再び闇が訪れ、そしてまたすぐに光の中へと火陵は吸い込まれていく。 その一瞬の間に、驚くほどの量の記憶が火陵の中へと流れ込んでくる。 今まで、扉の向こう側に閉じ込められていた記憶が、宿主を求めて押し寄せてくる。 その途中で、不意に火陵は立ち止まり、記憶を見つめる。 次に己の体が落ち着いた先は、幻炎城の中だった。 幻炎城の裏門から入ってすぐの場所に広がっている庭園に、火陵はその体を浮かせていた。 「これは・・いつだろう?」 いつの時代にあっても全くその姿を変えることのない庭園では、その答えを見つけられそうにない。 そのことを察した火陵はぐるりと視線を巡らせる。 すると、一人の子供の姿が目に映った。 庭園のちょうど中央に作られてある小さな池。そこにかけられた小さな橋の 上に、子供が一人佇んでいた。 いったいそこに何があるのだろう、 水面をじっと見つめている子供。その横顔に張り付いているのは、幼い子供には不似合いな 暗い闇。 「・・・・あれは?」 疑問を口に出すと、その答えを与えようというかのように、体が その少年の方へと吸い寄せられていった。 近づいてよく見れば、その容貌には見覚えがある。 艶やかな黒髪と、水面を見つめる紅の瞳。それを縁取る長い睫毛が 滑らかな頬に影を落としている。かみ締めているのか、きつく 引き結ばれた唇は薄紅。遠目に見ても分かる端正な顔立ちに、てっきり女の子かと 思っていたのだが、その服装から察するに少年であるらしい。 彼の名を、火陵は知っていた。 「夜衣?」 そこにいる少年は、幼い日の夜衣だった。 確認する台詞に疑問符がついてしまったのは、少年の夜衣が、今火陵の 知っている成長した夜衣とあまりにも違っていたから。 いつも穏やかに微笑んでいる夜衣。けれど、今目の前に居る幼い日の夜衣は、 その瞳を曇らせていたのだ。微笑など見る影も無く、思いつめたような表情を して水面を見つめる彼の全身には、穏やかさとは無縁の、他の者全てを拒むような 雰囲気をまとっていたのだ。 「・・・そうだ。これは、夜衣がこの城に来たばかりの頃だ」 真っ黒な布で顔を隠しこの城を訪れた夜衣とその母−。そして、 夜衣だけがこの城へと残り、母は去っていった。 それ以上のことは思い出すことができない。 何故、夜衣がこの城に来ることになったのか。 何故、夜衣だけがこの城に残ることになったのか。 何故、夜衣がこんなにも悲しげな表情で立ち尽くしているのか。 幼い頃の記憶は不明瞭で、ところどころ欠けてしまっているようだった。 「夜衣!」 不意に、彼を呼ぶ声があった。 弾かれたようにそちらへと視線を遣った夜衣と共に、火陵も視線を動かす。 そこには、夜衣の方へと小走りに近寄ってくる、幼い日の己の姿があった。その面には、満面の笑みが浮かんでいる。 「そういえば、嬉しかったんだよねェ」 同じ年頃の、遊び相手になってくれるような子供が この城の中にはいなかった。遊び相手と言えば、副官の末子である 螺照と焼妓姉弟か、週に一度ほどやってくる 次代の蒼巽王−水日と、次代の乾翠王−風樹だけだった。そんな城に 己と同じ年頃の少年がやって来たのだ。幼い日の己は、 そのことに飛び上がって喜んだものだった。 しかし、 「あ。か、火陵さま・・」 火陵の期待に反して、夜衣はあまり火陵に近づこうとはしなかった。 ゆえに、火陵の方から彼を捜しては声をかけるのだが、夜衣は いつでも戸惑ったように火陵を迎える。その理由が、己が天帝の娘で あるからだろうかと、いつも寂しく思ったものだった。 「・・そうそう、最初のときは、こんなだったなァ」 こんな風に夜衣が己に遠慮をしていたのはいつまでだっただろうか。 「もうちょっと後だったかな」 夜衣が自分に対して何のためらいもなく、 あの穏やかな笑みを向けてくれるようになるまで、もう少しの時間を必要としていた。 確か、この日から数日の後、夜衣は火陵に笑みを見せてくれるようになったのだ。 「・・あれ? 何でだったっけ?」 それを火陵が思い出すよりも、幼い日の火陵が夜衣へと声をかける方が先だった。 「ねえねえ、夜衣」 「は、はい」 「うーんと、夜衣はぁ・・・」 「はい」 何とか夜衣に構って欲しい火陵は、一生懸命に話題を考える。 毎日毎日、同様のことを繰り返しているため、すぐに話題は出てこなかった。 あらかた己のことは喋り尽くしてしまっていたのだ。そこで、火陵が 口にしたのは、 「あ! ねえ、夜衣。夜衣は、兄弟っている??」 夜衣のことを問う。今まで、何一つ彼の話を聞いていなかったことに気づいたのだ。 「・・・弟が一人います」 「へぇ、いいなァ、兄弟が居て。私も 」 「・・・火陵様?」 「・・・」 「・・・何?」 急に表情をなくし黙り込んだ幼い日の己に、夜衣と同様に火陵自身も目を瞬く。 突然の沈黙に介入したのは、 「火陵」 不意に火陵の名を呼んだ、穏やかな声。 「父上!」 「流炎羅王様・・!」 自分の名を呼んだのが父王であることに気付いた火陵は、 すぐに表情に笑みを戻すと、大好きな父親へと飛びついていった。 夜衣はというと、慌てて地に膝をつき、頭を垂れる。 そんな夜衣を見て、穏やかに微笑みながら流炎羅王が言った。 「夜衣、そう緊張しなくてもいい」 「は、はい」 ようやく顔を上げたものの、いまだ緊張の色をその面に貼り付けている 夜衣に、流炎羅王は笑みを向け続ける。そして、穏やかな声で彼に問うた。 「どうだ? この城での生活にも慣れたか? 何か不自由はないか?」 「はい。何も」 己を気遣う流炎羅王の言葉に、夜衣は慌てて首を左右に振る。 「そうか。何かあればすぐに言うのだぞ」 「はい」 流炎羅王の優しい言葉に、夜衣は恐縮したように小さな声で答えを返した。 そんな夜衣に微笑を返した後、流炎羅王は己の足にぴったりとくっついている娘の 頭を撫で、彼女に問うた。 「火陵、夜衣と何を話していたんだ?」 「夜衣ね、弟がいるんだって。私も 」 再び、火陵の言葉が途切れる。 そして、それは、不意に訪れた。 「 ッ!!」 突然、過去の己の姿を見つめていた火陵は、顔を歪めた。 激しい頭痛。 それを堪えるため、己の掌を額に当てるが、それは去ってくれない。 「何、コレ」 眉根に皺を刻みながら、それでも火陵は視線を幼い頃の己へと向ける。 だが、 「・・・止まった」 気付けば、流れていた己の過去が、ピタリと止まっていた。 人懐っこい笑顔を浮かべた己も、少し怯えたような顔をした夜衣も、優しい顔で娘を見つめている 流炎羅王その人も。 「どうしたんだろう」 頭痛を堪え、幼い日の自分の方へと足を向ける。 だが、 「 !」 火陵は足を止めた。止めざるを得なくなった。 突然頭上から、一振りの剣が降りてきたのだ。目の前の空を裂き、 火陵の足元の突き立ったその剣を、火陵は知っていた。 「これは・・・・神剣」 父王が、火陵たちの記憶を封じるよりも以前に神へと払ったのだという 代償の剣。それが、火陵の行く手を阻む。 「あ!」 火陵は声を上げていた。 突然、目の前の景色が歪んだのだ。そして、ぐにゃりと歪んだ景色が、目の前の神剣だけをそこに残し、次第に火陵から遠ざかっていく。 火陵を真っ暗な闇に取り残し、鮮やかな中庭の景色が消えていく。 「待って!」 慌てて遠ざかっていく景色−過去の記憶を追うが、追いつくことは出来ない。 己の周りの闇は次第に濃くなり、火陵を飲み込み、過去の記憶をさらに 遠くへと押し流していく。 そして、周囲は完全なる闇へと変わった。 否、目の前の神剣とその向こうに、大きな扉がある。 「・・これは、夢の?」 夢の中で垣間見た、幾重にも鎖がかけられ、そして錠の施された扉が、今は鎖を脱ぎ捨てた姿でそこにあった。 知っている。 この中に、逃げていった記憶がある。 そして、この扉の鍵は。 「・・・この神剣が、あの記憶を封じている・・?」 火陵は、己と扉との間に、まるで立ちふさがるかのようにして付き立っている神剣へと、視線を遣る。 「神剣が・・?」 王剣が火陵の記憶を封じているように、この神剣が あの記憶を封じているのではないか。その可能性を導き出した火陵は、徐に神剣へと手を伸ばす。 しかし、それを止める声があった。 「まだだ、火陵」 振り返ると、そこで己を真っ直ぐに見つめていたのは、 「父上」 父─炎輝。扉の中へと吸い込まれていってしまったと思っていた父王が、神妙な面持ちでそこに立っていた。そして、繰り返す。 「火陵。まだだ。その扉を開ける時は、今ではない」 その言葉に、火陵は問い返す。 「じゃあ、いつなの?」 「・・・そなたが己の道を定め、そしてその道を貫いたその後に、開くべき扉だ。 今ではない」 「・・・・」 「火陵。この戦いには、必要のないものだ。・・いや、この戦いの勝利のため、これはまだ、ここにあるべきなんだ。分かっておくれ」 不満げに口をつぐんだ火陵をなだめるように、炎輝は険しかった表情を緩め、 やさしく火陵に語りかける。 それが功を奏したのか、火陵は 父の言葉に従うことにしたようだった。神剣へと伸ばしていた手を下ろし 小さく頷いた火陵に、「いい子だ」とでも言うように 優しく微笑みを返した炎輝だったが、すぐにまた厳しい顔つきに戻る。 そして、炎輝は徐に持ち上げた腕で、神剣に守られた扉のその先を指差して言った。 「さあ、今知るべき過去が待っている。行きなさい、火陵。己の 道を、決するために」 「・・父上は?」 一緒に来てはくれないのかと、火陵は問うていた。 再び闇の中を一人で彷徨わなくてはならない心細さと、これから己を待つ 過去の凄惨さを思い表情を曇らせる娘に、父王はその端正な面に笑みを戻し、 そして言った。 「火陵。いつだって私はそなたと共にいる。道を決するその時まで。いや、それから 先も、そなたを見守っている」 それは、以前にも聞いた台詞だった。 夢の中、天界に残るか、それとも人界へと戻るか、己の道を決めあぐめていた 火陵に、父王が言った台詞だった。己の身は果てていようとも、 最期まで火陵のそばで火陵の決断を見守っていよう、と。 その言葉に背を押され、火陵は記憶を取り戻すことを決めた。 そして、今、 「さあ、火陵」 「・・・うん!」 再び父の言葉に押され、火陵は歩みだす。己を待つ過去の記憶へと 。 その背を、炎輝が静かに見守っていた。 |