【第三章 解き放たれし記憶】


「あ!」
 風樹は思わず声を上げていた。
 闇から光へ。そして、その先で風樹を待っていたのは失われていた過去の記憶。いや、過去の記憶という表現は相応しくはないのかもしれない。まず風樹の目の前に現れたのは、己がこの世に生を受けたその瞬間の記憶だったのだから。
 そうして己の誕生から順に記憶を巡り、次に風樹の目の前に現れたのは、草原を元気に駆け回る5歳の頃の己の姿だった。
 視線を更に巡らせれば、幼い風樹から少し離れた木陰に、娘の姿を微笑みと共に見つめている母の姿があった。
 乾翠けんすい王王妃 鳳華ほうか
 ふわふわと波打ち腰まで達した髪は、太陽の光に照らされ更に明るく映る茶色。 くるんと大きな瞳は碧玉が如く美しい色彩。滑らかな頬は薄紅色に染まり、その容貌は一児の母とは思えない、うら若い乙女のようなものだった。彼女が纏っているおっとりとした雰囲気がそれに拍車をかけているのかもしれない。
 風樹は更に視線を巡らせてみる。しかし、それ幼い日の己と母親以外に人の姿を見つける事はできなかった。
「・・そう言えば、よく二人だけでこっそり城を出てたなァ」
 蘇ってくる記憶が、そんな台詞を風樹に呟かせていた。
 と、不意に風樹は視線を母へと戻した。母が咳き込んだのだ。風樹と同様に、幼い風樹も弾かれたように視線を向け、慌てて駆け寄った。そんな己の後を追って、風樹も母の元へと寄る。記憶を巡る己の姿は、決して誰にも見咎められることはないのだということはもう分かっていた。
母様かあさま、大丈夫?」
 体が丈夫でない母を案じると、
「大丈夫よ、風樹」
 ふわりと優しい笑みと共に、小さいけれど温かな手が風樹の頭を撫でてくれた。しかし、その手がすぐに鳳華の口許へと戻り、その奥で彼女は再び咳き込んだ。
「母様!」
 心配そうに縋り付く風樹に、鳳華は困ったような笑みを浮かべた。
「少し冷えちゃったみたいね」
 心配をかけてしまってごめんなさいね、と風樹の頭を再度鳳華が撫でた時だった。
「鳳華さま!」
 王妃の名を呼び、猛烈な勢いで駆けてくる人物がいた。短く刈られた髪は薄茶。 僅かに血走った瞳の色は美しい碧。鳳華が乾翠王の元へと嫁ぐよりも以前から浮遊城ふゆうじょうへと務めており、 天界一との呼び声も高い薬師であると同時に、乾翠王の補佐を務めている副官ふくかん 刀琉とうりゅうだった。
「懐かしいなァ・・・」
 思わず風樹は呟く。いつもこうして母と二人城を抜け出しては、心配性の薬師―刀琉に叱られていた。そして、そんな刀琉の後ろには、
「あら、刀琉。それに王まで」
 いつだって必ず、父王 昊咒こうしゅうがついて来ているのだ。長身で肩幅も広く、寡黙で多くを語らない王。けれど決していかめしくも威圧的とも人の目に映らないのは、その瞳の穏やかさと、心の内に秘めた誠実さを民が皆知っているからだろう。乾翠族の村に絶えず吹く風に首元で一つに括った薄茶色の髪を遊ばせながら、昊咒はゆっくりと歩み寄ってくる。刀琉のように目を血走らせることもなく、寡黙な乾翠王は表情を変えず、けれど美しい碧玉が如き瞳の奥には僅かに心配の色を灯らせて、妻と娘を迎えにくるのだ。
 そして、鳳華と風樹を見つけてまず声を上げるのは刀琉だった。
「また供も連れずに外出されて! ああああああああ、しかもそんな薄着で・・・っ! またお加減が優れないのでしょう。困ったお方だ」
 大仰に頭を抱える刀琉に、鳳華は申し訳なさそうに眉を下げ小さな声で言い訳をする。
「だって、親子水入らずででかけたかったんですもの・・」
「鳳華様! ご自分のお体のことを考えてくださいませ。もしお二人でお出かけの際に何か起こったらどうなさるおつもりです!」
 刀琉の厳しくも尤もな言葉に、鳳華はしゅんと項垂れる。

 そんな鳳華の姿を見て、今の今まで黙って成り行きを見守っていた昊咒が動いた。
「まあ、王!」
 鳳華が驚きの声を上げる。それもそのはず、昊咒が何も言わず鳳華を横抱きに抱き上げたのだから。そして、未だ仏頂面を解いていない刀琉に静かに告げた。
「そう責めるな、刀琉。次からは私がついて行こう」
 鳳華の為に助け船を出したようだった。
 王にそう言われてはそれ以上鳳華を叱る事も憚られたのだろう。刀琉は大きく溜息をついて見せ、それ以上の言及を諦めたようだった。
 そんな刀琉から視線を腕の中で瞳をぱちくりとさせている鳳華へと遣った昊咒は彼女に言った。
「鳳華。それならば親子水入らずに変わりはないだろう?」
 その言葉に答えを返したのは、風樹だった。
「うん! それがいいよ、父様♪ ね、それならいいでしょ、刀琉」
「・・・はい」
 肩を竦めながら渋々と刀琉は頷いた。
 どうやら乾翠王が自分を庇ってくれたようだと気付いた鳳華は、申し訳なさそうに顔を俯かせる。
「ごめんなさい、あなた」
 小さな声で詫びた鳳華に、昊咒は黙って微笑みを返した。そして、微笑みを浮かべたまま、風樹を呼んだ。
「行くぞ、風樹」
「は い」
 母を抱えた父王の隣に風樹が並び、その後ろへと刀琉が付き従う。そんな一行の頭上で、風樹は母と父王を見つめていた。少女のように無邪気な母と、そんな母を誰よりも大切に思っている父王。その仲睦まじい様を見ては、幼い頃の自分は照れていた。
「ラブラブだったもんなァ、父様と母様」
 思わず洩れた笑いの後、胸がチクリと痛んだ。
 もう、父はこの世にはいない。多くを語らないが、それでも全身全霊で母と自分とを愛してくれた父はもういないのだ。 この仲睦まじい光景を恥ずかしさと共に、けれど喜ばしく見つめることはもうできないのだという事実が 、風樹の胸に痛みを生んでいた。
 と、不意に鳳華が再び咳き込んだ。
「母様、大丈夫?」
 問うたのは幼い頃の風樹。
「ええ、大丈夫よ、風樹。心配をかけてしまってごめんなさいね」
 申し訳なさそうに詫びる鳳華の台詞に、刀琉が答えた。
「風が冷たいのにそのような薄着でいらっしゃるからですよ」
 心配のあまり、ついつい叱るような口調になってしまうようだった。
 そんな刀琉に、鳳華は詫びる。
「ごめんなさいね、刀琉」
「もう言うな、刀琉。次からは私が気をつけよう」
「・・・王は甘いお方だ」
 鳳華を庇う王に、刀琉は苦笑を漏らすしかない。
「すまない」
「いいえ。私も少々口やかましかったですね」
「うん。刀琉は喋りすぎ〜!」
「おや、風樹さまに言われたくはありませんぞ!!」
「逃げろ !」
「お待ちなさい、風樹さま!!」
 自分たちの周りをドタドタと駆け回る娘と刀琉とを微笑みながら見つめていた鳳華が、小さな声で呟いた。
「ふふふ。風樹は元気な子に育ってくれて良かった」
 誰にともなく呟かれたその言葉に、静かな声音で昊咒が答えた。
「そなたも元気になれ」
「はい。なります」
 夫の静かだが優しい言葉に鳳華は頷き、夫の胸にそっと体を預け瞳を閉ざす。そんな妻を僅かに抱き締めながら、昊咒は笑みを洩らした。
 そんな両親の様子を見て、風樹は刀琉との追いかけっこをやめ、大きく溜息をついた。
「もう、またイチャついてる〜」
「良いではありませんか。夫婦仲が良いのは素晴らしいことです。風樹さまも良き夫をお迎えなさい」
「え!? あたし!?」
 突然、話題が自分へと向けられ、風樹は驚きのあまりワタワタと意味なく両手をばたつかせた。初恋も未だ済ませていない幼く初な少女が、突然良い夫を迎えろと言われても照れてしまうしかない。そして、せわしなく視線を泳がせながら、
「あ、あたしは結婚なんてしないもんっ!」
 そんな台詞を口にしていた。
 その声があまりにも大きかった所為で、聞かせるつもりはなかったのに、父王と母にも聞こえてしまったらしい。思わず歩みを止めた父王の腕の中で、鳳華が片手を頬に当ておっとりと首を傾けながら言った。
「あら。母様、風樹の花嫁姿を楽しみにしているのに。ねえ、王?」
「・・・・」
 僅かに眉間に皺を寄せ、口を噤んだままでいる夫を見上げ、鳳華は小さく笑いを洩らした。
「ふふふ。やっぱり父親は娘を手放したくないのね」
 すると昊咒はバツが悪そうに笑って言った。
「・・・沓欺とうぎほどではない」
 その台詞に、鳳華を始め、風樹と刀琉も思わず笑いを洩らしてしまっていた。
 蒼巽そうそん 沓欺の、娘への異常なまでの溺愛ぶりを思い出したのだ。彼は、薬師であろうと城に常駐している兵士であろうと、男は決して娘―水日を視界に収めてはいけない! 声をかけようものならば即叩き斬る!! とまで言い放った究極の親バカだった。
 それを思い出した鳳華はお上品に笑いながら、
「ふふ。ええ、そうですわね。沓欺様はもはや病の域ですものね」
 と、なかなかに辛辣な台詞を言いはなった。
か、母様、それはちょっと言い過ぎ・・
 にこにこと愛らしい笑みを浮かべたままサラッと毒を吐いた母に、風樹が頬を引くつかせる。しかし鳳華は悪びれた様子も見せず、
「あら。じゃあ、沓欺様には黙っていてちょうだいね、風樹」
 そう言っておっとりと笑った。
「さあ、早く帰ろう。鳳華、風樹」
「は い」
 おっとりと可憐な花のように笑う少女のような母。寡黙だが、語らずとも感じる事のできる深い愛情で母や娘を愛してくれた父王。
 そして、穏やかな風が自分たちを包んでくれていたあの日。
「懐かしいけど・・・ちょっと悲しいや」
 過ぎ去った過去の記憶は、風樹の心を温める。その温もりは小さな棘を持っているのだろうか。 時にチクリと痛みを伴う。それでも今の今まで閉じこめられていた記憶は、止まる事なく風樹の中へと流れ込んでくる。温もりと、小さな痛みを携え、再び風樹は闇へと飲み込まれる。その先で待っている新たな記憶を垣間見るために










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