【第三章 解き放たれし記憶】




 炎が宙を舞い、風が地を這い、血とも水とも知れぬ飛沫が頬を濡らす。
 頬に感じた生ぬるい感触が一体何なのか、考える暇などない。
 ぐいっと唯一自由の利く左手の甲で頬を拭ったのは、蒼巽王そうそんおう沓欺とうぎ。だらりと体の脇に降ろされた右腕はもう、己の意志では動かすことも出来ない。腕の付け根で申し訳程度に施された止血の甲斐もなく、滴る血が足下で血溜まりを作る。謝る呼吸と額に滲む脂汗が、出血の多さを物語る。
 おそらく、幾ばくも保たぬ。
 それを蒼巽王は悟っていた。けれど、それで焦るような男ではない。
 強靱な鞭を振るい己に向かい来る鍍乎邏の女王をひたと見据え、何を思ったか不意に笑みを零した。
「─── 良いな。迷いのない瞳だ」
「────・・・」
 突然何を言うのだと、鍍乎邏とから王が眉をすがめることにも構わず、襲いかかってきた鉄の鞭をひらりとよけ、水龍を放ちながら、蒼巽王は彼女に問う。
「鍍乎邏の姫君よ。そなた、何の為に戦う?」
 戦のさなか。それを感じさせない穏やかな声で問う。
 それに鍍乎邏王が答えたのは、あまりにも穏やかな蒼巽王の声に、若干気が削がれたからか。それでも錏主羅あすらを握る手を緩めることはない。 
「─── りん王の御為だ」
「稟王のため・・・」
「そうだ。私は信ずるのは、強き者。強き者の為に戦い、強き者にのみ従う。是軌様は強い。その是軌様が戦えと命じたのだ。だから私は戦っている」
 鍍乎邏王の言葉に、蒼巽王は僅かに眉をひそめる。彼女の言葉に迷いはない。
 彼女はその言葉の通り、己より強い者のみを信じ、己より強い者にのみ従う。そうして生きてきたのだろう。力が全てだと教え込まれ、そうして生きることに何の疑いも持たぬまま、王となった。
 女であるが故に、どうしても腕力では男に適わない。それでも王となり民を守り従えるべく、強くあれ、と。力さえあれば誰もが己に従うのだと先の女王に教え込まれ、そうして代々女王が王を努める鍍乎邏の一族で王となった彼女、そうして生きてきた。
 けれど、蒼巽王にはそれが分からない。
「ではそなたは、是軌が強ければ何を命ぜられようとも従うのか」
 今こうして、天地開闢の時以来、神から愛されこの天界の王として君臨してきた、この世界の平穏の全てであると言っても過言ではない存在であった天帝に対し牙を剥くという大罪を犯すことにも、ためらいはないと言うのか。
「そうだ。私が信ずるのはあの御方のみだ」
 ためらわないのだと、迷いもなく答える鍍乎邏王に、蒼巽王は僅かに目を瞠った後、
「ハッ。そうか」
破顔した。
 神にも等しい天帝に刃向かうことに何の躊躇いも見せぬその潔さに、感心する。
「まあ、俺も同じか」
「・・・何?」
 どういう意味だと眉をひそめる鍍乎邏王に、ニッと笑みを浮かべながら、蒼巽王は弛んできた止血の布を己の歯と自由な左腕で締め直すと、彼女に答えた。
「俺も同じだ。俺が従ってやるのは、己の信ずる者のみ。そいつの為に命をかけても良いと思えるから、今、戦っている。そいつの為なら、何だってやれる。そこは、そなたと一緒だ」
 だが、そう思えるのは、その者が強い力を持っているからではない。
「・・・天帝か」
「そうだが、違う。俺が信ずるのは、炎輝」
 神が愛した天帝だから、ではない。己の上官である、流炎羅王だから、ではない。
 炎輝。ただ、彼のことが好きなのだ。それだけのこと。それだけが、全て。
「俺が従うのは炎輝だけだ。炎輝のために戦う。他の何者にも俺は屈しない。それが俺の信念。俺の誇りだ」
 そして、誇り。こうして共に肩を並べて戦える双王の子として産まれたことを嬉しく思う。
 腕を失い、今その命が流れ出すことを止めることも出来ぬまま、それでも強さを決して失わぬ青い瞳に、鍍乎邏王は眉をひそめる。
 どうして、そんな顔をしていられのか、分からない。
「─── ではその誇りを抱いたまま、流炎羅王のために散るがいい」
 それすらも誇りだと笑うのかと思えば、蒼巽王は、きっぱりとそれに首を振った。
「それは断る」
「─── 」
「俺は炎輝のために生きる。死ぬことはない。生きねば従うことも戦うことも、守ることもできないからな」
 だから死ぬのはごめんだと、青い顔をしてそれでも自信たっぷりに笑う王に、鍍乎邏王は口を噤む。
「─────」
 己が優性であるはずなのに、そんな気がしないのは何故だろうか。
 唇をぎゅっと噛みしめ、錏主羅あすらを振るう。それを荒い息でよけながら、蒼巽王は問いを続けた。
「なあ。そなたは死ねるのか。是軌殿のために」
「無論だ。是軌様が望むなら」
 王の命は絶対。己が王と認めたあの方の命であれば、たとえそれが己の死を伴うものだとしても、逆らうことなど有り得ない。
 やはり迷いのない答えに、蒼巽王は笑った。
「恋は盲目だな、鍍乎邏の姫君」
「愚かな。恋ではない。忠誠心だ」
 眉を吊り上げる鍍乎邏王に、蒼巽王は言った。
似ているな、俺とそなたは」
 己の信ずる者のために、闘う。
 似ていないけれど、似ている。
 その言葉に、鍍乎邏王は更に眉を吊り上げる。
「違う。私は貴方とは違う!」
 自由気ままに生きてきた蒼巽王と、王として誰よりも強くあるべきと育てられてきた自分が選らんだこの道。
 己で選んだと思っているけれど、選ばざるを得なかったこの道を行く己と、この王と。決して一緒でなど有り得ない。
 それを、歯がゆく思う。それは羨ましさだったのかもしれない。
 認めたくないだけで。
 心の乱れが、錏主羅あすらを乱れさせた。あらぬ所を打った錏主羅に重心を手前に取られた鍍乎邏王の体が僅かに前のめりに傾ぐ。それを、蒼巽王が見逃すことはなかった。
 左手に宿した水の刃を鍍乎邏王へと放つその瞬間、
「─────!」
刃は、消えた。
 不意に目の前に差し出された鍍乎邏王の手。
 それは慈悲を求めるためのものではなく、
「─── 師漣しれん・・ッ!」
「王!!!」
「お父様 ッッ!!」
 蒼巽族の兵士の声が、誰の耳にも届かぬ水日の悲鳴が城内にこだまする。
「─── 槍にもなるのか、それは。凄いな」
 こんな時まで呑気な声で、蒼巽王は己の体からズルリと引き抜かれる、錏主羅を眺めていた。
 蒼巽王の手が止まったその瞬間に、ダラリと床に落ちていた鞭状の錏主羅は一本の槍へとその姿を変え、蒼巽王の体を貫いていた。
 ゴトリと仰向けに倒れ伏す己の体が、まるで別のものであるかのように、重い。
 蒼巽王の体が、幻炎城げんえんじょうの床に、倒れ伏した。城の高い天井がその青い目に映る。
「─── 女難の相が出ているな、きっと」
 鍍乎邏王が差し出した掌に乗っていたのは、美しい蒼玉の髪飾り。
 それは若き日、愛する妻─師漣の漆黒の髪に映えるようにと、己が選んだ白銀の髪飾りだった。その中央に飾られた蒼玉には、誰のものか考えることも恐ろしい、赤い血の模様があった。
 それは、村を、そして民を任せた師漣が、鍍乎邏の手に落ちたのだという証。
 それが、蒼巽王の動きを止めた。
「・・・だから言ったのだ。私と貴方は違うのだと」
 倒れ伏した蒼巽王の体を見下ろし、鍍乎邏王が言った。
「私には、是軌様だけだ。だが、貴方には奥方がいる。ご息女がいる。流炎羅王だけではない。それが私と貴方の違い。そして、貴方の弱さとなる」
 守る者が多いだけ、愛しい者が多いほど、それは弱さになるのだと。そう言って哀れむように蒼巽王を見下ろす。
 その視線を、蒼巽王は黙って受け止める。けれど、「そうだな」と頷くためではない。変わらぬ不適な笑みを口元に浮かべ、真っ直ぐに鍍乎邏王を見上げた。
「確かに俺は敗れた。しかし、妻や娘を愛することは弱さでは、ない」
「・・ならば、何故貴方は敗れた」
「そうだが、違うのだ。鍍乎邏王。人を愛するということは──」
 告げる言葉は途切れ、代わりに赤黒い血がその口から吐き出された。
 瞼以外は、もう動かせない。
 体が驚くほどに冷たい。冷たすぎて、まるで痺れるよう。
 吐き出す息だけが熱く、そして震えている。
(血を失い過ぎたな・・)
 分かっていても、最早、どうともできない。
 僅かに嘆息し、瞼を閉ざす。そして、己を見下ろす鍍乎邏王にそっと問うた。
「可哀相に。誰か、そなたに教えてくれる者はいなかったのか?」
 その言葉に、鍍乎邏王は眉をひそめる。
「・・・何を言っておられる。破れたのは、貴方だ」
 今、憐れだと言われるべきは、血にまみれ床に倒れ伏した蒼巽王その人であり、己ではないはずだ。
 けれど、蒼巽王はそれに構うことはなかった。
愛する者は、多い方が良いぞ、鍍乎邏王」
 瞳を閉ざしたまま、僅かにその口元に笑みを浮かべたまま。
 彼の言葉の意味が、鍍乎邏王には分からない。
 どうして今この瞬間に、穏やかな笑みを浮かべて居られるのかが、分からない。
 分からないから、見ていると苛立つ。この王は、いつもそうだった。いつだって楽しそうに笑い、およそ王とは思えない程に己の望みに忠実で、己の言葉を全く包み隠さすことなく、時には天帝にさえ意見する。
 何者をも恐れず、常に自信に満ちあふれていた双王が一人。
 この王を理解が出来ないと眉をひそめていたのは、今に始まったことではない。
 その彼が、今、散る。
 己の手で。
 鍍乎邏王は、手にしていた槍状の錏主羅を握り直し、それを蒼巽王の胸元へと突きつける。
「───・・さらばだ。蒼巽王」
 告げる言葉に、僅かだが躊躇が生まれる。
 この天界を天帝と共に守ってきた双王が一人を己が屠ることに、今更ながら、僅かな躊躇いが生まれた。
 けれど、引き返す気は生まれない。
 それを、蒼巽王も感じていた。もとより、命乞いをする気など毛頭ないけれど。瞳を閉ざしたまま、深く息を吐く。
 どうやら、自分はここで終わりのよう。
 けれど、
「女には弱いんだが・・・」
 どんな時だって、妻─師漣には頭が上がらなかった。娘─水日のお願いも一度だって断れたことがない。王妃たちのお喋りの槍玉に挙げられて、言い返せたことなど一度だってなかった。
 それでも、
「ここは─── 一矢報いねばな」
 徐に、蒼巽王は瞼を持ち上げる。それすら、重い。けれど、カッと見開いた瞳に応じるように、動いた。
 体はすでに動かない。動いたのは、己の体から流れ出した血。
 ザァっと蒼巽王の体を離れた血が刃を作り、
ああああああ!!」
「鍍乎邏様っ!!」
「姫王!!」
 鍍乎邏王の体を襲った。
 それは彼女の肩を、首を、顔を削いで消えた。
 片膝を付いた王に、鍍乎邏の兵士が慌てて駆け寄ってくる。その音すら、最早、蒼巽王の耳には、届かない。
 かすれる声では、もう届かない。それでも、蒼巽王は口を開く。
「─── すまない、炎輝」
 俺は先に逝く、と。
「追ってなど来るなよ、昊咒こうしゅう
 寂しいからと言って、幼なじみを追って来れば、分かっているな、と。
 そして、
「愛している、師漣」
 彼女の無事を祈り、最期に、
「───水日 ・・」
 愛しい娘の、命運を祈る。
 僅かに細められた青い瞳が、
「─── お父様・・!!」
 口許を抑え、堪えきれない涙で頬を濡らす水日の青い瞳を、真っ直ぐに捕らえた。
「お父様! お父様!!」
 そんな風に見えたのは、水日の気の所為だったのだろうか。


 赤き月の下、双王が一人──巽の蒼巽王が、果てた。










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