炎が爆ぜ、風が唸る。水龍が唸り声をあげながら宙を舞い、雷が空を支配する。剣が交わる鋭い音と共に、呻き声と断末魔―死の香りが辺りを支配している。 赤い月の夜 運命の夜、戦の騒音が天帝が居城―幻炎城を支配していた。 その戦の最中に、天帝を守護する双王が一人―乾翠王が身を投じようとしていた。彼の対となるもう一人の双王―蒼巽王は既に敵の王―鍍乎邏王と戦っている。 そして、乾翠王は今、一人の年若い王の前に立っていた。 謀反人―稟族の王、是軌と共に謀反の旗印を上げた牙羅族の王。 健やかな筋肉に覆われたスラリと長身の体躯は褐色の肌に覆われ、短い白銀色の髪が風に揺れている。 体を覆う衣は髪の色と同じ白地に銀の刺繍の施されたもの。それが今は黒い甲冑に大部分を隠されている。その腰には一振りの剣が下げられてあった。 牙羅族の王が代々継承する王剣―牙狛。 その刀身は猛獣の牙で作られたと伝えられ、まるでその獣の意を遺しているかのように、目の前の敵に食い付き貫く妖刀の一種と言われている王剣。 「 乾翠王様」 乾翠王を認めた薄い緑色の瞳が、僅かな動揺に揺れる。 牙羅族はかつて、乾を守護する乾翠族配下の一族だった。しかし、稟族と共に天帝に牙を剥き、乾翠族の村を襲った 。 かつての上官を前にした動揺も一瞬。すぐに牙羅の王は、その瞳に険しい光を宿し、乾翠王を見据える。 剣を収める気はないと伝える牙羅王の瞳に、乾翠王は僅かに息を吐き、瞳を伏せる。そして、徐に瞼を持ち上げた乾翠王は、牙羅王のものよりも済んだ緑色の瞳を真っ直ぐ若き王へと向け、 「一つ、訊いても良いか、牙羅王よ」 乾翠王は静かに問うた。それに答える牙羅王の声は硬い。 「お答えしましょう」 「我が妻 」 「 」 皆まで言うことなく、乾翠王は一度口を閉ざした。突然牙羅王の表情が固まったからだ。次いで、すぐに彼の瞳に険しい光が宿る。 その理由が何なのかを考えるまでもなく、乾翠王には答えが分かっていた。だから、わざわざ訊ねることはしない。己の問いを続ける。 「鳳華は、どうしている。無事でいるのか?」 乾翠族の村を牙羅族が襲ったことは娘の風樹から聞かされていた。そして、妻である鳳華が連れ去られたのだということも。 妻は無事かと訊ねる乾翠王に、僅かな逡巡の後、 「・・・ご安心を。鳳華様においては、我が城にて丁重におもてなしをさせていただいておりますゆえ」 牙羅王は答えた。 険しい光を宿したままでいる牙羅王の瞳を、乾翠王は真っ直ぐに見つめる。彼の言葉が真実か否かを見極める碧玉の瞳は、疑惑の色にぎらつくことなく、真摯な光で牙羅王を射ると、すぐに伏せられた。 「そうか。ならば良い」 無事でいるのならば良いのだと、僅かに口許を緩めた乾翠王に、牙羅王は目を瞠る。 「・・・信じられるおつもりですか? 敵の言葉を」 嘘を言っているとは思わないのですかと問う言葉に、乾翠王は縦に首を振った。そして彼が口にした言葉に、牙羅王は更に驚かされることとなる。 「信じよう。かつては部下だった信頼のおけるそなたの言葉だ」 真っ直ぐ己に向けられた碧玉の瞳に、牙羅王の両の瞳が揺れる。 彼は、信じると言ったのだ。 天帝―炎輝に反旗を翻し、かつては王と慕っていた彼に刃を向けようとしている 否、既に彼の村を襲い、 あまたもの命を奪い、そして彼の最愛の人である妃―鳳華を連れ去ったのだ。 そんな己を、未だ信じると言う。 その言葉は、若き王の胸に痛みをもたらす。 「 しかし、私は貴方を裏切りました」 それでも信じるのですかと小さな声で問うた牙羅王に、乾翠王は答える。その答えは、 「それでも、そなたが鳳華に無体を強いることは決してないだろう。牙羅の王よ」 「 」 乾翠王の答えに、牙羅王は口を噤む。 それは、肯定の代わり。 乾翠王は知っていた。己が妻の名前を出したとき、彼がその瞳に鋭い光を宿した理由、そして、彼が決して鳳華を傷付けるようなことはしないと信ずることのできる根拠を 。 己を真っ直ぐに見つめてくる乾翠王の瞳に、牙羅王は僅かに視線を落とす。どこまでも澄んだ美しい碧玉が如き瞳に 、己の胸の内を全て見透かされているのではないかと、恐ろしくなったから。 己が何故是軌の下へ行ったのか。何のため、今彼に挑もうとしているのか。 寡黙な王はそれを問い詰めようとはしない。それは既に彼が、未だ若く未熟な己の心の内の全てを察しているからなのではないか、と。 胸をちりちりと焦がすような、焦燥感にも似た感覚を振り払うため、牙羅王は一度瞳を閉ざした。 そして、ゆっくり瞼を持ち上げる。 「 お手合わせ、願います。乾翠王」 右手に握られていた剣を徐に構え直し、持ち上げた瞳で乾翠王を見遣る。 そこに宿った覚悟に、乾翠王は悟る。彼と戦うことは、避けられないのだということを。 己も覚悟を決めるため、小さく息を吐き出した後、乾翠王は牙羅王へと頷いて見せる。しかし、 「・・・王剣を抜かれませ、乾翠王」 乾翠王が、代々王から王へと継承され、彼自身もその身に宿している王剣。乾翠王がそれを抜く気配を見せないことに、牙羅王 が眉をひそめ、問う。 それに乾翠王は首を振って答えた。 「王剣は使わない。正しくは、使えないのだがな」 その言葉に、牙羅王が表情を険しくする。 「・・・私ごときに王剣は不要と、そう仰りたいのですか」 語気強く問うてきた牙羅王に、乾翠王は低く穏やかな声音を壊すことなく答えを与える。 「いや、そうではない。ただ手元にないだけだ」 「手元に?」 訝しんで寄せられる牙羅王の眉根を認め、乾翠王は彼の疑問を晴らすべく、言葉を付け加える。 「王剣は、我が娘に託した」 訝しんでひそめられていた瞳が驚きに瞠られる。 「・・・風樹様に?」 「そうだ」 「風樹様は何処へ・・?」 「稟王の手の届かぬ所へやった」 僅かに剣のある光を宿した彼の瞳から、それ以上、乾翠王が娘の居場所について口にすることはないだろうということを察した牙羅王が、問いを重ねることはなかった。彼に、乾翠王に食い付いてまで娘の居場所を知る気はない。今の主―稟王はその答えを欲するのだろうが、稟王の機嫌を取るよりも、牙羅王にはやるべきことがあるのだから。 徐に、牙羅王は手にしていた王剣―牙狛を鞘へと戻す。 「では、私も剣を使わず、あなた様に挑みたいと思います」 今、己がすべきは、乾翠王に挑むこと。 王剣を持たない乾翠王に、王剣の力を持ってして勝利をおさめても意味がない。ならば、己も王剣を持たず、己の力のみで勝利をその手に掴みたい。 そうして、乾翠王に勝つことが出来たその時には 己の願いが、叶うかもしれない。 「いざ、参ります!」 牙羅王が地を蹴り、乾翠王は彼を迎え撃つべく両の掌中に風を宿す。 それまでそこだけまるで別の空間であるかのような静かさを保っていた乾翠王と牙羅王の周囲にも、戦の殺伐とした そして、ビリビリと空気を震わせる程の殺気が一瞬にして充満する。 牙羅王が己の体を裂かんと振りかざす手刀が空を切り、牙羅王を退け吹き飛ばそうと乾翠王の掌から放たれる風が轟々と唸る。 凄まじい風は、激しい戦いによって崩れ落ちた城の壁を、そこに滴った敵のものか味方のものか既に定かではない血を巻き上げ、兵士達の頬を濡らす。 その中に交じる、牙羅王の血。 乾翠王自身は己の巻き上げた血に濡れることも、己から血を流すこともせず、牙羅王と対峙していた。 怖ろしい早さで己の眼前まで迫ってくる牙羅王を、けれどスラリと乾翠王は交わす。繰り出された手刀は、乾翠王を傷付ける前に風にいなされ、逆に裂傷を負う。 牙羅の王は、未だ若い。幼名を捨て、牙羅の王となってから数年と経っていない彼には、実践の数が足りない。 力の差は、歴然。 それでも牙羅王は乾翠王の前から引こうとはしない。真っ直ぐに向けられた瞳から強い光は消えることもなければ、その輝きを曇らせることすらない。勝利を信じているとまでは言わないが、たとえ己の命がつきようとも、それでも決して引くことはできないのだと、覚悟を決めた瞳。 「 くっ!」 乾翠王の巻き起こした凄まじい風に足を掬われ体を宙に浮かせた牙羅王は、風の吹くがまま、固い城の壁へと叩き付けられる。 「牙羅王!!」 「若王!!」 「手出しは無用だ!」 王を守らんと勇敢にも乾翠王の前に立った兵士達に、牙羅王は声を荒げ兵士達を退ける。そして勢いよく体を起こしたが、フラリとその足下が揺れる。それを支えようと兵士が伸ばした手をも、彼は拒んだ。 何者の力も、借りたくない。 剣をおさめ、加勢せんと集った兵士をも拒む。そんな牙羅王の姿に、乾翠王は徐に問うた。 「牙羅の王よ。そなた、何のために戦う?」 風が僅かに唸る中ではあったが、低く静かな乾翠王の声は、しっかりと牙羅王の鼓膜を揺らした。 牙羅の王は、僅かの逡巡の後、 「 欲しいものがあるからです。どうしても、この手に入れたいものが・・・!」 告げる瞳は、真っ直ぐに乾翠王の瞳を射抜く。 「 ・・・」 牙羅王の瞳を、乾翠王は言葉もなく、ただ受け止める。 牙羅の若き王は多くを告げることはなかったが、睨め付けるようなその瞳が、全てを語っている。 欲しいものを手に入れるために、貴方に勝つのだ、と。 今度は、牙羅王が問うた。その声音には、彼を責めるような響きがあった。 「王は、何のために戦っておられるのですか。鳳華様のいらっしゃる城を離れてまで、何故ここに来たのです」 愛しいのならば、大切なのならば、何故側にいてお守りしなかったのですか。 厳しく問うてくる牙羅王に、乾翠王は瞳を揺らすことなく、迷うことなく答える。 「そなたとは逆の理由で、私はここで戦っている」 「・・・逆の?」 「失いたくないからだ」 「 ・・・」 言葉少ななその答えに、牙羅王は僅かに眉をひそめる。 手に入れるために戦っているのではない。この手から失わぬよう、戦っているのだと乾翠王は言った。 彼が失いたくないというものが何なのか。それを牙羅王が詰問する前に、乾翠王が口を開いた。 「天帝や幼なじみ、民、娘、そして妻を」 「 」 「どれも失わぬため、戦っている」 スッと翳された乾翠王の掌中から、空を切り裂く風の刃が放たれる。それは、今までの敵を吹き飛ばすだけの風とは違う。己の望みを叶えるため 愛する者すべてを失わぬため、敵を徹底的に退けんと繰り出される鋭い刃。 「 っ!」 唐突に己へと向けられた殺意の風に、牙羅王は慌てて飛び退る。足先をかすめた風の刃は、彼の後ろで乾翠族の兵士と戦っていた稟族の兵士を、その隣でやはり剣を振りかざしていた敵兵を切り裂いてもなおその威力を減じさせることなく、幻炎城の壁へとぶつかりようやくその姿を宙へと消した。 圧倒的な力、そして迷いなく己へと向けられた、静かだがそれが故に背筋を氷らせる凄まじい殺気に、牙羅王は立ち尽くす。吐き出した息が僅かに震えるのを感じ、慌てて唇を噛みしめる。 すぐさま再び牙羅王へ攻撃の手を翳すかと思われたが、乾翠王が彼へと向けたのは風の刃ではなく、 「剣を抜くが良い、牙羅王よ」 「 ・・・何、を?」 敵である己に剣を取れと告げた乾翠王に、牙羅王は目を瞠る。 正気ですかと瞳で問うてくる牙羅王に、乾翠王は己の言を覆すことなく、繰り返して聞かせる。 「そなたには、望みがあるのだろう? そのために抜く剣は、決して恥ではない」 己は、愛する人を失わないという望みのために全力でもって戦うことを決めた。そうして刃を向けた若き王も、どうしても叶えたい望みがあるのだと言った。けれど、己の最大の武器である剣を、彼は使おうとはしない。若さ故の意地が、彼に剣を収めさせている。 「抜かねば後悔せぬか?」 「 」 全力で戦うことなく望み破れては、報われないに違いない。 例え彼が剣を抜いたとしても、己が破れることはないという自負が乾翠王にはあった。それは過剰な自信などではなく、己の覚悟の強さが生むもの。口にはしない、表情には出さないが、彼の中で固められた覚悟は何よりも強いものだった。 己が信じ、守ると誓った天帝のため、共に力を合わせ天界の平穏を守ると誓った蒼巽王のため、何よりも誰よりも愛しい娘のため、そして、己の半身であると言っても良い程にかけがえのない妻 鳳華のため、負けることは決してできない。 たとえ彼が昨日までの部下だとしても、己よりもはるかに年若く、これから更に強くなるだろう希望多き若者だとしても、躊躇うことはしない。己の全力でもって、彼を退けよう。己の望みのために。 だから彼にも、全力でもって望みのために戦うことをすすめたのだ。己の覚悟の程を暗に示しながら。 静かだが、強い輝きを放つ乾翠王の瞳から、牙羅王は悟っていた。彼の覚悟の程を。 しかし、 「 抜きません」 牙羅王が首を縦に振ることはなかった。 「若き王よ 」 剣を抜けと再度すすめようと口を開いた乾翠王の言葉を、牙羅王は自ら遮っていった。 「乾翠王。あなたと同じ状況であなたに勝たなければ、私が望むものは手に入らないのです」 「 ・・」 彼が剣を抜かずにいるのは、ただ意地があるからというだけではないようだ。彼が剣を抜かないということ、それが彼にとっては望みを叶えるための覚悟であったのだ。 「それならば・・」 もう、何もいうまい。 スッと瞳を伏せた乾翠王は小さく息を吐く。 これ以上、交わす言葉はない。 息を吐いた後、乾翠王は固く唇を閉ざした。そして、徐に持ち上げた瞳の中に、初めて険しい色が現れる。 望みのため、全力で彼を討つ ・・・! 彼の全身から迸った殺気に伴い、風が辺りの空気を揺り動かす。 牙羅王は、手に入れるため。乾翠王は、手放さぬため 赤き月の下、二人の王の戦いが始まる。 それを、風樹は両の瞳で視つめていた。 「父様・・・!」 記憶の中にある父王の姿からは想像も出来ないほど、凄まじい殺気を迸らせるその様に、体を震わせながら。 しかしそれは、恐怖からくるものではない。父王の天帝や蒼巽王、母や己へと向けられた愛情の深さが、そして、望みのために情を捨て戦いに挑むその姿に、胸が打ち震えるが故のもの。 結末は既に知れている。その目にするには辛いものであることも判っている。 それでも、 「 父様」 あたしはこの父王の姿を、最期の最期まで見届けよう。 風樹は唇を噛みしめ、眼下で繰り広げられている父と牙羅王との戦いへ視線を遣る。全てを己の瞳に焼き付けるため。 |