父親譲りの、けれど、その父よりも更に鮮やかな色彩を灯す赤い瞳。その中に宿る黄金が、今は強固な意志に強い光を放っている。 ここを離れるつもりはない。 そう訴える幼くも強い瞳に、その母である美愁が火陵の滑らかな黒髪を優しく撫で、諭す。 「火陵、分かっているでしょう? 城門はもう、いつ破られるか分からないの。ここは危険なのよ」 諭して聞かせる母の言葉にも、火陵の意志は揺らがない。 「でも、母上は残るんでしょ?」 「・・ええ」 「母上だけじゃない。父上も、双王様も、みんなここで戦うんでしょ? それなのに私だけ安全な所へ行くのは嫌だよ」 火陵のその言葉に、誰もが口を噤む。 しばしの沈黙の後、口を開いたのは流炎羅王─炎輝だった。 娘が、そんな台詞を口にするだろうことは分かっていた。 分かっていたのだが、彼女を説き伏せられる答えを用意することはできなかった。 娘の気持ちは、誰よりも己がよく分かっている。 己が娘の立場であったのならば、自分も彼女を同じ台詞を口にしただろう。だからこそ、彼女の心を変えさせる言葉がなかなか見つからない。 それでも、炎輝は言葉を繋ぐ。ここで、是と返すことはできないのだ。天界の未来の為、何より、愛しい娘の為 。 しかし、その台詞もすぐに娘の荒げられた声によって遮られてしまうのだが。 「火陵。そなたは、次代の王だ。次代の王は 」 「次代の王だから、逃げちゃダメなんじゃないの!? みんなを置いて逃げちゃダメなんじゃないの!?」 「火陵・・」 言葉と、瞳の強さに、炎輝は繋ごうとしていた言葉を一瞬失う。 その隙に、火陵が言葉を紡いだ。強い意志の中に、どうかここにいさせて、そんな懇願の光を込めた瞳で父王を見上げながら。 「私も一緒に戦えるよ! 父上みたいにはいかないけど、でも、戦える。だからここで一緒に 」 「火陵」 今度は、炎輝が娘の言葉を遮る番だった。優しい声音で、けれど、きっぱりと炎輝は火陵へ告げた。 「火陵。そなたは未だ幼く、そして弱い」 父から告げられた思わぬ台詞に、火陵は僅かに目を瞠る。 確かに、天帝であり流炎羅王でもある父に匹敵するほどの強さを 誇っているわけではない。それでも、一般の兵士を相手にするには 十分すぎる程の力を持っている。そう、自負していた。 「弱くないよ! 魔物だって倒せるし、利焦よりも強くなったって、父上ほめてくれたでしょ?」 「火陵、よくお聞き」 そうではない、と炎輝は首を左右に振って見せ、答える。 「火陵。そなたには、逃げることの出来る心の強さがない」 「・・・逃げる強さ?」 父の言葉に、火陵はきょとんと目を瞠る。 逃げるという行為に、強さが必要とされているなんて、 聞いたことがない。そもそも、逃げるという行為そのものが、弱さを孕むもの。 そして、強さとは、戦うためのものなのだと、そう思っていた。 けれど、父王はそれに否、と首を振る。 「いいか、火陵。民たちが最も恐れていることは、我々天帝の血が絶え、謀反人是軌の手に、この天界の覇権が渡ってしまうことなのだ。それは分かるな?」 「・・うん」 父が己へと告げたい言葉は、もう分かっている。 「私は今の王として、全力で謀反人と戦うことを望まれている。では、そなたに望まれていることは何か、分かるか?」 「・・・・・」 分かる。 だから、答えない。 唇を引き結び噛みしめた娘の瞳を真っ直ぐに見つめ、炎輝ははっきりと告げた。 「そなたは、何があっても生き残ることを望まれているんだよ」 その言葉を、瞳を閉ざし反芻した後、火陵は徐に瞼を持ち上げ、目の前の父王を見据えた。 「 ・・大好きな民を、置いて行くのだとしても?」 問う瞳に、じわりと滲む涙。 その涙に胸をチクリと突かれながらも、 「そうだ」 炎輝は頷いて見せる。 「 」 ポロリと、紅の瞳から透明な雫が零れ落ちていった。それは一筋に留まることなく、次から次へと溢れ出てきて、滑らかな頬を濡らす。 嗚咽を堪え涙を零す娘の頭を、炎輝が優しく撫でる。 「辛いだろう? 胸が痛むだろう?」 「うん・・」 ぐしぐしと、小さな掌で涙を拭う火陵の体を、美愁がそっと抱き寄せる。 「その痛みに耐えることができる強さを持たなくてはいけないよ、火陵。今、どんなに辛くても、未来の民のため、そなたは逃げなくてはならないんだ」 温かく優しい母の腕の中で、火陵は己へと向けられる父王の言葉を聞く。 「逃げてくれ、火陵。これは民の願いだ。そして、今の王である私からの命令だ」 命令という言葉で、火陵の背を、炎輝は押す。 分かっている。 幼いながらも、父の言いたいことを火陵は全て分かっていた。今、己に望まれていること、己がしなくてはならないこと、全て分かっている。 しかし、胸の痛みが、頷くことを邪魔している。その痛みの原因は、次代の王になるのだというプライドと、戦禍に身を置くのだろう民たちを置いて行かなくてはならないという罪悪感。そうした痛みを捨てきれない娘の背を、命令という言葉で、押す。 そして、 「何より、父と母からの願いなのだ、火陵」 王としての言葉ではなく、父としての言葉で、娘の背を押す。 父の言葉に、ついに火陵は小さく頷いていた。そして、大きな瞳から更に涙を零し、己を抱き締めてくれている母にしがみつく。 「 父上、母上ぇ・・・!」 次代の王として、逃げたくはない。 次代の王として、民を置いていくことはできない。 しかし、次代の王である前に、彼女は未だ幼い少女。 父と母と、離れたくない。 口には出さないが、その涙と縋り付く腕とが伝えてくるそんな思いに、美愁は火陵を更に強く抱き締める。 「 火陵・・」 「泣かないでくれ、火陵。泣くことなど、何もないではないか。稟族を早急に退け、迎えに行くのだから」 泣きじゃくる娘の頭を炎輝が撫でる。言葉の通り、泣くことなど何もないのだと、穏やかな笑みを向けながら。 それまで、いったいどうなることだと、黙って成り行きを見守っていた蒼巽王が助け船を出す。それに続いたのは 乾翠王だった。 「そうです、火陵様。少しの間、水日と風樹様と人界で遊んでいればいいのですから」 「風樹も、しっかりと火陵様をお守りするのだぞ」 「はい!」 その瞬間だった。 「 !!!」 幻炎城を、一際大きな咆哮が包み、震わせた。 「 !」 「 破られたか」 一同が地上を仰ぎ、低い声音で炎輝が洩らす。 「結界が・・!?」 父王のその言葉に、火陵は幻炎城を覆っていた黄金の炎が消え失せたことを悟る。 ついに、幻炎城内に敵兵がなだれ込んでくる。 身を震わせた幼い少女たちを余所に、躊躇うことなく地上を仰ぎ見たのは双王だった。主の体を鞘とする 不思議の王剣を掌中よりスラリと抜き出し、乾翠王が蒼巽王へと声をかける。 「行こう、蒼巽王」 その言葉へ、幼なじみと同様に王剣を手にした蒼巽王が頷く。 「ああ、行こう。後は頼んだぞ、炎輝」 「すまない。すぐに行く」 「はは。お前が来るまでに、終わらせておいてやるよ」 ニッと不適な笑みを浮かべ、踵を返そうとした蒼巽王の腕を取り、その歩みを止めさせたのは、 「お父様!」 不安げな青い瞳に、僅かに涙を滲ませた娘の水日だった。 「水日。しばしの別れだ」 「はい」 「頼む、泣き顔は見せてくれるな。いいか、水日。何があっても笑っていられる、強く、美しい女になれ」 「 はい!」 父王の言葉を反芻した後、水日は大きく頷く。 そんな娘の手へと、蒼巽王は王剣を握らせた。 王剣が己の手へと託される。その意味を、幼い水日は悟ることができなかった。 同様に、なぜ王剣を手放されるのだろうと首を捻っている風樹の眼前に、父王の手に握られた王剣が差し出された。 「父様・・?」 「すぐに母様と迎えに行く。そうしたら、三人で人界を散歩でもしよう」 しばしの別れだ、と大きな掌が頭を撫でる。その唇は多くを語ることはしないが、向けられる瞳は、はっきりと告げている。娘への、大きな愛。 だから、己も父へと精一杯の笑みで返す。 「うん! そのときは母様とあたしで、お弁当を作るね」 「ああ」 うっすらと微笑んだ後、乾翠王は娘の手へと王剣を託した。 「さあ、行こう! 昊咒」 「ああ」 「御武運を・・・!」 地上へと向かう二つの背を、美愁の祈りと、二人の娘たちの不安げな瞳とが見送る。その足音も、すぐさま地上の喧騒の中へと飲み込まれていった。 「さあ、そなたらも」 幼なじみの姿を見送った炎輝は、その足音が消えるのを待ち、幼い少女達へと視線を向けた。そして、幼なじみたちがそうしたように、自らも王剣を取りだした時だった。 「父上」 静かな声音で、火陵に呼ばれた。 「どうした? 火陵」 「 本当に、すぐ迎えに来てくれるの?」 真剣な瞳が、己を真っ直ぐに見つめていた。そこに涙はもう窺えないが、問う瞳は拭いきれない不安に満ちている。 「どうした? 父の言葉が、信じられぬか?」 そう問い返すと、火陵は小さく首を左右に振った。けれど、瞳に宿る不安の色は消えない。それを認め、炎輝は思う。 (ああ、この子は・・) 察しているのかも知れない、と。 天地の理を告げる神の声を聞き、歌う、天琳族の王、 その妹姫を曾祖母に持つこの少女は、これからこの天界の地で何が起こるのかを、無意識の内に察しているのかも知れない。己がそうであるように。 しかし、炎輝は微笑んで見せる。 「ならば、そのように不安な顔をすることは何もないではないか。そうだろう? 火陵」 そう言って、兎にも角にも娘を送り出すことしか、できない。 「・・・うん」 やはり、火陵の瞳から不安の色が消えることはなかった。 そんな娘の体を、再度美愁が抱き締める。 「行ってらっしゃい、火陵」 「うん。言ってきます、母上。夜衣や焼妓や利焦、みんなにも言っておいてね」 「何を?」 「火陵は、すぐに返ってきます、って」 「 ええ。伝えておくわ」 本当に、そうなればいいのに、と小さく呟き、美愁は火陵の体を解放し、水日と風樹の側へと、その背を押す。 同様に、その側へと螺照が歩み寄る。 「螺照、火陵たちを頼んだぞ」 「御意・・!」 緊張した面持ちで、それでも主の命にしっかりと頷いた螺照を見届け、炎輝は瞳を閉ざした。その手に王剣を携え、涼やかな声で、神へと請い願う。 ふわりと、艶やかな黒髪が風もないのに揺れ始めていた。 「 今、対価をここに・・・請うは、人界への道 」 「あ」 声を上げたのは、風樹。その小さな掌中に握られた王剣が仄かに光を発したかと思うと、ふわりと宙へ浮き上がったのだ。それと時を同じくして、 「わっ」 思わず声を上げたのは誰だったのか。 火陵と水日と風樹、螺照の体を、剣を包んでいるものとは比べものにならないほどに眩い光と、そして、髪を激しく揺らす風とが包み込む。 ふわりと浮いた乾翠王の剣が、炎輝の目前へと移動する。その切っ先を真っ直ぐに地下神殿の白い床を指した姿で動きを止める。それを待ってから、炎輝は次なる願いを口にした。 「そして、記憶の封印と、力の封印を 」 「え!?」 耳元で轟々と鳴る風の向こうで、父王の言葉を聞いた火陵が驚きの声を上げていた。 記憶の封印と、力の封印を 。 人界へ行くことは知らされていたが、記憶や神族としての力までも失わされるのだということは聞いていなかった。 その、父の意図が分からない。 「父上!」 何故、と問いかける前に、 「きゃっ!」 隣に立つ水日の悲鳴がそれを遮った。 水日へと視線を遣ると、彼女の手にある王剣が眩い光を放ち、その身を宙へと浮かせていた。 「ダメ・・っ!」 神へ対価として差し出されるこの王剣を止めなければ、記憶と力を失ってしまう。 しかし、咄嗟に伸ばした手が、剣の柄を捉えることはできない。 すいっと火陵の手から逃げるようにして、王剣は炎輝の元へと翔けていってしまった。 「父上!」 やめてと訴える前に、父が最後の願いをその唇へと乗せていた。 「そして、願わくば、雷光に脅かされることなきよう、運命 の時まで、どうかご加護を !」 その言葉に呼応したのは、炎輝の掌中に握られていた王剣。 その剣が光を放ち、炎輝の手を離れる。主の手を離れた王剣は、乾翠の王剣と蒼巽の王剣の間へとその身を浮かべた。 その瞬間、 「きゃあっ!」 四人を包んでいた風が一層強まる。強い風を避けるため閉ざした瞼の奥で 、光もその目映さを増したことが分かった。 それは、一瞬。 強い風も、眩い光も、一瞬にしてその姿を消していた。 そして、 「 行きましたわね」 そう呟いた美愁の目前から、娘の姿は跡形もなく消えうせていた。残ったのは、娘達のいた場所へと突き立っている三本の王剣―神への対価だけ。 寂しげに呟いた美愁の肩に手を触れさせたのは炎輝。 「ああ、行ったようだな」 しばし、三本の王剣を見つめていた炎輝だったが、すぐにそこから視線を引きはがす。 「それでは、私も行こう。そなたは父上と共に 」 城を出ておいてくれ。その言葉を、美愁は遮っていた。 「いいえ。待ちます、ここで」 あなたのお帰りを、この城で。 真っ直ぐに夫を見据え、告げる。その紅の瞳に、迷いの色は一片も窺えない。夫の帰りを信じる強い瞳。 そんな妻の言葉に、炎輝はしばしの沈黙の後、穏やかに微笑み、妻の体を抱き寄せていた。 「分かった。すぐ、戻る」 「ええ」 そして、その唇にそっと口付ける。 誓いの接吻の後、炎輝は美愁から体を離し、僅かに黄金の交じる紅の瞳を美愁の瞳から地上へと向けた。これまで彼がその身に纏っていた穏やかな空気が、驚くほどに鋭いものへとその姿を変える。 常の穏やかさを消し去った、鬼神が如き、鋭く強い気。 戦いを前に高ぶる鼓動を鎮める為か、迸る鋭い気を収めるためか、炎輝は一度瞳を閉ざす。 そして、 「いざ 」 いざ、行かん。 そうして開かれた瞳に宿るのは、炎。紅の中にちらつく黄金色が、 僅かに増したようだった。身に纏った気もまた、収まるどころか周囲の空気を ビリビリと震わせるほどに鋭さを増している。 戦いへその身を投じるため歩き出した夫の 否、天帝の背を、美愁が見送る。 その唇に、祈りの言葉を載せて。 「 御武運を、王・・」 |