闇の中、火陵は立ち尽くしていた。 いつからそこに立っていたのか。それは、判然としない。けれど、火陵は両の足で確かにそこに立っていた。何処にも光源のない、何も見えない世界。しかし、翳した己の手は確かに視認することが出来る不思議な闇。 そこは、夢の中 闇に包まれた世界。 「似てる・・・」 この夢の中は、似ている。 火陵はその事に気付いた。この闇の中が、先程まで己が訪れていた、神の声を聞く天林王のいるその場所に、この夢の中は似ている、と。あの神殿と人々が呼ぶ空間にいるときと同様に、夜空に抱かれているような感覚を火陵は感じていた。 そして、ぐるりと周囲を見回す。 視線に入ってきたのは 扉。 漆黒の闇の中、ポツンと佇んでいる荘厳な扉。 鍵は、かかっていない。ノブを回せば、簡単に押し開くことができるだろう。そして、その先で自分を待っているものが何なのか、火陵はもう知っていた。 「この扉を開ければ・・・」 この扉を押し開けば、そこに、失われている己の過去がある。 それは、この天界という大地で己が暮らしてきた六年間の記憶。俄には信じがたい話だが、封印が施されているという記憶。 ずっと求めていた記憶が、今、己が望みさえすれば得ることができる状況に立っているのだ。 徐に、火陵は扉に向けて手を伸ばす。 「 今、私がこの扉を開けようとしたら・・・貴方は、また止める?」 投げかける相手もいなかったその問いに、しかし返事は返ってきた。 いつの間にか火陵の背後に、あの男が立っていた。いつも闇の中で火陵を待っている、あの美しい男が。 「いや、もう、止めはしない」 返ってきたその答えに、火陵は扉へと伸ばしていた手を落とし、ゆっくりと振り返る。 そこにいる男は、真っ直ぐに自分を見つめていた。 僅かに金の混じった真紅の瞳、それを縁取る長い睫毛。引き結ばれた赤い唇に、細い頤。背中へと流れる髪は、艶やかな黒髪。 振り返る。 その姿は、誰かに似ている。 ずっとそう思っていた。そして、今、その答えが分かった。 (私が、この人に似てるんだ・・・) そして、その答えはもう一つの答えを導いていた。 「 貴方が・・・私のお父さん?」 「・・・・・」 火陵の問いに、男は僅かに目を瞠る。その反応に、火陵は己の問いの答えを知る。 「そうなんだね?」 確信と共に紡がれたその問いに、男は静かに瞳を閉ざし、首を縦に振った。 「・・ああ。そうだ」 「じゃあ、天帝だった人・・・炎輝?」 「そうだ」 「じゃあ、もう 」 「ああ、私は生者ではない」 つい口をついて出てきた台詞を慌てて途切れさせた火陵だったが、男はその言葉に答えを返した。 「 」 火陵は口を閉ざし、目の前の男を見上げる。 彼が、己の父親なのだという。 その事実を知っても、実感は湧かない。 目の前のこの男の死を悼む気持ちはあっても、涙が溢れるまでの激情は生まれてこない。無惨にも命を奪われた実の父親がいるというのに、今はまだ何も感じることができない。 そんな己に罪悪感を覚えながら、火陵は徐に扉を振り返った。 (この扉を開ければ・・) この扉を開ければ、きっと彼のことを全て思い出すのだろう。彼がどんな父親だったのか。どれほど己のことを愛してくれていたのか。己がどれほど彼を愛していたのか。そして、彼への思いが溢れ出てくるはずだ。 それはきっと、悲しみや悔しさ。この胸を傷付ける感情なのだろう。 じっと扉を見つめている娘の背を見つめながら、男 炎輝は徐に口を開いた。何故、命絶たれた己が、今ここにいるのか、その理由を。 「私は先の戦で果てた。私が全て連れて行こうと思っていた辛い運命を、そなたにまで残してしまった。・・・だから、私も残ることを望んだ」 その独白に、火陵は父親を振り返る。 「残る・・・?」 「そなたの側に。せめて、そなたが己の運命を決めるその時まで」 そう言って目を細めた男の表情には、哀しい色が浮かんでいる。その理由が何なのか、火陵には分からない。見つけ出すことの出来ない答えを問う前に、火陵は今己が分かっていることを唇に乗せ、父親へと問うた。 「私がここにいるか、帰るか、決めるまで、ってこと?」 「そうだ」 ゆっくりと父親が頷いたのを確認してから、火陵は視線をおとした。 そして、迷った末、問う。 「・・・ねぇ、お父さんは、どうして欲しい?」 「・・・・・」 答える声はない。 火陵は視線を上げ、炎輝を真っ直ぐに見つめ、問いを重ねた。 「私に、ここに残って欲しい? それとも帰って欲しい?」 娘の縋り付くような視線を、炎輝は受け止める。そして、しばしの沈黙の後、彼は火陵へと答えた。 「・・私がそなたを人界へと送ったのは、そなたに生きて欲しかったからだ。生きて、幸せになって欲しかったのだ」 「・・・・・」 「今でも、その思いは変わらない」 そう言って、彼は目を細めた。現れたのは悲しみではなく、とても優しい瞳。父親の瞳だった。 炎輝の言葉を、火陵は反芻する。 明確な答えは、そこにはない。 生きて幸せになって欲しい。 何処で、と彼は言わない。どちらとも取ることのできる炎輝の言葉が、火陵に決断を下させることはできそうになかった。 答えは、やはり火陵自身が決めるしかない。 辛そうに顔を歪める火陵に、炎輝はそっと語りかけた。 「・・・私は、天帝だった。全ての民を守る使命を担っていた。何に代えても、守るべきは民だった。 しかし、私も一人の親。この思いを罪だと、愚かだと罵る者もいるだろう。それでも私は、そなたの幸せを願いたい」 父親の自分を思うその言葉に、火陵は浮かべていた苦渋の表情を消した。 彼はきっと、己がどんな決断を下しても反対はしないのだろう。それが幸せになるためであれば、どんな決断であれ喜んでくれる。そのことを火陵は彼の台詞から感じ取っていた。 同時に火陵が感じたのは 親の優しさ。 それが火陵の心を温かく包み込み、張りつめていた緊張の糸をゆっくりと解いていく。 「ありがとう」 そう言って微笑んだ火陵の笑みは、穏やか。 そして、ゆっくりと彼女が父親へと伸ばした腕を、やはり微笑みながら炎輝が取った。そして、優しく握られる。 心を包み込んでくれたのと同じ 否、それよりも強い温もりを掌に感じる。 これが、初めて感じる父親の温かさ。 素直に、嬉しいと感じた。 「へへ/////」 僅かに頬を染め、照れたように笑った火陵に、炎輝もフワリと優しく微笑みを返した。 そんな父親に、火陵は未だ照れくさそうに視線を泳がせながら言った。その顔に、先程までの悩み、思い詰めている様子は微塵も見受けられなかった。 「ね、ねえ、お父さん」 「何だ? 火陵」 「私とお父さん、仲良かった?」 「・・・ああ、仲良しだったよ」 唐突な質問に、一瞬炎輝は驚いて目を瞠ったが、すぐに笑いながら答えた。 その答えに、火陵は「良かった」と言って笑う。そして、再び視線を忙しなく動かしながら、徐に口を開いて言った。 「・・・・ねぇ、変なこと、頼んでもいい?」 「言ってごらん」 炎輝が優しく促すと、火陵は更に頬を染めた。 「あの・・・も、もうちょっと、ひっついてみてもいい?////」 火陵のその言葉に、炎輝は小さく笑いを洩らした。そして、娘の体をそっと抱き締め、頭をゆっくりと撫でる。 「大きくなったな、火陵」 「へへへ/////// 何か、嬉しい」 「・・・」 無邪気に喜ぶ火陵に、炎輝は表情を曇らせた。 抱き締められている火陵は、そのことに気付かない。しかし、 「本当なら、幸せな世を勝ち取り、待っていてやりたかった」 「 お父さん」 頭の上から降ってきた悲しい台詞に、火陵は父親の心中を察する。そして、そっと彼から離れ見上げた父親の辛そうな表情に、火陵は胸を締め付けられる。 こうして生者となんら変わりなく接することができている所為で忘れていたが、彼はもう死んでいる身。本来ならばこうして話すことなどできはしない身なのだ。 父親と同様に表情を曇らせた火陵を見て、炎輝は己がどんな顔をしてしまっていたのかを悟る。そして、再度火陵の頭を撫で、 「しかし、こうして会えるだけで幸せだ」 穏やかに微笑んで見せた。 その笑みは本心から生まれたもので、火陵もそれを察し、笑みを零した。 「うん。そうだね。私も幸せだよっ!」 娘のその言葉に、炎輝は彼女の頭を撫でる。 そうして温かな温もりを額に感じながら、火陵は口を開いた。その表情は穏やかなまま、けれど、その紅の瞳は揺らがない意志の光を宿して。 「私、決めたよ」 唐突に告げられたその言葉に、炎輝は火陵の頭を撫でていた腕を止め、ゆっくりと下ろした。 「・・・・そうか」 どうするのか、とは問わない。答えは、いずれ分かるのだから。 「どうなるかは分からないけど、決めた。見ててくれる?」 決めたと口では言いながらも、その決断には不安が伴っているらしい。彼女の台詞と、縋り付くような幼い瞳からそれを察した炎輝は、大きく頷いて見せた。 「ああ。そなたが道を決するその時まで、そなたと共にいよう。いや、それから先も、ずっと 」 「うん!」 その時だった。 不意に、闇に光が差す。 それは、迷いに包まれていた火陵の心が、己が進むべき道を見つけ出したその風景であるかのようだった。 何処からともなく差し込んできた光は、真っ直ぐに火陵の足下へとやって来た。 「さあ、運命の朝だ」 父親の声が告げる。 見上げると彼はとても優しい顔をして火陵を見つめていた。そして、その背を押す手も、優しい。 「行きなさい、火陵。姿は見えずとも、私はそなたの側にいよう」 優しい手が、送り出してくれる。 夢の中から、脱しよう。 深い迷いから、今、脱しよう。この優しい手が、己の側にはいつだってついていてくれることが分かったのだから。 火陵が、踏み出す一歩を恐れることはなかった。 「うん。行って来ます、お父さん!」 一歩目を、火陵は大きく踏み出した。次のもう一歩もすぐに踏み出す。 光の道を、火陵は駆ける。 父親へと大きく手を振りながら、火陵は明かりの中に溶け込むようにして消えていった。 火陵を飲み込んだ光はすぐにその姿を消し、再び辺りを闇が包んでいく。 炎輝は、一人闇の中に立ち尽くしていた。目の前にある、扉を真っ直ぐに見つめながら。 「 ・・・」 そして、その扉をそっと押し開く。 |
溢れ出るのは過去の記憶、 これからの未来、 定められた結末――― |
炎輝は、徐に扉を閉ざした。 俯けられたその顔が象るのは、悲しみと悔しさの入り混じった感情。きつく噛みしめられた唇から、炎輝は震える声で絶望を吐き出していた。 「 運命は、やはり変わらぬのか・・・」 運命の朝が、訪れる ・・・ |