【第三章 解き放たれし記憶】




 赤き月の下、双王そうおうが逝った───。
 炎と雷とが舞い踊る城の中央に佇むのは、天帝─炎輝えんきと、謀反人─是軌ぜきの二人のみ。
 近くにいてはその身を焼かれる。兵士たちは遠く離れた場所で剣を振るっていた。
 今、城の中央には、静寂が訪れていた。
 炎輝は炎を宿した腕を下ろし、それに倣うように是軌もまた雷を宿した剣を身体の脇へと下ろしていた。
 炎輝の腕に握られた剣から、どちらのものかも定かではない血が地面へと滴り落ちる。その美しい横顔も血に汚れていた。
 頬を、唇を、美しい甲冑を濡らす血。衣に覆われた身体には、無数の傷。
 向かいに立つ謀反人の身体にも、同じく血を滴らせる傷が刻まれているのだろうか、その数はおそらく自分のものよりも少ないのだろう。
 彼の手に握られた妖の剣は、自分が握る剣よりも、その身を赤く染めているのだから。
「───── ふぅ」
 息を吐き出し、炎輝は瞳を閉ざした。
 鎮魂のため、僅かに黄金を散らした紅の瞳を閉ざす。
 不意に頬を伝ったのは血か、涙か───。
 かつて、天帝の両隣に立って居たいぬいの王──乾翠王けんすいおうと、たつみの王──蒼巽王そうおんおう。否、幼き頃より共に笑い、怒り、競い育ってきた大切な友人が、己を一人置いて、先に果てて逝った───。
 胸に大きな穴を穿たれたよう。
 気を抜けば、その穴に吸い込まれてしまいそうになる。飛び込めば楽になるのだろう。けれど、それは未だ許されない。
 頬を伝い落ちる温かな感触が消えるのを待ち、炎輝は瞼を持ち上げた。悲しみを流した瞳には、再び紅の強い光が宿っている。そこに僅かに漂う黄金が、その煌めきを僅かに増したようだった。
 そして、凛とした声で、是軌へと告げた。
「もう良いだろう、是軌殿。最期は我らのみで決着を」
 炎輝の紅の瞳を真っ直ぐに受け止め、是軌は紫電の瞳を瞬かせると、小さく頷いた。
「・・・良いだろう」
 徐に炎輝が手を挙げる。それに倣うように、是軌もまた副官へと合図を送った。
 それは、撤退の合図。
 突然の撤退に、兵がどよめいたが、それも僅かの間だった。ゆっくりゆっくりと、波が沖へ戻って行くかのように、城内を埋め尽くしていた兵士がその姿を消していく。
 そして、城内が、完全なる静寂に包まれた───。
 城の中は真に天帝と謀反人の二人のみ。
 音は、ない。
 激しい戦いに綻んだ城の城壁が崩れる音が、時折、空間を揺るがすのみ。
 永遠に続くのではないかと思われていた静寂を破ったのは、是軌だった。
「───流炎羅王。剣を」
 神から炎の王と認められ託された王剣を持てと促す低い声に、炎輝はゆっくり首を左右に振った。
「あの剣は、未来へと託した」
 そう。未来へ───火陵へと託した。
 神の声を聞く天琳王てんりんおうの歌に従い、次代の王たちを人界じんかいへと逃がし、その彼女らへと王剣を託した。
 神が定めた運命さだめに全力で抗うためそうしたのだが、結局は───
(神が定めたままに、廻るのか───)
 運命さだめの輪は、たとえ神に愛された王の子孫である自分がこんなに醜く抗っても、その回転を止めてはくれないらしい。
 ───おそらく、己はここで果てる。
 双王が歌の通り果てて逝ったように、己もまた神が定めた通り、ここで謀反人の剣に倒れるのだろう。
 手にした剣をきつく握れば、腕に刻まれた傷に痛みが走る。それに構うことなくただの剣を掲げ、その切っ先に謀反人を捉える。
 是軌は真っ直ぐに己を見つめている。
 無表情に、けれどそこに埋め込まれた紫電の瞳は、熱い。
 その瞳をずっと感じていた。そして、いつか己に牙を剥く日が来ることを、その瞳の熱とともに感じていた。
 紫電の瞳を受け止めきれず、炎輝は瞳を閉ざした。
 唇から零れたのは、微かな呟き。


「───こうなる前に、そなたを殺していれば良かったのか・・・?」


 静寂の中でさえ消え入りそうなその呟きは、火陵の耳には届かなかった。
 だが、


「約束を果たそう、是軌殿」


 瞳を持ち上げ、凛とした声で次に告げた父王の声は、確かに火陵の鼓膜を揺らした。
「─── 約束・・?」
 天帝─炎輝が、謀反人と交わした約束。
 それが一体何なのか考える間すら、火陵には与えられなかった。
 静寂が、一瞬にして消えた。
「────ッ!」
 ガラガラと城壁が崩れる音の直後、剣と剣とが交わる鋭い音が火陵の耳をつんざく。思わず閉ざしてしまいそうになった瞳を見開き、唐突に眼下で再開された天帝と謀反人との戦いを必死で追う。
 そこで迎える結末は、既に知っている。
 けれど、見逃すわけにはいかない。
 見たくないとどんなに心が拒んでも、父の最期の姿を見なければ、進めない───。

 炎が閃き、雷が空間を揺るがす。
 謀反人の振るう赤い刀身が天帝の肌を裂き、その血を啜る。
「・・・神剣も王剣も持たぬ貴方に、勝ち目はないのではないか」
 その言葉は静かに告げられた。
 揶揄の響きもなく、ただ静かに真実を告げる言葉に、炎輝は僅かに笑った。
「ああ。そうかもしれぬな」
 神が告げたように、謀反人の剣に倒れるのが、己の運命さだめ。それでも、
「では、諦めてはいかがか」
 頷くことはできない。
 最期まで抗うと約束したのだ。
 妻と、娘と、友と、民と───。
「諦めて、どうなる」
 己が生きることを諦めてこの命を差し出したその時に、そなたはどうなるのだと問えば、初めて是軌の面に感情が浮かんだ。
「私の望むものが、ようやく手に入る」
 口角が持ち上げられ、僅かに弧を描く。
 ニィ、と不気味に吊り上げられた口元を見遣って眉を寄せながら、炎輝は問いを続ける。
「それは、何だ。天位か? 違うのだろう。そなたが望んでいるのは、一体何なのだ」
 目の前の男が望むものが、分からない。
 神から与えられ、永年炎の王が継いできた天位を奪うだけでは足らないと、その瞳が告げている。
「そうだ。違う。私が求めるのは───」
 数多もの血を啜った赤き刀身が、身体を掠める。
 黄金の交じった紅の瞳を向ければ、更に是軌の刻んだ笑みが深いものへと変わる。その瞳はじっと炎輝を捉えている。
 左腕に纏った炎を是軌へと叩き付け、炎輝は是軌から距離を取る。
 軽やかに地を蹴って後方に飛び退った炎輝を、是軌が追うことはなかった。
 再び、城内に静寂が訪れる。
「─── 父上・・」
 胸の鼓動が、五月蠅い。
 服の上から押さえつけてみても、その鼓動は止まないどころか、掌をドンドンと強く叩いてくる。
 父を目の前で失う恐怖の為なのか、それとも気を抜けば目を逸らしてしまいそうになるふがいない己を鼓舞するために強く鼓動を刻んでいるのか。
 己の掌中で刻まれている鼓動の音だけが、城内に響いている。
 否、この空間に己は存在していない。城内に響くのは、耳を痛くする程の沈黙のみ。
 そこへ、炎輝が息を吐く音が響いた。
 瞳を閉ざし、静かに息を吐く。
・・・」
 己の末路は、既に知っている。是軌が握っている妖刀にこの身を貫かれ、絶命するのだ、と。
 運命さだめには、抗いきれそうにない───。
 みっともなく足掻いてみたが、その甲斐もなく二人の友の後を追いかけていくことになりそうだ。
 閉ざした瞼の裏に浮かんだのは、


 ───ご武運を、王。


そう言って頬を涙に濡らした妻──美愁びしゅうと、


 ─── 本当に、すぐ迎えに来てくれるの?


そう言って不安げに瞳を揺らした──火陵の姿。
 その二人の姿に、炎輝は心の中で詫びる。


 約束は、果たせそうにない。


 自嘲の笑みが口元に浮かぶ。
 徐に瞼を持ち上げ、炎輝はその笑みを更に濃くした。
「さあ、賭けてみるか」
 唇から零された言葉は、いっそ清々しい響き。
 この命を差し出す覚悟は、決めた。
 妻と娘の笑みを思い出せば、胸が痛んだが、もう結末は決まっているのだと、誰よりもこの炎輝が分かっていた。
 神の声を聞く一族の血は、彼の中にも確かに流れているのだから。
「さあ、是軌殿。終わらせるか」
 不適に笑いながら、炎輝は是軌に告げる。
 それに答えることなく、ただ是軌は剣を握った。
「最期に、もう一度だけ抗ってみようか・・・」
「───父上?」
 何をするつもりなのかと不安げに瞳を揺らす火陵の声は、父には届かない。
「さあ、来い」
 凛と、誘う言葉。その言葉の強さに反し、紅の瞳が徐に閉ざされた。手に握られた剣が、是軌を迎え撃つ気配はない。腕に纏わせていた炎も、その姿を消した。
「父上!!?」
 戦いを捨てたかのような父の姿に、火陵が目を瞠る。
「父上!!」
 結末は、知っている。
 知っていても、どうしたって願ってしまう。
「嫌だ、父上!! 死なないで!!」
 願ってしまう。
 けれど、この声は、届かない。
 炎輝の耳に届くのは、一歩一歩、己に近付いてくる是軌の足音のみ。それは死が近付いてくる音。
 炎輝は、死を待つ。
 この命を捧げる時を待つ。けれど、捧げる先は──是軌ではない。
「最期に、神よ」
 告げる言葉が届くかは分からないけれど、炎輝は願いを口にする。
「この俺を対価に、叶えてはくれまいか───・・」
 貴方が愛し、この世界を統べる天帝の名を与えた人の血を継ぐこの身体で、最期の願いを叶えてはくれないか。
 願いを告げる声を、是軌と火陵が聞いている。
 神の姿はない。
 天を仰ぐ。
 そこにあるのは、丸くて丸くて、真っ赤な月。
 視線を戻せば、眼前に紫電の瞳。視界の隅に、赤い刀身が月光を受けて鈍く輝くのが見えた。
「さあ、約束を果たそう」
 囁くように是軌に告げれば、目の前の紫電の瞳が、僅かに細められたのが分かった。
 そして、
「この命と引き替えに、そなたを───」
願いを告げる言葉は途切れ、唇を濡らしたのは真っ赤な血。
 胸を破り、骨を断ち、己の身を貫いた妖の剣がもたらす熱。意志に反してぐらりと傾いだ身体を受け止めてくれたのは、己を貫いている是軌の腕だった。
「父上─────────ッッッ!!!」
 娘の悲痛な叫びは、幸いにも炎輝には聞こえなかった。
 急速に薄れていく意識の中で、炎輝は悟る。
 己を支える腕が、共に倒れる気配は、ない。その事実に、炎輝はふっと自嘲の笑みを刷いた。
「───足りぬ、のか・・・?」
 この命を捧げても、謀反人を共に神の元へ連れて逝く対価には、まだ足りないというのだろうか。
 重い瞼を持ち上げれば、
「───・・」
じっと自分を見下ろしている瞳と目が合った。
 その瞳から、熱が消えている。残ったのは、どこか寂しさを纏った影。
 やはり、この男が望んだのは、天位ではなかったのだと悟る。天帝を屠っても、己が望むものが手に入らなかったことに絶望する寂しい瞳。
 その向こうに、赤い月。
 血を滴らせるのではないかと思わせる程に、赤い赤い月。


 運命さだめの夜、赤い月の下、天帝が果てた


 そして、その骸を抱き、戦場に残ったのは一人の男。
「───違う・・・」
 再び静寂を纏った空間で、茫然と立ち尽くす。
 僅かに黄金を交じらせた紅の瞳。それを手に入れれば、叶うと思っていたのに───・・・
 視線を落とし、かつてこの世界の王であった者を見つめる。
 神に最期の願いを託し、抗った男。抗いきれず、運命さだめのまま散った男。
 憐れな男。
「─── 貴方の命では、私を連れては逝けまい。対価には成り得ない」
 そっと、その身体から剣を引き抜く。
 まるで未だ血を啜り足りないのだと訴えるかのように、妖の剣は彼の身体から立ち去ることを拒んだが、是軌はそれを力任せに引き抜く。
 熱い血が、身体を濡らした。
 この時を待ち望んでいたというのに、喜びは湧く気配もない。
 その理由は、ただ一つ。
「私が求めていたのは─── 貴方ではなかったのだ」
 静寂の中に溶け込んでいくかのように頼りない囁きは、火陵の耳に届く前に血溜まりの出来た床に落ちて、消えた。
 そっと父王の身体を床の上へ横たえさせる謀反人の背中を、火陵は黙って見つめていた。
 吐き出す吐息が震える。震える手を口元に遣ったところで、唇も──否、全身が震えていることに火陵は気付いた。
 怒り──?
 悲しみ──?
 その理由を判じる前に、火陵は思考を遮られていた。
 

「まだ、手に入らぬのか───」


 是軌が零した言葉が、火陵の鼓膜を揺らした。
 天位を得たというのに、まだ手に入らぬものがあると告げる謀反人。ぎゅっと震える唇を噛みしめたその時、
「───!!」
火陵はビクッと肩を揺らした。
 不意に、是軌が視線を上げた。
 紫電の瞳が、真っ直ぐに自分を捉えた気がした。
 否。
 火陵はぎこちなく是軌から視線を逸らし、己の後ろを振り仰いだ。
 是軌の瞳は、火陵を通り越して、城の頭上に浮いている赤い月を見ていた。その体を濡らす血と同じ色をした赤き月を。
 火陵の瞳も、その月に縫い付けられる。


 血を滴らせる月。
 運命さだめの赤い月。


 全てはこの月の下に始まりを告げ、一つの終わりを迎え、また今、始まろうとしている───・・・


 月の光が、火陵に降り注ぐ。頼りないばかりだった月光が、次第に火陵の紅の瞳を刺す。眩しくて細めた瞳に写っていた月が、その姿を大きくしていく。
 ───月が、近付いてくる。
「───ッ!」
 否、自分が月へと吸い寄せられていくのだ。
 血のように赤い月。
 己の意志に反して月へと吸い寄せられていく身体が怖くて、助けを求めて視線を戻せば、そこにも真っ赤な血溜まり。
 そこに横たわった人。
「───父上・・」
 叶わなかった約束。
 叶えたくて最期まで抗った人。抗いながらも、運命さだめのままに逝った人。
「───ッ」
 頬を撫でた冷たさに、震えながら息を吐き出す。そうして吐き出さなければ、息が止まってしまいそう。
 一滴、冷たい涙が父王の上へと落ちていく。
「嫌だ・・・」
 何が、嫌なのか。
 この言うことを聞かない身体が嫌なのか。頬を撫でる涙の冷たさか。己の涙に父の身体を濡らすことか。
 分からないまま、瞳を閉じる。
 全てが、消える。
 

 優しい暗闇が、火陵を迎え入れた。










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