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太陽が橙色の衣を纏って、山の向こうに沈もうとしている。
その空へ黒い影を映して、神楽様はお屋敷から何処かへと飛び去って行ってしまった。遠ざかって行く背中を見つめて、もう何度目になるか分からない溜息を零す。 神楽様と、母の話をした。 彼の知らない母の姿を話し、神楽様も私の知らなかった白拍子であったころの母の姿を話してくれた。 「・・・・・・それは、良いんだけど」 また、溜息。 どうして私が火群様のお側を離れ、此処にいなくてはならないのか、それについては固く口を噤んだまま、何も答えてはくれなかった。 深い赤色の瞳でただ真っ直ぐに私を見つめ、口を開くことなく首を左右に振るだけ。何度問うても、その繰り返しだった。 また、溜息が零れ落ちる。 視線を上げれば、美しく橙に染まった空の真ん中に、一番星。 そのままじっと見つめていれば、その隣に小さな小さな星が寄り添っていることに気付いた。橙が、次第に紫色に変わっていく様は、とても綺麗。今のこの現実を忘れてしまえるくらい、綺麗。 しばし空を見上げていると、不意に雷鳴が鼓膜を揺らした。ような気がした。 己の願望が聞かせる幻聴かもしれないと、瞳を閉ざして耳に全神経を集中させる。 「・・・雷獣さんかな」 やっぱり、聞こえる。 「探してくださっているのかも」 思わず立ち上がり、遠くの空へと視線を向けるけれど、そこに雷雲の姿はない。 けれど、確かに雷鳴が聞こえてくる。 突然姿を消した私のことを、雷獣さんはとても心配しているに違いない。きっと探してくれているのだろう。 そこまで思い当たった途端、胸に冷たいものがぽたりと落ちた。 「雷獣さんは・・・・」 私の行方を、知らないのだろうか、と疑問に思ったのだ。雷獣さんと離ればなれになってから、随分と時間が経っていた。きっと火群様の所へ一度はお戻りになったはず。神楽様とお話をされた火群様ならば、私が此処に居ることを知っているはず。 「───・・」 そこまで思い立ち、気付く。 気付いてしまった。私が神楽様のお屋敷にいることを、火群様はご存知のはず。それなのに、迎えに来て下さらないということは───。 「 」また一つ、胸に冷たいものが落ちる。 「・・・・本当に、火群様は───」 居場所が分かっているのに、迎えに来て下さらないということは、本当に火群様は私を手放してしまわれたのかもしれない。 何故、今まで気付かなかったのだろうか。己の鈍さに恥じ入ると共に、冷たい絶望が胸を抉る。 立ち上がって空を見上げていた視線もそのままに、すとんと縁側に腰を落とす。体中から、力が抜けてしまった。 「火群様・・・」 今の今まで会いたくて会いたくてたまらなかったのに、急に会うのが怖くなってしまった。 「───怖い」 会って、直接聞きたい。 藤を本当に神楽様の元へとやってしまわれるのですか、と。 けれど、それに是と答える火群様のお姿を想像するだけで、体が震える。怖くて堪らない。 震える腕を、己の両手で抱きしめる。それでも震えは止まらない。 なくしてしまう。 「嫌、です・・・」 全てを捧げる為に、火群様の元へと嫁いだ。その火群様のご命令とあれば、神楽様の元へ行くことに私が否やを唱えることがそもそもの間違いなのだということは分かっている。 居心地が良すぎて、火群様も丈爺様もお優しすぎて、どうしても失いたくなくなってしまっていた、あの場所。身の程もわきまえず、我が儘を言いたくなってしまうほど、大切になっていたのだということを今、知る。 失うことが、怖くて堪らない。 誰でもない大切な火群様がそれを奪っていくのだという事実が、胸を刺す。 ぎゅっと唇を噛んで、その痛みに耐える。 美しい夕焼けがその光を失い始め、夜の闇が世界を覆っていく。私の胸の中にまで、冷たい闇が迫ってきているかのよう 。足下に落としていた視線を無理矢理に空へと向ければ、 「 綺麗・・・」飛び込んでくるのは、先程よりも強い光を纏い輝く一番星と、その隣にそっと寄り添う小さな星の光。その光が、闇に呑まれようとしている私に一筋の光を差し込んでいるように感じたのは、私の中にまだ前向きな気持ちが残っていたからだろう。 再度唇を引き結んだのは、恐怖に耐えるためではなく、 「まだ分からない!」 恐怖を払うため。 「まだ火群様からは何も聞いていないのだから」 聞く者もいないのに、わざと声に出す。そうして己を叱咤する。 夜に沈んでいく世界に引き摺られるようにして、ついつい己の思考が暗い闇へと向かってしまっていた。 考えても考えても、火群様のお考えは私には分からない。直接聞かなければ分からない。それに、 「・・・・火群様は、そんな方ではないと、思うのです」 何の理由も告げずに、私を放り出してしまうような方ではない。少し不器用で、ぶっきらぼうな所もあるけれど、情に深い方だということは、よく分かっている。もし本当に私を傍に置いておくことが出来なくなったのだとしても、直接、その理由を話してくださるに違いない。 「うん。絶対に、そう」 己に言い聞かせていると、再び鼓膜を雷鳴が揺らした。 視線を彷徨わせたけれど、夜の闇を纏い始めた空に、黒い雷雲を探すことは既に出来なくなっていた。 それでも、雷鳴が、僅かに近付いた来たような気がする。きっと、雷獣さんと一緒に火群様と丈爺様も此方へ向かってきてくれているに違いない。少し、時間がかかっただけで、きっと迎えにきてくれているに違いない。 「・・・うん。そういう事にしよう」 独りごちて頷く。 一人で悩んでいても分からない。直接会って聞かねば、分からない。だから、もう少し信じていよう。絶望するのは、火群様に会ってからでも遅くはないと心の中で己に言い聞かせる。そして、 「───よし!」 意を決し、立ち上がる。 此処から出て、自らの足で火群様に会いに行こう。此処がどこなのか分からないけれど、あの雷鳴を便りに歩いていけばきっと大丈夫。きっと火群様に会えるはず。 行き当たりばったりなのには、慣れている。火群様の所へ嫁いだ時も、まあ、何とかなるだろうと随分といい加減な気持ちで腹を括ったものだった。 草鞋を履いて、庭へと降りる。その眼前に、半透明な膜がある。それは屋敷の周囲に張り巡らされており、向こうの景色を霞ませている。 それは、おそらく結界と呼ばれるものの類だろう。山奥にあるこの屋敷には獣や妖怪が入ってくるからと、神楽様が施していった。けれど、これは私が外に出ることを阻む目的もあるのだろう。 これを破らなければ、外に出ることは出来ない。 そっと手を伸ばし、触れてみる。そして、すぐに後悔した。 「 ッ!」目の前に火花が散り、瞬間、掌に走った痛みに慌てて腕を引いて己の胸に抱き込む。痺れた右腕をさすりながら、めげそうになる己を叱咤する。 とても痛いけれど、でも、 「大丈夫。破れる!」 痛みを我慢すれば、此を破ることは出来そう。 多分、出来る。 一度深呼吸した後、ぐっと両手を突き入れ、膜を掴んだ。 バチバチと、闇に沈み始めた周囲を火花が明るく照らし、両の腕に走る痛みに歯を食いしばる。噛みしめた奥歯が嫌な音を立てて軋んだけれど、構ってなどいられない。 感覚を失った両手で、必死に分厚い膜を左右に引き裂く。掌が裂けて血が散ったのが見え、慌てて目を瞑る。見ているとそれだけで痛みが増すような気がしたから。それでも鼻孔に届く己の血の香りに気付かない振りをして、そのまま、引き裂く !パン、と何か弾けるような音がして、おそるおそる閉ざしていた瞳を持ち上げる。目の前に、あの半透明の膜はない。 「 破れた・・・!」瞼を持ち上げた先の景色が鮮明さを取り戻している。喜びも束の間、すぐさま両腕にしびれを伴った痛みが戻ってくる。一体、どんな状態になっているのだろうかと気になって眼前に翳した両の掌を見て、すぐに後悔した。 「 」真っ赤。翳した手から赤い雫が滴り地面へと落ちる。 見なければ良かった。 「痛い・・」 簡単にでも手当をするべきだろうと思ったが、諦める。きっと結界が破れたことを既に神楽様が察知しているような気がしたから。早くここから離れなければという思いが痛みを凌いで、足を前へと踏み出す。 二歩目を踏み出すまでに僅かの間が生まれたのは、私が居なくなったことを知ったあの天狗様が、感情をあまり写さない瞳に僅かに寂しさを滲ませるのではないかと思ったから。それを少しお可哀相に思ったから。 神楽様はご自身の感情を多くは語らなかったけれど、きっと白葉瀬を失って悲しい思いをされたに違いない。母を守ることが出来なかった悔しさに胸を焼かれているに違いない。だから、母の忘れ形見である私に会いに来てくださったのだろう。失った寂しさを少しでも癒すためだったに違いない。 人を想う気持ちの熱さならば、私も知っている。失うことの恐ろしさも知っている。 大切だった女を失った、私と神楽様。 同じ気持ちを共有する神楽様に黙ったまま此処を去ることに申し訳なさがこみ上げてくる。けれど、 「すみません・・・」 どうしても、行かなくてはならない。火群様にお会いして全てを話していただかなければ、私が納得できない。 意を決して、闇に沈み始めた道とも呼べないほどの獣道を駆け出していた。 道とも呼べないほどの獣道を、ただひたすらに駆ける。既に足下はほぼ闇に沈み、覚束ない。葉を纏わない枝が足や腕をひっかいてピリリとした痛みをもたらす。それに構うことなくひたすらに山を下りる。 山を下りているつもりだが、はっきりとは分からない。まだ空には明るい色が僅かに残っているが、木々が張り巡らせる枝葉に遮られ、淡い光は足下まで届いてくれない。 不安でたまらなくなる心を励ましてくれるのは、鼓膜を揺らす遠雷。 どれくらいそうしてただひたすらに走った頃だろうか。 「あ! 道!」 突如として、人の足によって踏み固められた道が姿を現した。ほとんど闇に覆われてうかがい知れなかった足下に、月明かりがさし、ほっと安堵の溜息が唇を越えた。これを辿っていけば、何処かの村に出るに違いない。 自然と足が速まったその時、 「明かりが・・!」 己の胸に灯った希望の光が幻となって現れたのかと、一瞬目を疑ったが、遠く道の先でゆらゆらと揺らめくのは、人が灯した松明の炎。 火を持った何方かが山越えの途中らしい。一人で山を下りる心細さから解放される期待に再び安堵の溜息が零れた。次第に近付いてくる炎に声を掛けようと口を開いた所で、先に静寂を破ったのは先方だった。 「く、来るな・・っ!」 「え?」 悲鳴にも似た声。もしかして、己に向けられたものだろうかと驚き、思わず足を止める。けれど、来るなと行った炎の主は歩みを止めることなく、此方へと向かってきている。姿は見えないけれど、次第に大きくなっていく炎の明かりでそれだけは分かった。 一体どうしたものかと立ち尽くしていると、ようやく炎の主の姿が視界に映った。 「お侍様・・・?」 それは年若いお侍様のようだった。旅装束をしておられるところを見ると、この近くの村の方ではないよう。未だ僅かに幼さを残した顔は恐怖で引きつっている。 一体どうされたのだろうかと目を瞬いていると、そのお侍様と目が合った。 どうやらその時になってようやくお侍様は私に気付いたようだった。突然、眼前に現れた私に驚いたように目を瞠った後、すぐさま自身の背後を振り向き、また私へと視線を戻し、口を開いた。 「走れ!!」 「え?」 唐突なご命令にきょとんと目を瞠った私の手を、駆け寄ってきたお侍様が取る。 「えっ、な、何ですか!?」 訳が分からぬまま、走り出す。だが、お侍様のそのご様子からして、何かに追われているらしい。 一体何にと必死で足を繰り出しながら振り返って見れば、 「 !!!」闇の中、光を浴びているわけでもないのにぼんやりと光って宙に浮いていたのは、 「骸骨!!?」 カタカタと顎を鳴らしながら凄まじい勢いで自分たちの方へと向かって飛んで来るのは、しゃれこうべ。頭蓋骨のみが宙を駆けていた。 妖怪の類は見慣れているとは言え、驚かないわけではない。もつれそうになった足は、お侍様に引かれる腕の強さで何とか折れずに済んだ。 「な、何故追われておられるのです!?」 前を走る年若いお侍様に尋ねれば、 「知らぬ! 其れに聞いてくれ!!」 と返された。 どうやらお心当たりがないらしい。 そのお侍様は私よりも僅かに年上だろうか。未だ幼さを残しておいでの後ろ姿を眺める。恐怖で引き攣った顔をしていながら、それでも誰とも知れぬ私を置いて行くことなく一緒に連れて走って下さっているその手の力強さに、心根の強さに感心する。 妖怪に追われているこの状況で何とのんびりしたことだとお侍様には怒られそうだが、幼少から妖怪の類にちょっかいをかけられ続けていたこの身は、お侍様よりもこんな状況に慣れている。 チラリと振り返れば、未だ真っ白なしゃれこうべが口を動かしながら私たちを追っていた。 「 え?」不意に、耳元で鳴る風の向こうに、歌声が聞こえた。 前を走るお侍様へと視線を向けたが、勿論彼は歌ってなどいない。それではと再び背後へと視線を戻す。 矢張り、歌を奏でているのは宙を駆けるしゃれこうべ。 カタカタと顎を動かし、そこから軽快な歌を口ずさんでいるのは、紛うことなくしゃれこうべ。しかし、よくよく聞けば、紡がれる明るい歌の詩は、己を死へ追いやった侍への恨み言で綴られていた。 その歌を聴いて、思い出した。 「 歌い骸骨・・?」母が語ってくれた様々な妖怪の話の中に、その名があった。 侍に陥れられ命を落とした者の怨みが晴れずこの世にしゃれこうべとなってとどまり、怨みの歌を紡いで敵である侍を死へと誘う歌い骸骨。 敵を死へと誘った後も、晴れぬ怨みを抱えたまま歌い続けているのだと、「可哀相にね」と哀れみの瞳をして話した母の姿を思い出したその瞬間、 「あっ!」 前を走っていたお侍様の体が突然大きく傾いだ。 倒れる、と思った通りに、お侍様が地面へと倒れ込み、自分も彼と同様に倒れる。 「 ッ!!」体を庇うために付いた掌から、全身に痛みが走る。 それに思いを馳せるより先に、急速に怨みの歌が音量を増した。 「ヒィ・・!」 恐怖に体を小さくしたお侍様の周りを、歌い骸骨がくるくると周り、その耳に恨み言を注ぎ込む。どうやら歌を紡ぐだけで、直接お侍様に危害を加えることはないようだと悟る。目の前にいる年若いお侍様が敵でないことが分かっているのか、それともただ単に歌うことしかできないのか。 逡巡の後、私はそっと歌い骸骨に呼びかける。 「あの、歌い骸骨さん。そのお侍様は、違います」 すると、歌い骸骨は歌う声はそのままに、ぴたりと宙で動きを止め、私の方を見た。見た、とは言っても眼窩にはただただ暗い穴しかないので、本当に私を見つめているかと言えば、分からなかったけれど、それでも歌い骸骨の意識がお侍様から私へと向けられたことは分かった。どうやら言葉が届いているのだということに力を得て、更に告げる。 「そのお侍様は、あなたが恨んでいる方ではありませんよ。よく見て下さい」 ついに、歌が止まる。 再びお侍様へと視線を戻した歌い骸骨が、ゆっくりゆっくりとお侍様の周りを回る。一周したところで、歌い骸骨は私を見つめ、僅かに頷いたようだった。 違うのだと、認めてくれたらしい。そんな歌い骸骨に、差し出がましいながらも、もう一言だけ。 「怨みの歌は哀しすぎます。気持ちを晴らして、楽しい歌をお歌いになってはいかがでしょうか」 そして、そっと手を伸ばし、白く固い頬に触れる。どうかその怨みが散れば良いと念じながら、そっと触れる。触れた後に、己の掌が真っ赤な血で汚れていることを思い出したが、歌い骸骨は気にした様子はなかった。再び、カタカタと歯を鳴らした。その音が言葉を紡ぐ。歌ではなく、 アリガトウ。 恨み言を呟いていた声で、確かにそう紡いで、闇の中、かき消えるようにしてその白い姿が霧散した。 成仏したのだろうか。 ただこの場から消えただけで、再び何処かでお侍様を見かけては怨みの歌を奏でるのかもしれないけれど、取り敢えずこの場は凌ぐことができたらしい。 ほっと安堵の溜息を洩らした後、頭を抱え込むようにして座り込んでいるお侍様の肩を叩く。 「もう大丈夫ですよ。去ってくれたようです」 告げると、恐る恐るといった様子でお侍様は折っていた体を起こし、周囲を見回す。そこに骸骨の姿がないことを確認したお侍様は、大きな大きな溜息を零した後、ガバッと私に向かって頭を下げた。 「かたじけない! 助かった」 平民に頭をお下げになるお侍様を初めて見た。 驚きに目を瞠っていると、顔をお上げになったお侍さまは先程まで恐怖に引き攣らせていた顔に若々しく溌剌とした笑みを浮かべて、再度礼を仰った。 「ほんに助かった。だが、そなたは? 何故かような場所に?」 天狗様に連れ去られて参りましたと素直に言えば、きっとこのお侍様の笑みを再び氷らせてしまうに違いないと思い、 「ちょっと・・通りすがりに・・・」 と言葉を濁していると、突然お侍様が「あ!」と声を上げ、私の両の手を取った。 「その手は!? 怪我をしたのか!?」 既に血は止まっていたが、掌は乾いた血で赤黒く染まったままになっていた。骸骨にやられたのかと顔を曇らせるお侍様に、慌てて首を横に振る。 「あ、いえ、これは違うのです」 何と説明して良いものか迷っている内に、お侍様は脇に倒れていた松明を手に取ると地面へと突き立て、懐を探る。そこから綺麗に折りたたまれた手ぬぐいを取り出すと、黙ったまま私の掌を包んだ。 「お待ち下さい! 汚してしまいますっ 」「命を助けてもらったのだ。これぐらいはさせてくれ」 慌てて止めようとした手をやんわりと遮られ、もう片方の手も、美しい紫色に染められた手ぬぐいで包まれてしまった。 「もっときちんと手当をしてやれれば良いのだが、荷を落としてきてしまったゆえ、これで勘弁してくれ」 「十分にございます。ありがとうございます!」 深く頭を下げ、両の掌に巻かれた手ぬぐいへと視線を落とす。それには、家紋が刻まれていた。 「 逆さ月・・・」円の中に、逆さになった三日月がある。 それを逆さ月と言うのだと聞いたのは、いつのことだっただろうか。奉公先のお屋敷で聞いたのだったか、それとも母が聞かせてくれたのだったろうか。 記憶を巡らせていると、じっと視線を注がれていることに気付き顔を上げる。真剣な瞳でお侍様が真っ直ぐに私を見つめていた。そして、問うてくる。 「・・・・そなた、名は?」 「藤と、申します」 隠すことなどない。素直に答えると、お侍様は僅かに眉を寄せて更に問いを重ねてきた。 「藤、だけか? 姓は?」 答えを促す瞳があまりにも真剣で、訝しくなる。確かに私が母から与えられた名は、藤ではない。けれど、何故かこの方に「藤貴」という名を告げることに躊躇いを覚え、 「・・・・ただの藤でございます」 ただ、そう繰り返した。それでもお侍様は引き下がってはくれなかった。 「生まれは何処だ? そなたの父の名は?」 「あ、あの・・・ 」体をずいっと前のめりにして問いを重ねてくるお侍様に戸惑っていると、不意に風が吹いた。それは、木々の葉を剥いでしまうほどの強風。ゴウッと耳元で鳴った風の先に、 「藤!!」 名を呼ぶ声。それは、ひどく懐かしい声。聞きたくて堪らなかった声。己が、探し求めていた声。 「火群様!?」 一体どちらにと顔を巡らせた瞬間、風が更に強く唸り、 「うわあああああ ![]() っっっ!!!」お侍様の悲鳴が風音に交じった。慌てて視線を彼がいた場所へと向けたのだが、そこにお侍様の姿はない。風に攫われて、お侍様は消えてしまっていた。 代わりに目の前に現れたのは、 「火群様 ・・・」赤い髪に赤い瞳。背に黒い翼を広げた火群様。 昼、「言って参ります」を告げたばかりだというのに、その姿をひどく懐かしく感じた。 |