【第三章 解き放たれし記憶】


 記憶を封印するための代償だという王剣を抜いたその瞬間に訪れた深淵の闇。次いで火陵を包み込んだ光の先で彼女を待っていた光景は、濃い緑と茶色に覆われた樹海の風景だった。
ここは・・?」
 地下神殿と呼ばれるあの白い空間からいつの間にどうやって樹海にまでやって来たのかと目を瞠る火陵だったが、次いで気付いた事実にまたもや驚く。己の体がふわりと宙に浮いていたのだ。
 どうやら己が実際に樹海に向かったわけではないらしいことを悟ると同時に、
「私の、記憶の中・・・かな?」
 そう、察する。それに応える声はないが、おそらく正解だろうと己で己の問いに答えてから、火陵は視線を巡らせた。 すると、己の意志に反し、体が樹海の奥へと吸い寄せられていく。
 近付いてくるのは、熱さ。否、己が近寄っているのだ。炎の熱さとそれに混ざる、鼻を突く生臭さへと。そして、 火陵はそれが魔物の死臭であることを思い出す。
 その死臭と共に、兵士の声と魔物の咆哮が耳をつんざく。その咆哮も、すぐに消えた。
 突然、樹海が開け、火陵の目の前に現れたのは、遠い日の記憶。

 魔物討伐。
 臙脂色の甲冑を身につけ、剣を片手に持った兵士達。その周囲には、いくつもの魔物の骸が転がっていた。 流炎羅るえんら族の村へと迫ってきた魔物の群れを討伐に向かった部隊のようだった。魔物の姿がなくなり、兵士達は幻炎城げんえんじょうへと帰還を開始していた。
 そんな中でただ一人、城へと足を向けることなく瞳を伏せ佇んでいる男の姿があった。
あ・・!」
 魔物の血に濡れた剣を携え祈るように瞳を伏せているその男の姿を、火陵は知っていた。 記憶がないその時にも夢で出逢っていたあの男。スラリとした体躯を黒い服で包み 、その背に艶やかな黒髪を流している。今は伏せられて窺う事の出来ない切れ長の瞳には、僅かに黄金を交じらせた炎の色が埋め込まれていることを火陵は知っていた。
 その男を呼ぼうと、火陵は口を開く。しかし、
・・」
「父上!」
 火陵が呼ぶよりも先に、彼を呼ぶ声があった。己以外に彼を父と呼ぶのは誰だろうかと驚いて視線を遣ると、
「あれって・・・」
 そこには、父王 炎輝えんきの元へと駆けてくる一人の少女がいた。短くサラサラと揺れる髪は、艶やかな黒。子供特有の大きく丸い瞳は紅。その中には炎輝のそれよりも光り輝く黄金があった。その面立ちは、炎輝によく似ている。
 そう。そこにいたのは、幼い頃の火陵だった。
 驚きに目を瞠ったのは火陵だけではなかった。炎輝も、飛びついてきた娘をいつも通り抱きとめたものの、驚きに目を瞠っている。そして、溜息交じりに娘に問うた。
「火陵。そなたまた忍んで参ったのか?」
 そんな父王の問いに、悪びれた様子もなく火陵は「うん!」と首を縦に振った。
(そう言えば、私、こんなだったな)
 思わず火陵は笑いを洩らしていた。蘇る記憶が告げたのだ。己がこんな風にこっそりと魔物討伐に加わっていたのが、この日ばかりではなかったのだということを。そして、その度に父王を驚かせ、母を心配させ叱られていたのだということを。
「危険だから駄目だと申しただろう?」
 娘の瞳を真っ直ぐに見つめ、諭すように言った父王に、火陵は「はーい」と素直に返事をしてみせた。
「返事だけは良いんだよね
 幼い日の火陵にそうつっこんだのは、火陵。叱られるたびに良い子な返事を返すものの、父王のその言葉に従い大人しく城で待っていることはなかったのだということを思い出してのツッコミだった。
 そのことが父王にも分かっているのだろう。苦笑を漏らし肩を竦めた炎輝の背に声をかけてきた人物がいた。
「王」
利焦りしょう
 その男の名を呼んだのは火陵だった。彼は、父王の補佐役―副官を務めている男だった。 今、自分の副官である焼妓しょうぎ、そして人界で自分たちをずっと守っていてくれた 螺照らしょうの父―利焦であった。
 とても穏やかで優しい男だった。こうして魔物討伐に忍んで参加しては父王を困らせていた火陵を庇ってくれるのも彼だった。
「火陵様は十分にお強い。心配なされずとも宜しいのではございませぬか? 私も、恥ずかしながらお助けいただきましたよ」
「うん。助けたよ」
 褒めて褒めて! と無邪気に笑う娘に、父王は再度苦笑を漏らしたが、火陵に促されるまま、その頭を優しく撫でた。
 褒められて満足したのだろう、火陵は父王の腕の中から出ると、父を見上げて問うた。
「父上、何してたの?」
 兵士を城へと引き上げさせたにも関わらず、己はその場に残っていた父に火陵は問う。
「奪ってしまった命に詫びていたんだよ」
 父王の目の前には、命つきた魔物の姿があった。彼は、その魔物に詫びていたのだという。
「・・・・?」
 火陵はきょとんと目を瞠り首を傾げた。
 そんな娘の頭を撫でながら、炎輝は再び魔物の骸へと視線を遣り、痛ましげに瞳を細めながら言った。
「できることならば、生かして樹海へと返したかったのだが・・・まだまだ力不足のようだな」
 そう言って苦笑した父に、火陵が驚いたように彼を見上げた。
「父上は十分に強いよ! 父上より強い人なんて見たことがないもんっ」
 娘のその言葉に、炎輝は淡く微笑みを返した。
「そうか」
「そうなの! だから、そのままでいいの! これ以上父上が強くなっちゃったら、追い抜くのが大変だもん」
 その台詞は、父王を驚かせたようだった。紅の瞳を僅かに瞠り、それから炎輝は小さく笑って娘へと問うた。
「追い抜く? 私をか?」
「うん。私、父上よりももっと強い王になるんだ!」
 答える火陵の瞳は真っ直ぐに父王を見据え、更に己の未来を見据えていた。父王の後を継ぎ、己がこの天界を守る王になるのだという未来を。
 そんな御子の姿に、利焦が微笑みを零しながら流炎羅王へと声をかけた。
「頼もしい御子ですな」
「ああ」
 炎輝も笑みを返しながら、首を縦に振る。
 そんな父王の腕を火陵が揺すった。
「ねえねえ、父上! どうやったら強くなれるの?」
 その問いに、炎輝はしばしの沈黙の後、逆に娘へと問いを返した。
「・・・火陵。そなた、どうしても失いたくない者はいるか?」
 一瞬、父王の問いが一体何を意味しているのか測る事ができなかった火陵だったが、すぐに問いに答えた。
「うーん。水日でしょ、風樹でしょ、母上でしょ、父上も」
「そうか。では、好きな者はいるか?」
 続けられた問いに、火陵は不思議そうな顔をしながらも答えた。
「好き? うん。いっぱいいるよ」
 娘の答えに「そうか」と笑みと共にそう返した炎輝は、娘と視線を合わせるため、膝をつき火陵の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「では、まずそなたは、どうしても失いたくない者を守れるよう強くなりなさい。それが達成出来たなら、今度は好きな者を守れるよう精進するんだ。そして次に、己を愛し信じてくれる民たちを守れるよう強くなるんだ。そうして初めて王となれる」
 父王のその言葉に、火陵は己を先程の魔物討伐を振り返る。炎を操り、剣を振るい、魔物を退けることは最早火陵にとっては朝飯前だった。魔物に背後をとられた利焦を救う事もできた。しかし、利焦に迫る魔物を斬ったその瞬間に、別の場所では兵士が魔物の爪に傷付いていた。いつも火陵と遊んでくれていた年若い兵士だった。
 自分にはまだ、ただ一人しか助けることができない。
 父王が言っているのは、目の前のただ一人だけでなく、危険に晒されている者全てを助けられるほどの強さを持ってこそ王だということ。
「大変そう・・」
 途端に表情を曇らせた火陵に、炎輝は笑いかける。大きく温かな手が、火陵の肩に添えられた。
「そうだな。だが、急ぐ必要はない。徐々に強くなって行けばいいんだ。分かるか?」
 優しい父の微笑みに、火陵の表情は明るさを取り戻す。
「うん! 分かった。ゆっくり頑張ればいいんだよね」
 母譲りの前向きさで、火陵はその面に笑みを戻し、父王に問う。
「そうしたら父上みたいになれるかな?」
「ああ。勿論だ」
 肩に添えられていた手が、火陵の頭へと移動する。その手の温かさが、そして、微笑みの優しさが、火陵の胸に染みこむ。
父上・・」
 過去の己と父の姿を見つめる火陵の胸にも、温かさが広がっていく。
 父の手の温もりの下で、幼い日の自分が零したのは、花が咲きこぼれるかのような笑み。 気付けば、それを見つめていた火陵自身も同様の笑みを零していた。
 そんな娘へと、炎輝が贈る言葉。それは、優しさよりも真剣さがよりこもったものだった。彼はこの時には既に知っていたのかもしれない。この娘が、そして己が、天地あめつちことわりたる運命さだめに翻弄されるのだということを
 炎輝は火陵に言った。
「強くなれ、火陵。おの運命さだめに、抗うために











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