あの後、どうしても諦めきれず、一つ目の姿を探して村の中を何度も駆け回ったのだが、結局一つ目を見つけ出すことは出来なかった。
 表情を曇らせたままの藤を気にしながらの夕食。並べられていたのは豪勢な物ばかりだったはずなのに、味がよく思い出せない。思い出すのは、藤を励まそうといつも以上によく喋っていた桔梗姉さんと相樂。そして、無理矢理笑みを返していた藤の顔。
 その笑みは、宵の月が山の向こうに姿を消し、暖かな太陽が空に居座った今でも、変わらずにそこにあった。
 四人で迎えた朝食だったが、会話は少ない。
 客間の中央にある大きな囲炉裏。そこで赤々と光る木炭が、提げられた鉄瓶を暖め、しゅんしゅんと湯気を上げさせている音が、嫌に大きく響いている。
 今日が、期限。
 一つ目が道祖神に帳簿を提出する日。
 もう既に村の家々の運勢を決めるあの帳簿は、道祖神の手に渡っているのだろうか。
 朝食に箸を伸ばしている藤も同じコトを考えているに違いない。チラリと窺えば、憂えた横顔がそこにはあった。
 ・・・・もう、我慢できない。
「藤!」
「え? はい」
 バン! と大きな音を立てて膳の上に箸を置き、勢いよく立ち上がったオレに、藤が僅かに肩を揺らし、瞳を丸くしている。
 向かいに座った相樂と桔梗姉さんも同じく目を瞠っている。
 が、それに構ってなどいられない。
「飯は後だ。一つ目を掴まえに行くぞ!」
 昨日あれだけ探しても一つ目小僧のひの字も見つけることは出来なかったのだ。日が変わって仕切り直したとしても、きっと同じ結果が待っているだろうとは思ったが、それでもこのまま藤に暗い顔をさせているよりはマシ。
「さあ、行くぞ。藤!」
 未だ戸惑っている藤の手を強引に引いた所で、そんなオレに待ったの声がかかった。
 それは、まさに飛んで火に入る夏の虫!
「藤 っ!!」
 馴れ馴れしく藤の名を呼び客間に駆け込んできたのは、
「来やがったか、一つ目!!」
昨日、ドコをどう探しても姿を見つけ出すことのできなかった一つ目だった。
 ひっつかまえてやろうと思っていたわけだから、こうして一つ目が自ら姿を現したことを喜ぶべきなのだが、あれだけ探しても見つからなかった一つ目がこうも簡単に目の前に出てこられると、腹が立つ。しかも、人の気も知らず晴れ晴れとした笑みを浮かべて登場しやがったものだから、更に腹も立つってもんで。
「良い根性してやがんな、お前!!」
「な、何じゃいきなりっ
 思い切り怒鳴りつけてやると、一つ目は思い切り体を縮こまらせた。
 更に一言二言文句を言ってやろうと口を開く前に、一つ目はオレの前をすり抜け、藤の隣に滑り込むようにして座った。
「あ! てめェ
「さあ、藤! オラの仕事ぶりをとくと見てくれ!」
 懐から取り出したのは、帳簿。
 どうやらまだ道祖神に提出する前だったらしいことを知り、藤がほっと安堵の溜息を洩らしながら、ぐいぐいと一つ目が押しつけてくるそれを受け取る。が、
「貸せ、藤」
「あ、火群様」
「何をする、天狗殿っ!!」
 ひょいと藤の手から一つ目の帳簿を抜き取ると、ちっこい一つ目が奪い返せぬよう立ったままで帳簿を捲る。
「どれどれ」
 隣から相樂と桔梗姉さんがオレの手元を覗き込む。
「返せ返せ返せ〜! 藤に見せるのじゃ〜!」
 必死で帳簿を取り戻そうと両手を挙げてピョンピョン跳ねている一つ目を尻目に、帳簿を捲る。
 そこに記されているのは、やはり昨日と同じ×印の列。
「おいおい、今年は随分と細かいな、一つ目」
 目を瞬かせながらそう感想を洩らした相樂に、一つ目は「エヘン♪」と胸を反らせている。
(・・・・・褒めてねーし)
 口にこそ出さなかったが、おそらく相樂もオレと同じ感想を持ったに違いない。その隣で黙って眉を寄せている桔梗姉さんに至っては、聞くまでもない。
「いかがですか?」
 相樂と桔梗姉さんの反応に、藤もおそらく帳簿の結果を察しているのだろう。既に悲しげに眉を下げながら立ち上り、帳簿を覗き込もうとした藤。一瞬、迷ったが、帳簿を手渡してやる。
 藤が悲しい顔をするのを見たくはないが、きっとこのお子様はそれを見なければ気付かないのだろう。
 パラパラとゆっくり帳簿を捲っている藤から視線を外し、得意げに胸を反らしている一つ目を見遣る。
「おい、一つ目」
 いつもより低い声で呼びかければ、ビクッと肩を震わせながら一つ目がオレを見上げた。
「な、何じゃ」
 明らかにびくびくしている一つ目。だが、藤の夫であるオレにどうしても張り合いたいらしい。若干、腰は引けているが、両の足を踏ん張ってオレを睨んでいる。
 何百年生きてきても、一つ目小僧は小僧のままらしい。
「おい、一つ目。お前の目は節穴か?」
「何じゃと!?」
 溜息交じりに問うと、一つ目が頬を真っ赤にして睨んできた。それに構うことなく、顎で藤を示し、再度一つ目に問う。
「でっかい目ェしてるくせに、見えねーのかよ」
「何が───」
 反抗的な目をしながらも、オレが示した方へと視線を向け、一つ目は口を閉ざした。
「──── 藤・・?」
 ようやく気付いたらしい。
 姿は小僧のままだが、仕事は立派にこなせるのだということを知って欲しくて。仕事を一生懸命している自分の姿を見て欲しくて。そんな自分を好きになって欲しくて、いつもより念入りに人間たちを観察して、厳しく評価を付けたその帳簿を見つめる藤の顔が悲しげ。
 でっかい瞳をパチパチと瞬かせながらじっと藤の横顔を見つめている一つ目のつるつるとした頭に、手を置く。
 いつもならば即座に首を振ってその手を落としていただろうに、一つ目は微動だにしなかった。じっと、藤を見つめたまま、固まっている。
「分かっただろ、一つ目。アイツは、人間なんだよ」
「・・・・」
 もう一度瞬きをして、一つ目がゆっくりと首を巡らせ、オレを見上げる。
 その瞳が戸惑いに揺れている。
「一つ目様」
 そっと藤が自分を呼ぶ声に、一つ目は勢いよく藤を振り返った。
 同じく藤へと視線を遣れば、藤が床に膝を付き、帳簿を一つ目へと差し出していた。その面には、薄い笑み。
「一つ目様。・・・・お仕事、ご苦労さまでした」
 他に、言いたいことがあるはずなのに、それを藤は口にしなかった。
 一つ目が済ませた仕事の結果は、村の人たちにとって喜ばしいものではなかった。それを悲しく思ってもいる。それでも、一生懸命仕事をしていた一つ目の姿を見ていた心優しい藤には、一つ目の仕事を否定する言葉を口にすることが出来なかったのだろう。
「見せていただいて、ありがとうございました」
「お、おう」
 差し出した帳簿を受け取った一つ目と向き合ったまま、藤は視線を伏せる。
 その唇が、開いては、閉ざされる。
 請うべきか、否か。
 それを迷っている唇に、一つ目も気付いているに違いない。でっかい瞳が、忙しなく瞬いているのがその証。
「で、どーすんだ。一つ目」
 そっと問う。
 その帳簿を定められたとおり道祖神に渡すのか、それとも。
 藤を悲しませたままで良いのか否か、静かに迫ると、一つ目は戸惑いを孕み震えた声で藤の名を呼んだ。
「・・・・のぅ、藤殿」
「はい?」
 一旦唇を閉ざし、真っ直ぐ正面に一つ目を見つめた藤に、一つ目がぎゅっと唇を噛んだのが分かった。
 一体何を言うのかとオレと相樂夫婦が見守る前で、覚悟を決めたのか、大きく息を吸った一つ目が藤に問うた。
「返事を・・・返事をくれぬか? きゅ、求婚の!」
「おい
 そんな話じゃねーだろ。
 思わず口を挟もうとしたが、一瞬にしてその気が萎えた。
 藤の表情が、オレの怒りを削いだ。何を言い出すのかと一つ目にぶつけようとしていた問いも勢いを失い、唇を破って出ることはなかった。
 ─── 迷い顔。
(・・・何を、迷うことがあるんだ)
 一つ目の真っ直ぐな視線を受け止めて押し黙った藤。
 相樂と桔梗姉さんが顔を見合わせ、次いでオレへと視線を向けたのが分かった。どうするんだと問うてくる視線を無視する。
(どうするもこうするも、決めるのは藤じゃねーか)
 オレが、どうこう言えることじゃない。
 なんて心の中で答えながら、ジリジリと胸に迫ってくるこの感じは、何だろう。
 不安、だろうか。
 この天狗様ともあろうオレが、こんなことに不安を覚えてるって───?
 迷う藤の横顔に、胸が痒くなるような、気持ちの悪い感覚がわき上がってくる。それは、緊張感にも似ている。
 どちらが正解なのかなんて、分からない。ただ、不快でたまらない。
(何で迷う、藤)
 つい、責める言葉が浮いて、
(・・・・いや、迷うに決まってるか)
消えた。
 そもそも、藤が望んでオレの元に来たわけじゃないのだから。
 きっと、天狗の嫁にならなければと迫られた時にも、こうして迷ったのだろう。藤は、自ら望んで嫁いできたと言って笑ったけれど、人間が妖怪の元へ嫁ぐなど、恐ろしいことこの上なかったに違いない。
 迷って、けれど、村の為に、是と首を縦に振ったのだろう。
(だったら、また───?)
 オレの元に嫁ぐことを決めた時と同じように、今度は鏑木かぶらぎ村の人間のために、彼らの幸運の為に、また是と言うつもりなのか。
 心臓が、気持ち悪い。
 知らず唇をきつく噛みしめてしまっていた。ついでに、瞼も閉ざす。藤の横顔をこれ以上見ていられなかった。
 静寂が、体にまとわりつく。
 相樂と桔梗姉さんの視線も、今ばかりは鬱陶しくてたまらない。
 いっそこの場から立ち去ってしまおうかと思ったその時だった。静寂が静かに破られた。それは、藤の穏やかな声で。
「───ごめんなさい。一つ目様」
 迷いの無い言葉。
 急いで瞼を持ち上げ、藤を見れば、
「─────」
 先程までの迷い顔は、何処へ行った───?
 黒曜石の瞳は真っ直ぐに一つ目を見つめていた。その瞳に、迷いの色はない。何があっても己の意見を変えぬと告げる、強い瞳。
「あらあら」
 きっぱりとした断りを突き付けられ茫然としている一つ目の代わりに、桔梗姉さんが口元に扇を翳し、おっとりと目を瞠っている。隣の相樂はというと、「ひゅー♪」と吹けもしない口笛を声に出しながら、にんまりとオレの方へと視線を向けてきた。
 それと目が合う前に慌てて逸らし、藤の横顔へ視線を戻すと、彼はまだ一つ目を真っ直ぐに見つめていた。戸惑う一つ目がいっそ憐れな程、藤はきっぱりと言った。
「私は、火群様に嫁いだ身ですので、一つ目様の求婚をお受けするわけには参りません」
 藤からの答えに茫然としていた一つ目だったが、すぐに我に返る。
「何故じゃ! こんなに仕事も頑張ったのにか?」
「はい」
 迷うことなく、藤は首を縦に振った。
「オラは真面目じゃ! 天狗より働き者じゃぞ!?」
「はい」
 迷うことなく頷く───って、
「おい!」
 オレだってたまには働いてるだろと、むなしいツッコミをする前に、藤が言った。
「それでも、私は火群様が良いのです」
「────藤・・・」
 一つ目の方が働き者だと迷うことなく頷いたことは、完全に水に流してやろう。
 再び相樂が「ひゅー♪」と口で言っているのは、無視。気になるし腹も立つが、聞こえないふりをしていると、一つ目が何やら帳簿をパラパラと捲り、藤の眼前に掲げた。
「何故じゃ! 見てみよ、藤! 火群殿など×だらけじゃぞ」
 見れば、藤の前に示された頁には、オレの名前とその隣に特大の×印。
「おっ前、何つけてやがんだ
 さっき捲った時にはなかったはず。隠していたのか、今書いたのか。それはどうでも良い。オレに×を付けるたァ良い根性じゃねーか、一つ目。
 思わず拳を握り閉めたオレに、「まあまあ」と相樂が宥めてくる。その笑いを堪えてる顔の方が、一つ目の所業よりも腹が立ってきた。思わず拳の矛先を兄天狗に変えてやろうかと考えていると、一つ目が藤に言い募る声。
「藤。これでもか? こんなバッテン天狗でも、火群殿の方が良いと申すか!?」
 バッテン天狗って何だ。思わず頬を引きつらせる。だが、次に藤が告げた言葉に、オレは頬を引きつらせたまま、固まることになるのだった。
 頷いた藤が、静かな声音で、けれどはっきりと告げた。
「はい。それでも、藤は、火群様が良いのです」
「─────」
 まるで愛の告白。けれど、恥ずかしいを通り越して、生まれるのは疑問だ。
 何故、そんなことが言える。
 一つ目の求婚を受ければ、もしかしたら帳簿に記された村人の評価を書き直してくれるかもしれないのに、何故、拒む。そして、
(何で、オレなんかを選ぶ?)
 選ばれたことに不満はない。むしろ、嬉しい、と思う
。  胸をジリジリと苛んでいた気持ち悪さは、既に消え失せてしまっている。代わりに、ジンジンと熱くなる、胸。けれど、その熱を素直に受け入れることは出来ない。
 確かに、オレは一つ目のように仕事熱心ではない。帳簿には×印が並ぶのも、不服だか、その通りだ。ずぼらで怠け者。その自覚はある。
 鏑木村の人間の幸せの為に一つ目を選ばす、何故、こんなオレを選ぶのか。
 自分で言うと悲しくなるが、やはり、全く解せない。
(オレを裏切れば陽稲ひいな村に災厄を寄越すとでも思われてんのか? オレ)
 心当たりがあるとすれば、それくらい。
 まさか藤にそんな非道な天狗だと思われているのだろうかと密かに落ち込んでいると、一つ目が再び藤に問う。
「オラより、こんな怠け者天狗が良いのか?」
「はい」
 躊躇いなく頷く藤に、素直に喜べないのは何故自分を選ぶのかが分からないから、だけではない。
「おいおい。ちょっとは否定しろよ
 仮にも旦那が怠け者天狗呼ばわりされているその部分をちょっとでも良いのでつっこんでくれないか。
 その願いが汲まれることはない。くすくすと扇で口元を隠して笑っている桔梗姉さんと、こちらは隠すことなく大口を開けて笑っている相樂に、思わず解いていた拳が再び固まるのを感じつつ、何とか堪えていると、
「・・・・そうか」
 ついに諦めたらしい。一つ目の沈んだ声が客間に響いた。
「すみません。一つ目様」
 詫びる藤の声は申し訳なさそうではあったが、何があっても己の言葉を撤回する気はないのだと、その瞳が語っている。
 それを真っ直ぐに見つめて、一つ目はきつく唇を噛んだ。
 でっかい瞳に僅かに涙が滲んでいる。
 今ばかりは、それをネタにするのは勘弁してやろう。
 短い沈黙は、一つ目の大きく息を吸う音で破られた。一つ目は手にしていた帳簿をじっと見つめ、次いで藤へと視線を向け、覚悟を決めたように一度大きく頷いたかと思うと、オレを見た。
「あ?」
 何でそこでオレを見るんだと訝しんだが、その理由はすぐに知れた。
「では、オラも天狗殿を見習うとするか!」
 ぐいっと手の甲で涙を拭った一つ目が、手にしていた帳簿を囲炉裏の中へと放り込んだ。
「おい!」
「一つ目様!?」
 慌てるオレと藤を余所に、一つ目は再度涙を拭って言った。
「いいのじゃ。今年は天狗殿を見習って、怠けることにしたのじゃ!」
 泣き顔を見られたくないのか、くるりと藤に背を向けた一つ目が声高に宣言する。木炭の熱を吸収した帳簿が、赤い炎をその身に纏い始める。
「・・・・いいの? 一つ目ちゃん」
 今ならまだ間に合うわよと優しい声で促す桔梗姉さんに、けれど一つ目は首を左右に振る。何度も何度も、激しく振っている。
「一つ目様・・・」
 村人たちの運勢が下がってしまうと悲しい顔をしていた藤の為に、一つ目が決めたこと。小心者で真面目な一つ目にとって、道祖神に渡さなければならない帳簿を燃やすなんて決意をするのに、どれだけの勇気が要ったことだろう。
「ふーん。男を見せたじゃねーか、一つ目」
 褒める声に、返ってくる言葉はない。小さな背中が、僅かに震えているのは涙を堪えているのか、それとも泣いているのか。
 囲炉裏の中で、帳簿が完全に炎を纏い、白かった紙が黒色へとその姿を変えていく。
 それを茫然と見つめていた藤だったが、すぐに一つ目のその行動の意味を悟ったらしい。一つ目が、自分のために───人間のために、大切な帳簿を燃やしてくれたのだと。
「ありがとうございます! 本当にありがとうございます! 一つ目様」
 心の底から投げかけられた藤からの礼に、一つ目はまた首を振る。
「オラはただ、怠け者天狗の真似をしただけじゃ」
 ・・・・・また怠け者天狗とか言いやがったが、今ばかりは聞かなかったことにしてやろう。好きな奴の前で強がりを言いたい一つ目の気持ちは分からないでもないし。
 最後にもう一度だけ涙を拭った一つ目が、俯けていた顔を上げる。泣いて赤くなった瞳で、それでも真っ直ぐに前を見つめて言った一つ目の顔は、小僧よりもちょっとだけ成長しているような気がした。
「では、道祖神様の所へ行ってくる!」
 くるりと踵を返し、一つ目は歩き出す。
 道祖神の所へ行って、一つ目は何て言い訳をするんだろう。
 泣きながら全てを話すのだろうか。それとも、泣きながらも、男らしく何も語らず、ただ「ごめんなさい」を言うのだろうか。
 重い足取りで、けれど止まることなく歩き出した一つ目の隣に相樂が並び、その頭にぽんと手を置いた。
「よし。俺もついて行ってやろう」
 よしよしと頭を撫でられた一つ目が、僅かに顔を俯けた。
 今はもう背中しか見えないが、また一滴、でっかい瞳から涙を零したのかもしれない。夫とは反対側に並び、一つ目を挟む形で寄り添った桔梗姉さんが、そっと一つ目の肩を撫でる。
「一つ大人になったわね、一つ目ちゃん。とっても素敵よ」
 優しい声音に、
「ぐすん」
と一つ目が鼻をすすったのが、閉ざされた障子の向こうで聞こえた。
 藤と二人で残された後には、パチパチと帳簿が燃える音が響いている。
 チラリと盗み見た藤の横顔は、曇っているのかと思いきや、
「─────」
何処かすっきりとした表情。
 思わず驚いた顔をしてそれを見つめていると、オレの視線に気付いたのか、藤がこちらを向く。そして、驚いた顔をしているオレを見て、笑う。
「一つ目様が勇気を出して与えてくださった結果です。申し訳なく思いながら受け取ることなんて、出来ませんから」
 その方が申し訳ありませんからと言って、藤は穏やかに笑う。
 求婚を断ったことに対する申し訳なさはあるに違いない。けれど、自分が顔を曇らせることで、自分のために泣きながらも帳簿を囲炉裏へ放った一つ目の男気に水を差すと思ったのだろう。
 遠くで、春を呼ぶ鶯が鳴いている。
 耳を澄ませば、おそらく道祖神の元へと向かっているのだろう、翼を羽ばたかせる音が聞こえる。その羽音の合間に、一つ目が鼻を啜る音。
 まだ泣いているらしい。
 戻ってきたときには、さんざん藤を困らせたヤツではあるが、その決心を少し褒めてやってもいいかもしれない。