|
随分と遠い所まで来てしまったのだと思う。
どんなに目を凝らしても、雷獣様が連れていた大きな黒い雲はその片鱗さえも見ることは出来なくなってしまっていた。微かに聞こえていた雷鳴も、最早完全に消えてしまった。 「・・・天狗様、下ろしてはくださいませんか」 こうして請うのは何度目になるのだろう。どうか下ろして欲しいと何度もお願いしたけれど、滑るように空を翔る天狗様が私の願いを聞き届けてくれることはなかった。私に一瞥をくれることもなく、ただただ前を見つめ、黒い翼で空を翔る。往生際悪く体を捩らせてみたけれど、天狗様は気にもなされない。一見すれば火群様よりも細い腕で、私の抵抗を簡単にいなしてしまう。 思わず唇から零れるのは、もう何度目になるか分からない溜息。 (ここ、何処なんだろう・・・) 都からどれくらい離れたのだろうか。太陽の位置からして、雛菱山とは全く反対の方角に向かっていることだけは分かった。 「あの、天狗様───」 諦めきれず願う声は、途中で途切れた。 「着いた」 静かに告げる声に視線を落とせば、眼下にお屋敷が見えた。 高い山の頂上にひっそりと建つお屋敷。吸い込まれるようにしてお屋敷の庭へと降り立った天狗様の腕から、ようやく解放される。長い間宙に浮いていた足が地を踏みしめ、慣れた感触にほっと安堵する。 改めて天狗様を見上げた。痩身だけれど、火群様よりも上背がある。火群様と同じ色の瞳をしておられるのに、随分と印象が違って見える。いつも好奇心を宿して輝いている火群様の瞳と違って、目の前の天狗様は世の理の全てを知り尽くし、最早目に映るもの全てに飽きてしまったのではないかと思える程に、静かな瞳をしていた。 その瞳が、じっと私を見下ろしてくる。 沈黙に堪えきれず、迷った末に、私から口を開いた。 「あの・・・お名前を、お伺いしてもよろしいですか?」 空の上では私の声に全く応えて下さらなかったけれど、名前をと請うた私に、意外にも答えは簡単に返された。 「神楽という」 「神楽様。あの、火群様の兄上様でよろしいのですか?」 「そうだ」 矢張り、雷獣様と出かける際に訪れた烏のご主人様で間違いなさそう。私を此処に迎えるために遣いを遣ったのだろうか。 ではどうしてただの人の子である私などを引き取ろうと思ったのか。そして、それを何故、火群様はお認めになったのか。 聞きたいことはたくさんあった。 たくさんありすぎて、どの問いかけから口にすべきか決めかねていると、今度は神楽様が口を開いた。 「・・・名は?」 「え?」 思わず、問い返す。先程来から、「藤」と私の名を呼んでおられたはず。不思議に思い見つめ返したが、神楽様は静かな瞳で私を見つめたまま、答えを待っている。 「・・・・藤と、申します」 私の答えに、けれど神楽様はゆっくりと首を振って更に問いを重ねた。 「真の名だ」 真の名? それは、火群様から戴いた「藤」という名ではなく、母から授けられた名を告げよということなのだろうか。 「・・・藤貴、です」 逡巡の後、告げた答えに、神楽様は再び首を振った。 「違う」 「え?」 違う、と仰ったその意味が分からない。藤貴というこの名ではないということなのだろうか。けれど、藤貴というこの名は、母から貰ったもので、これ以外の名など、私にはないのだから。 戸惑いを隠せぬまま、神楽様を見上げていると、神楽様が僅かに眉を寄せた。 「・・・・知らぬのか?」 「あの、何を仰っているのか分かりません。私は生まれた時から藤貴です。母から貰った名です」 「・・・そうか」 言って神楽様は私に背を向け、庭からお屋敷へと上がってしまった。そのまま振り返ることもなく縁側を歩いていく神楽様の後を慌てて追う。 「神楽様、真の名とはどういうことなのですか?」 足早に歩いていくその背に問いかけたけれど、神楽様は立ち止まるどころか振り返ってもくださらない。足音もなく滑るように廊下を進む神楽様の後を追いながら、私はその問いを諦める。それよりも、私には訴えなければならないことがあったから。 「あの」 「・・・・」 「あのっ、神楽様!」 声を大きくして呼びかけると、ようやく神楽様が視線をこちらへと向けて下さった。 「なんだ」 てっきり鬱陶しげに眉を寄せておられるのかと思ったけれど、意外にも向けられた瞳は静かなままだった。それに助けられて、私は今日何度目か分からない願いを口にした。 「火群様にお会いしたいのです」 「───何故」 ようやく神楽様が足を止めた。見下ろしてくる瞳はやはり静かなまま。あまりにも冷静な瞳に気圧されそうになりながらも、口を開く。 「会ってお聞きしたいことがあるのです。雷獣様もきっと心配しておられますから、お会いして───」 「必要ない」 私の言葉を皆まで聞くこともなく切り捨てた神楽様に、思わず眉が寄るのが分かる。 「それは私が決めることです!」 「・・・・・・」 思わず声を荒げてしまった私に、神楽様が僅かに目を瞠ったのが分かり、はっとする。しまったと己の口を掌で覆ったけれど、既に零れてしまっていた言葉をなかったことには出来ない。 天狗様に対してただの人の子である私が生意気な口を聞いて良いはずがない。 お怒りになっただろうかと恐る恐る神楽様を見上げ、私はきょとんと目を瞠ることになる。何故なら、じっと私を見つめている神楽様の瞳が僅かに細められ、そこに優しい光が宿っていたのだから。 そして、神楽様は言った。 「よく似ている」 「え?」 何がと首を捻れば、 「白葉瀬に」 再び神楽様が口にした母の名。 「・・・母をご存知なのですね」 「ああ」 頷いた神楽様の瞳にはやはり優しい光がある。母を思いながら私を見つめる瞳。 (そうだ・・・) 私を落下から止めてくださったその時にも、母の名を口にし優しく瞳を細めていた。 生前、白拍子をしていた母上。神を降ろす力を持ち、妖怪を視る瞳を持っていた母上と、この天狗様とは面識があったらしい。きっと神楽様が私をここにお連れになったのも、私の母が白葉瀬であるが故。 「私をここへお連れになったのと、私の母と、どんな関係があるのですか? 生憎ですが母はもうこの世にはおりません」 「それでも構わぬ」 「え?」 穏やかな瞳のまま、神楽様は言った。 「白葉瀬の子であるお前が平穏に生きていてくれさえすれば、それで良い。他は望まぬ」 多くを語らない神楽様の言葉では、何も分からない。私が平穏に生きることと、火群様の元から居場所を奪われることとどんな関係があるのか答えが得られず、募るのは焦燥感ばかり。思わず口を尖らせそうになった所へ、不意に持ち上げられた神楽様の腕の行方を追うことに気を取られてしまった。 持ち上げられた神楽様の手が、私の頭をそっと撫でる。その掌の優しさに、思わず言葉の勢いを削がれてしまっていた。 「・・・よく、分かりません」 「それで良い」 穏やかな声でまるで子供を諭すように告げる神楽様。 「よくありません」 力ない声で抵抗するけれど、それもやはり温かな神楽様の掌に宥められてしまった。けれど、 「私が全てからお前を守ろう。火群には、無理だ」 「────・・」 その言葉に、固まる。 全てから私を守って下さると、それは火群様には無理なことだと言った神楽様。 (・・・・違う) 私の髪を優しく撫でながら、珍しく神楽様が多くを語った。 「お前はお前の背負うものを未だ知らぬ。だが、知らぬままで良い。知らぬまま生きて死んでいけ。それがお前の幸せ。お前の母が望むこと。だから、お前の背負っているものから私が守る。望む全ても与えてやろう」 ───違う。 確かに、私は私が背負っているものが何なのかを知らない。そもそも、天狗様に守っていただかなければならないような何かを背負っていることすら知らなかった。 それが一体何なのか、気になる。 けれど、それを教えられても私の気持ちは変わらない。 ─── 守って欲しい。 私がそんなことを火群様に望んだことなど、一度だってない。勿論、神楽様にそれを望むつもりもない。これからもずっと。私のものを人に押しつけようとは思わない。 「結構です」 思わず固い声が出てしまっていた。 「確かに私は私が何を背負っているのか知りません。けれど、それを他の方に背負っていただこうとは思いません。火群様の元に嫁いだのも、決して守っていただきたいなどという甘えからではありません。私が行きたかったから嫁いだだけのこと」 真っ直ぐに神楽様を見つめて告げる。 全て、本心だった。 妖怪を視ることが出来る瞳を持ち、その所為で人の中で上手く生きることが出来ないでいた。いっそ、妖の者の中で生きている今の方が生きやすいくらい。けれど、それを望んで──人の世から逃げるために火群様の元に嫁いだわけではない。 おそらく神楽様は教えてくれないだろうけれど、私が背負っているものを教えられたとしても、私の考えは変わらないと思う。私が背負うものは私のもの。それを人の肩に預けようとは思わない。背負っているものの重みに私が耐えられないというのならば、それまでのこと。 「あ」 一息に言い切って、はっとする。 言い過ぎただろうか。人の子の分際で、天狗様を相手に失礼にも程がある。何度もそうして反省したのに、私はまた神楽様に意見してしまっていることに気付く。 しまったと口を覆った私を見て、突然神楽様がふっと息を吐いた。 「え」 神楽様が初めて笑った。優しい瞳をしたまま、再び私の頭を撫でる。 「お前の母もお前と同じことを言った。同じ瞳で私を拒んだ。私もそれを尊重して、手を離した。そして、失った」 瞳に宿っていた優しい光が、次第に悲しみへと色を変えていく。 「お前を抱いて、白葉瀬は姿を消した。それが最期だ」 「私のことを、知っておられるのですか」 「ああ」 私の頭を撫でていた手が、止まる。温もりは変わらず注がれたまま。 私は覚えていないけれど、どうやら母の腕に抱かれていた頃、神楽様に会ったことがあるらしい。疑っていたわけではないけれど、本当に神楽様は、私の知らない私のことを多く知っているのだ。私の知らない母のことも。 「あの時、手を離さなければ良かったと後悔が消えない。お前を同じ目に遭わせるわけにはいかない」 「────・・・」 逸らすことなく真っ直ぐに私を見つめたまま、神楽様は言葉を紡ぐ。その声音は夕闇が訪れ始めている空にすうっと吸い込まれて消えていきそうなほどに静かで、穏やかだった。その赤い瞳の中には、宵闇に紛れさせても消えそうにない悲しい色があったけれど。 「白葉瀬は己のことは何一つ願わなかった。ただお前のことだけは、もし自分が儚くなれば守って欲しいと願った。強い瞳をした女が、お前のことを願うときだけは、少しだけ不安そうな瞳をしていた。己の死期を知っていたのかもしれないな」 私の知らない母の姿。 私が知らない母と神楽との約束。 既に死した母と交わされた約束を守るため、今此処にいる神楽様。今此処にいる、私。 「───母との約束を、守るために?」 「ああ。白葉瀬の忘れ形見。お前を守ろう」 抗う声は生まれなかった。神楽様の言葉を受け入れたわけではないけれど、目の前の優しくて悲しい瞳を今、否定することができなかった。 (ああ、このお方も───・・・) 私と同じように、死して尚、解くことのできない約束に縛られたままでいるのだと思うと、先程までのように突っぱねることができなかった。 真っ直ぐな瞳を見つめ続けていることが出来ず、視線を落としてしまった私の名を、神楽様が穏やかに呼んだ。 「藤」 「・・・はい」 視線を上げられぬまま、返事をする。変わらず穏やかな声で、神楽様が私に請うた。 「話を聞かせてくれないか」 「何のですか?」 「私の知らない、母であった白葉瀬の姿を」 徐に視線を上げれば、未だ優しい瞳で神楽様が私を見つめていた。 「─────・・・」 向けられる瞳の優しさに確信する。 嗚呼、この方はきっと、母を愛していたのだ。否、今は既にこの世にはいない母を、未だに神楽様は愛したままなのだろう。 それを嬉しく思う。 母のことを私はほとんど知らない。何処で生まれて、何処で育ち、誰の元へ嫁ぎ、そして誰の子を宿し、私として産み落としてくれたのか。何故、白拍子であることを隠し、小さな村に逃げるようにして移り住んだのか、何一つ知らない。 けれど、どうやら私が知らない頃の母が一人きりではなかったことが分かり、ほっとした。母は何も語ってくれなかったけれど、頼る人もなく孤独であったのではと勝手に思っていたものだから、神楽様のように力を貸そうとしてくれていた人の存在があったと聞いて、ほっとした。 けれど、それを母は突っぱねたようだけれど。それもまた母らしくて思わず可笑しくなってしまった。 「何でも良い。話を聞かせてくれ」 言いたいことも聞きたいことも、まだまだたくさんある。 けれど、母を愛してくれている神楽様の瞳を受け、 「・・・はい」 私は頷くことしか出来なかった。 否、きっとそれだけではない。 多分、私も話したかったのだと思う。村の誰も悲しんでくれなかった母の死を、私しか悲しみの涙を零さなかった母の死を、私と同じように胸を痛めてくれる存在がいることが嬉しかったから。亡き人の思い出を分かち合ってくれる人の存在が嬉しかったから。 ゆっくりと夕闇が空から降りてくる中、私は口を開いていた。 |