村に夕闇が迫る頃、一つ目について道祖神の元へ行っていた相樂と、桔梗姉さんが屋敷に帰ってきた。その表情から察するに、どうやら一つ目へのお咎めはなかったらしい。口の上手いこの兄天狗がどうとでも言いくるめたのだろう。
 その隣に、一つ目の姿はない。
 何故とオレが問う前に、
「あの、一つ目様は?」
 不安げな声で、藤が問うた。
「次の村に行くんだと」
「そうですか。お別れを言えませんでした」
「恥ずかしいのよ、一つ目ちゃん」
 僅かに表情を曇らせた藤の肩を「また、会えるわ」と付け加えながら、桔梗姉さんがそっと叩いた。
 その隣に立つ相樂が、ニヤニヤしながらオレを見る。
「次に会うときには、もっと男前になっておくんだとよ。気を付けろよー、火群」
「はッ。百年早ェよ」
「あら、百年なんて、あっという間よ」
 扇で口元を隠しながら、けれど目元をはっきりと笑みの形に細めて桔梗姉さんが言う。
「はいはい。気を付けるよ」
 桔梗姉さんに口で敵うわけがない。早々に白旗を揚げて、オレは肩を竦めた。
 これ以上、うるさく言われてはたまらない。
「さあ、帰るか、藤」
 一泊して帰るつもりが、一つ目に付き合っていたおかげで、二日も家を空けてしまったし、そろそろ爺の小言が届きそうな気がする。
 オレの突然の言葉に僅かに驚いたように目を瞠った藤だったが、「はい」と素直に首を縦に振り、相樂と桔梗姉さんに頭を下げた。
「お世話になりました」
 そんな藤を見て、桔梗姉さんが悲しそうに眉を下げたが、引き止めることはしなかった。
「またいらっしゃいね、藤」
「はい」
「火群にいじめられたら俺に言うんだぞ」
「はい」
 ・・・・オレに別れの言葉はないのか、兄夫婦。
 と、心中でつっこんでいたのが聞こえたのだろうか。藤に寂しげな視線を向けていた桔梗姉さんが、突然オレを見た。
「火群様。藤を、大切にしてさしあげるのですよ」
 ───目が怖い。
 悲しませたら承知しないと目で告げてくる桔梗姉さん。すっかり藤の姉の気持ちらしい。
 大切にしろと言ったけれど、それが言葉の通り傍に置いて大事にしてやれと言っているわけではないことを、その瞳が告げている。
 彼にとっての最善を考えろと告げる瞳。
 オレの傍に居させることが、最善か。村に帰すことが最善か、しかと考えなさいと厳しく迫る瞳。
 思わず黙り込んでしまったオレに助け船を出してくれたのは、相樂だった。
「大丈夫だ。なァ? 火群」
「・・・ああ」
 ぽんと叩かれた肩に助けられて、ようやく首を縦に振ることができた。それでも姉さんの目はまだ怖いままだったけれど。
「い、行くぞ。藤」
「はい」
 早々に立ち去ってしまうのが良いだろう。さっさと藤の身体を抱え上げて、あかね色に染まった空へと飛び立った。
 藤が、相樂と桔梗姉さんに手を振っている。
 藤が大きく手を振る所為でバランスが崩れるんだが、まあ、良しとしようか。その仕種は、彼を年相応に見せ、微笑ましかったから。
 大きな声で別れを告げる相樂と姉さんの声が急速に遠ざかっていき、やがてその姿も見えなくなった。
 世界は駆け足で夜へと向かっていく。 
 間もなく山の向こうに姿を消そうとしている太陽が、美しい夕日を空へと広げている。その中に飛び込めば、腕の中にいる藤が、「わァ」と感動の声を上げたのが聞こえた。見遣れば、黒曜石の瞳が橙の光でキラキラと輝いている。夕日にうっとりと見惚れているのとは違う、少年らしい瞳の輝きに、オレの笑みも濃くなる。
 藤が雛菱ひなびし山にやって来て初めて、別の場所で過ごした二日間。口五月蠅い─オレ限定だが─爺が居ない代わりに、賑やかなのが大好きな相樂と桔梗姉さんと過ごした時間。いつもは鬱陶しくてたまらない兄夫婦との時間がったが、そこに藤が居てくれたおかげで、なかなか新鮮だったのだが、藤にとってはどうだったのだろうか。慣れない場所で、疲れていやしないだろうか。
「なあ、藤」
「はい」
「相樂の屋敷は、どうだった?」
 返ってきた答えは、晴れやかな笑み。
「とても楽しかったです! 人もいっぱいでしたし」
 夕日に染まった笑みの眩しさに、思わずオレも笑みを零していた。つられた。
「そうか。なら良いんだ」
「相樂様と桔梗様も本当に仲がよろしくて、素敵でした。小天狗さんたちも可愛らしかったですし」
「そうか」
「火群様が引くくらいだ、なんて仰っていたのでどうしようかと思っていたんですけど」
「実際、引いただろ?」
「いえ。そんな」
 くすくすと笑いながら藤は首を左右に振った。
「仲が良いのは良い事です」
「まあ、な」
 相樂と桔梗姉さん─── 永遠を誓った二人。
 オレと、藤。オレたちの間にあるのは、何だ。
「──── ・・」
 そう。何も無い。
 それを、藤は不安に思っているのだろうか。
 夫婦でもない。友人でもない。
 ─── では、何だ?
 それが分からない、それを決められないと告げたオレに、桔梗姉さんは怒っていたけれど、でも、相樂に言ったことが全て。
 今、隣に居るのが藤で嬉しいとは思う。
 今、こいつを何処かにやる気持ちなどない、と思う。
 別に、藤を望んだわけではないけれど、それでも雛菱山に来たのが藤で良かったとは思う。我が儘でぐうたらなオレの面倒を文句の一つも言わず──いや、時々怒られたりもするけれど──面倒を見てくれる人間なんて他にいるだろうか。
 そりゃあ、オレだって天狗神と言われているわけだし、尽くしてくれる人間はいるかもしれないけれど、それはきっと藤とは違う理由が付くに違いない。
 神を怒らせてはならないという畏れから。
 もしくは、村を豊かにして欲しいという欲から。
(コイツには、それがねーんだよな・・・)
 オレに対する畏れも、オレに代償を求めることもない。
 それを不思議に思う。だが、それが心地良いんだ。きっと。
 だから、今は未だオレの隣にいればいいと願う。
 それだけでは、ダメなのだろうか。
 だって、自信がない。
 一生オレの傍にいろ、なんて言う勇気もない。人としての生を奪う勇気など、もっとない。
 だけど、まだソコに居て欲しいとは、願っている。
(オレはそれだけで良いと思うんだけど・・・)
 そう思っているのは、オレだけなのだろうか。
 藤は、形のない今の関係に、不安を抱いているのだろうか。桔梗姉さんが言っていたとおり。
 知らず、オレは藤の顔を見つめてしまっていたらしい。
「火群様? どうかされましたか?」
 きょとんと首を傾げられて初めてそのことに気付いた。
 だが、
「・・・いや。何でもない」
答えることは出来なかった。
(もしかして今が問うべき時だったんじゃ・・・?)
 と思うが、もう遅い。完全に時機を逸した。
 口を開くことは出来なかった。
(オレって、こんなだったか?)
 爺には我が儘だなんだと散々しかられてきたし、自分でもそう思う。こうして誰かの気持ちを図ろうとして悶々としたり、ましてや相手の反応が怖くて己の言葉を飲み込んでしまうような質だっただろうか。
 己のヘタレっぷりに密かに落ち込んでいると、ぽつりと呟くように藤が言った。先程までオレに向けられていた瞳は、伏せられている。何事かを考え込んでいる様子で発された言葉。
「相樂様のお屋敷は・・・」
「ん?」
「たくさん人が居て賑やかで楽しかったですけれど」
「・・・ああ」
 瞳を伏せたまま言葉を切る藤。
 彼が何を言いたいのか、何故こんな話を始めたのか、分からない。分からないから、静かな声音で考えながら告げられる言葉をただ待っていると、唐突に藤が視線を上げた。こちらへ向けられた顔には、眩しい笑みが貼り付けられていた。
「矢張り私は、雛菱山の家の方が好きです。あんなにたくさん人が居ては、火群様と丈爺様と三人で過ごす時間を邪魔されてしまいそうですから」
 太陽が姿を隠した空は、いつの間にか紫色。
 藤の顔を照らしていた目映い夕日は消えたはずなのに、まだ眩しいって、どういうことだ。
「ですから私は別に、寂しいことなんてありませんので!」
 付け加えられた言葉に、察する。
 きっと藤は、撤回したかったのだ。人が多くて楽しかったと告げた自らの言葉を。
 唐突にオレが黙り込んだ理由を藤なりに考えた結果、賑やかな相樂の屋敷と違い雛菱山の塒には二人+一羽で、それが寂しくて自分が相樂の屋敷を羨んでいるのではないかと、そうオレが考え込んでしまったのだと解釈した末に出た言葉らしかった。
(違うんだけどな。でも・・・)
 オレが悩んでいたのはまるっきり別のことだったのだが、藤の心優しい気遣いが沈んでいた気持ちを、答えを出せないでいるモヤモヤを晴らしてくれた。霧がスッと晴れた後、その隙間に忍び込んできたのは温かい熱。じんわりと胸を温めてくれるその熱は、くすぐったいけれど、嫌いじゃない。
 それはまるで、幼い頃、母様ててさまの胸に抱かれた時のように心地の良い熱。
(───だから、コイツが良いと、思うんだ。コイツで良かったと思うんだ)
 心の中で呟いて、また「しまった」と思う。
 口に出してしまえば良いんだ。
 相樂が言っていたように、伝えなければ何も伝わらない。未来の約束が出来ないのなら、今の想いだけでも伝えておけばいいと相樂が言っていたのに。
 また、失した。
 でも、
「よし!」
仕切り直すことは出来そうにないけれど。
 オレは、雛菱山へと向けていた身体を、90度別の方向へと向けた。
「火群様?」
 急な進路変更に、藤が不思議そうに目を瞬かせる。
「ちょっと寄り道するぞ!」
 こっ恥ずかしい言葉を口にすることは出来なかったけれど、返してやろう。お前が与えてくれたこの胸の温かさを、少しでも。
 何処へ行くのだと瞳で問うてくる藤に答えず、ただ空を翔る。
 山を幾つも越えていく内に、空は完全に闇を纏ってしまった。見上げれば、空にはキラキラと瞬く星。それを見守っているのは、まん丸な月。
「藤。月が綺麗だぞ」
 告げればすぐに藤の視線が空へと向けられ、「本当ですね」と輝く瞳。藤の瞳がじっと空を見つめていることを確認した後、オレは藤に気付かれぬよう、緩やかに高度を落としていく。
 オレの目には、既に目的の場所が見えていたが、藤にはまだ秘密。
 山の頂上。月明かりを一身に受け、そこにひっそりと佇んでいる其れを藤に見せてやりたくて。
 其れの上で、身体を止めると、
「藤、下を見てみろ」
 寄り道の理由を、ようやく伝える。
「え?」
 空へと向けていた瞳を、徐に眼下へと移した藤と、オレの足下に広がっている其れを見て、
「・・・・凄い」
 囁くように零された藤の言葉に、満足する。
 足下には、薄紅色の桜。
 山の頂上に、一本だけでぽつりと佇むのは、美しい桜。高い山の頂であるにも関わらず、暖かな里の桜と同じくらい───否、何故かそれ以上に花弁を広げた桜の巨木が、月明かりを受けて立っていた。
 ゆっくりと翼を羽ばたかせ、その根元へ降り立ち藤を地面へと下ろせば、
「凄いです・・・」
 再度、同じ言葉を繰り返した藤が、桜を見上げたまま一歩、二歩と桜の幹へと歩み寄った。真上を向いている所為か、それとも桜の美しさに気圧されてしまった所為か、その足取りがふらふらと危なっかしくて、そっと背を支えてやる。
 そして、オレも、仰ぐ。
 先程まで星と月しか居なかった黒色の空が、薄紅色に染まっている。
 此処は、数年前に見つけた場所。丈のない新緑の草たちだけの山の頂上に、きっと誰かが植えたのだろう、一本の桜。人間の足では決して上がってこれないだろう険しい山の頂。それは間違いなく人間ではなく、オレと同じ妖の類の者の仕業だろう。
 この桜があまりにも綺麗で独り占めしたかったのか、それとも木々の間に埋もれ、満足に光を浴びることのできなかった桜を憐れんだためだろうか。
 理由は分からないけれど、なかなか粋なことをしてくれたもんだと、名前も姿も知らない其奴に感謝する。
 一体いつからこんな場所で一人佇んでいるのかは知らない。随分と太いその幹を見れば、この桜の木が自分よりもずっと永きの時を生きてきたことは分かる。
 もしかしたら、コイツを愛した其奴は、先に逝ったのかもしれない。美しく咲き誇った桜を見に何度訪れようとも、オレ意外に客がいたことはなかったのだから。
 それでも、咲き誇る、桜。
 薄紅色の柔らかな花弁が、風にひらりひらりと舞い散る様はこれ以上ないほどに儚いのに。寄り添ってくれる者もない。見上げてくれる者も居ない。ただ一人きりの場所で、それでも精一杯に手を伸ばし、空を支配するその姿の何と逞しいことだろうか。
 真っ白な月明かりを受けている所為か、昼間に見るよりも花弁の色が白く見える。そんなはずはないのに、闇の中で光を放っているかのよう。風が吹く度にザワザワと揺れては、鼻をくすぐるかすかな香りと、ひらりひらりと舞う花弁が、まるで───
「雪みたいです。綺麗・・・」
「そうだろう?」
 藤も、同じ風に感じたらしい。
 それが何だか嬉しくて、良かったと思った。爺にも見せたことのない、オレだけのお気に入りの場所を、藤にも教えてやれて。
 これが、藤にオレから返せること。
 藤がオレに温かさを与えてくれたお返しに、この景色を。
 ぽかんと口を開けたまま桜を見上げている藤を見つめていると、不意に藤がオレを見た。そして、申し訳なさそうに笑った。
「こんなに綺麗なのに、丈爺様だけ留守番だなんて。何だか申し訳ないです」
 そう良いながらも、また視線を桜へと戻す。
 そうだ。桜を見て帰ろうと、約束していた。その時も、藤は同じことを言っていた。
「じゃあ、今度は昼に爺も一緒に連れてきてやろう」
「はい」
「それまでこれは、秘密な」
 二人で見た、宵の桜は。
「はい!」
 嬉しそうな声の後に、
「本当に綺麗です」
囁くように零される桜への賛辞。
 視線を藤へと遣れば、キラキラと輝く瞳で桜を見上げていた。その笑みの穏やかさに、ほっとする。
 多分、返すことができたのだ。オレが感じた温かさを。
 コイツはオレがそんな風に思っていることなど、知らないのだろうけど。
「火群様」
 桜を見上げたまま、名を呼ばれた。
 そうして初めて藤の笑みに自分まで口元を弛ませていたことに気付き、慌てて視線を空へと移す。すると、オレとは逆に桜からオレへと藤が視線を向けたことが分かった。
「火群様、ありがとうございます! 藤は幸せです」
「・・・・そうか」
 辛うじて返事を返すと、藤は視線を戻した。
(おかしい・・・)
 心を温めてくれた礼に連れてきてやったのに、また藤から与えられてしまった。今度は、先程よりももっと温かくて、ジンと熱くさえある温かさを。
 藤を喜ばせてやりたかったのに、自分が喜んでどうする。
 それでも、思わず頬が弛む。気付けば、口を開いていた。
「─── 来年も、二人で見るか」
「はい」
 藤の返答があって初めてオレは自分が口にした言葉に気付いた。
 そんな自分に驚きながら、それ以上に藤が一体どんな顔をしているのかが気になって見遣れば、
「─────」
 藤は、穏やかに笑っていた。
 そして、
「火群様。約束ですよ?」
「─── ああ」
 細い小指を差し出してくる。
 それに吸い寄せられるように己の小指を絡めれば、嬉しそうに笑う藤。
 交わされた、約束。
(─── ああ、そうだ・・・)
 そうだ。これくらいの約束なら、オレにも出来る。一生とは言えないまでも、来年叶えてやらなければならない約束くらいならば、交わせる。
 たった一つの、少しだけ先の約束。
 それを嬉しいと言って笑う藤のその笑顔が本物なのか知りたくて、思わず手を伸ばす。頬に触れる。夜風で冷えたのか、少しだけ冷たいけれど、掌を押し当てればすぐに温かさが戻ってきた。
 くすぐったそうに笑いながらも、藤がオレの手を振り払うことはしなかった。
(温かい・・・)
 藤の頬の熱を、確かに掌に感じる。
 来年もまた此の場所に立って、桜を見上げて、「また来年も」なんて約束を交わすのだろうか。その時にお前は、今日みたいに嬉しいですと笑ってくれるのだろうか。
 次のことなんて分からないけれど、取り敢えず次の春までは、お前を手離さなくていいんだな。
 それに、ほっとする。
 この花片が散り、眩しい緑を纏い、木枯らしに葉を散らし、枝を雪で飾り、また薄紅色の花をこの桜が纏うその時まで、もう少し、此処に居ればいい。
 もう少し。もう少し。


 それが、ずっと続けばいい。


 それを、お前も願ってくれると嬉しい。


 月が見ている。
 星が手を振る。
 風に揺られて、花が囁く。
 触れる頬の温かさが、身に染みる。
 胸に染みる。
 肌に冷たい風。
 微笑みの温かさが胸に染みる。




 これが、永遠なら、望んでも良いかもしれない─── 。










あとがき
 



お礼文 5話ご用意★