「良いお天気」
 空は、真っ青。
 茂る緑の向こうに垣間見える空の美しさに、思わず溜息が零れる。
 視線を更に遠くへと巡らせれば、山々の緑と、其れを覆う青が何処までも続く。
 天を仰ぎ、遙か遠くを眺め、最後は下、なのだけれど、
「未だ、無理みたい・・」
 見るのは、止しておこう。
 ここは、雛菱山ひなびしやまに棲む天狗様─火群ほむら様のねぐら。雛菱山の山頂に佇む巨木─ご神木の上が、此処。
 下を見れば、たちまち足が竦むほど高い枝の上に、この塒はあった。
 火群様の元へと嫁いできてから、早五日が過ぎた。
 初めは驚きばかりだった此処での生活にも、ようやく慣れてきた。
 家の中に居れば高さも忘れることが出来たけれど、
「此処は、慣れないなぁ」
 家の外。
 2本の太い枝の間に渡された数枚の板の上。そこが、物干し場。手すりも何もなく、板から足を踏み外せば、真っ逆さま。きっと私のこの体は地面で砕けてしまうだろう。
 この場所だけは、慣れない。
 一度、恐怖よりも興味が勝り、下を覗き込んだことがあったけれど、その時にはあまりの高さにめまいを起こして落ちかけた。火群様に手を掴んでいただき、危ういところを助けていただいたのは嫁いできた翌日のこと。
「/////」
 思い出すだけで恥ずかしい。
 幸いにも頬の熱は、涼やかな風が攫っていってくれた。
 季節は、春先。
 まだまだ朝夕は冬の名残か、肌寒い。村にいた頃であれば、床についても、薄い布団一枚では寒さで目が覚めてしまう季節。けれど、此処に来て、火群様と床をご一緒させて頂いているおかげか、おそらく地上よりももっと寒いであろうご神木の上でも、目が覚めることはない。
 火群様は、温かい。
「子供みたいに」
 思い出して、笑いが零れる。
 幸いにも、耳の良い火群様はカラスの丈爺たけじいさまを連れて、どちらかへお出かけの最中。
 いくらか体温がお高いらしい火群様のおかげで、寒さに目を覚ますこともない。
 子供みたいと言えば、お怒りを買うかもしれないから、心の中だけに止めておこう。

「・・・・そう言えば、お幾つなんでしょうか」
 鋼のように堅い髪は血色。烏が如き瞳もまた血色。身の丈、8尺。腕や足は丸太の様。
 と、村では恐れられていたけれど、火群様のお姿は噂とは全く違っていた。
 確かに背は、私の頭一つ分はお高いけれど、6尺程度。村の男たちとその腕の太さは変わらない。髪の毛も、確かに赤い色をしておられるけれど、手触りは私のものと変わりはなく、瞳も色こそ違えど、我々と同じ。ちょっとだけ、悪戯っ子の光を多く宿しておいでだけれど。
 ただ、そのお背中には、人間には決して無い、黒い翼がある。
 黒く艶めいて、美しい翼。
 何処へでもすいっと飛んで行ける、羨ましい翼。
 そして、いくら人間に似ておられると言っても、やはり天狗様は、妖怪。
「きっと、長生きに違いない」
 私よりも永きの時を生きてこられたに違いない。そして、私が死んだ後も、永くお生きになるに違いない。
「・・・今度、聞いてみようかな」
 お幾つですかと、聞いてみよう。
 お答えくださるだろうか。
「よし。これで終わり」
 洗濯物も、これで終わり。干し場の上に伸びた枝に其れを掛けようと腕を持ち上げた、その時。
「────ッッ!!!!」
 目の前の枝の上に、蛙が二匹居た。しかし其れは、ただの蛙ではなかった。
 二本の足で立ち、水干に烏帽子をかぶっていて、しかも、
「ほうほう。此れが天狗の花嫁か」
「こりゃこりゃ。なかなか別嬪じゃ」
 喋った。
「────お、お、驚きました・・っ!」
 ここに来てから、何匹もの妖怪がやって来た。
 皆、火群様が嫁を娶ったと聞いて、私を見にやって来る。いつもこうして唐突においでになるものだから、本当に驚く。
「ほうほう。驚いた。我らが見えるか、花嫁」
「は、はい。初めまして。藤と申します」
「こりゃこりゃ。流石は天狗の花嫁じゃ」
「恐れ入ります」
 此処を訪れる妖怪たちは皆、私が自分を見ることが出来るとは思っていないらしい。だから、突然目の前に現れる。此方が驚けば、妖怪もまた驚く。そして、愉快愉快と笑って帰って行く。そんな私と妖怪とのおかしな対面が毎日続いていた。
 目の前のお二人も、楽しそうにゲコゲコと笑っている。
「では、行くか」
「おう。行こうか」
「あ。どうぞお上がりになってください」
 もてなさずにお返ししてはご無礼かと引き留めたけれど、
「ほうほう。出来た嫁じゃ」
「こりゃこりゃ。婿殿のおらぬ時に上がり込むのは気が引ける」
「また来よう」
「また頼むぞ」
 気ままに現れては、気ままに去る妖怪たち。
「はい。では、また」
「さらば」
「さらば」
 そう言って、蛙の妖怪たちはぴょんと跳ねると、緑の枝葉の向こうに消えていった。
「・・・・どうやって上ってきたんだろう」
 この高さを、枝から枝へ、ピョンピョンと跳ねて上ってきたのだろうか。
「ふふ。可愛い」
 水干に烏帽子をかぶった蛙二匹が、頑張って樹を上ってくる姿を想像して、思わず笑いが零れた。
「・・・・・」
 けれど、一瞬にして、冷めた。
 きっと、この反応は、普通の人の子とは違うのだろう。人の子であれば、妖怪を目にすれば、腰を抜かして恐れ戦くのが普通。
 私は、普通ではない。
 何故なら、こうして妖怪たちを見かけることに、慣れているのだから。
 幼い頃から人ではない彼らを見て育ったし、母親もまた彼らと会話を交わしていたものだから、知らなかった。
 母が死に、村主様のお屋敷に引き取られ、お屋敷の人たちから
「気味が悪い子」
「何も無い所を見て悲鳴を上げるんだよ」
「この前は鼠と喋っていたよ」
「何かから逃げていたり」
「可哀相な子だよ」
 そう言って奇異の目で見られて初めて、彼らが普通の人には見えない者たちなのだということを知った。
 そして、自分が普通ではないことを知った。
 そのことに気付いた私が、見えない振りを覚えても、もうお屋敷の人たちの目は変わらなかった。
「────」
 胸が冷える、悲しい思い出。
 私を見るお屋敷の人たちの目が、忘れられない。けれど、そんなお屋敷の中で只一人だけ、
「貴方って面白いのね!」
 そう言って笑いながら、手を握ってくれた人が居た。
「・・・お元気でいらっしゃるかな」
 村で唯一、温かな思い出の中に居る人。
「椿さま・・・」
 お屋敷の一人娘。確か、二つ程年上だっただろうか。
 私が知らんぷりを覚えた後も、妖怪たちはおもしろがって私の前に姿を見せた。
 旦那様のお部屋に運ばなければならなかったお茶請けの皿に腰掛けている、小指ほどしかない翁を、必死で追い払おうとしていた私を見て、椿さまは目を丸くした後、
「貴方、何をしているの」
 首を傾げて問うてきた。
 しまった。見られたと肝が冷えた。お嬢様に見られてしまったからには、旦那様に告げ口をされて、ここを追い出されるに違いない、と。
 涙が出そうになったその時、椿さまは言った。
「貴方、妖怪が見えるの!? 素敵! 私も見たいわ」
 お転婆なお嬢様。
 そう言ってみんな困った顔をしていたけれど、私は椿さまが大好きだった。
 あの方だけが、あのお屋敷で私の味方をしてくれた。こっそりお菓子をくださったし、一緒に屋敷を抜け出して遊んだこともあった。
「その後は、こっぴどく叱られたけど」
 お屋敷に連れ戻されては、私だけが叱られた。それを知って、椿さまは私を叱った大人たちを叱ってくださった。
「・・・どうしておられるかな、椿さま」
 気付けば、自然と村の方を見ていた。
 あそこに私の居場所はなかったけれど、それでも、若干の懐かしさが胸にこみ上げてくるのは、椿さまのおかげ。
 私が天狗様に嫁ぐことになったとき、只一人、泣いてくださった御方。
「・・・元気だと良いのだけれど」
 椿さまが、この村で唯一、暖かな思い出。
 風がそよと頬を撫でる。ふと、頭上に影が差したことに気付き視線を上げると、そこには赤と黒の色彩。
「藤!」
 肩に丈爺さまをお乗せになった、火群様が黒い翼を広げてそこに居た。
「火群様。お帰りなさいませ」
 微笑んで迎えるけれど、火群様はまたお出かけになるおつもりなのか、体を宙に浮かせたまま。
「藤、仕事は終わったか?」
 火群様はいつも浮かべておられる快活な笑みを私に向ける。こうしてお笑いになると、白い歯の中に、二本の鋭い八重歯が見える。それを恐ろしいとは思わない。やんちゃな子供の笑みに似ていると言えば、この方はどんなお顔をされるだろうか。
「はい。これで終いにございます」
 枝に洗濯物を掛け、ひとまずは終い。
 そう告げると、火群様は破顔した。
「では、行くぞ!」
「どちらへ?」
「何処でも良い。ずっとここに居ては退屈だろ? 行くぞ!」
 強引。否やを唱える間もなく腕を取られ、引き寄せられたかと思うと、
「ぅわっ
 横抱きにされた。
 否やを唱えるつもりもなかったので、大人しく火群様の首に腕を回す。
「さあ、飛ぶぞ!」
 その言葉に、火群様の首にしがみつく。
 こうして何度も火群様に運んでいただいたけれど、未だ、最初の一瞬だけ、
「わっ!」
 恐ろしい。
 一瞬にして体が地面を離れるその感覚。そして、一瞬の落下がもたらす感覚。これも、未だ慣れぬものの内の一つ。
「まだ慣れぬか、藤」
 私の眼前で翼を羽ばたかせながら、火群様にしがみつかせて頂いている私に丈爺さまが問う。
「い、いえ、丈爺さま。もう大丈夫です」
 浮遊感は、一瞬だけ。恐怖はすぐ、全身を撫でる風の爽快感と、しっかりと私を抱えてくださっている火群様の腕の温かさによって霧散する。
 火群様の首から体を離し、大丈夫ですと丈爺さまに笑いかけ、私はゆっくりと下を見る。
 干し場からは決して覗くことの出来ない足下も、こうして火群様の腕の中であれば、視線を向けることが出来る。この方は決して私を落っことしたりなどしないから。
 人に恐れられているけれど、優しい優しい天狗様。
 男の花嫁など迷惑なだけに違いない。それでも、此処においてくださっている優しいお方。
 あの村に居ては決して見ることの出来なかった景色を見せてくださるお方。
 視界が、緑でいっぱいになる。春の、柔らかな新緑が眩しい。そして、
「───綺麗・・・」
 思わず頬がゆるむ。
 それを見て、火群様はいつも満足げに笑う。
 きっと彼もこの景色がお好きに違いない。
 しばし山々の緑を楽しんだ後、不意に火群様が翼を羽ばたかせ、くるりと方向を変えた。
「さて、村にでも行ってみっか♪」
「え」
 思わず、声が出た。
 それに気付いた火群様が、私の顔を覗き込む。
「・・・・嫌か?」
「いえ、嫌というわけでは・・」
 嫌というわけではない。ただ、姿を見せることに抵抗があっただけ。
 私が姿を見せても喜んでくれる人はいないし、役不足であると天狗様に見限られ戻されてきたのかと危惧し怒る人も居るかも知れない。そんな目を見るのは、怖い。
 思わず黙り込んでしまっていると、不意に頭に笠を被された。何処にお持ちだったのか、うすぎぬが垂らされた笠。
「え?」
 旅の女性がかぶるそれを、何故、今、私の頭に。 
「・・・これは?」
 首を捻ると、火群様はニッと笑って言った。
「人間から姿を隠してくれる。これで良いだろ?」

 どうやら私の気持ちを察してくださったみたい。
「ありがとうございます」
 優しい天狗様。
 きっと出かけようと仰ったのも、ずっと塒にいる私を気遣ってくださってのこと。
 この方は、とてもお優しい。
 いつだって放り出していいのだ。ただの人の子である私など。けれど、飽きるまで此処に居ればいいと言ってくれた。今は、それに甘えさせていただこう。
 だって私には、何処にも居場所がない。育った、この村の中でさえも。
 いつの間にか、眼下にはその村。
 たった五日離れただけ。けれど、様子がどこか、違う。
「・・・何だか、様子が」
 村人たちの顔が一様に暗いような気がするのは、私の気のせい?
 それに答えたのは丈爺さまだった。
「また、一戦あるらしいでな」
「そうですか」
 こんな小さな村でも幾人かの兵と食料を差し出さなければならない。戦の度に、村人の暮らしは困窮する。
 今もまたそうらしい。
 村の上空を飛ぶが、誰も私たちに気付く者はいない。火群様がかぶせてくださった不思議な笠のおかげか、それとも、呑気に空を見上げる人が居ない所為か。
 村の暗い雰囲気が移ったのか、私たちの会話も消えてしまった。
 そんなとき、不意に耳に届いたのは、
「・・・あれは?」
 赤ん坊の、泣き声。
 それを聞くや、
「お。産まれたか!」
「え?」
 火群様が大きな声を上げ、何処かを目指して飛び始めた。
「先程見た時には、まだまだの様子だったがのう」
「あの泣き声。元気な赤子だ!」
 カーカーと嬉しそうに笑う丈爺さまと、同様に楽しそうに笑っている火群様。
 どうやら、何処かの家で赤子が生まれたらしい。
 火群様はとある家の前までくると、そっと私を地面に降ろした。
「火群様、お姿は?」
 私は笠をかぶせていただいているけれど、火群様はそのまま。村人に見つかれば騒ぎになるのではと案じたけれど、火群様は「大丈夫大丈夫♪」と呑気に手を振った。
「オレが見せようと思わねーと、普通の人間には見えねーよ。丈爺もただのカラスだ」
「・・・そうなのですか」
 私の目には、いつだって火群様の姿が映っている。
 やはり、私が普通の子ではないのだと、実感すると共に、思い出したのは、冷たい目。
 けれど、それを追い払ってくれたのは、火群様だった。
「藤、声は出すなよ。声までは隠しちゃくんねーからな」
「・・はい」
 笠を私の頭にかぶせ直し、紗を整えてくださる優しい手が、冷たい思い出を払ってくれた。
 そっと窓から覗き込んだ家の中には、出産を終えたばかりの若い母親と、その傍では赤子を取り上げた産婆の姿があった。腕には、真っ赤っかな赤子を抱いている。くしゃくしゃで、まるでお猿さんのよう。けれど、
「・・・可愛い」
「そうだな」
 隣の火群様も口元に笑みを浮かべている。赤子を可愛いと思うのは、人間も、天狗様も同じらしい。
 そんなことが、何だか嬉しくなって、また笑みが零れた。
「しっ! 出て来ますぞ」
 丈爺さまが慌てて屋根の上へと姿を隠す。
 火群様は「しー」と口元で指を立て、私に黙っているよう示した。
 出て来たのは、おそらくあの赤子の父と、祖母のよう。新たな家族の誕生にどんなに喜んでいるのかと思いきや、
「どうしようかね」
「言っても仕方がなかろう」
 二人の顔に浮かんでいるのは、困り顔。
「かような時に、赤子といえど一人増えるのは大変じゃ」
「そうは言っても仕方がなかろう、おっ母あ」
「そうだけどねぇ」
「さて、どうするかなぁ」
 嬉しいはずの我が子の誕生を喜べぬ村の現状。
「・・・・」
 家の中を覗けば、子を抱く母が浮かべるのも、哀しい顔。
「───・・・」
 何て、悲しいことだろう。
「・・・行くか。藤」
「はい」
 静かな声で火群様が囁く。傍に人間がいるためだろう、いつもよりそっと、私を驚かせないよう、腕に抱え上げられた。その首に両腕を巻き付ける。
「行くぞ」
「・・・はい」
 そして、羽音を立てないよう、そっと火群様は飛び立った。
 いつもよりも長く、火群様の首にしがみついてしまったのは、哀しかったから。きっとそれが分かっているだろう。火群様も何も言わなかった。
 悲しい。悲しい時代。
 本当なら、可愛い我が子の誕生に、可愛い孫の誕生に、あの家の中は喜びに溢れているはずなのに。
「藤・・」
 優しい声が耳元で聞こえた。そして、抱えられた足を、腰を、火群様が強く抱きしめてくださったのが分かった。
 優しい天狗様。
 いつも自信満々に笑っていて、自由奔放に空を飛び回り、いつも強引に私を連れ出すその人だけれど、時にこうして私の悲しみを敏感なまでに感じ取り、慰めようとしてくれる。どうしたらいいのか分からないと困ったように眉を下げながら、怖々と頭を撫でたり、こうして黙って抱きしめる。
 不器用な優しさが彼らしい。
 そう思うと、悲しみに支配された心が軽くなる。
「人の世も大変じゃのぅ。おお、藤、見よ!」
 丈爺さまのいつもより大きな声。きっと丈爺さまも私を気遣ってくださっているに違いない。
 丈爺さまが翼でお示しになった方を見れば、そこは見慣れたお屋敷。私がお世話になっていた、村主様のお屋敷だった。
 そのお屋敷の表には、数頭の馬。見慣れぬ人が出入りしている様子が見て取れた。お屋敷の中でも、使用人たちが忙しなく動き回っていた。
「・・何だかお忙しそうですね」
「よし、行ってみっか♪」
 何があるのだろう。不思議に思ったのは火群様も同様だったよう。突然の急降下に、
「わっ
 思わず驚きの声を零してしまった。風に飛ばされぬよう、慌てて笠を片手で押さえ、もう片方の手は火群様のお着物をぎゅっと握らせていただく。
 姿が見えぬのを良い事に、火群様は堂々とお屋敷の中庭に下り立った。
 そこから垣間見えたのは、
「お。見合いか??」
 客間に並ぶお客人。その向かいには、旦那様と奥様、そして、
「椿さま・・!」
 数日前とお変わりないご様子で・・・否、いつもよりも丁寧にお化粧をされ、お着物もいつものものより豪奢なものを纏った椿さま。
 その向かいには、見たことのない御仁。
 年の頃は、僅かに椿さまよりも上だろうか。黒い紋付き袴がとてもお似合いな、遠目から見ても美丈夫な御仁。
 火群様が仰った通り、お見合いなのだろうか。
「藤、娘を知っているのか?」
 火群様の腕から地面へと足を付けながら、その問いに首を縦に振って見せる。
「ええ。ここは、私がご奉公していたお屋敷ですので」
「そうか」
 視線は、お屋敷の中。
 椿さまは緊張しておいでなのか、いつもの活発さはない。堅く唇を引き結び、問われたことにだけ短く答えを返している様子が見て取れた。
 会話の内容までは聞こえてこないが、やはりこれは見合いの最中のよう。
「・・・椿さま。ご結婚されるんですね」
 椿さまはこのお屋敷の一人娘。男児に恵まれなかったので、何処ぞの村から婿を入れるのだろう。
 私が屋敷に居る時にはすでに旦那様がいくつもの見合いの話を椿さまにしておいでだったけど、いつだって椿さまは「まだ早いわ」と言ってにべもなく突っぱねていた。そうして私に仰った。
「藤貴。私は親の決めた御仁となんて結婚しないの。自由に恋をして、私が惚れたお方と一緒になるの」
 そう言っておられた椿さま。けれど、それは叶わなかったのだろうか。
 そう思うと、椿さまが少し可哀相に思えたけれど、見たところお相手の御仁はとてもお優しそうな方。お幸せになってくださると良いのだけれど。
「ふ〜ん♪」
 隣に立ってまじまじと椿さまを見つめていた火群様が不意に私に耳打ちした。
「あの娘、美人じゃねーか」
「はい」
 視線を椿さまに向けたまま、迷い無く頷く。
 誰の目から見ても、椿さまはお綺麗な方だったから。それに、お優しくて、ちょっとお元気過ぎるところもおありだったけれど、そこもまた素敵だったから。
 火群様に椿さまをほめていただいて、何だか私の方が誇らしい気分になって笑みが零れた。
 何のてらいもなく頷いた私に、火群様が驚いたように視線を椿さまから私の横顔へと移したのが分かった。そして、今度は私をまじまじと見つめ、僅かの逡巡の後、問うてきた。
「・・・・お前、惚れていたのか?」
「え?」
 一瞬、何を仰っているのか分からなかったけれど、すぐに思い当たる。
「私が? 椿さまに?」
「・・・」
 黙って首を縦に振った火群様に、私はまさかと笑って見せる。
「椿さまはこのお屋敷のお嬢様。私は身寄りのない、ただの子」
 確かに椿さまのことはとても大好きで、このようなことを言っては失礼かもしれないけれど、姉上様のように感じていた。いつだって私を庇ってくれたのは椿さまだったし、色んな所に連れて行ってくれて、私の知らない色んなことを教えてくれたのも彼女だった。
 けれど、どんなに椿さまが私に親しく接してくださろうとも、椿さまはお嬢様。私は、ただの子。
 彼女を敬愛こそすれ、恋情など初めから持ちようもない。
「そんな、恐れ多いこと──」
 あり得ませぬ。
 その言葉は、思いがけず真剣な火群様の言葉に掻き消された。
「そんなこと関係ねーだろ」
「・・・・・」
 立場など、身分など恋に関係はないのだと、そう言って真っ直ぐに私を見つめてくる赤い瞳に、私は気付く。
(ああ、この方には、そんなことは何の関係もないのですね)
 自分の思いに、素直。
 どんなしがらみがあろうとも物ともせず、きっと突き進み、そしてその強さでもって己が欲したものを手に入れることの出来る強い方。
 その力が、火群様にはある。何より、諦めることを選ばない強い意志を持ち続ける力が、火群様にはある。
(凄いなぁ・・・)
 その強さが、少し羨ましい。
「何ですか、若。嫉妬ですかァ??」
 丈爺さまがカーカーと笑い、それを聞いた火群様が視線を私から外し、丈爺さまを鋭く睨む。
「違うわ! アホ爺!」
「恋路を邪魔すれば、馬に蹴られますぞ」
「うるせーよ、爺!」
 小声で騒いでいるお二人に思わず笑いながら、視線を再びお屋敷の中へと戻す。
 いつの間にか、旦那様と奥様のお姿はなく、椿さまとお相手の御仁だけがそこに残されていた。
「・・・椿さまは、このお屋敷で唯一私に優しくしてくださった方なのです。だから、幸せになって欲しいんです」
 静かに告げた私に、隣で騒いでいたお二人も視線をお屋敷へと戻したよう。
「ふーん・・」
 そうかと神妙に頷く火群様の手から逃れ、私の肩に止まった丈爺さまが耳元で鳴いた。
「見たところ、なかなかの好青年。良い目をしておる。心配はいらぬだろうよ、藤」
「はい」
 私の目から見ても、とてもお似合いのお二人。
 幸せになってくださると嬉しいのだけれど。
 それに、お嬢様のご結婚で、困窮した村も、僅かながら活気付くに違いない。
 この村の結婚式は、花を飾った輿に花嫁が乗り、村を練り歩く。その道すがら、村人たちは花嫁に花を渡す。
 何度か目にしたことがあるけれど、とても綺麗だった。
(椿さまのお式、見たいなぁ・・)
 きっと、村主のお嬢様の結婚式だから、盛大に行われるに違いない。今までに見たどのお式よりも、綺麗で素敵だろうし、何より、椿さまのお式なのだから、どうしても、見たい。花をお渡しすることは出来ないだろうけれど、それでもせめて、見てみたい。
 火群様にお願いしたら、お許しくださるだろうか。
(我が儘、かな・・・)
 火群様の所へ嫁いできたというのに、村に未練を残し過ぎていると、お叱りを受けるだろうか。
 知らず考え込んでいると、不意にぽんと肩を叩かれた。
「さあ、村を一回りして、帰るか」
「あい!」
「はい」
 先にお返事をされたのは、丈爺さま。気も早く、火群様よりも先にお屋敷を飛び立つ。その後を追うようにして、火群様も翼をはためかせ、私を抱えて高く舞い上がる。
 遠ざかっていく椿さまのお姿。そして、村の姿。
 ───幸せになって欲しい。
 そう願わずにはいられない。
 大好きな椿さまも、そしてあの、未だ名もなき赤子も。
 そうして村を眼下に眺め、火群様が山へと体を向けた時、不意に、私の視線を奪ったものがあった。
 村の外れ。そこにあるのは、崩れかけたあばら屋と、その脇に佇む、一つの墓標。
 それを目にした途端、私は無礼ながら火群様の胸元を掴んでしまっていた。
「火群様!」
「どうした、藤」
 唐突に声を上げた私に、火群様が目を瞬かせる。
 しまったと思ったけれど、「何でもございません」とは、今更答えることが出来なかった。否、答えることは出来たけれど、それをしてしまえば、とても後悔すると分かっていたから。
「すみません。あそこに、下りてはいただけませぬか」
 荒ら屋を示した私に、火群様がそちらへと視線を遣り、首を捻る。
「? 良いけど、何があるんだ?」
 訝しげに眉をひそめながらも、私が示した方へと下りて行ってくださる火群様に感謝する。
 降り立ったその荒ら屋は、母が存命の頃、共に住んでいた家。
 この村へと流れ着いた母と私が、納屋として使われてたこの小屋を借りて住んでいたが、母が死に私がお屋敷へと入ってからは、納屋としてもすでに使われなくなり、蔦に覆われ朽ちるのを待っているだけの荒ら屋と成り果ててしまっていた。
 そして、その脇に、一本の墓標。
 それに気付いた火群様が、私を腕から降ろされながら、そっと問う。
「・・・お前の母か?」
「はい」
 そこでは、病で没した母が眠っていた。
 膝をつき、手を合わせる私の傍らに立ち、再び火群様が問う。
「いつだ?」
「私が六つになった頃です。今からちょうど十年ほど前でしょうか」
「そうか。・・・寂しいか?」
 気遣わしげな問い。
「・・・・・・」
 それに、すぐには答えられなかった。
 寂しくないと言えば、きっとそれは嘘になる。けれど、言ってもせんなきことだということも分かっている。
 どんなに悲しんでも、どんなに寂しがっても、死者は蘇りはしない。だから、悲しむことはやめた。寂しがることもやめた。
 けれど、時々、思ってしまうのだ。
 居てくれれば、と。
 けれど、それは叶わないことなのだから、願うのは、愚かなこと。とっくに、やめにしたのだ。
 合わせた手を下ろし、答えを返すため、火群様を見上げる。
 答えは、否。
「いいえ、寂しくなどありませぬ」
 そして、付け加える。
「私には、火群様と丈爺さまが居てくださりますゆえ」
「────・・・・」
「そうじゃ、藤。儂らがおるぞ!」
 私の言葉に火群様は目を瞠り、お答えになったのは、丈爺さまだった。
 その時になって、私は「しまった」と思ったけれど、すでに言葉は唇を越えてしまっていたのだから、もうなかったことには出来ない。
 不意に、火群様が翼を羽ばたかせ、
「若!? どちらへ!?」
 何処かへと飛び立っていった。
 見る間に小さくなっていく火群様の姿を見つめ、私はやはり「しまった」と後悔する。
 つい、口にしてしまっていたけれど。
「・・・愚かなことを申しましたでしょうか」
「藤?」
 本当に、そう思ったから告げたのだ。
 一人きりでない食事の喜びは、火群様と丈爺さまが与えてくださっているもの。冷たくない寝床も、火群様が与えてくださっているもの。
 私一人きりではないこの幸せを、つい、伝えてしまったけれど。
「ただの人の子の分際で、愚かなことを申してしまいました。天狗神様と家族だなんて、自惚れも甚だしいですよね・・・」
 火群様はお優しいから、仕方なく一人ぼっちの可哀相な私を置いてくださっているだけなのに、側にいてくださるなどと自惚れたことを言ってしまった。
(厚かましいとお思いになったに違いない)
 己の浅はかさに、頬が熱くなる。
 けれど、丈爺さまはそんな私に眉を吊り上げる。
「藤、何を申すか! 若はそんなお人ではないぞ!」
 この方も、お優しいのだ。
 けれど、丈爺さま。ならば、どうして火群様は飛び去ってしまったのですか。
 何も仰らず、私に背を向けて去ってしまわれたのは、何故ですか。
 藤には、それ以外の答えが思いつかないのです。
「───すみません」
 詫びながらも、丈爺さまの言葉を信じることが出来ないのは、己の弱さ故。丈爺さまの所為ではございませぬ。何も言わず飛び立ってしまわれた火群様の所為でも、勿論ございませぬ。己の弱さの所為。
 何故なら、私には、ないのです。
 火群様のように、身分の違いなど関係ないと声を大にして言うことの出来る、何者をも恐れず、己の信ずるものをひたすらに信じ抜く強さがない。
 常に人の目を気にして、嫌われることが怖くて、自分の思いを口にすることが出来ず、ただ黙っていることしかできない、愚かな弱い人間でしかないのです。
 そんな私を──女でさえない男の花嫁を、火群様が置いてくださっている理由は、ただ一つ。
 火群様のお情け。
 それが分かっていたのに、つい、錯覚してしまっていた。
 私が、勝手に居座っているのではないのだ、と。火群様もまた、私が居ることを望んでくださっているのだと、つい。
 唇を噛みしめ、再び母の墓標に手を合わせる。
 瞳も、きつく閉ざした。
(すみません。母上)
 この合わせた手も、閉ざした瞳も、貴女を弔う為のものではございませぬ。私がただ、こうしなければ、悲しくて、辛くて、涙が零れそうだったから。それだけなのです。
 困ったように、丈爺さまが「カー」と鳴いた。
 その声の向こうに、聞き慣れた羽音。
 そして、
「若!」
 丈爺さまが、火群様を呼ぶ声。
「・・・・」
 良かった。戻ってきてくださった。
 やはり丈爺さまが仰ったように、火群様はお怒りになったのではなかったのだ。
 そう、安堵しながらも、それを己の目で確認することは出来ない。
 私の卑屈な心が、まだ言っている。
 怒っているに違いない。けれど、憐れな人の子を放っておけぬ。ただそれだけなのだ、と。
「─────・・・」
 何て酷い言葉を投げつけてくるのだろうか。
 しかしこれは、己を守る為。夢を見過ぎては、現実を知った時に辛くなってしまうから。最初から、夢など見ぬようにという。
 それもまた、弱さ故。
「藤」
 不意に、私の名を呼んだのは、火群様の声。低い声で、驚かせぬような優しい声。
 そして、不意に鼻孔をくすぐった甘い香りに、思わず閉ざしていた瞼を持ち上げてしまっていた。
 何の香りかと、俯けていた顔を思わず上げ振り向けば、思った以上に目の前に、心配そうな火群様の顔。
 そして、
「───これは・・・」
 火群様の手に、色とりどりの花。
 これが、香りの源。
 きょとんと目を瞠る私の前で、火群様は両手に抱えた色とりどりの花を、
「藤の母なら、オレの母も同じだからな」
「────」
 母の墓標に、そっと供えた。
 瞬間、この胸に去来した感情の名を、何と呼べば良いのか、私には分からなかった。
 強い衝撃と、その後に残る熱いもの。その熱さに驚きながらも、心地よい熱。その熱は、目尻にも伝わった。涙が、零れそう。
 火群様の肩に乗った丈爺さまが、カーカーと笑った。そして、
「ほれ見ぃ、藤」
 若はそのように冷たいお人ではないのだと、笑った。
「はい。すみませぬ」
「は?」
 今度こそ、心の底から詫びた私に、丈爺さまは満足そうに笑い、火群様が訝しげに首を捻った。
 お優しいこの天狗様は、私の弱さが作り出す幻想で収まるような、小さなお方ではなかった。それこそ、失礼な話。
 答えなかったのは、何という言葉で私を慰めれば良いのか、分からなかっただけ。だから、何も言わずに飛び立ったのだ。言葉よりもその思いを如実に見せる為、いずれかへ花を採りに行ってくださった。
 共に居る私を、私が望んだように家族のように思っていてくださるのだという証。その家族の母は、自分の母でもあるのだという証に、色とりどりの花を。
 甘い甘い香り。
 甘いはずなのに、何故か、ツンと鼻をつく。
 涙が零れそうになって、私はまた俯いてしまっていた。
「藤? どうした。寂しいのか?」
 優しい天狗様。
 私を心配してくださるその言葉に、私はただ首を左右に振ることでしか、答えることが出来ない。今、口を開けば、嗚咽になってしまいそうだったから。
 きゅっと唇を噛みしめた私に、火群様が慌てる。
「な、泣くなよ!? 泣かれては困る。涙の止め方など知らんぞ!」
 不器用な天狗様。私の到底知らぬことをご存じなのに、人の涙を止める方法が分からないと慌てている。その慌てようが可笑しくて、涙は止まった。
「すみませぬ。もう大丈夫です。私は、寂しくなどありませぬ」
「そ、そうか?」
「はい」
 大きく頷いて見せてもまだ、火群様は疑っておいでのご様子。探るようにじっと赤い瞳で見つめてくる。それが何だか恥ずかしくて、瞳を逸らしてしまう。
 視線は、花に埋もれた墓標で止まった。
 再び、手を合わせる。
(母上・・・)
 いつも気丈だった母が、一度だけ私に見せた、弱い顔。
 それは、死の間際、己の苦しみからではなく、不運への怨みからでもなく、ただ、私の身の行く末ばかりを案じ、嘆いていたその横顔。
「大丈夫! 大丈夫だから! 心配しないで」
 ただそう言って慰めることしか出来なかった幼かった自分。
 今は、
(今も、同じだ)
「母上。私は、大丈夫ですから、心配しないでください」
 送る言葉は、同じ。
 何の根拠もなく、ただ母の憂い顔を消したくて言った言葉は、現実のものとなった。
 それをとても幸せに思う。
 きっと、母も憂い顔を消してくれたに違いない。そして、それまでの嘆きは何処へやら。
「それでこそ私たちの子よ」
 そう言って誇らしげに笑ってくれているに違いない。
 ただそんな母も、まさか私が天狗に嫁いでいる未来は見えていなかったに違いない。
(母上。私は今、この天狗様と共におりますので、ご心配は無用ですよ)
 語りかける。安心して欲しい、と。
(見た目によらず──かように言っては怒られますが、見た目によらず、火群様はお優しい方でございますゆえ、ご安心くださいませ)
 風が髪を揺らす。花の甘い香りが、鼻孔をくすぐる。
 その風の音の中に、母の笑い声が聞こえた気がする。
 それはきっと気のせいだけれど、嬉しい。
 合わせていた手を解き、隣でじっと私を見つめている火群様へと視線を戻した。
「ありがとうございました。帰りましょう」
「・・・もう良いのか?」
「はい」
 まだ良いんだぞ、と暗に伝えてくる優しい言葉に首を振り、立ち上がる。
 続いて立ち上がった火群様の腕が、そっと伸びてくる。いつも通り──否、いつもより優しい腕に抱かれて、宙へと舞い上がる。
 そうして風を切って飛ぶ最中、思いがけず頬を涙が伝った。
 もう消えたとばかり思っていた雫は、しつこく眦に残っていたらしい。それが風に飛ばされていくのを見送ってから、瞼を閉ざす。
「・・・藤」
「はい?」
「また、いつでも言えよ」
 いつでも連れてきてやる。そういって、ぎゅっと腕に力を込めた火群様。
「──はい。ありがとうございます」
 一つだけ零れた涙に、気付いたのかもしれない。
 優しい人。
 この方は、気付いておいでだろうか。
 あの涙は、母を思い、寂しくて流れたものではないのです。
 ですから、どうぞ、ご安心を。