お天気は、今日も快晴。
 少し晴れが続きすぎているような気もするけれど、新緑の緑を美しく照らしてくれる春の陽を追い払うのは少し気が引ける。そう言って火群様は雨を呼ばない。村の人たちも同様なのか、雨を請う声は今は未だない様子。
 穏やかな昼下がり。
 昼食を終え、春の穏やかな陽気と満腹感とでこっくりこっくりと舟を漕いでいた火群様を呼び起こしたのは、
「カー」
一羽の烏だった。
 窓辺から聞こえたその鳴き声に気付いた丈爺さまが、すぐさま烏の元へと寄り、火群様へと声をかけた。
「若。祠に人が来ておるようですぞ」
「あ〜?」
 面倒だと顔に書いてある火群様に丈爺様が焦れて、寝そべっている火群様の肩に止まると、容赦なくその頭を突く。
「わ〜か〜っ!!」
「分かったって、爺! 行く行く!」
「よろしい」
 ガツガツと嘴で突かれた頭をさすりながら、火群様がようやく体を起こす。
 人が来ていると丈爺さまは仰ったけど。
「・・誰でしょう」
 きっと陽稲ひいな村の人だろうけど、何だろう。何か火群様にお願いごとでもあるのだろうか。
「カー」
「うむ。おなごのようじゃぞ」
「仕方ねーな、見てくるか。藤、お前はここで待っていろ」
「・・・はい」
「行くぞ、爺」
「あい!」
 バサリと背の翼を広げ、火群様は丈爺様を連れて、塒を飛び出して行ってしまった。
(・・誰だろう。気になるなァ)
 一体誰がやって来たのだろうか。
 ここに嫁いできて初めての訪問者。
(かような時、火群様はどうされるのかな・・・)
 おそらく何か天狗神様にお願いごとがあって、この緩やかとは言えど、獣も多く住む雛菱山ひなびしやまをおなごが一人で上がってきたのだろう。それほどまでに、叶えて欲しい願いごととは。
(・・それを、火群様は叶えてあげるのかな)
 もたげた興味が萎えることはない。
 知らず、私は立ち上がってしまっていた。
(・・・勝手に行っては怒られるかな)
 火群様は「待っていろ」と仰ったけれど、少し見てみたい。かようなとき、火群様が如何にして人の願いを聞き届けるのか。もしくは、拒むのか。
 気付けば、ご神木の中、螺旋状の階段を急ぎ足で駆け下りていた。
 薄暗い階段をひたすらに下りていく。
 この階段を使ったのは、これで二度目。
 一度目は川へ洗濯へ行く時。しかし、それも途中で止められた。突然、後ろから抱き上げられ、あっという間にご神木の中から宙へと攫われていた。 
「言えよ、藤」
 下に下りたい時にはオレに言えと仰ってくださった火群様。
 その後も、申し訳がありませんからと断る私を無視して、少し不機嫌そうな顔で有無を言わさず運んでくださり、今日に至る。だから、これが二度目。
 否、初めてと言った方が良いかも知れない。初めて自分の足で塒から祠へと下りた。
 階段は祠の中へと繋がっていた。
 格子の窓からそっと外を覗いてみる。祠の前では一人の女性が手を合わせ、祈っていた。唇を真一文字に引き結び、眉根に僅かに皺が刻まれている。憂い顔の、その人は、
「椿さま!」
 そこに居たのは、三日前、久しぶりのそのお姿を拝見した、椿さまだった。
(何故、かような所にお一人で?)
 すぐにでも祠から飛び出して行きたい衝動を必死で堪えている所へ、消え入りそうな椿さまの声が聞こえてきた。
 願いを紡ぐ声。
 その願いが、私をまた驚かせた。
「お願いいたします、天狗様。藤貴に会わせてください」
「椿さま・・?」
 私に、会いたいと願う声。
 では、彼女は山を登り、私に会いにきてくださったということなのだろうか。それが、彼女の願い。
 呆然と立ち尽くしていると、不意に後ろから肩を叩かれ、驚いて振り返る。
 そこには、火群様が立っていた。
「来たのか、藤」
「す、すみません。気になってしまって」
 祠の中は明かりがなく、火群様の顔をはっきりと窺うことが出来ない。怒っておいでだろうかと慌てて謝った私に、
「まあ、いいさ」
 気にするなと手を振り、火群様は祠の外へと視線を遣った。
「・・・椿さまは、何を?」
 火群様に何をお願いになったのかと問えば、小さな声で火群様が答えてくださった。
「結婚する前に、お前に会いたいんだとさ」
「・・・私に?」
 それは、とてもありがたいお言葉。でも、何故?
 結婚することを私に報告に来てくださったのか、それとも、天狗様に嫁いだ私を心配して、様子を見に来てくださったのだろうか。
 彼女は唯一、天狗様の元へ嫁ぐ私の身を案じ、涙してくれた優しい人だったから。
 立ち尽くす私の鼓膜を再度震わせたのは、先程よりも強さを増した椿さまの声。
「お願いします、天狗様。藤貴に会わせて!」
 願いを請う声に、火群様は答えない。
「・・・火群様」
 恐る恐る、火群様に視線を遣る。そして、請う。
「行っては、なりまぬか?」
 沈黙は、一瞬。
「・・・行ってやれ、藤」
 ぽん、と肩を押される。
「ありがとうざいます!」
 どういたしましての代わりに、すっと火群様が手を翳す。それに応えて、祠の扉が大きな音を立てて押し開かれた。
 眼前に、驚きに目を瞠っている椿さまの姿。
 再度お礼を言わねばと振り返ったものの、そこにもう火群様の姿はない。
「藤貴!!」
 名を呼ばれ振り返れば、泣き出しそうな顔で笑っておられる椿さまの姿がそこにはあった。
「椿さま! かような所までお一人で来られるなんて。危のうございます」
 祠から飛び出し、地面に膝をついておられる椿さまに手を貸し、その体を起こさせていただく。
「だって、どうしても藤貴に会いたかったの!」
「椿さま・・」
 その理由が皆目見当も付かない。
 取り敢えず、断ってから膝についた土を払わせていただき、祠の階段へと椿さまを導く。
「かような所まで歩いてこられるなんて、お疲れでしょう。足は、痛くはありませんか?」
「平気。大丈夫よ」
 祠の階段へと腰を落ち着けられた後、椿さまは膝の上で組んだご自分の両手へと視線を落とし、黙り込んでしまった。
 その横顔が何だか苦しそうに見えて、迷う。
 その理由を尋ねても良いのか、否か。迷った末に、問うのはやめた。代わりに、当たり障りのない言葉を口にしていた。
「・・・椿さまはお元気そうですね。安心いたしました」
 そっと笑みを向けると、椿さまも顔を上げ、切ない色を残したままではあったけれど、私に笑みを返してくれた。
「ええ。藤も元気そうね。良かった」
 そして、そっと私の頬に手を触れさせ、椿さまは笑みを心配顔に変えた。
「天狗様に酷い目に遭わされたりなどしていない?」
 その問いに、私は即座に首を左右に振って答える。
「勿論です。天狗様は、とてもお優しいお方ですので」
 その答えに被さるようにして、祠の中から火群様の不機嫌そうな声が聞こえた。
「当たり前だ、小娘
 それは椿さまの耳には届かなかったらしい。どうやら私と椿さまのことが気になって、祠の中から様子を見てくださっているらしい。
「そう。良かった」
 私の答えに心配顔を消した椿さまは、ほっと安堵の溜息を零す。
「ずっと心配だったの。男の貴方を天狗様の嫁にやるなんて。お怒りを買って藤貴が・・殺されたりはしていないかと」
「椿さま・・」
「みんなを止められなくて、ごめんなさいね」
 そう言って泣き出しそうに顔を歪める椿さまに、私は首を左右に振る。そうして、笑みを浮かべて告げる。椿さまがご自身をお責めになることは何一つないのだと伝えたくて。
「いいえ、椿さま。私が行くと申したのですから。それに、私は今でもこうして生きております。なかなか楽しく生活させていただいておりますよ」
 けれど、椿さまの顔は私の言葉を疑っている様子。
「・・・本当に?」
 無理をしているのではないかと問う瞳に、
「ええ。本当です」
 微笑みながら頷いてみせる。
「・・・そう」
 真っ直ぐな瞳が、ようやく逸らされる。けれど、未だ疑っているのが、僅かにとがらされた唇から見て取れた。
 椿さまのお強い瞳の前では、私の嘘などすぐに見破られてしまうのに。
 また、沈黙。何かを考えておいでの横顔を、ただじっと見つめるしかない。話したいのに、口を開くことを躊躇っている。そんな椿さまのご様子に、ただ、待つことにする。
 風がそよそよと私の髪を、椿さまの髪を揺らす。
 そうしてしばしの沈黙の後、椿さまは口を開いて私を呼んだ。
「ねえ、藤貴」
「はい。何でございましょう」
 そっと返事をしてその先を促すと、椿さまは視線を足下に落としたまま、言った。
「───私、結婚することになったの」
 では、やはりあれは見合いだったのだ。お相手の御仁もお優しそうな方だったし、良かった。
「それは、おめでとうございます!」
 心からお祝いの言葉を捧げる。けれど椿さまはそれを笑顔で受け止めてはくれなかった。視線を落としたまま、彼女はポツリと告げた。
「・・・本当は、嫌なの」
「え?」
 嫌、とは。ご結婚が嫌、という意味だろうか。その他に、受け止めようがないのだけれど。
 確かに見合いのお話を旦那様が持ってくる度に、
「私は私が惚れたお方と一緒になるの」
 そう言って突っぱねておいでだったけれど、今回のお話も、やはりそうやって拒まれたのだろうか。けれど、拒みきれなかったということ?
(だけど、そんな風には見えなかったのに・・・)
 思い返してみても、確かに緊張をされているご様子ではあったけれど、お相手の男性とお二人でお話をされていた椿さまのお顔は、決してそんな風には見えなかった。
 己の感情に素直でいらっしゃる椿さまのこと、本当に不服ならば、あの時にだってお相手の方にお断りを申し上げていたはず。椿さまの気性は、そう。だから、きっと不服には思っておられなかったに違いない。
 それが、何故、今こんな所で、「嫌だ」と訴えておられるのか。
 分からない。
 何と答えていいものか迷っていると、再び椿さまが私の名を呼んだ。今度は、落としていた視線を私に戻して、真っ黒な瞳で私を見つめながら。
「ねぇ、藤貴」
「・・はい」
「村に帰ってきて」
「え?」
 それは、思ってもない言葉。
 目を瞬かせる私に、椿さまは畳みかけるように仰った。
「村に戻ってきてよ、藤貴。私がお父様を説得するわ。天狗様にだって私がお願いするから! だから、お屋敷に戻ってきてちょうだい」
「椿さま・・?」
 何故。
 その理由を告げるため、椿さまが口を開く。しかし、その言葉は思いがけぬ闖入者によって遮られてしまった。
「私、藤のこと───」
「カアアアアアアアァァァァァーーーーーーーーーッッ!!」
「きゃっ」
「え!?」
 突如、私と椿さまの眼前を、
「丈爺さま!!?」
 丈爺さまが、凄まじい早さで飛んでいった。
 丈爺さまはそのまま先の木に盛大に顔面からぶつかり、ボトリと地面に落ちた。
「───
「こ、この烏は、いったい・・・?」
 突然、間に割って入ってきた丈爺さまに、椿さまは目を丸くして地面に落ちた丈爺さまを見つめている。
 彼女の瞳には、丈爺さまはただの烏にしか写っていないようだった。
 一体、何だと訊ねられれば、
「これは、天狗様のカラス様です」
と答えることは出来る。だが、一体どうしてと問われれば、私も首を捻るしかない。
 と、地面に落ちたままになっていた丈爺さまが不意に顔を上げ、バサバサと飛び上がる。そして、ご自身が私と椿さまの間に飛び出す元凶となったお方の方へとまっしぐらに飛んで行った。
 それは、祠の中。
「バカ若ァァァァァ! な、な、な、何をなさいますかーーーーーーー!!」
 再び、ビュンッ! 私と椿さまの前を突っ切って祠の中に飛び込んでいく丈爺さま。
「・・・・悪い。手が滑った」
 どうやら、手が滑って・・・・・・って、どういう状態なのか、全く分からないけど、とにかく火群様が丈爺さまを投げたらしいことはうっすらと理解した。
 すっかり雰囲気を壊された私と椿さまの間に、再び沈黙が落ちる。
 その時だった。
「お嬢様〜!」
 遠くから、椿さまを呼ぶ声。
「お屋敷の方ですね」
 心配して椿さまを迎えに来たのだろう。
「今日は帰ることにするわ」
 次第に近付いてくる声に、溜息を零した後、椿さまは立ち上がった。歩き出し、二、三歩で立ち止まり、振り返る。
「また、会える? 藤貴」
「はい」
 縋るような瞳に、否やを唱えられるはずもなく、頷いて見せる。それを見て、椿さまは顔に笑みを戻しひらひらと手を振ると、くるりと踵を返し山道を駆け下りて行った。
 その後ろ姿を見送っていると、不意に木陰から何か黒い人のような物が飛び出したかと思うと、
「ッッ!!!」
 其れが、椿さまの背にピタリと寄り添った。
「!!! ほ、火群様っ!! あれは・・・!?」
 慌てて祠を振り返り火群様を呼ぶ。
 何だと祠を出てきた火群様が椿さまの後ろ姿を見遣り、ぽんと手を打った。
「ああ。後神だな、あれは」
「うしろがみ?」
 それは何ですかと問う前に、
「・・・よし♪」
 ニッとお笑いになった火群様が私の隣から姿を消し、
「よっと」
 あっという間に椿さまの所まで飛んで行くと、彼女の背にくっついていた其れの襟首を引っ掴んだ。
「な、何をするのじゃ! 離せぃ!!」
 火群様の手の下で、黒い人のような其れがじたばたと暴れるが、椿さまにはそれが聞こえないらしい。そのまま椿さまのお姿は山の中へと消えていってしまった。
 残ったのは、火群様と、その手に捕らえられた・・・其れ。
 うしろがみ、と火群様は言っただろうか。
 其れを掴んだまま火群様が此方へとやって来る。
 近付いてくる其れを見れば、ねずみ色の小袖を纏った・・・・女性、のよう。だが、その小袖を隠す勢いで伸びた黒髪は地面に着くほどに長い。顔を窺うことも出来ぬほどの髪、その髪の付け根、頭のてっぺんに、
「目!!!?」
 大きな目玉が一つ、ギョロリと光っていた。
 妖怪。
 思いっきり後ずさりした私に構うことなく、火群様とその妖怪は未だバタバタと何やらやっている。
「離せ離せ離さぬか!」
「まあ、落ち着けって、後神。オレだ、オレ」
「ん? おお、何じゃ。天狗ではないか。久しいの」
 ・・・・・・知り合い!?
「って、妾は今、仕事中じゃ。邪魔するでないよ!」
「まあ、いいからいいから。来いよ」
 ずるずると其れを引きずりながら祠まで戻ってきた火群様。
「あ、あの、火群様。この方は?」
 恐る恐る問うと、ようやく火群様は其れを襟首を解放した。
「コイツは後神うしろがみ。陰気な妖怪だ」
「は、はぁ
「此奴は人間の後ろ髪を引く妖怪じゃ。やれやれと人をそそのかし、土壇場で髪を引いて引き留める」
 丈爺さまの説明に、「あ」と思い当たる。
 この後神様は、椿さまに憑いていた様子。
 先日、覗き見た際には、椿さまもご結婚に満更でもないご様子だったのが、今日になり「嫌だ」と仰っているのは、もしかして、もしかしなくても。
「椿さまも?」
「そうじゃ。あの娘が結婚に踏み切れぬのも、こやつが後ろ髪を引いている所為じゃ」
 いけずじゃのぅ、と言いながら髪をつついてくる丈爺さまに、唐突に後神様が地面に倒れ伏した。
「!!!」
 バタン!! と音をさせて地面に倒れた後神様のあまりに唐突なその行動に、再び面食らっていると、地面に倒れたまま、後神様がおいおいと泣き始めた。
「そうやって皆して妾を悪者にするのじゃな!」
「だって、一分の隙もなくお前が悪いんじゃねーか」
「妾とてこんなことはもう嫌じゃ! でもやらねば妾の存在している意味がなくなってしまう。 ああああああああああああああああ、もう、ほんに嫌じゃあああああああああああああああううううううぅぅぅぅ」
「う、う、後神様!!?」
 わんわん泣き出してしまった後神様に私が盛大に引いている隣で、火群様と丈爺さまは慣れた様子。
「うーん。今回も大分鬱ってるな」
「まあ、陰気な性格ですからのぅ」
 どうやら今に始まったことではないらしい。が、この泣きっぷりは、凄まじい。何か声を掛けねばと、恐る恐る後神様に近付き、その肩に手を触れさせていただく。 
「あ、あの、かような所では何ですので、どうぞ上で一休みなされてはいかがです?」
 すると、ピタリと後神様は泣き止む。そして、
(ヒィィィィ
 頭のてっぺんにある大きな瞳で、じっと私を見つめてきた。思わず後ずさる私の腕を、火群様が掴む。
「仕方ねーな。お前は自分で上がれよ?」
 その言葉の意味が分かったのは、
「よっと」
「わっ」
 火群様の腕に抱き上げられてから。
 どうやら、後神様を家に上げることを許してくださったよう。
「あ、火群様。私も、後神様と共に参りますゆえ──」
 少々面妖ではあるけれど、お客様はお客様。私一人がこうして運んで頂くのは忍びない。結構ですと告げる前に、その言葉は遮られてしまった。
「あんなに階段が多くては足を痛める。大人しくしてろ」
「でも──わっ!」
 有無を言わさず、飛び立ってしまった。あっというまに後神様の姿が遠ざかる。
(本当に上って来られるのかな・・)
 あのまま地面に倒れて泣き続けるのではないかと見守っていれば、
(あ、良かった)
 後神がのろのろと立ち上がり、祠の中に入っていくのが分かった。どうやら自分の足で上ってきてくださるらしい。
 良かった。
 と安堵の溜息をつく内に、私の足は家の床を踏んでいた。すぐに湯を沸かし、お茶を淹れる。
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・」
 そうして、完全にお茶が冷めた頃、後神様はやって来た。
「さ、冷めましたね。淹れ直しますゆえ」
「否、これでちょうど良い」
 少々お待ちをと告げる前に、後神様が湯飲みを取り、中の冷めた茶を一気に口へと流し込んだ。髪の毛に覆われていて何処が口だか分からなかったけれど、ボタボタとお茶が床に零れ落ちなかった所を見ると、どうやらきちんと口に流し込んだらしい。
 お代わりを淹れようと湯飲みを取って立ち上がった。
「何だよー、後神。また鬱ってんのか、お前」
「また、なのですか?」
 やはり火群様と丈爺さまがあの豪快な号泣に微動だにしなかったのは、これが初めてのことではないから、らしい。
「時々こうやって愚痴りに来るんだよ、コイツ」
「鬱憤を晴らしたいだけのことじゃ。気にするな、藤」
「は、はぁ」
 あの泣きっぷりを見るに、余程、鬱憤が溜まっておられるんだろうなァ。
 ちょっと同情しつつ、淹れたお茶を後神の前へ置く。すると後神様がじっと私を見つめ、火群様に問うた。
「ときに、天狗。この人の子は何だ?」
「コイツは、藤。オレの───」
 とそこまで言って、火群様が口を閉ざす。
 何と紹介したものか、迷ったらしい。
「・・・の?」
 促す後神様に答えたのは、丈爺さまだった。
「この藤は、若の花嫁じゃ」
 その言葉に顔を赤くして、火群様は立ち上がる。
「違!」
 と、そこで私の顔を見て、慌てて座る。
「・・・いや、まあ、違わねーけど」
 どうやら気を遣ってくださっている様子に、思わず私は笑ってしまっていた。
 確かに私は男だし、堂々と「花嫁」と言われても、何と言うか、申し訳がないと言うか。火群様が躊躇う気持ちも良く分かるし、別に構わないんだけど。でも、そうやって気を遣ってくださっているのが分かるのは、嬉しい。
「花嫁! 花嫁とな!!」
 頭のてっぺんの目を更にギョロリと見開き、後神様は今度は、
「ひぃ〜っひっひっひっひっひっひっひ!!!」
 爆笑を始めた。
 それも、何だか辛気くさい爆笑。
 笑いすぎて滲んだらしい涙でしとどに己の髪を濡らし、それで冷静になったのか、後神様はようやく笑い声を納めた。それでも、まだ機嫌は良いらしい。顔が見えないので声でしか分からないが、弾んだ声で火群様に話しかけ、そして私に声を掛けてくださった。
「なんとなんと! そうであったか、天狗よ。これはお目出度いことではないか。宜しくのぅ、藤や」
「え。あ、はあ。宜しくお願いいたします」
 正直、宜しくされても困るのだが、お客人のご機嫌を損ねてはならない。
 曖昧に頷いただけだったが、後神様はそれで満足したらしい。
 湯飲みを手に取りながら、溜息混じりに呟く。
「羨ましい話よのぅ。妾にも、何か良い縁談が来ぬものかのう」
 やはり女性らしい。夢見がちなその台詞をサクッと切ったのは、火群様。
「人の後ろ髪引っ張ってばっかのお前に良縁が来るとは微塵も思えねーな」
 それが、また後神様の涙腺を爆発させる一言となった。
「そんなに言わなくてもおおおおぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおお!!」
 絶叫し、再びわぁっと泣き伏してしまった。
「だぁああああって、仕事なんだから仕方がなかろう!! これが妾の性なのじゃああああああああああああ!」
「ほ、火群様
 再びの号泣。
 ちょっといじめすぎなのではと火群様の袖を引くが、火群様はけろっとしたお顔。
「いいんだよ、藤。コイツはいつもこうやって号泣して、鬱憤を晴らして行くんだから」
 泣かせてやる方がいいんだと仰るのだが、
「はあ。そうですか・・」
 ちょっと、可哀相な気がする。
 疫病神と人間から嫌われ、そんな自分を厭いながら、それでも人間の後ろ髪を引くことが存在意義であり、やめることが出来ないのだと嘆く妖怪。
 なんて、人間臭い悩みなんだろう。
「後神様、どうか元気を出してくださいませ」
「無理ィィィィ! 無理ィィィィ〜!!」
「・・・そうでございますか」
 果敢にも後神様を励ましてみようと試みたが、悲壮な声で呻かれ、すぐさま私の心の方が折れた。もう私にはどうしようもないので、取り敢えず火群様の仰るとおり、そっとしておくことに決めた。
 やがて日が暮れ、「放っといたらいい」という火群様と丈爺さまのお言葉に従って、客人を放置して夕食を作り、用意を終えた頃になって、ようやく後神様の泣き声が止んだことに気付く。
 振り返って見れば、後神様はようやく落ち着いたらしく、お茶をすすっていた。が、その髪は涙に濡れて体にへばり付いてしまっている。散々たる様子。だが、気持ちは晴れたらしく、何やら火群様とお話をしていた。
 夕食を食卓へと並べながら、折をみて後神様に声を掛けさせていただく。 
「あの、後神様?」
「なんじゃ。花嫁」
(ひぃ!)
 ギョロリと向けられる瞳には、まだ慣れない。
 思わず半歩後ろに下がりつつ、私はずっと聞きたかったことを、思い切って彼女に問うてみた。また泣き出すのではないかと、ひやひやしながら。
「い、今は、椿さまの髪を引いておられるのですか?」
 すると、意に反してあっさりと後神様は首を縦に振った。
「そうじゃ。何故なら、あの娘には未練がある」
 椿さまが、結婚が本当は嫌なのだと言っていた理由。それは、全て後神様の所為ではないらしい。彼女自身に未練があるために、後神様を招いてしまったのだろう。
 結婚に踏み切れぬ、椿さまの未練。
「・・・未練、ですか」
 それは、一体、何?
 恋した者に嫁ぐことを夢見ていた椿さま。その幼いころの夢が、彼女を引き止めているのだろうか。
 考え込んだ私に後神様が「おや」と意外そうな声を上げた。
「花嫁、そなた、気付かぬか?」
「え?」
 では、後神様は、ご存じということなのだろうか。椿さまの未練が、何なのか。
 きょとんと目を瞠った私の隣で、火群様が不機嫌な声で言った。
「おい。余計なこと言うなよ、後神」
「おや、天狗。何を焦っておる」
「うるせー。追い出すぞ」
 後神様の襟首を掴もうと立ち上がった火群様を見て、慌てて私も立ち上がり火群様を宥める。
「ま、まあまあ。夕食が用意できましたので、どうぞ後神様も」
「これはこれは。ありがたいのう」
 火群様は不機嫌なお顔のままだったけれど、後神様は喜んでくださったらしく、用意した夕飯を全て平らげた。
 けれど、その後、何度私が椿さまのことを訊ねようとも、後神様は
「天狗に怒られるでな」
 笑いながらそう言って、何も教えてはくれなかった。
 そうしてすっかりと夜も更け、涙に濡れた髪も乾いたのか、未だ少し冷たい夜風にサラサラと黒髪をなびかせ、彼女は立ち上がって暇を告げた。
「では戻るか。馳走になったのう、花嫁」
 ここへやって来たときの重たい足取りは何処へやら。トントンと軽快に階段を下り、後神様は去って行った。
 代わりに、私の中にもやもやとした嫌な物が残っていた。