【第三章 解き放たれし記憶】




 幼なじみ二人と、そして副官の息子─螺照らしょうと共に、父の命に従って火陵は幻炎城げんえんじょうの地下、そこに広がる真っ白な空間の中に佇んでいた。
 地下神殿。
 そんな名で呼ばれるその空間は、ただただ白い。神殿を思わせるものは何一つない。けれどその空間が神殿という名で呼ばれるのは、その空間を満たす清浄な気。真っ白で滑らかな岩肌に囲まれたその空間の中に、汚れは存在しない。日光が注ぐわけでもないのに白い光に包まれたその場所に漂う神聖な空気。それが、この場所を神殿と人々に呼ばせる理由だった。
 そこには、幻炎城門の前で繰り広げられているりん族と、流炎羅るえんら族、及び蒼巽そうそん族、乾翠けんすい族兵士との争いの音は届かない。
 しん、と静まりかえったその神殿のただ中で、不意に火陵は自分たちが降りてきた階段を振り返る。
夜衣?」
 呟いたのは、幻炎城の中で唯一火陵が友と呼べる少年の名。
「どうしたの? 火陵」
 突然、背後へと視線を遣った幼なじみに、きょとんと目を瞠った水日が問う。
 その問いへと答えを返しながらも、火陵は視線を背後へと向けたまま。
「・・ううん。何でもない」
 否。
 本当は、聞こえたような気がしたのだ。自分の名を呼ぶ、夜衣の声を。その声音が、己に詫びているような気がしたのだ。
 しかし、見上げる階段から、彼が現れる気配はない。
 気のせいだったのかと、視線を戻した火陵は、先程から黙したままで居るもう一人の幼なじみの姿に気がついた。常には、三人の中で誰よりも明るく賑やかな風樹が、今は唇を固く閉ざし、俯いたままで立ち尽くしていた。その面は固く強張り、握り締められた小さな掌は、僅かに震えているよう。
 そんな幼なじみに声をかけたのは水日。
「風樹、お母様はきっとご無事よ。だから、元気をだして。ね?」
 しかし、水日の慰めにも風樹は応えようとしない。困ったように水日と視線を交わした後、火陵が殊更明るい口調を作って幼なじみへと励ましの言葉を贈る。すぐさま水日もそれに倣った。
「大丈夫だよ、風樹! すぐに父上達が助けに行ってくれるよ! ううん。むしろ、私たちが真っ先に風樹の母上様を助けに行こう。私たちだって、強いんだから」
「そうそう。私たち三人なら、怖いものなしよ♪」
 それに返されたのは、
・・怖い」
「え?」
 ぽつりと零されたその言葉に、火陵は目を瞬く。風樹が何を言わんとしているのか、火陵にも、水日にも分からなかった。
「あんな所に行ったら、死んじゃうかも知れない!」
 ようやく地面を離れた碧玉の瞳は、怯えの色を宿していた。それは、初めて神族と神族とが殺し合う戦を目の当たりにした恐怖の色。
 三人の中で唯一、風樹は母と共に城に残され、そして、そこで戦に巻き込まれた。 突然の襲撃は稟王の命を受けた牙羅ガーラ族によるものだった。あっという間に城門は破られ、牙羅の兵が城内へとなだれ込んできた。 己と、そして王妃を守るために乾翠族の兵士、そして女官達までもが襲いかかる牙羅兵の剣を遮るための楯となり地に伏していった。 白刃と、そして親しい者の流す血の中を駆け、わけも分からぬまま、風樹は天櫂鳥てんかいちょうの背へと乗せられていた。
  母様!!
 伸ばした手の先で、母が牙羅兵の手によってその腕を囚われる様を見た。そして、自分に向かって放たれる幾本もの矢。それが頭上から雨のように注ぐ中を、タカは翔けた。その背の上で、風樹はただただ小さくなっていた。ただただ、震えていた。
 初めて目の当たりにする、戦。
 先程まで己の側で息づいていた温かな命が、冷たく鋭い刃の、ただ一振りによってあっけなく断たれてしまうその様、そして、眩暈を誘う血の匂い。すべてが、初めてのもの。
  怖い。
 震える体を心配顔の螺照に支えられている風樹を見て、二人は顔を見合わせる。そして、首を傾げる。
「どうしたのよ、風樹。何がそんなに不安なの?」
「大丈夫だよ、風樹。魔物にだって私たちは負けないんだよ。稟族にだって負けるわけがないんだからさ」
 彼女らには、分からない。風樹が抱く恐怖を、未だ火陵と水日は知らない。
 それでも、幼なじみ二人の言葉に、風樹の面に張り付いていた恐怖は、僅かにはがれ落ちたようだった。
「あ」
 不意に、声を上げたのは螺照。
 その声に気付き、螺照が視線を遣る階段へと目を向けた水日は、そこに現れた男の姿に、表情を輝かせる。
「お父様っ!」
「水日」
 手を差し伸べ駆け寄ってくる娘を受け止めるべく、蒼巽王は膝を つき両手を広げる。そこへ、水日は迷うことなく飛び込んでいった。 未だ小さな体を大きな腕の中にしっかり受け止め、そのまま抱き上げた蒼巽王は、眉根を潜め小さな声で呟いていた。
こんなにも早く、手放すときが来るとはな」
「え?」
・・・」
 父王が何を呟いたのか、聞き取ることが出来ず問い返した水日に、けれど答えが返ってくることはなかった。
「父様っ!!」
「父上。母上」
 蒼巽王の後に続いて神殿へと降りてきたのは、乾翠王と天帝、そして表情を曇らせた王妃だった。
 娘へと一瞬笑みを向け、すぐに表情を引き締めた天帝─炎輝が、副官の第二子─螺照の名を呼んだ。
「螺照」
「はい」
「そなたに命を下す」
はい!」
 唐突に告げられたその言葉に、一瞬驚いたように目を瞠った螺照だったが、すぐさま地に片膝をつき、天帝からの命を受けるべく頭を垂れた。しかし、螺照はすぐさまその面を上げることになるのだった。
「これより、人界へと降りてもらう」
「え!?」
 驚きに顔を上げ、己を茫然と見上げている螺照へ、炎輝は更に告げて聞かせる。
「火陵、水日殿、風樹殿の共として」
!」
「え!?」
「ええ!!?」
 父王の言葉に、火陵は声もなく目を瞠り、水日と風樹が思わず声をあげていた。
 そんな娘たちへ視線を遣った炎輝は、改めて彼女らに告げる。
「火陵、水日殿、風樹殿。そなたらを、人界へと逃す」

 父の言葉は、本当なのか。それを問うべく、茫然と母へと視線を遣った火陵だったが、その視線を受け止める母の面には 、悲しみの色。父王の言葉が真実なのだという、無言の肯定を見て取った 火陵は、立ち尽くす。
 その隣で、風樹が父の腕に縋りついて問うていた。
「父様! ホントなの!?」
「・・ああ。そうだ」
「母様が攫われたのにっ!?」
 母を残して自分一人逃げることはできないと訴える娘に、乾翠王は静かな声音で 諭して聞かせる。
「風樹、聞くのだ。母様を助けるために、だ」
「え?」
 きょとんと目を瞠った娘に、乾翠王は聞かせる。
「良いか、風樹。これから父はこの城に押し寄せる敵兵を散らし、双王として王をお守りしてから母様を助けに行く」
「だ、だったら、あたしも
「風樹」
 一緒に行く、というその言葉を遮られる。そして、告げられる。
「そなたを連れてはいけない」
「父様。あたしだって
 再度、遮る声は穏やか。しかし、有無を言わさぬ強さを秘めたものでもあった。
「風樹。戦に出るには、そなたは未だ幼い」
 そして伸ばされた大きな手が、風樹の小さな手を握る。戦と、それに伴う死の影に怯えながら、それでも母を思い、父と共に戦うのだと口にした娘。彼女のその手が微かに震えていることを父王は知っていた。
「幼いそなたを守りながらでは存分に戦えない。しかし、城に置いていては、母様のように攫われてはいけない」
 そこまで告げられた風樹は、父の言いたいことを察する。
「・・・だから、人界に?」
「そうだ。分かってくれるな? 風樹。母様のためなのだ」
 その言葉に、風樹は口を噤む。母の無事を確かめるまで、この天界の地を離れることは勿論、この城からとて出たくはない。けれど、その所為で父は存分に戦うことができない。母を助けることはできない。
 人の死を前に震えが止まらなくなってしまうほどに、己は幼く、そして、弱い。
 それを分かっている風樹が、これ以上己の我が儘を貫くことはできなかった。
「風樹」
 優しく答えを促すその声に、
うん」
 風樹は首を縦に振るしかなかった。
 娘を説き伏せた乾翠王の腕を肘でつつきながら、蒼巽王が小さく笑った。
「おい、いつになく饒舌だな、昊咒こうしゅう。俺の台詞がなくなってしまったじゃないか」
 その言葉に、水日は己を抱き上げている父王へと視線を向ける。
「お父様・・」
 お父様も、乾翠王様と同じことを仰るの? そんな疑問を青い瞳に浮かべる水日に、蒼巽王はニッと笑って見せ、答えた。
「まあ、そういうことだ。水日」
 笑ってはいるが、己を見つめるその瞳は真剣。その瞳が告げている。否の答えは、受け取ることはできないのだ、と。
 それをすぐさま察した水日は、
「嫌よ!」
 そんな心の声が零れ落ちぬよう、唇を引き結ぶ。 我が儘を告げる代わりに、問う。
「・・・すぐに、迎えに来てくれるんでしょ?」
「水日・・」
 不安げに揺れる青い瞳が、じっと見上げてくる。その瞳が、全てを物語る。
  本当は、離れたくなどない。人界になど行きたくはない。
 けれど、それを口にすれば、父王を困らせてしまう。そのことを、幼い娘は察してくれている。
 幼い娘の強さを目の当たりにした蒼巽王がしばし黙し答えないでいると、焦れたのか、水日が口を開いた。そして、まくしたてるように告げる。
「ねえ、お父様! そうでしょ!? そうでないなら、ソッコーで彼氏作って人界の果てまで駆け落ちしてやるんだからね!」
 その台詞に、蒼巽王は周囲の皆を驚かせる形相で叫んだ。
「揺るさ ん!! それだけは断じて許さんぞ っっっ!!」
「お、お父様・・」
 予想以上の反応に、さすがに水日も驚きに目を瞠る。
 鬼のような形相を収めた蒼巽王は、腕に抱いた娘を抱き締め、優しい声音で囁く。
「こんな戦などさっさと終わらせて迎えに行ってやるから、火陵様と風樹様と、大人しくお菓子でも作って待っていてくれ。な?」
 水日は父の首に腕を回し、ぎゅっと抱きつく。
「・・・約束よ?」
「ああ、約束だ」
「うん」
「では、お前も約束してくれ」
 思わぬ父王の言葉に、水日は父王から体を離し「なァに?」と首をひねる。
「いいか、水日。人界の男と決して目を合わせるんじゃないぞ。合わせたらソッコーで拉致られると思え! お前の愛らしさは人に罪を犯させる!!」
「お、お父様、また病気が
 父の親ばかさは重々承知していたが、まさかこんな場面で炸裂させるのかと、水日が頬を引きつらせながらつっこむが、それに対して父王は左右に首を振り大まじめな顔で答える。いつもの冗談かと思いきや、その台詞は次第に本物の真剣さを帯びていった。
「病気などではない! 真実だ。俺は、お前を誰よりも何よりも愛おしく思っているんだ」
うん」
 父王の強い愛情に、水日は再び父王の首に抱きつく。それを抱き締める蒼巽王の腕は、温かかった。
・・」
 幼馴染みたちが父王の言葉に首を縦に振る様を、火陵は黙って見つめていた。紅に黄金を交じらせた美しい瞳に険しい光を潜め、赤い唇を真一文字に引き結び、黙し立ち尽くす。
 そんな娘の様子に、天帝─炎輝と、その妻─美愁びしゅうが顔を見合わせる。娘の瞳を真っ直ぐに見つめるため、炎輝が地に膝を着き、彼女の名を呼んだ。
「火陵」
 己の名を呼ぶ優しい父の声に、火陵は目の前の父の顔を真っ直ぐに見据える。彼が次の言葉を紡ぐ前に、火陵は口を開いていた。頑なな声で、告げる。
「私は行かない」
 分かっている。父と母の思いは、乾翠王と蒼巽王とが語ったことと同じなのだということは分かっている。その思いに、 逆らうことなく分かったと頷いてみせれば父と母は喜んでくれるのだということも分かっている。
 分かっているけれど、嫌だ。
 ただの我が儘なのだと分かっている。それでも、火陵はその言葉を口にする。
「私は、天界に残る」
 どんな説得にも是と答える気はないと、 強い拒絶の光を宿した瞳で、しかと父王と母を見つめながら。










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