【第三章 解き放たれし記憶】




 天空に浮かぶ浮遊城。その背後では、橙が宵闇へと姿を変えていく。 美しい紫の空の片隅に、うっすらと色づき始めた月が浮かんでいる。その隣には、キラリと宝石が如く輝く星が一つ。
 天空には強い風が吹き、浮遊城を少し乱暴に撫でている。
 次第に宵闇はその姿を濃いものへと変えていく。そうして、浮遊城の一室、乾翠けんすい王王妃の 部屋が和やかな夕食の時間を迎えようとしていたその時だった。
 風が、一層強く吹く。
「王!!」
 王妃─鳳華ほうかの部屋の扉が激しく叩かれ、 その音に鳳華が小さく声を上げ、風樹もびくりと肩を震わせた。 そんな二人の肩にそっと手を触れさせてから、乾翠王―昊咒こうしゅうが腰を上げ、扉の外へと応える。
「何事だ」
 主の返答を聞くなり、扉が押し開かれ、そこから姿を現したのは血の気を失った 乾翠族副官刀琉とうりゅうだった。その表情の険しさを見るなり、乾翠王も眉間に皺を刻み、唇を引き結んだ。
「どうしたというのだ」
「王、りん族が動きました!! 兵を率いて幻炎城げんえんじょうへと向かっております!」
「まあ」
 刀琉の言葉に、鳳華が口許を手で押さえ、顔を歪めた。
 驚きに目を瞠った昊咒だったが、すぐに彼は動いた。
行くぞ」
「御意!!」
 多くを語らない主だったが、刀琉はそれだけで王の意志を察したようだった。 乾翠王よりも先に部屋を飛び出し、幻炎城へ兵を向かわせるために。刀琉に続いて部屋を出ようとした乾翠王を引き止めたのは妻と娘だった。
「王!」
「父様!」
「すぐに幻炎城へと向かう」
 不安げな表情を浮かべている鳳華と風樹に、昊咒は告げる。そして、今度こそ踵を返し、部屋を出た。その後を、鳳華と風樹が追う。
 戦が起こったのだと、二人は察していた。そして、その戦場に、愛しい夫が、父が向かうのだということも。 それを止める事はできない。主を守り戦う事が乾翠王の勤めであるのだから、それを止める事はできないのだと、鳳華も風樹も分かっている。 だから、せめてその出陣を祈りと共に見送る。
 一気に浮遊城内が慌ただしくなり、甲冑を纏った兵士達が駆け回っている。 どこからともなく無数の天櫂鳥てんかいちょうが浮遊城へと降り立ち、その背に数人の兵士を乗せ、再び飛び立つ。 飛び立った天櫂鳥は、浮遊城の上空を飛び乾翠王による出立の合図を待っている。
 そして今、浮遊城から最後の天櫂鳥が空へと飛び立とうとしていた。その天櫂鳥の背に乗っているのは、 豪奢な甲冑を身に纏い、腰には王剣─風牙刀ふうがとうを携えた乾翠王―昊咒だった。
 天櫂鳥がその巨大な翼を羽ばたかせる。遠ざかろうとした夫の手を取ったのは、美しい翠玉の瞳に涙を滲ませた王妃―鳳華だった。
「あなた・・っ!」
「鳳華。後は、任せた」
 今にも泣き出しそうな顔をしている鳳華に、昊咒は穏やかに微笑みかける。 そして、静かな声音で、乾翠王の王妃としてこの城と民たちを守って欲しいと、そう鳳華に伝える。
 夫の願い、そして王妃としての己の使命を伝えられた鳳華は、目尻から零れ落ちそうになっていた涙を拭い大きく頷いて見せた。しかし、
「はい、お任せくださいませ。ただ、王。どうか、どうかご無事で・・・!!」
 懸命に堪えていた涙が溢れる。これが、愛しい夫との今生の別れになるのではないかという不安が、彼女の胸を覆い尽くしている。
「・・鳳華」
 嗚咽だけは上げまいと、唇を強く噛み、静かに涙を流した鳳華を、昊咒は強く抱き締める。そして、涙に濡れた頬にそっと口付けを落とした後に鳳華の体を離し、母親と同様の不安を抱いているのだろう、怯えたような瞳で自分を見つめている風樹へと視線を遣った。
「風樹。母様を頼んだぞ」
 穏やかに微笑み、けれど真剣な声音で告げられた父王のその言葉に、風樹は覚悟を決めたのだろう。
「はいっ!」
 ぎゅっと唇を引き結び、父王を真っ直ぐに見据えた。
 そんな娘の頭を、昊咒は天櫂鳥の上から手を伸ばし、そっと撫でた。そして、娘の温もりから手を離す事を惜しむように、しばしそのまま風樹の頭の上に手を置いたままで居たが、
「行こう」
 告げた。それは、己をこの場から引き離すための号令だった。そして、
「出立!!」
 凛とした声が上空に待機していた兵士達に命じ、乾翠王は先頭に立ち、その後ろに副官の刀琉と兵を率い、浮遊城を飛び立っていった。
「御武運を、王!!」
「父様! 御武運を !! 」
 多くの女官達の声、そして鳳華と風樹の祈りを込めた声に見送られ、乾翠族の兵が幻炎城へと向けて飛び立っていった。
 天櫂鳥を鼓舞しながら限界まで羽ばたかせ、幻炎城を目指す。一刻(一時間)の後、真っ直ぐに天を目指しそびえ立っている城が微かに見えてきた。その周囲には、黒い煙がたなびいている。流炎羅るえんらの村に火が放たれたのかもしれない。
 それを見た昊咒は、更に天櫂鳥を急かす。天櫂鳥も嫌がることなく主の命に従い、懸命に翼を羽ばたかせる。事の危急さを分かっているのだろう。
「王!!」
 乾翠王の背に、副官―刀琉から声がかけられる。
 視線だけで振り返った主に、刀琉が幻炎城よりも先、東の方角を指差して言った。
「王! 蒼巽そうそん族の兵です!」
 その言葉に東方へと視線を遣ると、彼の言った通り馬に乗り幻炎城を目指す蒼巽族の兵らしき姿が見えた。 先頭に立ち馬を走らせているのはおそらく蒼巽王―沓欺とうぎだろう。
 乾翠王は背後を振り返り、刀琉のその後ろにいる兵隊長の名を呼んだ。
景牙けいが、兵を率い真っ直ぐに幻炎城を目指せ」
「御意」
 景牙と呼ばれた兵隊長の答えを聞くなり、乾翠王は天櫂鳥の向きを変えさせた。 その後ろに、黙って刀琉が従う。残りの兵士達は景牙と共にそのまま真っ直ぐに幻炎城を目指し宙を駆けていく。
 乾翠王は蒼巽族の兵の元へと向かう。上空から、樹海に馬がその蹄で巻き上げた砂埃が筋を残しているのが見える。
 彼が思った通り兵を率い先頭で馬を走らせていたのは、昊咒の幼なじみでもあり、己と並んで双王そうおうと称される蒼巽王―沓欺だった。
 すぐに天櫂鳥を樹海の木々に触れるか触れないかの高さにまで下ろさせた昊咒は、幼なじみの王の名を呼んだ。
「沓欺!」
 昊咒の呼びかけに、すぐに沓欺は気付き顔を上げた。そして、険しい表情で西の方角―幻炎城を指差して言った。
「昊咒か。先に行け!! 幻炎城は既に囲まれているぞ」
 その言葉に、昊咒も表情を一変させる。自分が思っている以上に、状況は進んでいるようだった。勿論、悪い方向に。
「乗るか、沓欺」
 馬で走るよりも、天櫂鳥で空を駆けて行く方が格段に早い。
 天櫂鳥に乗れと誘った昊咒に、沓欺は頷いた。
「頼む! さあ、水日」
 不意に後ろへと体を捻った沓欺に、ようやく昊咒は彼が後ろに娘の水日を乗せていることに気付く。沓欺の背に隠されて見えなかった小柄な少女が、昊咒の手へと預けられる。
水日殿も連れて行くつもりか」
 水日をしっかりと両手で抱きとめ、天櫂鳥の背へと乗せながら、昊咒が眉を寄せる。 稟族の兵に囲まれた もしくは、 既に城門が破られ侵入されているかもしれない危険な幻炎城に娘を連れて行くことに異を唱えようとした昊咒に、沓欺が短く答えた。
「俺の村も囲まれた。鍍乎邏とから族にだ」
「!」
「おそらく、乾翠の村にも兵が押し寄せているだろう。危険でない場所などもう何処にもないんだ」
 沓欺のその言葉に、彼を天櫂鳥へと乗せるため手を伸ばしながら、後ろを飛んでいる刀琉の名を呼んだ。
「刀琉。三分の一を」
「御意」
 己の名を呼び伝えられた短い言葉と、その瞳から主の意志を察した刀琉は、すぐに天櫂鳥を空高くへと舞い上がらせた。 そして、急いで先に幻炎城へと向かった兵の元を目指す。
 それを見つめていた沓欺も、昊咒の意図を察する。
「兵を、戻したか」
「三分の一だけ、だ。足りんだろうが・・」
 唇を噛みしめながら、けれど昊咒は真っ直ぐに前を見つめ、天櫂鳥を空へと舞い上がらせる。
呼清こせい! 目指すは幻炎城だ。敵兵を蹴散らせ!! 俺は先に行く」
「御意」
 蒼巽族副官の呼清に兵を任せ、沓欺は視線を己の兵から幻炎城へと移した。そんな父王の腕を引いたのは、
「お父様」
 不安げに顔を歪めた娘―水日だった。僅かに震えている水日の手を強く握りながら、沓欺はいつも彼が浮かべていた不適な笑みを浮かべて見せた。
「大丈夫だ、水日。お前は俺が守ってやるからな。俺の側が最も安全だ」
 その言葉に、けれど水日は不安げな顔を解くことはなかった。
「お母様は? お母様は危険な目に遭ってない?」
 娘の問いに、沓欺は一瞬口ごもる。しかし、すぐにまた笑みを浮かべ、水日の頭を撫でて言った。
お母様は大丈夫だ。強い女だ」
「・・・うん」
 頷いたものの、不安に耐えかねたのか、常にはあまり甘える事のない水日が、父王の腕へとしがみついた。
「水日。大丈夫だ」
 娘を抱き締め宥める幼なじみの姿をチラリと見遣り、昊咒は己の妻と娘を思う。蒼巽族の村へ鍍乎邏一族が 迫っているのであれば、己の乾翠族の村へは牙羅ガーラ族が向かっているだろう。鍍乎邏も牙羅も近年稟族の配下となった 一族であると共に、稟王を強く支持する一族だった。そして、牙羅族はかつては乾翠族配下の一族だった。その一族が今、乾翠族を攻めている。
・・・鳳華。風樹)
 己を見送る際に鳳華が流した涙が、瞼裏まなうらに蘇る。それを消すためにか、それともより鮮明に妻の顔を思い出すためにか、昊咒は翠玉の瞳を閉ざす。
必ず帰る。鳳華、風樹)
 今生の別れになどしない。彼女と娘の元へ必ず帰ると、心の底から昊咒は誓う。
 そして、徐に瞼を持ち上げた昊咒は、幻炎城を真っ直ぐに見据えた。それは、鳳華の夫や風樹の父としての顔ではなく、天帝を守るべき運命さだめを担った、双王としての顔 乾翠王の顔。
 その背後には、いつの間にか完全に闇へと変わった夜空が広がっている。そして、
浮かぶ月は不気味なまでに赤く染まり、天界の地を見下ろしていた。


 天界を揺るがす戦いが、今宵、幕を開ける。
 鏑矢かぶらやは、既に放たれた









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