【第三章 解き放たれし記憶】




 己の半身とも言うべき双王が一人、そして、幼なじみでもある─蒼巽そうそん王が、逝った。
沓欺とうぎ─── ・・」
 乾翠けんすい王は、僅かに瞳を伏せた。
 深い絶望を辛うじて追いやり、蒼巽王を弔う。
「俺は追っていってなどやらぬぞ」
 あいにくと、追っていってはやれぬと、友を送る。
 戦いの最中にあっても、そうして友を弔う余裕が、乾翠王にはあった。
 彼の前には、肩で息をしている若き王─牙羅ガーラ王の姿があった。
 力の差は歴然。
 しかし、彼の瞳を未だにそれを認めていなかった。認めてしまえば、負けてしまう。
 この穏やかで心優しき王は、その命は助けてくれるかもしれない。けれども、己の命を繋ぎ止めるよりも、もっともっと強い願いが、彼にはある。
 だから、彼は退かない。
 若き王の瞳を真っ直ぐに乾翠王は見つめる。
「もう、やめよ」
 とは、言わない。その言葉が徒労に終わることは分かりきっている。彼は、おそらく死ぬまで退くことはないだろう。
 それほどまでに、この王が望むものが何なのか。
 それを、乾翠王は知っている。知っているからこそ、決して負けることができない。その覚悟と同じだけの覚悟を、彼もまた抱いてる。けれど、未だ目の前の王は、幼い。
「・・・剣を取らぬのか、牙羅王」
 最後にもう一度だけ、進言する。このまま何も出来ぬまま破れては、心残りにならぬのかと。その言葉に、やはり彼は頷かなかった。
「─── 取りませぬ!」
 獣の宿るという妖刀─牙狛がはく。それは時に、主にすら牙を剥くという妖刀。それを従えてこそ、真に牙羅族の王として認められる。
 未だ若き王に、牙狛は帯刀を許してはいるが、その意志全てを委ねることはしていない。その証拠に、
「──黙れ」
 低く、牙羅王は命じる。
 ─── 抜ケ。我ガ食イ尽クシテクレヨウゾ。
 目の前の敵を己が始末してやろうと鍔を鳴らし、訴えてくる妖刀に。
 抜けば、その言葉の通り乾翠王に襲いかかるに違いない。そうして、勝利をもたらしてくれるかもしれない。けれど、それは、牙羅王が望む勝利ではない。
 王剣を持たぬ乾翠王を相手に、己も王剣を持たずに挑み、そうして勝利を収めなければ、きっと己が望むものは手に入らない。
 ─── いや。そうして勝利を得ても、手には入らないのかもしれない。
 それでも、退くことは、もう出来ない。
 唸る妖刀の声を無視し、牙羅王は真っ直ぐに乾翠王を見つめる。
 乾翠王もまた、牙羅王を見据えている。そうして、瞳を伏せる。
「そうか」
 王剣を抜くことはないと答えた牙羅王に、もうそれを促すことはしない。牙羅王の覚悟の程は分かった。
 それでは、己も覚悟を決めよう。
 伏せた瞳を再び牙羅王へと向ける。翠玉に宿るのは、強い光。
「父様・・・」
 こんな瞳をする父の姿を、風樹は見たことがない。
 感情を表に出す方ではない人だった。それでも、いつも自分や母を見つめる瞳には穏やかな光があった。深い愛情の証がそこにはあった。
 けれど、それを一掃した父王の瞳に、風樹は息を呑む。
「あれは父様じゃなくて─── 乾翠王の瞳」
 双王が一人として、天帝の為に闘う姿。穏やかさを脱ぎ捨て、目の前の敵を排除することに全力を捧ぐ決意を決めた、闘神の姿。
 そして、その腕に、これまでとは比べものにならない圧を纏った風が宿される。敵を退けるためではない。敵を貫く為の風。
 それを、牙羅王も感じていた。
 そして、剣が唸る。
 ───抜ケ。オ前デハ無理ゾ。我ニ食ワセロ。
「駄目だ」
 たとえこのままでは敗れるのだとしても、牙狛を抜く気はない。
 これはもう、ただの意地。
 だから若いのだと言われるのだろう、思わず自嘲の笑みが口元に浮いた。
 ゴオォッ! と唸りを上げた風が、牙羅王の足を掬った。剥がれ落ちた城壁が風に飲まれ、城内を駆ける。
 吹きすさんだ風に、ついに牙羅王の体が宙に浮き、そして、
「─── っ!」
 容赦なく城壁へと叩き付けられた。背をしたたかに打ち付け、一瞬とまりかけた呼吸を取り戻し、牙羅王は駆ける。
 手が、つい牙狛へと伸びるのを慌てて制しながら、真っ直ぐ、乾翠王へと向かう。
 それを見つめる乾翠王の腕で、風の刃がその大きさを増す。避けることは適わないだろう。それでも、牙羅王は己へと向かってくる。己の体を切り刻む刃を、受けて立とうと。そうして、手刀で己の首を狩ろうと。
 乾翠王は、小さく息を吐く。
 覚悟は、もう出来た。
「───さらばだ、若き王」
 かつては可愛い部下だったその者を、刻む覚悟は、出来た。
 そうして、ゆっくりと翳された腕から、凄まじい勢いで風が放たれた。空を切り、真っ直ぐに牙羅王へと向かう。
 それを真っ直ぐに見つめながら、牙羅王は悟る。
 ─── 終わった。
 最早避けることは叶わない。受けた上で退けることも叶わない。
 己の戦いは、ここで終わったのだと悟る。
 だが、若い王は、それを受け入れることが出来なかった。
 ───── 嫌だ。手に入れたい。彼の人を・・・!
 欲望が、己の誇りを上回った。突如、歩みを止め立ち止まった牙羅王の手が、腰の妖刀へと伸びた。
 ─── サア。抜ケ。
「──────」
 牙狛の聲が、甘く囁く。
 その時だった。
「牙羅王!!」
 己を呼んだのは、誰だったのか。
 不意に頭上に影が差す。視線を上げたそこに迫っていたのは、崩れ落ちた城の天井の一部。
「危ない!」
「避けろ!!」
 己と、そして、幾人かの兵士の上。それは、思いも寄らぬ奇襲。誰が仕掛けたわけでもなく、だからこそ、乾翠王その人も、つい声を上げていた。
「牙羅王!!」
 気付けば、手を翳していた。牙羅王その人を切り裂くために放った刃を、己の兵士を潰さんと迫り来る石盤へと向けるために。
 そして、更にその隣で佇む牙羅王の頭上に迫る石盤へと、刃が向けられる。
「───!」
 それらは全て、一瞬の出来事だった。
 己を押しつぶすはずだった天板が粉々に砕け散っていた。それは、己を刻むために乾翠王が放った風の刃によって。パラパラと小石となって体を打つそれが、まるで雨のよう。そんなことを感じながら、呆然と乾翠王を見遣る。
 屠ろうとしていた己を救った人。
「何故───」
 呆然と問う声が、途切れる。
 手にした妖刀が、震えた。その時になって初めて、牙羅王は己の手が、妖刀を鞘かな抜きはなっていることに気付いた。
 ─── 後ハ任セヨ。
 血に飢えた獣の聲。慌てて妖刀を鞘に収めようとするが、時すでに遅し。
「─── 待て!!」
 己の意志に反し、振りかざされた妖刀から、獣が解き放たれていた。
「───!」
「乾翠王!!」
 刀身から飛び出した白い獣の形をした光が、主の声を退け、己の欲望のまま、乾翠王の腹を喰い貫いていた。そうして己の身を血で染めた獣は暗く嗤いながら、刀身へとその体を沈ませた。
「父様!!」
 静かに、乾翠王は地に倒れ伏した。
「父様!!」
 震える手で妖刀を鞘へと収めた牙羅王が、ふらつく足で、乾翠王の元へと歩み寄り、俯せに倒れた彼の体を抱き起こす。
乾翠王・・何故・・私を・・・」
 問う声は、震えている。
 何故、己まで助けたのか。
 己の兵を救わんとしてその思いは、分かる。けれど、謀反に荷担し、奥方を連れ去ったこの裏切り者の己までをも助けんとしたその理由が、分からない。あのまま、天井に潰させていれば良かったのだ。そうすれば今ここに倒れているのは乾翠王その人ではなく、自分だったはずなのだ。
 それを、乾翠王も望んだ。覚悟を決めていたはずなのに。
 どうして───
 閉ざされた瞳をゆっくりと開きながら、乾翠王は、泣きそうな顔で自分を見つめている若き王に視線を向けた。
 そうして、僅かに口元を緩める。
「私はな、牙羅王。おおよそ、王となるに相応しい器ではなかったのだ。こうして、ついつい気を散らしてしまう」
「何故、助けようと・・! 私は、あなた様を、裏切った」
 かつて上官と慕っていた乾翠王を、己の身勝手な欲望に負けて謀反人に組し、剣を向けたというのに。何故。
 その問いに、乾翠王は僅かに押し黙る。
「・・・何故だろうか。そなたを、退けるつもりでいたのだが」
 その通りなのだ。己を裏切って村を襲い、最愛の妻を連れ去った敵将。それが、この牙羅の王。かつては可愛い部下だった。けれど、それを屠るべき敵と認め、排除しようと決めたのだ。
 決めたのだが、つい、助けた。
「いざそなたが死に直面した様を見せられて、助けたくなってしまったのだ」
 答えは、ただ、それだけのこと。
「そなたは、可愛い部下だった。つい、裏切られたことを、忘れてしまったのだ」
 だから、王として自分は相応しい器ではなかったのだと再度告げて、乾翠王は僅かに笑った。
 争うことは、好きではなかった。
 双王という天帝を守り天界の乾の守りを仰せつかったこの乾翠王という身分を時には重いと感じたことさえあった。
 それでもこうして乾翠王として蒼巽王と共に、天帝の為に闘ってきたこの己の運命さだめを不幸なものだったとは、決して思わない。
 天帝─炎輝はかけがえのない友だった。
 共に天帝を守ろうと誓った双王─沓欺は、かけがえのない友だった。
 だから、戦えた。
 今だって、この若き王を屠り退ける覚悟も、それだから決められたのだ。
 だが、根っからの闘神には、なりきれなかった。つい、思い出してしまった。そして、助けてしまった。
 この前の前の若い王ものことも、嫌いではなかったのだから。
 ただ、それを思い出してしまっただけのこと。そうして今敗れたのかと思うと、笑いがこみ上げてくる。
(すまないな、炎輝。沓欺、怒っているのだろうな)
 きっと逝けば、とりあえず一発全力で殴られるに違いない。そう思うと、また笑えた。
 穏やかな笑みを浮かべているかつての上官に、牙羅王は瞳を伏せる。
「王・・! 何故。私は・・」
 言葉が出てこない。
 唇をふるわせる牙羅王に、乾翠王は瞳を瞬かせる。
「・・何故、そのような顔をする、牙羅王。そなたは、勝利したのだ」
 愚かなヤツだと笑っても良いのだ、と。
 けれど、牙羅王は首を横に振る。
「・・・・これは、違います」
 己が望んだ勝利ではないのだ、と。
 決して、自分の手で掴んだ勝利ではない。全ては、己の未熟さが招いたこと。
 欲望を抑えきれず、誇りを手放した。そうして抜き去った妖刀を制御しきれなかった未熟さが招いたこの結末。
「─── 望むものは、手に入りそうか」
 小さな声で、乾翠王は問う。
 彼が望む形ではなかったにしろ、結局、生き残るのはこの牙羅王。
 己は、去る。
「─── 」
 牙羅王から、答えはない。
 乾翠王は分かっている。彼が望むものは、彼の手には入らないのだということは。そして、それを、自分も望んでいる。
 あとは、この天界の命運のみが、気がかり。
「─── 私の望みは、娘が継いでくれるだろう」
「父様・・」
 父王の言葉に、風樹は己の頬を濡らしていた涙を拭う。
 この天界の命運は、そなたに任せた、と。そう告げた父王の姿を瞳に刻み込むように、次から次から溢れる涙を拭い、血に濡れた父の姿を、じっと見つめる。
 これが、優しかった父の最期の姿。
 己に全てを託し去る、双王の姿。命を賭して闘い、そうして、最期は彼らしい理由で散った父の姿。
「若き王よ、そなたは是軌ぜきとは違う」
 掠れる声で、乾翠王は牙羅王に告げる。
「何、を・・?」
「望みを叶える為とはいえ、望まぬ道を行くことはなかったのだ」
「─────」
 乾翠王の言葉に、牙羅王は押し黙る。
 最早、分からない。この乾翠王を越えるため、越えて望む人を手に入れるため、謀反人に組したのだ。それが、彼の言うとおり、間違いだったのだろうか。そもそも、手に入れたいと望んだこと自体が間違いだったのだろうか。
 時を遡れるのだとしたら、いったいどこまで戻れば良いのか、分からない。
 けれど、時は進むのみ。腕の中にある乾翠王の命も、流れていくのみ。戻ることはない。
 瞳を閉ざした乾翠王は、深い溜息を漏らした後、再び牙羅王の名を呼んだ。そして、
「牙羅王よ、我が妻を、頼むぞ」
 その言葉に、牙羅王は目を瞠る。
「─── 頼む相手を間違えておいでです! 俺は・・・!」
 乾翠王の王妃を攫った己に頼むべきことではない。けれど、乾翠王は言った。己の言葉を覆すことなく。
「いや。間違えてなど、おらぬだろう?」
「─────」
 この王は、全てを知っている。幼い自分の考えなど、望むものなど、手に取るように全て。知った上だからこそ、今こうして己に頼んで聞かせるのだ。決して自分がそれを裏切らぬと分かっているから
 ついに牙羅王は瞳を伏せた。
 やはり、負けたのは、自分だった。
 そっと、床に横たえられた乾翠王は、遠ざかって行く牙羅王の足音と、命を賭して闘う仲間たちとの声をどこか遠くに聞きながら、深く息を吐く。
 その傍らには、風樹のみ。涙は、最早止めようもない。
 分かっていた結末。分かっていた最期。
 それでも、やはり抑えようのない悲しみが、風樹の胸を苛む。
 それを感じたのか。否、そんなことは有り得はしないのだけれど、けれど、風樹を慰めるのは、乾翠王の優しい声だった。
「すまないな、風樹」
「父様」
「人界に迎えに行くと行ったのだが・・・情けないな」
「そんなことないっ!!」
 乾翠王は、僅かに微笑む。
 そして、最期に呼んだのは、
「──── 鳳華。風樹・・・」
 愛しい妻と、愛しい娘の名。
 そして───一つ、風が、止んだ。


「父様───」


 そして、一つ、風が生まれる。
 赤き月の下。










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