【第三章 解き放たれし記憶】




 足音が鼓膜を揺らしたと同時に、部屋の扉が開かれた。
「失礼いたします」
 告げる声は、流炎羅るえんら族、副官−利焦りしょうの長子−焼妓しょうぎの声。しかし、開かれた扉から火陵の部屋の中へ飛び込んできたのは、
「水日! 風樹!」
 双王の娘であり、火陵の幼なじみでもある二人の少女達だった。
 その後に続いて、焼妓と、その弟−螺照らしょうが火陵と、王妃−美愁びしゅうへの一礼と共に部屋へと入った。
「良かった! 水日! 風樹!」
 突如として鏑矢を空へと放ったこの戦、幼馴染み達の暮らす城にも敵兵が向かっているということは幼い火陵にも知らされていた。二人の表情は常とは違い、固く強張っていたが、それでも怪我をしている様子もない。幼馴染み達が無事であったことに安堵の溜息をついた火陵の隣から、すっと夜衣がその身を引いた。
 双王の息女と、次代の天帝となる火陵の隣に己が立つことを分不相応だと感じたのだろう。
 そんな夜衣の姿を目にした螺照が目を瞠る。
「夜衣! まだ城に残っていたのか!?」
 責めるつもりはなかったのだが、驚きと、今のこの危急の状況とに、螺照の言葉はつい語気が強くなってしまっていた。その問いかけに答えたのは、問われた夜衣本人ではなく、
「夜衣はいいの!」
 庇うように夜衣の前に歩み出た火陵だった。
「しかし、火陵様
 困ったように姉と顔を見合わせ、己をめつけるように見上げている幼い主を説得しようと螺照が口を開いたのだが、
「螺照」
 穏やかな声が、それを制した。
「美愁様」
「良いのです、螺照。夜衣は私が責任を持って面倒を見ます」
「美愁様・・」
 思いがけず美愁の口から告げられた、己を庇うその言葉に、夜衣は目を丸くする。
 そんな夜衣へと、穏やかに微笑みかけてから、美愁は螺照へと再度告げる。
「王にも、私からお願いしておきますから、いいのです」
 美愁のその台詞には、螺照も焼妓もそれ以上言葉を繋ぐことは出来ない。軽く頭を垂れ、口を閉ざした。
「ありがとう、母上」
 と、夜衣を庇ってくれた母の腕に己の腕を絡めてきた火陵の頭を優しく撫でつけたあと、美愁は穏やかだった表情を改め、唇を真一文字に引き結び、焼妓・螺照姉弟へと問うた。それは、火陵の母としての顔ではなく、天帝の妻としての顔だった。
「焼妓、螺照。今、王は何処に?」
「はい。神殿においでです」
「双王様方もご到着なさいました」
 焼妓の言葉に、螺照が付け加える。
「では、鳳華ほうか師漣しれんも来ているのね」
 先程の問いへ返ってきた応えとは対照的に、美愁が発したその言葉への答えは、僅かの間を必要とした。弟と顔を見合わせた焼妓は、次にその視線を水日と風樹の元へと投じ、逡巡しながら重い口を開いた。
いえ、それが・・」
 その言葉の続きを引き受けたのは、それまで水日と身を寄せ合い、唇をきつく噛み、黙り込んでいた風樹だった。
「美愁様! 母様、連れて行かれちゃったの・・!!」
 きつく引き結んでいた唇を解放したと同時に、風樹の瞳から、同様に、それまで堪えていた涙がボロリと零れ落ちた。
 その涙に水日と火陵が驚き、美愁は風樹の口から告げられた事実に愕然とする。
鳳華が・・」
「そんな、まさか」と、僅かな望みをかけ、美愁は焼妓と螺照へと視線を遣る。しかし、二人から返ってきたのは無言の肯定。彼女らは口こそ開かなかったが、その沈痛な表情と、僅かに縦に振られた首とで、美愁へと絶望の事実を肯定して見せた。
 美愁は、それ以上鳳華のことを問おうとはしなかった。絶望に我を失ったわけではない。鳳華の友人としてではなく、天帝の妻として、今取り乱すわけにはいかないと、彼女は分かっていたのだ。何より、母を攫われてしまった風樹の前で、己が涙を零すわけにはいかなかった。
 美愁は震える吐息を一つ吐き出した後、床へと膝を着け、水日に視線を合わせた。
「水日様、お母上は?」
「城に残って、戦っています」
「そう」
 不安げな表情を浮かべ答えた水日に、美愁は笑みを返す。しかし、水日の前から立ち上がり、すい、と窓辺へと体を振り向けた美愁の口からは、
「おそらくは師漣も ・・・」
 絶望の台詞が零れ落ちていた。
 誰にも聞かすまいと思っていた台詞だった。しかし、彼女の娘−火陵だけだその呟きを耳におさめてしまっていた。

 母の低い呟きと、その面に塗りたくられた沈痛な色とを認めてしまった火陵は、僅かにその身を震わせる。
 自分が思っている以上に、戦況は芳しくないのだと、知らされてしまった。
 体を震わせたのは、恐怖という名のもの。胸の奥の方から、じわりと冷たいような熱いような、不快な感覚を伴って襲いかかってくるもの。その存在を確かに感じながら、火陵は歯を食いしばる。胸を灼くような不安。それはおそらく、幼馴染み達の胸をも、今、灼いているのだろう。否、己の抱くそれよりも更に大きく、抗いがたい不安に、二人はさらされているのだ。
 気付けば、火陵は引き結んでいた唇を開いていた。
「大丈夫だよ、風樹。水日」
 無意識の内に零れ落ちたその台詞が、己の胸に不快さを伴って押し寄せていた不安の波を、思いがけず消し去っていく。そして、新たに胸に押し寄せてくるのは、熱さ。不安から、冷たさを取り払った熱さが、火陵の胸を埋め尽くしていく。それは、緊張に似ている。否、昂揚、という言葉を当てはめる方が相応しいのかも知れない。
「父上と一緒に、三人で母上様を助けに行こうね」
 ドキドキと、小さな胸の高鳴りを感じながら、火陵の唇から、そんな言葉が零れ落ちていた。
 涙を零している風樹への、ただの慰めではない。心の底から、そうしようと思ったのだ。胸の不安を打ち消したものの名を、火陵は未だ知らない。
「うん。助けに行く」
「私も!」
 零れ落ちる涙を必死に拭う風樹と、大きく頷き唇を引き結んだ水日の胸の中にも、火陵と同じものが生まれていた。
 それが何なのかを知るのは、当人たち以外。
火陵・・・」
 娘の中に生まれたもの。そして、その瞳に強い光を宿したものの名を、母は知っている。いや、今、生まれたのではない。幼いながらも、徐々に火陵が育んできたものの芽吹きを見たのだ。
 それは、次代の王としての自覚。
 幼いながらも、火陵の紅の瞳に宿る光は、その父−炎輝の瞳に宿るものと同じ光だった。










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