【第三章 解き放たれし記憶】


 剣を抜き去ると同時に、辺りは暗闇に包まれた。一寸先も、己の姿さえも見えない闇の中、 不安で名を呼んだ幼なじみから答えは返ってこなかった。そして、今度もやはり突如として辺りはその様相を変えた。 眩いばかりの光に体中が包まれたのだ。光の中に体が吸い込まれていくような感覚。そして、瞼を持ち上げた水日は、見慣れた場所に居た。
 そこは、闍那ジャーナ城。
 昨夜初めて訪れた場所 否、そこは自分が幼少を過ごした場所だ。はっきりと覚えている。思い出していく
 次々と流れ込んでくる記憶に逆らうことなく、水日は身を任せた。
 幼なじみの火陵や風樹と共に駆け回った城の廊下。
 闍那城を囲った不思議の水の中、差し込んでくる淡い光が綺麗でずっと眺めていた幼い日。
 どこの湖も、城の周りの水と同様に息が出来るのだと勝手に信じ込んでいた所為で、危うく溺れ死ぬところだったあの湖はいったい何処にあっただろうか。
 封印されていた記憶が、懐かしさを伴って水日へと押し寄せる。
 しばし瞳をとじてその懐かしさと瞼裏まなうらに浮かぶ思い出とを感じていた水日だったが、ゆっくりと瞼を持ち上げる。そして、気付く。
「・・・あれ?」
 水日の瞳に映るその光景は、流れ込んでくる記憶の中にもないものだったのだ。それもそのはず、水日はフワリと城の天井近くに浮いていた。その事に気付いた水日は、己が本当に闍那城にいるわけではないことを悟る。
 おそらく、ここは過去の記憶の中。自分は過去の記憶を巡っているのだ、と。
 そう納得した水日は、ぐるりと視線を巡らせる。そしてその視線が止まった先は己の真下。広場の中央に、一人の長身の男がいた。
 男は固く両腕を組み、落ちつきなくぐるぐると広間を歩き回っている。
 揺れる漆黒の髪は、彼の大雑把な性格をそのまま表しているかのようにざんばら。その下から覗く瞳は澄んだ青。空よりも僅かに濃い色をした青。
 その男の名は 沓欺とうぎ
 彼こそが先の戦で果てたという双王が一人―蒼巽王 そして、父。
・・お父様」
 今、目の前であの日と変わらない姿でこうして動いているのに、今はもういないのだという父。懐かしさと、切なさとで水日は瞳に涙を滲ませる。唇を噛んで、滲ませた涙が頬を濡らすことだけは防いだ。
 その時、滲んだ視界の中に、一人の女が駆け込んできた。
「王!!」
 急いで駆けてきたのだろう、上がった息のまま、ただ名だけを呼んだ女官の姿を見るなり、沓欺は要件も聞かず、
「産まれたか !!?」
 絶叫するなり駆け出していた。
「・・へ?」
 父のいきなりの奇行に、切ない涙は消えた。脱兎が如く駆け出した父に、水日は目を丸くする。その姿に、王としての厳格さはない。確かに普段から威厳を振りかざすような王ではなかった。「自分を信ずる者はついてこい。信じぬならば俺を倒してみろ」などと豪語するような、王らしくない父だったのだが、この慌てようは水日の記憶の中にはない。
「・・・産まれたって、もしかして
 その疑問をはらそうというのだろうか。己の意志に反して水日の体は宙を漂い、父王の後を追う。
 そして、父が勢いよく押し開いた扉の先には、
師漣しれん!!」
「まあ、王」
 髪を振り乱し寝所へと駆け込んできた蒼巽王の姿に、寝台に体を横たえていた女が小さく笑いを洩らし、彼を迎えた。
 今は優しく細められているが、彼女の強気さを窺わせる切れ長の瞳の色は、蒼巽王と同じく深い青。汗ばんだ肌にはりつき、または寝台へと大きく広がっている長くゆるやかにうねる髪は漆黒。
 その面差しは、水日によく似ていた。否、彼女が水日に似ているのではない。水日が、彼女に似ているのだ。
 それもそのはず。蘇る記憶が、水日に、その美しい女の名を呼ばせていた。
「お母様・・!」
 懐かしい母の姿。そして、その隣に寝かされていたのは
「・・・私?」
 産まれたばかりの赤ん坊がいた。きっと、それは自分。
 ここは己の記憶の中だと思っていたが、それは正しくないようだ。ここは過去。今己の目の前で展開されているのは、知っているはずもない己が産まれた時の過去のようだった。
「ささ、王。貴方様の御子ですよ」
 年老いた産婆が、皺だらけの顔に更に皺を刻み満面の笑みを浮かべながら、王の腕へと赤ん坊を半ば強引に渡した。
 渡された娘に、沓欺は慌てている。赤ん坊の抱き方を知らないのだろう、天帝を守る双王が一人蒼巽王ともあろう人が、両手に受け取った赤ん坊にたじたじになっているその様に妻の師漣も、老婆も笑いを洩らす。ついでに宙からその様子を見ていた水日も笑ってしまっていた。
 産婆に抱き方を教授された沓欺はその腕にしっかりと赤ん坊を収めると、期待の眼差しで妻を見て問う。
「して、どっちだ?」
「・・何がです?」
「分かっているだろう。もったいぶるな」
 それでも、師漣は小さく笑ってしっかりと間を取ったあと、
「ふふ。女の子ですよ、王」
「でかしたぞ、師漣!!」
 妻の言葉に、沓欺は眠っている赤ん坊に構うことなく喜びの声を上げる。更に、抱きかかえていた娘を天井高くに抱え上げた。
「まあ、王。落とさないでくださいよ」
「バカを言うな。可愛い俺の娘を誰が落っことすものか! このまま一生抱いていてもいいくらいだ」
 これは親ばか決定だと、師漣は老婆と顔を見合わせて再度笑った。そうして娘をまじまじと見つめ、頬を突いてみたりしている夫の姿を笑いながら見つめていると、
「師漣」
 突然、真剣な瞳が向けられた。
「はい?」
 急にどうしたのだと僅かに首を傾げた師漣に、沓欺は真剣な眼差しのまま告げた。
「よく頑張ってくれた。この通り礼を言うぞ」
「はい」
 しっかりと自分に向かって頭を下げた沓欺に、師漣は微笑みを向けた。
 それにやはり笑みを返してから、沓欺が改めて娘へと視線を遣り、ぽつりと呟いた。
「・・次の御代は女王ばかりになるのだな」
 その言葉に、師漣がゆっくりと体を寝台の上へと起こしながら答える。その背を、老婆がしっかりと支え助けた。
「そうですわね。先にお生まれになった次代の流炎羅るえんら王様も女の子、蒼巽そうそん王の御子も女の子」
「華やかで良い!」
 うんうん、と頷きながらそう言った沓欺に「単純ね」と、口には出さなかったものの肩を竦めて態度でそう語る。しかし、娘の誕生に浮かれている沓欺がそんな妻の様子に気付く事はなさそうだった。それを察したのだろう、師漣は別の話題を口にした。
「王、名前はどうします?」
 答えは即座に返された。
「水日!」
「水日」
 きっとこの父の事だから、自分が産まれてくるずっと前から考えていたのだろう。そしてきっと「絶対に女の子だ!」などと根拠のない自信から、女の子の名前しか考えていなかったに違いない。そんな事を思った水日は思わず笑ってしまっていた。
 まさか大きく成長した娘が己のそんな姿を見ていようなどとは露知らず、
「いいか、お前は水日だ!」
 などと、沓欺は産まれたばかりの水日に向かって真剣にそう言い聞かせている。
「まだ無理よ、お父様」
「まだ分かりませんよ、王」
 水日と師漣の言葉が重なる。
 そんな些細な事に、母と己との血の繋がりを感じて、水日は思わず笑みを洩らしていた。
 呆れかえる師漣を尻目に、沓欺はなおも水日に言い聞かせている。
「いや、今から言うべき事は言い聞かせておくんだよ。いいか、水日。交際相手は必ず俺に紹介するんだぞ。というか交際は許さん!! 嫁になどやるものか!」
 息せき切って言い募る沓欺からそっと娘を奪い取った師漣は、慣れた手つきで水日をその柔らかな腕に抱き、
「この子も大変な父親を持ったものね。ねぇ、水日」
 優しい眼差しで語りかける。
・・お母様」
 本当に今自分が抱き締められているかのように、鮮明に母の匂いが蘇ってきた。
 押し寄せてくる記憶の中、その匂いは他のどの記憶よりも、水日の胸を温めてくれた。










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