【第2章 解き放たれた記憶】




 赤い月を背に、広場の中空に体を浮かせている火陵。黄金を交じらせた紅の瞳は、痛ましげに細められながらも、けれど閉ざされることはなく、 眼下で繰り広げられている戦をつぶさに見つめていた。
 その瞳が、一層大きく揺れる。
蒼巽王様。乾翠王様」
 逆賊の長と戦う幼なじみの父親たちの姿を、唇を噛みしめながら見つめる。  この、終わりの見えている戦いを、自分と同様に幼馴染み達も目の当たりにしているのだと思うと、胸が締め付けられるようだった。
  の王たちは、果てる。
 自分たちが今日の今日まで天界での記憶を封じられ、人界に身を潜めていた事実がある。その事実が、この戦いの結末を知らせている。
 それでも、瞳を閉ざすことなく、目を見開いて見つめ続ける。父王たちの戦いを 最期の時を、この瞳に、胸に、深く深く刻むために。
!」
 不意に、空が低い声で唸った。
 突然の雷鳴に驚き、火陵は空を仰ぐ。硝子張りになった天上の向こうには、いつの間にそこに姿を現していたのだろう。真っ黒な雲が空一面を覆っていた。今にも、雨粒を落としそうな雲。否、そこから降りてくるのは鋼鉄の雨なのではないかと疑ってしまうほどに、その雲は暗く、重い色をしていた。
 再び空が光り、その直後に、鉛色の空が咆哮を上げる。

 悪寒が背筋を走り抜けていくのを感じ、火陵は己の体を両腕で抱き締める。その腕が僅かに震える理由を捜さんと視線を空から地上へと戻した火陵は、
父上!」
 眼下に、父王が姿を現していることに気付く。
 そして、
稟王・・・!」
 その父王と対峙している謀反人―稟王の姿がそこにはあった。
 黒色の衣に身を包み、同様に黒色の甲冑を纏った稟族の王は、褐色の肌も相まって、陽光を失った空間に溶け込んでいくように ひっそりと けれど、確かなる存在感でそこに立っている。
怖い」
 これだけ離れているにもかかわらず、火陵は身震いする。
 彼を見つめていると、その体からじわりじわりと何か得体の知れない黒い物が己の身に迫ってくるよう。
 それがいったい何なのかが、火陵にはよく分からない。けれど、
「イヤな感じがする・・」
 漠然と、そう感じる。
 稟王の薄い唇は僅かに吊り上がり、その面は笑みの様相を呈している。 しかし、頬の上にはめ込まれた紫色の瞳は細められることなく、強すぎるほどの視線でもって天帝を見つめていた。 長い銀髪は背の中程で一つに束ねられているが、戦場を吹きすさぶ風に激しく揺られている。その手には、
あれは・・・」
 再び火陵の背を冷たい物が駆け抜けていった。
 是軌が手にしている一振りの剣。
  魄緋刀はくひとう
 その刀身は、朱。血を浴びたかのように禍々しい色。実際にその剣は数多もの命を奪い、夥しいまでの血を身に浴びているのだろう。 そこから溢れ出るのはその刀身に血を奪われた人々の怨みか、数多もの人の命を奪い、それでも未だ血を欲しぎらつく剣の妖気なのか。 遠く離れていてさえ迫り来る妖刀の、そして、是軌の体から同様に立ち上る禍禍しい気に、火陵は背を氷らせる。
 それでも父王は凛と立ち、真っ直ぐに謀反人を見据えていた。
 一言、二言、父王と稟王とが言葉を交わす。
「父上。何を・・?」
 火陵には、聞こえない。
 それが何故なのかを訝しんだその時、
今、なのか。稟王よ」
 不意に届いた父王の声。
「今・・?」
 ようやく届いた父王の言葉。けれど、その意味は分からない。
・・約束をはたそう、是軌殿」
 それに応える是軌の言葉は、
「今こそ 今こそ、我が手に・・!」
 雷鳴と共に、是軌の口から迸る強い願い。
「何を・・・」
 この男は、一体、何を求めているのか。
 この天界の地で絶対である天帝に反旗を翻してまで、数多の命を奪ってまで、何を欲しているのか。
 天位か、それを得ることが出来るほどの絶対の力なのか、人々を己の前に平伏させる力なのか、それとも別の
「くれてやるわけにはいかんのだ」
 答える声は、戦場に凛と響く。その声の強さに、火陵の体を覆っていた是軌の体から発される暗い気が霧散する。
「父上」
 音をさせることもなく、静かに炎が灯る。煌々と眩い光を放つ炎が現れ、主を守るかのように、左腕に絡み付く。 同時に、天帝の瞳の紅に、黄金が灯る。それは、腕の黄金が映ったのか、彼の瞳の中の黄金が増したのか。

やはり、ここにいたのか・・・」
 不意に、稟王が洩らした言葉に、流炎羅王と火陵とが僅かに目を瞠る。
「何が・・?」
 訝しみを思わず言葉にしていたのは火陵だった。
 しかし、稟王には届かない。稟王は答えない。ただ、その掌中に握り締めていた妖刀を眼前に掲げ、口許を不気味に歪め、流炎羅王をひたと見据える。
「いざ、参る」
 炎を繰る父の姿に、火陵は目を瞠る。
父上」
 そこに、火陵の見知った父の姿はない。今、稟王に対峙し、火陵の眼前で炎を繰り出すその姿は父のものではなく、天帝のもの。 絶対的な力を持つ者の瞳で、禍禍しき謀反人を屠らんと戦いに身を投じるその姿は見る者を畏怖させると共に、 目を奪って離さない、凛とした美しさを備えている。
「これが ・・・天帝の姿」
 絶対的な力を秘めた神剣を手放し、それでも悠然と謀反人に立ち向かう父の姿に、思わず祈らずにはいられない。
父上。どうか・・どうか・・・」
 しかし、祈りの言葉は、途切れる。
 口を噤み、それから先の言葉を火陵が口にすることはできなかった。
 知っている。
 父は、謀反人の手によって、殺される。
父上」
 雷鳴が空を黄金色に瞬かせ、城内では炎の紅が美しく舞う。それを裂く朱き刀身が闇にひらめき、どこかで命を散らす断末魔の声があがる。
 命の奪い合いであることを感じさせない、美しささえ感じさせる天帝と謀反人―稟王との戦い。 けれど、それに交じる断末魔の声に目を向ければ、真っ白な城の床に血を広げ、そこに倒れ伏す今の今まで温かな命であったもの。 それが、一瞬のうちに掻き消され、真っ赤な血の上に散る。
これが、戦・・」
 思わず目を背けたくなる眼下の光景を、火陵は歯を食いしばって耐える。一時とて視線を逸らしてなるものかと、紅の瞳で、真っ直ぐに見据える。
 これが、父王の戦った戦。
 そして、おそらく己がそう遠くない未来に、稟王と繰り広げるであろう光景。
私は、見届けるよ。父上」
 握り締めた掌が、汗で湿っている。額にも、いつの間にか汗が滲んでいた。
 










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