窓から私たちの遣り取りを見守っていた丈爺さまが「カー」と一声鳴いて、火群様の肩まで飛んで来た。そして、 「若、小さいですぞ!」 ガツガツ、と嘴で火群様の肩をつついた。 「んだとォ 」その言葉に、火群様は眉を吊り上げ、突然立ち上がる。 「? ?」 丈爺さまが何のことを仰って、火群様が何に怒っておいでなのか理解する前に、 「わっ 」突然、視界に靄がかかった。 すぐにそれがあの笠から下りた紗だということに気付いて振り仰ぐと、 「行くぞ」 不機嫌そうな顔のままではあったけれど、私の頭に笠をかぶせてくれたらしい火群様が仁王立ちで私を見下ろしていた。 「・・・・」 行くぞと言いながらも、不満顔。 最初はどうあってもお願いを叶えていただく気だったけれど、そうまで嫌がられるとさすがに悪いような気がしてくる。 「よ、宜しいのですか?」 「宜しくないことなどあるものか」 「え、でも──」 「行くぞ!」 ご自分も壁にかけてあった真っ赤な天狗面を手に取り、それを首にかけると、有無を言わさぬ力で私を床から攫った。 ふわっと体が浮き、あっという間に体は晴れ渡った空。 慌てて火群様にしがみつく。そっと窺った火群様の顔は、まだふくれっ面。 (・・・子供みたい) 決して口には出さないが、何だか可愛らしくて口元が弛む。 バサバサと耳元で羽音がし、視線をそちらに遣れば、私と同様に笑っている丈爺さま。 「気にするな、藤。若はまだまだ子供ゆえ」 「はい」 何に拗ねておられるのかは分からないが、確かに不満そうに尖らされた唇は子供のよう。笑いながら頷いた私に、火群様はますます唇を尖らせ、丈爺さまを睨んだ。 「おい。聞こえてるぞ、爺 」「ふぉっふぉっふぉっふぉっふぉ」 愉快そうに笑いながら、すい〜っと丈爺さまは離れて行った。そのまま姿は見えなくなる。それを舌打ちしながらも追いかけることを火群様はしなかった。 山々の緑を眼下に眺めていると、すぐに陽稲村が見えてきた。 火群様は真っ直ぐ、村の中央にある村主様のお屋敷へと向かった。 「お、藤。あの娘が居るぞ」 「え?」 「庭だ。許嫁もいるぞ」 やはりただの人間である私と天狗である火群様とでは視力が違うらしい。私がようやく屋敷の屋根を瞳に捉えたころにはもう、火群様には屋敷の様子がつぶさに見えているようだった。 広いお屋敷の屋根へと音もなく降り立ち、火群様はそっと私を屋根の上へと下ろした。 火群様の仰った通り、庭に椿さまとお相手の方とが立っているのが見えた。 庭に咲いた桜花を見上げ、談笑している様子。何を話しているのか私には聞こえないし、背中を向けておられる二人の表情を窺うこともできないけれど、二人の間にある空気がとても穏やかなものだということは分かる。 やはり椿さまもあの方とのご結婚にやぶさかでもないご様子なのに。 黙って見つめていると、そっとお相手の方が椿さまの髪へと手を伸ばし、 「あ」 「お。イイ雰囲気じゃん」 椿さまの黒髪にくっついた桜の花片を取り払う。 椿さまを見つめる瞳の優しさは、離れて様子を見ている私にも、よく分かった。きっとこの方は、椿さまをとても恋しく思っているだろうこと。そして、その瞳の優しさ同様、お心もとても穏やかな方に違いないこと。 年も椿さまと近いようだし、背も高く顔立ちも爽やかなその方と、楚々とした美貌をお持ちの椿さまとはとてもよくお似合いなのに、椿さまは何がそんなに不満なんだろう。 お相手の方に同情すら抱き始めたころ、 「あ」 目を凝らせば、椿さまの後ろに、黒い影。 「後神様・・」 やはり、椿さまのところへ戻っていたのか。 楽しそうに談笑する椿さま髪へと手を伸ばし、 「あっ!」 「アイツ 」ぐいっと、椿さまの髪を引いた。 髪を引かれた椿さまが、不意にこちらを振り返る。 「── え」 振り返った椿さまと、目が合ったような気がしてドキッとする。 今、私の姿は彼女には見えないはずなのに、見られたような気がして─── 驚きに目を瞠っていると、突然、火群様の腕に体を抱き寄せられ、 「ぅわっ ほ、火群様!?」あっという間に空へと攫われていた。 慌てて屋敷へと視線を戻せば、椿さまは視線を男性へと戻していた。 ─── やはり、気のせいだったのだろう。 ほっと胸を撫で下ろしていると、きつく抱き寄せられていた体をいつも通り横抱きにされる。 「もう、今日は終いだ」 「・・・はい」 ポツリと呟いた火群様の唇が、また尖っているような気がしたのも、気のせい? 今日はもう終いだと仰ったが、火群様はすぐに雛菱山に向かおうとはしなかった。 何処か寄る場所でもあるのだろうかと黙っていたが、そこが何処かは、すぐに知れた。 そっと下ろされた場所、そこは、母の墓前だった。 「・・・ありがとうございます、火群様」 「別に」 真っ直ぐに見つめて礼を言うと、少し照れたように火群様はそっぽを向いてしまった。 その仕草がまた子供っぽい。 あのご神木の上で丈爺さまと二人きりで過ごして来たこの天狗様は、人から真っ直ぐに礼を言われることに慣れていないらしい。 彼に気付かれないように小さく笑いを洩らした後、母の墓へと視線を遣る。 「あれ?」 そこに供えられた花が、先日お参りにきたときよりも確実に増えていた。 火群様が何処から摘んできてくださった花と、それ以外に真新しい切り花がある。 「・・・誰だろう」 まさか知らない内に火群様がまた供えてくださったのだろうかと視線を遣ってみたけれど、火群様も首を捻っている。 考えても答えは出ない。 (まあ、いいか) 誰が供えたものでも、きっと母は喜んでいるに違いないのだから。 周囲に人の姿もない。笠をそっと外し、腰を落とす。そうして風の所為か若干散らばった花をまとめていると、突然隣に立っていた火群様が翼を羽ばたかせたのが分かった。 「え?」 どうかしましたかと問う前に、 「火群様!?」 「藤貴!!」 隣から火群様の姿が消えたのと、思いがけぬ声に名を呼ばれたのとは同時の出来事。 驚いて振り返れば、そこには息を弾ませ駆けてくる椿さまの姿があった。 「椿さま!」 先程までお屋敷におられた椿さまが、何故ここに? やはりあの時、私の姿が見えていたのだろうかと思わず笠の効力を疑っていると、椿さまは私の前まで駆けてくると、微笑んだ。 「何故かしら。藤貴が、来てる、って、思って」 息を切らしながら告げた椿さまを見て、思い当たる。 もしかして── 「この花、椿さまが?」 思えば、村でも何処から流れてきたのか分からない母と私は非道く気味悪がられていた。そんな村で母の墓前に花を供えてくれる心優しき人は、椿さましかいない。 案の定、椿さまは大きく頷いた。 「ええ。たまたま来たら花が供えてあったから、藤貴が来ているのかなと思って。だから藤貴が生きているんだって分かって会いに行ったの。綺麗な花ね。何処に咲いているのかしら」 墓前に手を合わせた椿さまは、そう言って色とりどりの花を見遣る。枯れ始めてはいたけれど、花は未だに美しい色彩を残していた。 「あれは、天狗様が取ってきてくださった花なのです」 「そう。お優しいのね、天狗様は」 「はい」 頷いてみせると、「良かった」と椿さまは僅かに微笑んだ。 そうして、黙り込む。 (どうしたんだろう・・・) 椿さまに合わせて彼女の隣に腰を下ろしながら、横目で彼女を窺う。その面に張り付く憂いの理由が、分からない。そう言えばと彼女の背後を確かめてみるが、今は後神様は憑いていなかった。 (さっきは、あんなに楽しそうだったのに) 中庭で婚約者と談笑しているその横顔は、今の彼女の横顔とは正反対。婚約者の優しい瞳を受け止めて、彼女自身も穏やかに微笑んでいたのに、どうしてしまったのか。 何と声を掛けて良いのか分からず、一緒になって口を閉ざしていると、不意に彼女が呼びかけてきた。 「ねえ、藤貴」 「はい」 そうして告げられたのは、昨日彼女が私に告げたのと同じ言葉。 「・・・戻ってきては、くれないかしら」 「──── 」 何故と目を瞠れば、昨日は丈爺さまに─火群様に?─ 邪魔をされて聞けなかった言葉が、真っ直ぐな彼女の瞳と共に向けられた。 「── 私ね、藤貴のことが好きなのよ」 「え?」 あまりに思いがけない言葉に、絶句する。だけど、 (・・・ああ、だから、か) どこかで冷静な自分が、そう相槌を打っていた。 彼女が結婚をしたくない理由。後神様が言っていた未練とは、自分のことだったのだ。 「結婚なんてしたくないの。一緒になれなくても良い。でも、もう少しだけ藤貴と一緒に居たいの」 椿さまがそうして自分を思ってくれていたなんて、知らなかった。 彼女はとても優しい方だった。とても綺麗で、聡明で村主様の一人娘。 けれど、自分は身寄りがないが故に、仕方なくお屋敷に身を置くことの許された、ただのみなしご。 そんな自分など、椿さまに話しかけていただけるだけでも身に余ることだったのに、愛しいと思いを寄せてもらっていようとは、思いもしなかった。 「つ、椿さま・・」 何と言葉を返せばいいのか、分からない。 真っ直ぐに見つめてくる瞳に、ただ狼狽える。頬が赤くなるのが分かったが、それを治める術は知らない。 (火群様・・!) 思わず、天狗様の名を呼んでいた。 けれど、彼はここには居ない。きっと、近くで見てくれているはず。人間より視力も聴力も良い天狗様のことだから、この話もきっと聞いているはずなのに。 どうして出て来てくれないのだろう。 つい、不満が胸に湧く。何故なら、自分一人では、この状態をどうしていいのか、分からない。 先程のように、有無を言わせずここから攫ってくださればいいのに。 逃げ出したい思いに駆られながらも、必死でそれを堪える。 思いを寄せられて、嬉しくないはずがない。けれど、この思いに答えることが出来ない。けれど、彼女に悲しい顔をさせるわけにはいかない。けれど、彼女には婚約者がいて、その人は私よりも彼女に相応しい人。けれど、彼女は自分のことが好きだという。 けれど、けれど、けれど・・・。 結局、何という答えを唇に乗せるべきなのか、答えは出せない。 黙り込んでいる私に、椿さまが縋り付くような瞳で訴えてかけてくる。 「お願いよ、藤貴。お願い・・!」 「椿さま・・・」 彼女の熱い瞳を受け止めることが出来ず、逸らす。その瞳で、火群様を捜すけれど。 ─── やはり、居ない。 そのことに、落胆する己が居た。 そして、考える。 もし、己が彼女の手を取って、村に戻りたいと言ったら、火群様はどうするのだろうか。 飽きるまで居ればいい。 そう言ってくださった火群様。 「何だ、もう飽きたのかよ」 そう言って笑いながらヒラヒラと手を振るのだろうか。それとも、 「もう行くのか」 そう言って、引き止めて── 否、それは望みすぎだろう。少しでも別れを惜しんでくれるのだろうか。 「ねえ、藤貴」 必死な瞳で願いを請うのは、この村で唯一、暖かな思い出の人。この人が居てくれたから、きっと自分はここまで生きてこれたのだと思う。 そんな彼女の願いを自分如きが叶えることが出来るのだと、彼女は言ってくれるのだ。 出来ることならば、彼女の願いを叶えてあげたい。たとえその所為で、己の望みを捨てることになるのだとしても。 (─── 己の望みを、捨ててでも・・?) 気付いた。 答えは、すでに出ているではないか。 私の望みは─── 「お願い。藤貴・・・」 長すぎる沈黙に耐えかねたのか、椿さまの手が、徐に私の頬へと伸ばされる。 この白く細い手を、私は── 望みの為に。 その所為で、悲しませる人が居ても、もう、変えられない。 「椿さま、私は──」 それは、突然だった。 「人の子よ」 頭上から振ってきた低い声。振り仰ぐまで、それが、 「火群様!」 彼の声だとは気付かなかった。 「! て、天狗様・・・!」 驚きに目を瞠り、伸ばしていた手を引き戻した椿さまの様子に、その時になって私は改めて気付く。 常には人の目に姿を写させない火群様が、今ばかりは椿さまへと姿を見せている。しかも、顔を隠すための赤い面も、首から背に掛けたまま。 何故? 問う間もなく、火群様に腕を掴まれ、 「火群様!?」 立ち上がらされたかと思うと、その胸に引き寄せられていた。 驚いて見上げると、彼の視線は真っ直ぐに、驚きに目を瞠ったまま固まっている椿さまを見つめていた。 「これはオレの嫁だ。お前たちがオレに差し出したんだろーが」 変わらず、低い声。 それはまるで私を差し出した村人を責めるかのように、厳しい響きを帯びた言葉だった。 確かに村の人たちはみんな私を差し出すことに反対をしなかった。けれど、この椿さまだけは違う。 「違うんです、火群様。この方は── 」 私の言葉が皆まで紡がれることはなかった。 「これは、返さぬぞ」 「───── 」 思いがけぬ言葉。 行くなと、引き止めてくれる言葉。 (諦めなくて、良いんだ・・・) 己の望みを貫いても良いのだと、知らせてくれる言葉。 突然現れた天狗様の言葉に、椿さまは黙って頭を垂れた。 「火群様」 そっと彼の胸を押し、体を離させていただいてから、椿さまのお側に寄る。 告げようとして、火群様に邪魔されてしまった言葉を、改めて告げるために。 「椿さま、私は天狗様の花嫁なのです。私が望んで、嫁いだのです。だから── 」 だから、椿さまが己を責めることなどないのです。そして、 「だから、椿さまを幸せにして差し上げることが、私にはできません」 「・・・藤貴」 「それに─── 」 言葉は、途中で消えた。 遠くから、声。 「・・あれは」 そのことに、椿さまも気付いたようだった。 椿さまを呼ぶ、心配そうな声。 「あの方は良い御方です。きっと椿さまを幸せにしてくださいます。そうでしょう?」 「椿さ ──── ん!」 近付いてくるのは、婚約者の声。 「─── ええ」 椿さまは、小さく小さく頷いた。僅かに涙を溜めた瞳で、それでも、確かに頷いた。 そうして、迷いを断ち切るように、すっくと立ち上がる。 「ありがとう、藤貴」 僅かに震える声。 「いいえ。私の方こそ、椿さま」 次第に、声が近付いてくる。 「さよなら、椿さま」 「・・・・」 今度は、答えてくれなかったけれど。 「火群様」 そっと腕を取り、行きましょうとねだる。 「・・・良いのか?」 少し心配そうな顔で見つめてくる火群様に、頷いてみせる。 もう、自分がここに居る必要はない。居ない方が良い。 だから、 「行きましょう」 自分から、彼の首に腕を回した。 「・・・・分かった」 しばしの逡巡の後、私が望んだとおり、体が宙へと浮いた。少し体温の高い腕に、何だかほっとする。 「行くぞ?」 「はい」 頷いて、最後にもう一度だけ、椿さまへと視線を遣る。 彼女は此方を見てはいなかった。僅かに震える肩で、こちらに背を向けている。 ─── もう、振り返らない。 彼女の決意が、そうさせているのだと、そう思いたい。 ふわりと、体が浮く。 バサリと翼が羽ばたく音。そして、 「お前も行くんだよ 」「え?」 何のことだと見遣れば、 「ちょ、おい! 離せ! 離さぬかっ!!」 火群様に襟首を掴まれ、じたばたしている後神様が其処には居た。 気付かなかったけれど、どうやらこの場にいたらしい。 火群様は私と後神様を手に、軽々と空へと飛び立った。 遠ざかって行く、椿さまの姿。未練がましく彼女の姿を見つめ続けるのはやめよう。そう思って視線を外そうとしたその時だった。 不意に椿さまが、天を振り仰ぎ、 「藤貴─── っ!!」 私の名を呼んだ。 それに、どんな思いが込められているのかは分からない。 決意からか、未練からか。 分からないから、私はただ彼女に手を振って見せた。 何か彼女が言ってるようだったが、もう、その声は私には届かなかった。 |