不意に、火陵がその瞳を扉へと向けた。その向こうから近付いてくる三つの足音を、誰よりもいち早く聞きつけたのだ。程なくして、火陵の視線の先で扉が開かれた。 そこから火陵の部屋へと足を踏み入れたのは、天帝−炎輝。その後には、双王が並んでいた。 「到着が遅れました、美愁様」 すぐさま美愁の眼前で膝を折り口を開いた蒼巽王と乾翠王とに、美愁は首を左右に振り、微笑を返す。 「いえ。双王方、本当にありがとうございます」 謝意を述べた後、すぐさま微笑を消した美愁は、乾翠王へと歩み寄った。 「乾翠王様、鳳華のこと、聞きました」 「 ・・」 感情を面に出すことのない乾翠王の表情が、僅かに強張る。それを認めた美愁は、自らの面に微笑を引き戻し、彼へと向けた。 「鳳華は無事ですわ。彼女はとても強い女性ですもの。それは、貴方様が一番よく分かっておいででしょう?」 「・・・はい。その通りです」 美愁の励ましの言葉に、不安を振り払うための一瞬の間を要した後、乾翠王は大きく頷き、傍らに不安げに身を寄せてきた娘の風樹を、片腕でしっかりと抱き締めた。 「 夜衣」 妻と双王とのやり取りを一瞥した後、炎輝は部屋の中に夜衣の姿を見つけ、僅かに目を瞠る。徐に彼へと歩みを進めると、静かな声で炎輝は夜衣に問うた。 「夜衣。そなた、まだこの城内に居たのか」 「・・・申し訳ありません」 身を竦め、俯きがちに謝罪の言葉を述べた夜衣に、炎輝はゆっくりと首を左右に振る。そして、驚かせないようそっと伸ばした手で、夜衣の肩を叩いて言った。 「いや、責めているわけではない。そなたのことだ。火陵を思ってのことなのだろう? 礼を言おう」 「 」 炎輝の言葉に驚き、夜衣は弾かれたように視線を彼へと向ける。すると、彼がとても優しい瞳で自分を見つめていることに気がついた。 その瞳は、夜衣の全てを見通し、理解しているかのように揺らぎなく、そして、真っ直ぐに少年を見つめていた。 否、本当に、夜衣の全てを見通しているのかも知れない。今、夜衣がここにいるその理由を、彼は的確に口にして見せたのだから。そして、それを許してくれている。更には、城外へ逃れよ、という命を破った己に、ありがとうと礼の言葉まで述べてくれる。 それに対して、一体どんな言葉を返せばいいのか分からず、瞳を瞬かせているだけの夜衣に、炎輝はただ笑みを返す。 その様子を、物言いたげな視線で蒼巽王が見つめていた。 しかし、炎輝が蒼巽王のその視線に応えることはない。気付いていないのか。それとも、その視線の意味を知りながら、あえて応えないのか。 夜衣から視線を娘たちへと映した炎輝は、その名を一人一人呼んだ。 「火陵」 「はい。父上」 「水日殿、風樹殿」 「はい」 「はい」 そして、告げる。その言葉は、あまりにも唐突、かつ幼い少女達には全く意図を酌むことのできないものだった。 「螺照と共に、地下神殿へ向かってくれ」 「 王!」 その言葉の意味を察することが出来たのは、彼の妻である美愁だけだった。 事前にその行動の意味を知らされていた双王は唇を引き結び、どういう意味だと視線で問うてくる娘達に応えることはしなかった。その答えは、己が主へと託し、黙す。 最初に問いを唇に乗せたのは火陵だった。 「父上、どうして地下神殿へ?」 「説明は神殿に着いてからだ、火陵。さあ、早急に向かってくれ、螺照」 腕を引き首を傾げている火陵の背を押し、螺照へと託し急かす炎輝へ、遠慮がちに焼妓が問うた。 「王。私はどうすれば・・」 「焼妓。そなたには別の命を下す。ここに残って欲しい」 「・・はい。分かりました」 弟とは別に、己へと下される命が一体何なのか疑問に感じているのだろう。多少、納得のいかない表情ではあったが、焼妓は首を縦に振り、弟−螺照へと視線を遣った。 炎輝と、姉の瞳とに促され、螺照も姉へと頷いて見せ、 「では、参りましょう。火陵様、水日様、風樹様」 螺照に背を押され、疑わしげな視線を父王へと向けたまま、火陵は渋々歩みを進め始めた。同様に、水日と風樹も扉の向こうへと消えていく。 その後を追おうと、踵を返した夜衣の背に制止の声がかけられた。それは、 「夜衣」 静かだけれど、確かな強さを持った炎輝の声。天帝である彼の声に逆らうことはできない。歩みを止め、振り返った夜衣に、炎輝は告げた。 「そなたも、ここに残って欲しい」 「 」 その言葉に、やはり逆らうことはできない。 「 はい」 渋々頷いた夜衣が、「何故ですか」と問う前に、王の腕を引いた者がいた。表情を硬くし、僅かに顔色を青く染めた彼の妻―美愁だった。 「王、まさか・・・!」 火陵達を地下神殿へと向かわせたその意味を、彼女は察していた。そして、その予想が覆されることを望み、炎輝へと縋るような視線を向ける美愁に、炎輝は辛そうに瞳を細め、一瞬の沈黙の後、 「 ああ。火陵達を、人界へと逃す」 静かに頷いて見せた。 その答えに、美愁は「やはり・・」と肩を落とし、事情を全く知らされていない焼妓はただただ目を瞠る。そして、 「 !」 夜衣は息を呑む。 肩を落とした美愁が、静かな声音で炎輝へと問うた。瞳は足下に落としたまま、あくまでも静かなその口調は、怒りを潜めているようでもあった。 「運命を、受け入れるおつもりですか?」 「美愁。知っているのか?」 その問いに、炎輝は彼女が全て知っていることを悟る。彼女には伝えまいとしていた、この戦の星宿 自らに科せられた運命を。 「天琳王から、全て聞きました」 そして炎輝を仰ぎ見た美愁の瞳には、僅かに光るものがあった。 それを認めながら、炎輝は瞳を細め、徐に首を横に振って見せる。 「・・いや、諦めているわけではない。私は最後まで抗うつもりだ」 炎輝の言葉に続いたのは蒼巽王だった。 「そうです、美愁様。炎輝と共に覆すために、我々は来たのですよ。ご心配は無用というものです」 「その通りです」 双王の助け船に心の中で謝意を述べつつ、炎輝はそっと妻の肩に手を触れさせ、口を開いた。 「そなたが考えているように、私にもしものことがあったときのためでもある。しかし、それだけではない。最たる理由は、覆すためだ。全力で戦うために、火陵を人界へ逃そうと思う。どうか承知してくれ、美愁」 己の死を暗示させる星宿に怯え、星宿の告げるがまま、幼き娘達を人界へと逃すのでは決してない。今、ここで謀反人─是軌に命をくれてやるつもりは毛頭無い。 しかし、不安はつきまとう。 星宿に断固として抗い、跡継ぎである火陵をこの城に残しておいたら そして、星宿が告げるがまま、己が是軌に討たれたその時には、火陵の命もないだろう。そうなれば、永代続いてきた天帝の血を絶やすことになってしまう。それは、この天界の地に住む全ての民を謀反人の政の下に生かすこととなり、それを民たちが望んでいるのかと言えば、答えは、否。 民たちのため、是軌を討たなくてはならない。 もし もしも、己がそれを果たせなかったその時に、己の意志を継ぐ者が必要なのだ。 だから、神が告げた場所─人界へ。 炎輝の思いを、おそらく誰よりも美愁が分かっている。故に、彼女はもう異論を唱えようとはしなかった。しかし、 「・・・分かりました。王がお決めになったことですもの」 ポロリと、一粒だけその滑らかな頬に涙の粒を零した。 そんな妻の体を、炎輝はそっと抱き寄せる。 「美愁。すぐに迎えに行こう。二人で」 かならず運命を覆してみせる。 そんな思いの込められた言葉に、 「 はい」 もう一粒だけ涙を零した後、美愁は夫の胸の中で小さく頷いて見せた。 美愁の背を何度か優しく撫でた後、炎輝は戸惑いに瞳を揺らしている焼妓へと視線を遣った。突然、幼い主が弟と共に人界へと去ってしまうと告げられたのだ。しかし、次代の副官として火陵を護るべき任にある焼妓はこの人界に残ることを告げられていた。いったい何故だろうと戸惑いを隠せない焼妓の名を、炎輝が呼んだ。 「焼妓」 「はい」 「そなたの父、利焦も、副官として戦に出る。・・・利焦にも、そして私にも、もしものことがないとも限らない。 その時には、火陵を頼む。そなたが副官として迎え、支えてやってくれ。そして、もしも覇権が是軌に移ったその時には、決して逆らうことなく、時が満ちるのを 流炎羅の民と共に待つのだ」 「・・・時が、満ちる?」 「必ず、火陵たちはこの天界の地へと帰ってくる。それを、私の父と共に待っていて欲しい。この地へと戻った火陵たちは、きっと天位を取り戻すために戦うはずだ。その時まで、そなたはこの天界の地で待っていて欲しい。それが、そなたに下す命だ」 「 は、はい!」 王の真剣な瞳に、焼妓はかろうじて頷き返していた。 そして、感じ取る。王は、死を覚悟しているのだということを。それ程までに、この戦は大きなものになるのだということも。 「炎輝、行こう。時間がない」 城門から響いてくる兵士達の咆哮に耳を傾けた後、蒼巽王がそう言って炎輝を促す。 「ああ」 そうだな、と頷き返し、美愁を伴って炎輝が部屋を後にしようと踵を返す。 その背を、茫然と見開いた瞳で見つめている少年がいた。 夜衣だ。 流炎羅王─炎輝は言った。 火陵を人界へと逃す と。 火陵が、いなくなる。 そのお側に仕え、全力でお守りすると誓った火陵が人界へ行ってしまう。目の前から、いなくなってしまう。 ( ・・流炎羅王様だったんだ・・・) 夜衣が思い出したのは、不安げに瞳を揺らしながら言った火陵の言葉。 『夢を見たの。私が、父上や母上や夜衣と引き離されてしまう夢・・・』 やはり、ただの夢ではなかったのだ。火陵が見た夢が、現実の物になろうとしている。父王や母、多くの民、そして、自分の側からいなくなってしまう。 それは、彼女の父─炎輝によってだったのだ。 『もし、誰かが私を遠くへ攫っていこうとしたら、その時は助けて欲しいの!』 己の腕を取り、縋り付くような瞳を向けた火陵に、是と答えたにもかかわらず、 (・・・・ごめんなさい。火陵様) 約束を、違えることになりそうだと、心の中で火陵に詫びる。己には、天帝に逆らってまで、火陵をこの地に止めておくことはできそうにない。 けれど、 「 流炎羅王様!」 遠ざかっていこうとする王の背に、夜衣は声をかけていた。 分かってはいる。己の意見が受け入れられるはずがないことは分かり切っているのだ。けれど、制止の声をかけずにはいられなかった。そして、懇願せずにはいられなかった。火陵をこの地に止めておくことが無理ならば、せめて 「お願いがございます。僕も・・・僕も、火陵様のお供に人界へ行かせてください!」 「夜衣 」 「駄目だ」 炎輝への懇願は、即座に退けられてしまった。しかしそれは、炎輝自身によってではなく、 「沓欺」 双王が一人、蒼巽王─沓欺の険しさを帯びた声によってだった。 そんな沓欺を咎めるように、炎輝が彼の名を呼んだが、沓欺は口調を緩めることなく、夜衣から炎輝へと視線を遣り、言い切った。 「俺は断固として許さないぞ。俺は、未だこのガキを信用していない」 その言葉に、夜衣は何か言いたげに唇を震わせたが、そこから言葉が零れ落ちることはなかった。すぐにきつく噛みしめられる。 そんな夜衣の様子と、彼を睨みつけるように見つめている蒼巽王を見遣った美愁が、責めるように蒼巽王の名を呼んだ。 「沓欺様!」 美愁の己を責める声に、ようやく沓欺は表情を緩め、美愁へと視線を向けた。しかし、その口調はすぐにまた夜衣を責める強いものへと変わっていく。 「美愁様も炎輝も優しすぎるのです。疑って当然だ。いや、疑うべきだ。よりにもよってこのガキは 」 「蒼巽王」 「 」 沓欺の言葉を皆まで聞かず、遮る者があった。 「それ以上は言うな」 炎輝だ。 その言葉は静かだったが、否の言葉を許さない声音で紡がれていた。口を噤んだ沓欺の瞳を、真っ直ぐ射抜くように見つめる、炎を宿した紅の瞳。そこには、鋭い光がある。 「・・・すまん」 憮然とした面持ちではあったが、それでも口を閉ざした沓欺に炎輝は小さく頷き返し、視線を夜衣へと向けた。そこにはもう、先程まで宿っていた鋭い光は見る影もない。いつもの、穏やかさを湛えた炎の瞳でもって、肩を落とし、視線を伏せている夜衣を見つめ、瞳と同様に穏やかな声音で彼の名を呼んだ。 「夜衣」 「・・・・」 視線だけを上げ、夜衣は応える。そんな夜衣に、炎輝は決して強い口調ではなく、けれどはっきりと告げた。 「そなたには、天界に残ってもらう」 その言葉に、夜衣は再び視線を己の足下へと落とした。 「・・・流炎羅王様も、信じられませんか?」 悲しみのためか、悔しさのためか、僅かに震える声で問う少年に、炎輝は穏やかな声で応える。 「いや、夜衣。違うのだ」 「え?」 王の言葉に視線を上げ、首を捻った夜衣に、炎輝は言う。 「そなたにはここで、火陵を待っていて欲しいのだ」 「・・・・」 夜衣は、何も応えなかった。その言葉の真意を探るように、じっと炎輝の瞳を見つめ返す。その瞳に応えるため、炎輝は口を開いた。 「火陵はいつか必ずこの天界の地に戻ってくる。そして、戦いにその身を投じることとなるだろう。その時には、火陵の力になって欲しい」 「・・・いつ、お戻りになるのですか?」 「分からない。5年先か、10年先か・・・次に、赤い月が昇る夜だ」 「長い・・」 眉根に皺を寄せ、思わず呟いた夜衣に、炎輝は徐に頷いてみせる。そして、問う。 「そうだ。長きの月日を要するだろう。それまで、火陵への忠誠をなくすことなく、待つことができるか?」 「はい」 迷うことなく返された答え。そして、それを体現するかのように強い光を宿した瞳を受け止め、炎輝は更に言葉を紡ぐ。これから己が投げかける言葉が、幼い少年の瞳に宿った光の輝きを鈍らせてしまうことは分かっている。それでも、炎輝は口を開いた。 「この城内には・・いや、この天界の地には、沓欺のようにそなたを疑う者も少なくない」 「・・・はい」 夜衣の瞳が、僅かに揺れる。それを認めながら、更に炎輝は告げる。 「心ない言葉を投げつけられることもあるだろう」 「はい」 そして、問う。 「それでも、そなたはこの幻炎城で長きの時を過ごし、火陵を待つことができるか? 流炎羅族に絶望することなく、流炎羅族として、次代の主を信じ、守り抜くために待ち続けることが出来るか?」 「・・・・」 夜衣から、答えはない。ただ、僅かに見開かれた瞳がそこにある。その瞳に告げる炎輝の表情が、僅かに険しいものへと変わる。それは、王の顔だった。 「もしも、それが出来ぬと言うのならば、命じよう。今すぐに、この城を出なさい。母君の元へ戻るのだ」 「 !」 今まで幻炎城へ身を置くことを許してくれていた王の厳しい言葉に、夜衣は今度は大きく目を瞠る。 言葉にはしなかったが、その瞳に宿る拒絶の色を炎輝は認める。そして、言った。 「もしも、心ないそしりに耐え、ここで流炎羅族の民の一人として火陵を待つと誓うのならば、別の命を与えよう」 「別の?」 不思議そうに瞳を瞬く夜衣に、炎輝は告げた。その表情は、一変して穏やかなものへと変わっていた。いつも彼が浮かべている優しい笑みと瞳がそこにはある。 「次に赤い月が昇る時 火陵がこの地へ帰ってくるその時までに、誰よりも強くなりなさい」 「強く・・」 「そして、火陵を守ってやってくれ」 「 流炎羅王様・・」 「私は、そなたを信じている。そなたのその瞳は、嘘偽りを知らぬ瞳だ。そなたは真に火陵を主と認め忠誠を誓ってくれていると、私は信じている。故に、命ずる。 いや、命ではない。これは私の願いだ」 そこで言葉を切った炎輝は、地面へと膝を着き、視線を夜衣へと合わせて言った。それは天帝としての命ではなく、炎輝個人として夜衣へと託す望み。 「火陵を頼む」 炎を宿した瞳は、一片の曇りもなく、夜衣を見つめている。その瞳はやはり、全てを見通しているかのように、迷いも翳りもない。 否。もしかしたら、本当に彼は未来を視ていたのかも知れない。火陵が夢で、全ての人と離ればなれになることを視たように、星宿を読み歌う天琳族の血を引く彼もまた、視たのかも知れない。この幼い少年が、遠い未来、娘の隣に立ち、娘と共に 娘のために命を賭け戦うその姿が 。 彼が未来を視たのか否か、それは夜衣には分からない。けれど、分かることがある。この瞳は、彼の言葉通り、彼が己を信じてくれている瞳だということだけは、夜衣にも分かる。 「 はい! 誰よりも強くなります。是軌よりも! 強くなって火陵様をお迎えします。お守りします!」 信じてくれている瞳に、真剣な光でもって誓いの言葉を返す。 その言葉に返ってきたのは、 「ありがとう。信じよう。その誓いを」 穏やかな笑み。 「はい。決して違えません! 必ずお守りします。もしも、違えることになるなら、それは、僕が命果てたその時だけです」 命ある限り誓いを果たすと告げた夜衣に、微笑を湛えたまま炎輝は告げた。 「では、今散ってはならぬな」 「・・・・」 炎輝のその言葉の意味を察した夜衣は、口を噤む。 次に告げられた言葉や、やはり夜衣が察した通りのものだった。 「夜衣。焼妓と共に、早急にこの城を出るのだ」 「・・・・」 「私との約束を守るためだ。城を出てくれ」 「・・・・」 答えを返すことができない。 「御意」 と、そう返すべきなのだということは分かっている。 「嫌です」 と、駄々をこねる気などない。けれど、なかなか頷くことはできない。火陵と離れ、ここで待つ決意を固めたのは事実だ。しかし、頷くことはできない。本当は、一時とて離れることなくお守りしていたい。そんな気持ちが、夜衣に答えを返させないでいるようだった。 そんな夜衣の気持ちを察しているのだろう。答えが返らないことを炎輝が責めることはなかった。 「さあ、夜衣」 焼妓の静かな声と、温かな手が、「行きましょう」と、夜衣の背をそっと押す。そこで、ようやく決心がついた。 「 はい」 この城を離れよう、と。 歩き始めたその背に、己の名を呼ぶ声がかかった。 「夜衣」 「美愁様」 振り返ると、とても優しい瞳をした王妃が、夜衣を見つめていた。 「私も、あなたを信じていますよ。そして、火陵も」 答えは、今度は迷うことなく唇を越えた。 「はい!」 大きく頷いた夜衣に、美愁は微笑みを返す。そして、扉の向こうへ消えていく夜衣の背を見送る。 完全に扉が閉ざされたのを確認してから、それまで黙り込んでいた蒼巽王が徐に口を開いた。その表情は憮然としたものだった。 「炎輝。まさか本気ではないだろうな?」 「何がだ?」 「お前、本気であのガキを信じているわけではないだろうな」 険しい表情で、主へと問う。 そんな蒼巽王へと答えを返す炎輝の表情は、いたって穏やかなものだった。 「勿論だ」 「そうか。それなら 」 「勿論、信じている」 「 お前なぁ」 怒りを通り越し呆れる沓欺に、炎輝は穏やかさを保ったまま告げる。 「そなたは夜衣のことを何も知らないからだ。あの子は、誰よりも強くなるだろう。是軌と、戦うために」 「・・・誰よりも強くなって、火陵様と戦うことになるかもしれない、とは考えないのか」 「考えない」 炎輝によって己の危惧を一蹴された沓欺は、大仰に溜息をついて見せる。 「炎輝。お前は人が良すぎ 」 「もうやめろ、蒼巽王」 「昊咒」 沓欺の言葉を遮ったのは乾翠王だった。 「王が信じたのだ。その王を双王たる我々が信じなくてどうする」 静かな口調で、けれど確かな言葉で宥められた沓欺は、しばしの沈黙の後、肩を竦めた。 「 ・・はぁ。分かった。もう何も言わない」 「すまないな、蒼巽王」 「いいさ。お前の頑固さはよくよく承知している」 沓欺の言葉に再度「すまない」と謝罪の言葉を述べた後、炎輝はその面に苦笑を浮かべて見せた。 「これから、私よりも頑固者を説得しに行かなくてはならないな」 その言葉に双王は「その通りだ」と小さく笑い、美愁が夫の腕にそっと手を触れさせて答えた。 「王。あの子は分かってくれますわ」 「ああ。そうだな。行こう」 歩み出された足は、地下神殿へと向けられる。幼い少女達を人界へと送るため。まずはそれを娘達へ説明し、納得させるために。 |