【第二章 開かれし記憶の扉】


 夜のとばりが天界を覆い尽くす。
 不思議な黄金の炎に照らされた幻炎城げんえんじょうの階段を、火陵は上っていた。ただ一人、黙々と階段を上っていく。その上に何があるのかは、分かっている。この幻炎城に初めてきたその日の夜にも訪れたあの空間が広がっているのだ。
 夜空のように真っ暗な空間。そこに立つ、銀色の錫杖を持った歌う巫女。
 おそらく、昨日訪れた時と何ら変わりのない光景が広がっていることは想像に難くない。しかし、それでも火陵は上る。微かに響いてくる、天琳てんりん王―沙羅サーラの歌に導かれるように。
 やがて階段がその姿を消し、火陵は昨夜も訪れた闇の空間へと足を踏み入れていた。
 そんな彼女を迎えたのは、
「あら、御子」
 星宿せいしゅくを紡ぐ歌を止めた沙羅だった。
 手に持った銀の錫杖が鳴り、彼女が振り返ったと同時に床にまで達しようかという銀色の髪がサラリと揺れた。
「ごめん。今、いいかな?」
「ええ、勿論でございます」
 突然訪ねてきたことを申し訳なさそうに詫びる火陵に、沙羅は柔らかく微笑んで見せる。そして、神殿の入り口で立ち尽くしている火陵を手招いた。
 それに従い沙羅の隣に並んだ火陵は徐に腰を下ろした。沙羅も黙ってそれに従う。
 しばしの沈黙が辺りを包み込む。
 穏やかな静寂の中、火陵がポツリと言葉を紡いだ。
「・・・いつも歌ってるんだね、あの歌」
「はい。この星宿が、現実のものとなるように」
 そう言って祈るように天を仰いだ沙羅の横顔をしばし見つめていた火陵だったが、彼女がそうしているように、火陵もまた天を仰ぐ。そこには、澄み切った星空が見える。硝子張りになった天井は神殿に宵闇を呼び込み、そして夜空に抱かれているかのような感覚を覚えさせる。
 心安らぐ空間であるはずなのだが、火陵の心は一向に晴れなかった。彼女が今抱えている問題は、どんなに美しい風景を見ても忘れることはできないものだったのだから。
・・私は、どうするべきなのかな?」
「え?」
 ぽつりと洩らされた問いに、沙羅は問い返す。
 己の言葉があまりにも小さすぎた所為で彼女に届かなかったのだと察した火陵は、再び問いを口にする。先程よりも、更に具体的な問いを。
「私はここに残るべきなのかな? それとも、戻る方がいいのかな・・・」
 いつの間にか夜空から己の足下へと視線を落としている火陵の横顔を見つめながら、沙羅は僅かな逡巡の後、答えを口にした。その答えが、彼女が望んでいるものではないと分かってはいたのだが。
「・・・全ては、御子のご意志のままに」
 案の定火陵はその答えを聞いても、美しいかんばせに浮かべた翳りを消すことはなかった。沙羅へと向けた視線を、再び己の足下へと落とす。そして、しばしの沈黙の後、火陵は更に問うた。
「でも、その歌は、私がここに残るって言ってるよね」
「・・・・」
 火陵の言葉に、沙羅は僅かに目を瞠る。
 しかし、視線を落としていた火陵は、そんな沙羅の視線に気付くことはなかった。一度は閉ざした唇を、再び開いて言った。
「歌の中の燈火とうかって、私のことなんでしょう?」
 その問いに、沙羅は見開いていた瞳を徐に閉ざし、
「・・・はい。その通りにございます」
 大きく頷いて見せた。
 この天界での記憶を未だ取り戻していない火陵が、星宿の内容についてここまで察しているとは思わなかったのだ。
 しかし、火陵は更に言った。
「神様は、燈火が雷神と戦うって言ってるんだよね。だったら、その雷神が是軌ぜきっていう人のことなんでしょう?」
「仰せの通りです、御子」
 頷いて答えた沙羅を見遣り、火陵は一度口を閉ざす。そして、僅かの逡巡の後、再び彼女に問うた。
「・・・もし・・、もしもの話だよ? もし私がこの星宿に逆らって人界に戻ったら、どうなるの?」
 その問いに答えるまで、僅かな間が生まれた。しかし、火陵がそれに疑問を持つことはなかった。
おそらく、この星宿に紡がれている未来は消え、新たな運命さだめの道が示されるのではないかと思います。そして、新たな歌が聞こえてくるはずです」
「じゃあ、私には、ここに残る道と、人界に帰るっていう二つの道があるってことなんだね」
「・・・御子は全ての神に愛され、天帝の位をいただいた阜燿ふよう様の子孫。常人ならは決して違うことなく、そして唯一の運命さだめの下、生きそして果てて逝きますが、あるいは御子ならば」

 沙羅の言葉に、火陵は黙り込む。僅かに眉間に寄せられた皺と、真一文字に引き結ばれた口許には、苛立ちが窺える。
(いっそ、はっきり決めてもらった方が楽なのに・・)
 己の道を、絶対と決めつけ強いてくれた方が楽だと、想像しても全くイメージの浮かんでこない神という存在に対して毒突く。
 道がただ一つしか提示されていないのであれば、迷うことはないのだ。
 それが今、火陵の目の前にあるのは二つの道。どちらへ行くにも不安はつきまとう。
 顔を伏せてしまった火陵を見つめ、今度は沙羅が優しく問うた。
「迷っておいでなのですね、御子」
「・・・何も、決められないんだ」
「御子・・」
 苦しげに告白する幼き主に、沙羅は目を細める。
 心配そうな視線に見守られながら、火陵はポツリポツリと己の心情を吐露し始めた。
「だって、この世界のことを何も覚えてないんだ。どんな人たちがいたのかも、どんな世界だったのかも、天帝だったっていうお父さんのことも、私がこの世界のことをどんな風に思っていたのかも、何も ・・」
 何も、覚えていない。
 その所為で、比べることが出来ない。今まで暮らしてきた人界と、この己が生まれたという天界とを、比べることが出来ないでいるのだ。
 否、比べることはできる。そうして導きだされる答えは 人界への帰還。
 人界での未来に不安がないとは言えない。しかし、右も左も分からないこの世界で暮らしていくよりも楽であることは目に見えて分かっているのだ。比べるまでもない。
 しかしその答えをすんなりと受け入れることができないのは、天界のことを何も知らない所為だ。知識としては知っていても、この世界に対する感情を、そしてこれからのビジョンを見つけることができない。だから、ますます決められない。
 天界での未来は、未知数。今ある情報だけでは、むしろマイナスと言っていい。しかし、もしかしたら人界で暮らすよりも幸せになれるかもしれない。
 そして何より、自分は天界で生まれた神族という民。人界で暮らすと言っても、人界で暮らしている人族とは寿命がはるかに違うのだ。成長を止めてしまえば、あの物心付いてからずっと育ってきた町にはいられなくなってしまうだろう。
 もしかしたら、あの世界に、自分を受け入れてくれる場所はないのかもしれない。
 だったら、天界には己の場所があるのだろうか
 やはり、分からない。
「だから、思い出したいとは、思うんだ。だけど
 失われている記憶を取り戻したいと、純粋に思う。しかし、そこで火陵は言葉を濁した。
 その先を、沙羅が優しく促した。
「・・だけど?」
怖い」
 素直な気持ちを、火陵は吐き出していた。
「だって、戦わなくちゃならないんだよね私のお父さんを殺した人と。下手したら私たちだって死んじゃうかもしれないんでしょ? そんなのが待ってるなんて、怖すぎるよ」
「御子・・・」
 縋り付くような瞳で見つめてくる火陵を、沙羅は痛ましげに細めた瞳で見つめ返す。そして、思い出す。
(ああ、この御方は、まだ幼くていらっしゃるのだったわ)
 次代の天帝という肩書きを持ってはいても、彼女はまだ幼い少女なのだ。しかも、神族としての記憶を取り戻していない所為で、己の身を己で守ることすらできず、人族と同じ非力な状態に置かれているのだ。不安に胸が押しつぶされても仕方がない。
 沙羅は手を伸ばし、火陵の肩にそっと手を触れさせた。見つめる瞳は、彼女の不安を労るように優しいものに変わっていた。
「御子。記憶を取り戻したいとお望みならば、そうなさいませ。そして、記憶を取り戻した後に、戦いたくないと思ったのならば、戦わずともよろしいではありませんか」
「・・・そんなの、許されるの?」
「他人の意見など関係ないではありませんか、御子。これは御子の運命さだめ。御子だけの道です。御子の望むがまま、生きればよろしいのです。 それを、誰が何と言おうとも、己の希望だけを信じて・・・」
「・・沙羅さん?」
 突然優しかった瞳を閉ざし、鈴の鳴るようだった声を低くした沙羅に、火陵は目を瞠る。向けられた言葉の最後は、まるで彼女が己自身に言い聞かせているように感じられたのだ。
 しかし、沙羅はそれについては答えることはしなかった。ごまかすように笑みを口許に浮かべ、言葉を紡ぐ。けれど、
「私も、そうして生きております。私の希望を叶えるために、星宿を紡ぎ、生きているのです」
「・・・・・」
 その台詞には、そして彼女が火陵に向けたその笑みには、影が落ちていた。悲しみの色をした影が。しかし、それは一瞬で消えた。見間違いだったのかと火陵が己が眼を疑うほどに。
「ですから、御子。思うがままになさいませ。たとえ、星宿に抗ってでも」
 力強く告げられたその言葉と、肩に置かれた掌の熱さに、火陵は知らず首を縦に振っていた。先程まで不安で押しつぶされそうになっていた心に、隙間が出来ている。思考を巡らせる為のスペースが生まれていた。
「・・・うん。うん! 私、考えてみるよ、今、私がどうしたいのか。私が、一番何を望んでいるのか、考えてみる」
「ええ。それがよろしいですわ」
 笑顔を取り戻した火陵に、沙羅も笑みを零す。
「よし、じゃあ部屋に戻るよ。ありがとね、沙羅!」
「いいえ。またいつでもいらしてくださいませ、御子」
 すっくと勢いよく立ち上がり階段へと駆けていった火陵の背中を笑顔で見送っていた沙羅だったのだが、
「御子!」
「・・・なに?」
 突然呼び止められて、火陵は首だけで振り返る。いつの間にか立ち上がり、真剣な瞳を注いでいる沙羅の姿に、火陵は首を捻る。
「御子、運命さだめ
 紡ぎかけたその言葉を、沙羅は自ら遮る。
  告げるべきか、否か・・・
 逡巡は僅かなものだった。
 沙羅は、再び唇を開いて言った。その台詞は、先程告げようと思ったものとは、別のものに変わっていた。
・・運命さだめは、変えられるのです。ですから、ゆっくり悩んで下さいませ」
「うん。ありがとう、沙羅!」
 焦らなくてもいいのだと優しく微笑む沙羅に、火陵も笑みを返す。
 そして、大きく手を振った火陵の姿は、今度こそ神殿の中から消えていった。
 闇の中、一人沙羅は立ち尽くす。
 火陵が消えていった階段を見つめたまま、沙羅は唇を噛んだ。先程までその面に浮かんでいた笑みは、見る影もなく消え去っている。
 階段を下りていく火陵の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、沙羅は小さな声で呟いていた。
 先程、唇に乗せる直前に置き換えてしまったけれど、幼き主に告げようと思っていた本当の言葉を


運命さだめは、決してたがわない。決して ・・」









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