【第三章 解き放たれし記憶】




 記憶の波は留まることを知らず、次々と少女達の中へと流れ込んでくる。
 剣と剣とが触れ合う耳障りな音、兵士達の咆哮、胸をちりちりと焦がす不安が共に蘇る記憶。
 炎に包まれた幻炎城げんえんじょうの中に、火陵と水日、風樹はいた。 その姿は誰に視認されることもなく、意識体となって過去の記憶を巡る旅を続けている。
 今、その眼下には一人の幼い少女が居た。
綺麗・・」
 窓の外で優雅に翻る黄金の炎を見つめているのは、 幼い日の火陵。その紅の瞳の中にも、城を覆う炎と同様に、黄金が散りばめられている。 紅の瞳を有する流炎羅るえんらの一族の中でも、稀であり、美しい色彩。 それは、父譲りのものであり、父よりも更に濃い色彩だった。
 鼓膜を揺らす喧噪の中、一際大きな音で火陵を驚かせたものがあった。
 コンコン。
 不意に叩かれた扉に、火陵は肩を揺らし振り返る。
「・・・母上?」
 誰だろうと眉をひそめながら、火陵はそう問いかける。
 既にこの城内には、自分と両親、そして兵士以外の人間はいないのだということを、火陵は知らされていた。 女官や幻炎城に務めていた者たちには、先刻、天帝である父から地下通路を通り、城を出るよう命が下っていたからだ。
 火陵の問う声に、扉が開くことで答えが返される。
 そこに立っていたのは母ではなく、予想外の人物だった。
「夜衣?」
 開かれた扉から、部屋へと入ってきたのは夜衣だった。
「どうして未だ城に? 城を出ろって、父上から
 火陵の問いを、夜衣が遮り、逆に問い返す。その表情は何故か硬い。
「火陵様は、行かれないのですか?」
 その問いの意味を計りかね、火陵は目を瞬きながら答えを返す。
「私は、父上が城に残れって・・」
「ここは戦場になるかもしれません」
 心配そうに眉を寄せ、やや強い口調で夜衣は言った。
 その言葉に、火陵は夜衣の表情が硬いその理由を察する。彼は、天帝の命に逆らい、自分を迎えに来たのだ、と。 優しい彼は、火陵を残し城を出ることが出来なかったのだ、と。
 そんな夜衣の思いに気付いたが、火陵が首を縦に振ることはなかった。 かといって、頑なに夜衣の言葉を拒むわけでもなく、その面に笑みを浮かべ穏やかに答えた。
「それでも、私は残るよ、夜衣。父上がそうしろって言うんだもん。そうした方がいいんだよ。きっと父上が守ってくれるから」
 言って、火陵は笑って見せた。
 その瞳には、彼女の言葉通り、父を信じる光。疑いの色も、不安の色も、微塵も窺えない。
 夜衣は、そんな火陵の瞳を真っ直ぐに見つめ返していたが、しばしの沈黙の後、
「僕も、残ります」
 はっきりと言った。
「夜衣? でも
「残りたいんです。火陵様を置いて逃げることはできません」
 普段の穏やかさからは一転した頑固さでもって、夜衣は答える。 真っ直ぐに火陵を見つめるその瞳には、未だに不安の色が浮いている。しかし、表情の硬さは、幾分和らいだようだった。
 決意を固めた表情。
 それを、火陵は見つめ返す。そして、考える。
(いつからだったかなぁ・・?)
 この城に来たばかりのころは、心を固く閉ざし、火陵を含め、周囲の全ての人間を拒んでいた夜衣。 しかし、いつの日からか、彼は変わった。火陵に笑顔を見せるようになり、 その身を纏う雰囲気は一変した。全てを拒み、己を護ろうとする殻であるかのように固かったその雰囲気は、 ふわりと周囲を包み込むように柔らかなものへと姿を変えた。 それを機に、この城内に年齢の近い者が他にいなかったことも手伝い、すぐに誰よりも近しい存在へと変わっていった。
 夜衣が変わったそのきっかけが何であったかを、火陵は覚えていなかった。 聞いても、夜衣は答えようとしなかった。ただ一言だけ、
「火陵様をお守りしようと決めたのです」
 そう言って笑みを返すばかりだった。
 そして、その言葉の通り、夜衣は火陵を守るため、この城に残るというのだ。
 そんな彼を見つめ返し、しばしの逡巡の後、
「・・・・居てくれるの?」
 小さな声で、火陵は問うた。
 その瞬間、火陵の表情に不安の色がよぎったことを夜衣は見逃さなかった。
「はい。勿論です」
 火陵が浮かべた不安の色を少しでも和らげようと、夜衣は大きく首を縦に振ってみせる。
 それが功を奏したのか、火陵はその面に笑みを取り戻した。
「ありがとう。・・・本当は、ちょっと怖かったんだ」
 苦笑と共に告げた火陵に、夜衣は首を傾げ、その先の言葉を待つ。
「夢を見たの。私が、父上や母上や夜衣と引き離されてしまう夢・・・」
 それはとても抽象的な夢だった。
 黄金の炎が視界一面に広がり、その中で紅の炎と雷鳴が飛び交っていた。 そして、不意に現れた扉の中に、その光景は吸い込まれるようにして消えていった。 それを追うように、父の姿が遠ざかり、母の姿が扉の中へと消え、近しい者たち全てが自分一人を置いて扉の 向こうへと消えていってしまう、そんな夢
「だから、お願いがあるの、夜衣」
 夢の中、己の身に訪れた孤独を思い出し、僅かに体を震わせた火陵は、縋り付くように夜衣の腕を取っていた。
「もし、誰かが私を遠くへ攫っていこうとしたら、その時は助けて欲しいの!」
「火陵様・・」
 何故、ただの夢が彼女をこんなにも不安に陥れているのか、夜衣には分からない。 戦が幕を開けた今この瞬間でさえも、父王を信じ不安の色を浮かべることもなかった少女が、 眠りの中で見た夢を思い、こんなにも表情を不安によって曇らせている。 そのことに驚きを覚えながらも、夜衣は彼女の願いを受け止める。
「分かりました。お助けします」
 未だ幼く力もない。けれど、真っ直ぐな思いで返された夜衣からの約束の言葉に、火陵は笑みを零した。
「良かった。これでもう怖いことなんてないや」
 城の外には、りん族の兵士がいる。 城門を破り天帝の首級を挙げるため蒼巽そうそん族兵と戦いを繰り広げていることは、 火陵も分かっているだろう。しかし、それでも火陵は、本当に心穏やかな様子で笑った。
 それは、信頼の証。天帝である父がこの状況を必ず何とかしてくれると信じているから、笑うことができるのだ。 そして、「お助けします」と言った己の言葉を信じてくれたから。
 そのことに夜衣も笑みを零す。そして、再度口にする。
「必ず、お守りします」
 己の持つ力の全てで、この幼い主を守るのだと、己自身に言い聞かせるために。
 その時、再度部屋の扉が叩かれた。誰だと問う間もなく開かれた扉の先には、今度こそ、
「母上!」
 火陵の母であり、天帝の后でもある美愁びしゅうの姿があった。 常とは違い、その身には軽微ではあるが甲冑かっちゅうを纏っている。
 そんな母の姿に火陵が驚いたのと同様に、美愁はその火陵の隣に夜衣の姿があることに気付き目を瞠った。
「夜衣。城外に逃れたのでは?」
「申し訳ありません、美愁様。僕は
「夜衣」
 美愁は優しい声で、けれどきっぱりと夜衣の言葉を遮った。 そして、ゆっくりと夜衣の前まで歩を進めると、腰を落とし夜衣と視線を合わせて口を開く。
「おそらくこの城は戦場となります。そうなればあなたとて、無事では済みませんよ」
 優しい口調ではあった。けれど、否の答えを拒む強さを持ったその言葉に、けれど夜衣は頷こうとしなかった。
「それでも、残りたいんです」
 夜衣の真剣な瞳を真っ直ぐに見つめ返し、彼が決して己の意見を覆す気がないことを察した美愁だったが、僅かな逡巡の後、
「夜衣。母上様の元へ、戻っても良いのですよ?」
 より優しい声で、夜衣へと言った。
 その言葉に返された夜衣の反応に、美愁はもとより、母と夜衣とのやり取りを不安げに見つめていた火陵も目を瞠ってしまっていた。
! 僕は流炎羅族です!」
「夜衣・・?」
 突然声を荒げた夜衣と、彼の口にしたその台詞の意味が、幼い火陵には分からなかった。
 しかし、美愁は幼い少年の思いを察しているようだった。痛ましげに瞳を細め、夜衣の言葉を黙って受け止める。
「この城に置いてくださった流炎羅王様の為に、この僕に優しくしてくださった美愁様や火陵様の為に、僕も流炎羅族の兵士として戦いたいんです! 死んでも構いません!」
 幼い少年の熱い思いに、美愁は静かに問い返す。
「・・夜衣。何故そうまでして、尽くそうとするのです」
 未だ十にも満たない幼い少年が、どうしてこんなにも強い思いを抱き、そしてそれを貫こうとするのか。 それが美愁には分からなかった。誰が強要しているわけでもないのだ。この思いは、彼が己で抱き、己の意志でもって頑なに貫こうとしている。
 その答えは、
「お守りすると決めたんです。この命に代えても、火陵様だけは」
「え?」
 唐突に夜衣の口から己の名が出たことに火陵は目を丸くする。
 そして、同様に美愁も目を瞠る。そして、ふっと口許に笑みを刻んだ。
「まあまあ。まるで求婚の台詞ね」
 まるで幼い少年の言葉とも思えないその台詞に、美愁は笑みを零していた。
「え!? いえ、別にそのような・・//////」
「きゅーこん??」
 美愁の言葉に頬を赤く染める夜衣と、きょとんと首を傾げる火陵。 そんな幼い二人を見つめていた美愁だったが、すぐにその面から笑みを消した。 そして、隣に立つ火陵の体をその胸に抱き寄せ、けれど視線は真っ直ぐ夜衣に向け、美愁は厳しい声音で言った。
「夜衣。私はこの子の母です」
 その台詞に、夜衣も火陵も目を瞬く。
 それに構うことなく、美愁は言葉を紡ぐ。その言葉は、幼い夜衣に投げかけるには残酷なものだと分かってはいたのだが。
「私はこの子を守らなくてはなりません。だから、貴方の言葉を鵜呑みにするわけにはいかないのです。 貴方が甘い言葉で巧みに火陵に取り入り、末はこの子を謀ろうとしているのかもしれないと、 私は貴方を疑わなくてはなりません。多くの家臣が、貴方をそう疑っているように」
「・・・・」
「母上!」
 夜衣の瞠られた瞳と、火陵の己を咎める声とを無視し、美愁は言葉を紡ぐ。
「もし、本当にそうであるのならば、貴方をこの城から、この子の前から早急に排除しなくてはならないのです」
 その言葉を遮ったのは、抱き寄せる母の腕をはねのけるようにして夜衣の前に立った火陵だった。 夜衣を庇うように小さな両手を広げ、睨め付けるように母を見つめ、火陵は言った。
「母上! どうしてそんなこと言うの!? 夜衣はウソなんて言わない!」
 娘の言葉に、美愁は僅かに表情を和らげ、火陵へと問う。
「火陵。夜衣は貴方に、貴方を守ると誓ったのね?」
「誓ってくれた!」
「貴方はその誓いを、疑わなかったの?」
「・・え?」
「貴方は夜衣の何も知らないでしょう? 彼がどうして一人でこの城へ来たのか分かる? 何故、母がこのように彼を疑っているのか分かる? 他の人たちが、どうして夜衣を快く思っていないのか分かる?」
 母から渡された四つの問いに、火陵は全く答えることができなかった。
「・・・分かんない」
「分からないのに、信じるの?」

 母の、優しい口調ではあるものの、厳しい問い。
 幼い自分には、何も知らされていないのだということを、火陵はこの時初めて知る。
 そう。自分は、何も知らない。
 けれど、火陵は言った。
「難しいことはよく分かんないけど、でも、分かるもん! 夜衣の目を見れば分かるもん。夜衣はウソは言わないって。 それだけは分かる!」
 真っ直ぐに見つめてくる娘の瞳に宿った強い光を、美愁は見つめ返す。そこに疑いの欠片を見つけることは出来ない。 娘のこの瞳は、彼を信じている。
 おそらく夜衣も、火陵と同じこの瞳をして誓ったのだろう。だから
「だから、貴方は信じたのね」
「信じてる!」
 大きく頷いた火陵に、美愁は頷き返す。そして、言った。
分かりました。それでは、火陵、信じ抜きなさい」
「え?」
 先程までは、信じるなとそう言っていた母のものとは思えないその台詞に、火陵は目を瞠る。
 そんな娘に、美愁はいつもの穏やかな表情を面に浮かべて見せる。
「貴方が夜衣を信じ抜けば、夜衣も誓いを貫き通すでしょう。貴方が疑ったとき、夜衣は誓いを違えるかもしれない」
 その言葉に介入したのは夜衣だった。
「いいえ! 美愁様。僕は例え火陵様に疑われようとも
「そうね。貴方はきっとそうするわ。でも、それは、とても悲しいことよ」
 夜衣を見つめる紅の瞳に宿るのは、深い愛情。先程まで夜衣に向けていた厳しい光は影もない。 その瞳を火陵へと戻した美愁は言った。
「火陵。あなたは一度信じると決めたのです。それならば、最期まで信じ抜きなさい。 何があっても 夜衣の全てを知っても、それでも信じ抜くのですよ」
「全てって?」
 問いと共に視線を夜衣へと向けたが、
・・・」
 答えることなく、夜衣は視線を逸らしてしまった。けれど、それ以上火陵は問うことをしなかった。
 無理に聞こうとは思わない。 言うべき時が来たら、きっと彼は告げてくれるのだろう。だから、今聞くべきことはただ一つ。
「夜衣」
「・・・はい」
「私を助けてくれるって言ったよね?」
「はい。僕はあの日決めたんです。火陵様をお守りします!」
 夜衣がどんな背景を背負っているのか、それは全く知らない。考えても、分からない。 だから、今目に見えるものだけを、火陵は見る。そして、
「じゃあ、私も誓うよ。夜衣を信じ抜く!」
 夜衣が己に向けてくれた真剣な瞳と誓いの言葉を、火陵は信じると決める。そして、火陵も誓いの言葉を返す。
火陵様」
 驚きに瞠った瞳を、夜衣はすぐに笑みへと変えた。
 それに笑みで返す火陵を見つめ、美愁は心の中でそっと呟く。
  この誓いが、永遠でありますように。  と。
「・・・この戦の結末を、私は星宿せいしゅくによって知っています」
 不意に、美愁は子供たちへとそう告げた。 その瞳は悲しみによって細められ、僅かに涙が浮かんでいるようにも見える。驚きに目を瞠る火陵達を余所に、 美愁はその瞳を夜衣へと向けて言った。
「だから、夜衣。私も貴方を信じたい。どうか、この子を守ってやって・・!」
「母上? どうしたの、母上??」
 言って、一筋涙を零した母の姿に、火陵は驚く。
 彼女は知っていたのだ。流炎羅王は決して彼女の耳に入れようとはしなかったけれど、 この戦の星宿を、彼女は自ら天琳てんりん王へと問い、知っていたのだ。
 そして、その星宿の意味を、彼女は察していた。 この戦で、夫である炎輝えんきが果て、幾年かの月日を経て、 人界へと逃れていた娘が天界へと舞い戻り、父王が終えることの出来なかった戦いにその身を投じるのだということを。
 その時に、母である己が生きているのかどうか、それは分からない。 もしかしたら、夫と共に果てる運命さだめにあるのかもしれない。もしもそうなったとき、 娘を守ってくれる存在がいるのだろうか。その不安が、美愁の胸を締め付け、そして、
「どうかこの子を守ってやって」
 そんな台詞を彼女に口にさせたのだ。
「美愁様」
 夜衣の答えは、決まっている。
 天帝の后である彼女が、何の力もない幼い己にどれほどの信頼をかけ、望みを託しているのか計り知ることは出来ない。 それは微々たるものでしかないのかもしれない。けれど、彼女の望みに全力で答えることを、夜衣は告げる。しかし、
「火陵様は、僕が命に代えても
「ちょっと待って、夜衣」
 唐突に夜衣の言葉尻を奪ったのは火陵だった。
「はい?」
 突然どうしたのだろうと目を瞠った夜衣に、火陵は少し唇を尖らせて言った。
「一つだけ、ちょっとイヤ」
「え?」
 その台詞に、夜衣はますます目を瞠る。
「命に代えるって、死んでもってことでしょ?」
「ええ、まあ」
「そこは、ナシで!」
「え?」
「もしも、夜衣が死ななくちゃ私を助けられそうにないってときには、諦める」
「え!? そんなわけには
 夜衣の台詞を遮り、火陵は満面の笑みで言った。
「その時は諦めて、全速力で一緒に逃げようね」

 火陵の言葉に、夜衣は目を瞠る。先程からそれ以外の反応を返せないでいる夜衣とは対照的に、火陵はニコニコと言葉を紡ぎ続ける。
「だって、取りあえず生きてないと駄目でしょ」
 己が死ぬのは嫌だ。それを回避するために、夜衣が死ぬことも勿論嫌なのだ。 どちらかが生き延びればいいのではない。二人が生き残らなくては意味がないのだから。 それならば、逃げればいい。己の身に迫る危険に命懸けで立ち向かうのではなく、 力を合わせて逃げればいいのだと、火陵は言った。
 それは、まるっきり子供の考えだと、大人ならば一笑に付すだろう。けれど、
「はい!」
 夜衣は笑みと共に頷いてみせる。
 そして、美愁も、
「そうよ、火陵。貴方は何があっても生き抜くのよ」
 そっと伸ばした両腕で、愛しい娘を抱き締める。
 辛い運命さだめから逃げてもいい、どんな手を使ってくれてもいい。 ただ、愛しい娘が生きのびてくれればいいと、天帝の妻である前に、一人の母親である美愁は祈る。
  どうか、星宿がたがえますように。
 と、ただそれだけを。










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