【第三章 解き放たれし記憶】




 約十年間、封じられていた記憶が次々と流れ込んでくる。開かれた扉から溢れ出る、莫大な量の記憶。それら一つ一つを零すことなく己の中へと収め、闇から記憶へ、そして再び闇へ。
 そうして、三人の少女が次に飛び込んだ記憶は、
真っ暗・・」
 闇の中。
「新たな星宿せいしゅくが?」
 闇の中、声が響く。闇の中、耳に低く心地良い声。
 視線を遣ると、そこに一人の男が立っていた。
 流炎羅るえんら 炎輝えんき
「はい、王」
 そして、流炎羅王の隣には女の姿があった。
 床へと流れる、銀糸のように美しい髪。真っ直ぐに切りそろえられた前髪の下からは、空を思わせる、淡い青い瞳が覗いている。 ふっくらとした頬に、丸い線を描いた顎。その面はあどけない少女のものだが、纏う雰囲気は永代の時を生きてきたかのように静かに落ち着いている。 その面と同様に、少女のように細く小さな手には、銀色の錫杖が握られてあった。
「あれは・・・沙羅サーラさん?」
 その火陵の呟きが、誰かに聞き咎められることはなかった。闇の中に立つ流炎羅王にも、銀髪の女にも。同じ記憶を視ている、幼なじみの二人にも。
 ふわりと浮いた己の下に立つその女の姿は、星宿を聞き、詠う事で伝える天琳てんりん族の王―沙羅によく似ている。唯一違うことと言えば、その瞳の色のみ。沙羅の瞳は深い静かな赤―臙脂色をしていた。
 彼女は沙羅の母。先代の天琳王 迦羅カーラ。星宿を歌う巫女みこ王。
「ここは、幻炎げんえん城の神殿・・?」
 そう答えを口に出したのは誰だったのか。
 そこは、幻炎城の最上階。硝子張りの天井から夜空を覗く事が出来る場所。神に一番近い場所と言われている神殿。この場所で、天琳王は神の言葉を聞き、歌う。
 その神殿にいるのは流炎羅王と天琳王。火陵の姿も、水日の姿も、風樹の姿もない。
「これは、記憶じゃない・・?」
 記憶の中に時折混ざり込んだ己の知らない過去。
 夜の闇に包まれた神殿に、巫女王の歌声が響く。それは、星宿。神が神族へと伝える言葉 決められた未来。




赤き月昇りて
空を覆いし群雲むらくもは やがて朱雨あけあめを零さん


永き眠りより目覚めし血の雷獣 天中に攻め入らん
赤き炎絶え 天下に落つるは未だ幼き燈火とうかなりて 時満ちるまで 隠し灯せ
さすれば赤き月の下 燈火目覚め 我が下へと帰さん


神の涙を拭い 悲哀ひあいの歌を奏でよ


鏑矢かぶらや 紅月を射て 戦乱の業火と成らん
雷鳴轟きて大地を揺らし 燈火ひらめきて闇を焦がさん
雷光 天を裂き 新たな運命さだめの輪が廻る


神の歌は絶え 青き眼 天を仰ぐ


いざ参れ 永遠とわの地へ


血の戦 其は即ち 炎の血の








 美しい声で歌う星宿は、進むにつれてその声量を小さなものにしていった。最後の言葉は、三人には聞き取る事ができないほどだった。
 歌声の止んだ神殿の中に、思い沈黙がたれ込める。
 流炎羅王は瞳を閉ざしたまま立ち尽くし、天琳王は錫杖を胸に抱きしめ、怯えたような表情で流炎羅王を見つめていた。
 やがて、沈黙を破ったのは、流炎羅王だった。
「・・・そうか」
「ええ、王」
 細く美しい声を僅かに震わせ、けれど天琳王はきっぱりと言った。
「赤き月の上る夜、謀反が起こります」
 その言葉に、小さく頷いた後、流炎羅王は言った。
「雷獣 りん王、是軌ぜき殿によって、か・・・」
 星宿に歌われた雷獣が、雷を操る一族―稟族の長、是軌を指していることを察した流炎羅王の言葉に、天琳王が首を縦に振り、表情を曇らせる。
「はい。おそらくは」
「何故、是軌殿が・・」
 信じられないという風に首を振り額に手を当てた流炎羅王に、けれど天琳王は違った。
稟王の中には、魔≠ェ宿っているのです」
「・・・魔≠ニは?」
「分かりません。しかし、王を見るあの紫の瞳にはいつからか狂気が宿っていました。いつか、何か怖ろしい事を引き起こすのではないかと恐れておりました。それが、まさか謀反だなんて」
 恐怖をこらえるように、胸に抱えた錫杖を更に強く抱き締めながら言った天琳王の言葉に、流炎羅王は答えなかった。
 彼女が言ったように、流炎羅王も感じてはいた。稟王―是軌の中にある狂気の色魔≠フ存在を。
 しかし、そのような不吉なものを彼から感じるようになったのは、いったいいつからだったのだろうか。 昔は、そのような青年ではなかったのにと、流炎羅王は眉を寄せる。そして、思わず口に出してしまっていた。
約束を果たす時がきたのか、是軌殿・・」
「え?」
 その言葉は、無意識に流炎羅王の口をついて来ただけのものだった。 誰にも聞かせるつもりのないその言葉は非常に小さな声で告げられたものだったため、 聞き取る事ができなかった天琳王は問い返す。しかし、やはり流炎羅王がその言葉を繰り返すことはなかった。
「・・一つ、聞いても良いか? 天林王よ」
「ええ。何なりと」
 己の問いに答えが返って来なかったことを、天琳王が責めることはない。主が答えたくないと暗に拒んだのであれば、それ以上問うことは無礼なふるまいとなる。 天琳王である彼女がそのような無礼を主に対して働く事はなかった。
 問うことを諦めてくれた彼女に心の中で礼を述べた後、流炎羅王は改めて問うた。
「そなたら天琳王が代々詠って来た星宿、それがたがえたことは?」
 その問いに、天琳王は口を噤んだ。訪れた沈黙の中で、彼女は考えていた。答えは分かっている。けれど、その答えを素直に主へと伝えるべきか、 それとも彼を絶望させるような答えなのだから、隠すべきなのか。
 一瞬の逡巡の後、天琳王は口を開いた。
・・一度たりとて、ございません」
 伝えた答えは、主を絶望させるものだった。それが分かっていても、天琳王は偽りを伝えることを厭ったのだった。そして、付け加える。
「謀反を告げる星宿は、以前にも一度歌われたことがございました」
「・・・七代目天帝、けい様の代、か」
 僅かの間に記憶を巡らせた炎輝が思い出したのは、五代目天帝―炯と、そして、
「はい。謀反の星宿の通り、りん様がお亡くなりに」
そうか。あの代も、双子の王だったな」
 流炎羅王―燐という、双子の王によってこの天界が守られていた時代のことだった。当然、炎輝が炯と燐を直接には知らない。 いくら神族が長命と言えど、11代目の天帝である炎輝が、7代目である炯と出会うことはない。
 天帝は、子を一人しかもうけない。
 天帝の座を巡る争いが起こる事を恐れてのことだった。しかし、稀に双子という形で二人の天位継承者が生まれることはある。
 4代目の天帝の御子は、男女の双子。4代天帝は、兄である炯に天位を、妹である燐に流炎羅王の座を与えたのだった。 そうした二人の王によって天界が守られていた御代、謀反が起こった。 その際に、流炎羅王である燐が、天帝であり兄である炯を守り果てたと伝えられている。 その謀反も、予め天琳王の星宿によって告げられていたことだった。しかし、防ぐことはできなかった。 運命さだめたがえる事はなかったのだ。
 二人の王による御代は崩れ去り、古来より不吉とされてきた双子が、更に凶兆とされたのだった。
そうか。たがわぬ、か・・」
 天琳王から明確に告げられた答え、そして過去に、謀反の星宿に抗い避けることの叶わなかった流炎羅王の存在に、炎輝は苦い笑みを浮かべた。
「では、やはり私も死ぬのだな」

「そして、流炎羅の民は・・・・」
「・・王」
 その言葉を口にする時になって初めて、流炎羅王は表情を苦しげに歪めた。
 赤き炎絶え 己が謀反によって命果てることを、聡い彼は悟っていた。そして、星宿の中で告げられた炎の血―流炎羅族の未来も。
 己の死、そして更には流炎羅族の民を待つ過酷な未来に、流炎羅王は唇を噛む。
「やはり死は怖ろしいものだな。私自身の死も、多くの民の死も。だが、運命さだめが違えることなき絶対のものであるのならば、抗うのは愚かなことなのだろうか」
 運命さだめが違える事はない。
 それは分かっている。しかし、抗わずにはいられない。往生際が悪いと笑われようとも、そう簡単に受け入れることなどできない。 抗うことを諦めることはできそうにない。
 己を嘲るように笑った流炎羅王に、天琳王が真っ直ぐに主を見つめ、口を開いた。
「いいえ、いいえ! 王」
 泣き出しそうに顔を歪め、銀糸の髪を揺らしながら首を左右に振り、天琳王は必死に言い募る。
「愚かだとは思いません! 王は、神に最も愛された初代天帝―阜燿ふよう様のご子孫であらせられます。 あるいは神も、運命さだめたがわせることを、お許しになるやもしれません・・!」
「ありがとう、天琳王」
 必死で己の絶望を取り払おうとしてくれている天琳族の王に、流炎羅王は笑みを取り戻す。しかし、絶望が取り払われる事はなかった。
 おそらく、星宿が違う事はない。
 己の死が既に定められたことなのだと、早々に覚悟も決めた。
 赤き月の昇る夜、雷神―是軌によって起こされる謀反。そこで己は命を落とし、天位を奪われる事になるのだろう。
 しかしそれから先、己が果てた後に残された火陵が運命さだめの中で、どう生きていくのだろうか。そのことが炎輝の胸に不安をもたらす。
 未だ幼き燈火 火陵が人界へと降り、けれどまたこの天界へと戻り戦いの中に身を投じると、そう星宿は告げている。そんな未来に待つのは、天帝となるべく力を持って生まれてきたわけではあるが、それでも未だ幼い少女でしかない火陵にとっては、過酷としか言いようのない戦い。
 愛しい娘を待つ残酷な運命さだめが、己の死よりも何よりも流炎羅王を恐れさせる。
「もう一度、聞かせてはくれないか」
「御意」
 流炎羅王の求めに応じて、再び天琳王は歌い始める。違える事なき運命さだめの歌を、どうか炎の血の未来に救いをと神に祈りながら歌う。
 祈りの込められた歌を、瞳を閉ざし聞きながら、流炎羅王は囁く。誰に聞かせるわけでもない台詞だったけれど、真剣な声音で口を開く。 いや、己自身に聞かせていたのかもしれない。
「たとえ運命さだめに抗うことが罪だとしても、私は抗おう。この命が尽きるその瞬間まで」
 歌を紡ぎ続けていた天琳王が、流炎羅王を見つめる。しかし、歌を途切れさせることはない。 主へと向けられていた青い瞳を閉ざし、途切れそうになっていた歌を繋げる。
 天琳王の紡ぐ歌を聞きながら、更に小さな声で流炎羅王が告げた言葉。
「いや、この命が尽きたとしても
 その言葉を、三人の御子だけが聞いていた。









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