【第二章 開かれし記憶の扉】


 幻炎城げんえんじょうを出た二頭の内一頭、美しい漆黒の毛並みの馬は、いぬい─南東の方角に向けて天界の大地を駆けていた。
 昼間にも関わらず、薄暗い樹海の中をただひたすらに駆け抜けて行く。
 目指すは、乾翠けんすい族の王─乾翠王が居城。
 風を切り進む馬上には、年若い王の補佐役─犀霖せいりんと、彼の幼い主、風樹の姿がある。
 顔を隠す為にかぶっている布をうっとうしげに持ち上げ、風樹は馬上から過ぎゆく風景を好奇心でキラキラと輝く瞳で見つめていた。
 幻炎城を出立し、既に一時間近くが経つ。
 勿論、記憶にある限り生まれて初めて乗る馬に最初は戸惑ったものの、すぐに慣れた風樹は、視界を流れ去る景色をその瞳に焼き付けるかのよう周囲を見渡していた。
 魔物という凶暴な生物の棲む場所だと教わったが、馬に乗って駆け抜ける樹海の景色は、なかなかに美しい。薄茶色の木肌に、新緑の色をした木々の葉がサワサワと揺れている。緑の匂いを含んだ風が、絶えず頬を撫でていく。
(うーん、取りたいっ!)
 顔を覆っている布が邪魔だ。もっとその風を肌に感じたくて、風樹は迷った末布を取り払い、ズボンの中に突っ込んだ。犀霖もそんな風樹の行動に気付いたようだったが、何も言わなかった。
 そうしてひたすらに樹海を駆けていた馬が、ようやく木々のない、開かれた土地へと出た。一時間ぶりの陽光が降り注ぐ。それはあまりにも突然の事で、今まで薄暗い場所を行っていた風樹は、眩しげに瞳を細めた。
「どうっ!」
 犀霖の声と共に、馬が大きくいななき、僅かにたたらを踏み、歩みを止めた。
 ちょうど馬が止まると同時に、風樹は明るい場所に順応してきた瞳を徐に開いた。その瞳に飛び込んできたのは、目の前にある犀霖の背中と、その先に広がる澄み切った青い空と樹海の緑。
 そして、視線を己の足下へと這わせた風樹は、
「おわっ!」
 思わず声を上げていた。
 自分達の目の前に、踏みしめることの出来る大地がなかったからだ。いつの間にか自分達を乗せた馬は、崖っぷちに立っていた。
 しかし身を乗り出してよく見てみると、それほどの高さはない。途切れた地面から先は、垂直に切り立っているわけでもなく、急斜面が伸びていた。涼やかな風がそこを滑りあがって来る。
「・・・・え? あ、もしかしてここ降りるって言わないよね、兄ちゃん!?」
 その問いに犀霖はゆっくりと首を振って答えた。
「いいえ。馬はここでおります」
 そう言って、軽やかに馬上から飛び降りた犀霖は、風樹に向けて手を伸ばす。降りろということらしい。伸ばされた手に掴まって、風樹も地面へとおりた。長時間馬の背に揺られていた所為で、足下がグラグラしている。それを察したのか、しばし犀霖は支えるように風樹の背に手を添えていた。
 そんな犀霖に軽く礼を言ってから、風樹は改めて崖下を見遣る。樹海の緑が美しく広がる中、円形に開かれた土地が見えた。薄茶色の地面に、やはり薄茶色をした家々の立ち並ぶ、巨大な村がそこにはあった。しかし、その村の中央には、ぽっかりと穴が空いている。家が並ぶことも、木々が立つわけでもなく、何もない更地。
「・・・ここが、あたしの住んでた村?」
 その問いに、犀霖は大きく頷いて見せた。
「はい。ここが風を操る民─乾翠けんすい族の村です」
 樹海を背後に、薄茶色の土地に包まれた村。見たこともない風景に、風樹は半ば呆然としながら風樹は村の中央を指さし再度問いを口にした。
「ねえ、何で村の真ん中に穴があいてんの?」
 その問いに、犀霖は答えなかった。その代わり、彼は無言で己の頭上、天空を指さす。
「上?」
 なんだか良く分からないが、とにかく上を見ろという事らしい。犀霖が指し示すまま、風樹は天を仰いだ。そして、
「・・・・ん? 何か、ある・・・・って、えええええええええええええええええ っっ!!?」
 絶叫した。
 犀霖が指し示したそこには、確かに何かが浮いていた。最初は鳥でも飛んでいるのかと思っていたのが、その影が動く様子はいっこうにない。よくよく目を凝らしてみると、それは、
「ラ、ラ●ュタ・・・
 風樹がそう呟いてしまうのも仕方のないことだろう。そこには、巨大な城が浮いていたのだから。
 驚きに目を見開き、酸欠の金魚よろしく口をぱくぱくとさせている風樹を見て笑いながら、犀霖は先程の風樹の問いに答えた。
「村にあるあの広場は、城がおりる為のものなんですよ」
 疑問は晴れたのだが、新たな疑問が風樹の中には浮かんでしまっている。呆然と上空に視線を遣ったまま、風樹は問うた。
「あれ、城? ・・・あれが、あたしが今行こうとしてる城ってワケ?」
「はい。風樹様が暮らしておられた城─浮遊城ふゆうじょうです」
「あの、浮いてますけれども・・
「そうですね」
「・・・・」
「・・・・」
「・・・・って、終わりか いッ!! どうやって浮いてるのか説明をして欲しいザマスよ!!」
「出来かねますので、聞かないでください」
「おいッ!!」
 サラッと拒否した犀霖に、風樹は目をむく。
 あれ? あたしってばお兄さん的に言うとご主人様じゃなかったっけ? なのに、何でそんなサラッとかわしてんのよ! と、ぎゃあぎゃあとわめいている風樹を完全に無視し、犀霖は胸元に下げていた銀色の小さな笛を口に加え、息を吹き込んだ。
 細く澄んだ音が響き渡る。
「?」
 一体何のための笛なのだろうかと、風樹がきょとんと目を瞠っていると、
「ん?」
 風の音に乗って、なにやら別なる音が聞こえてきた。一体なんだと耳を澄ませると、それは、
「鳥?」
 次第に近づいてくるその音は、鳥の羽音。視線を空へと向けると、遠くから鳥がこちらに向かっている姿があった。どうやらあの笛を鳴らすと寄ってくるらしい。だが、一体何のために犀霖が鳥を呼んだのかが分からない。
「ねえねえ、犀霖
 問いかけようとした風樹だったが、不意に途切れる。信じられない光景を目にしてしまったからだった。遠く、点にしか見えなかった鳥が、次第に近づいてくる。ぐんぐんぐんぐん、近づいてくる鳥のその大きさに、風樹は驚く。
 そして、ついに鳥が目の前の大地に足をつけたその瞬間、風樹は大絶叫をかましていた。
「のわ っ!!」
 バッサバッサという大きな羽音と共に、上空から舞い降りてきた鳥は、今までに見たこともない程、巨大。翼を広げれば、160cmになる風樹の身長の2倍、否、3倍にもなるだろうか。翼と同様に巨大なくちばしは、簡単に風樹の頭をくわえられてしまうだろう。ついでに軽く連れ去られてもしまうだろう。
 まさに化け物じみた大きさの鳥に、風樹は驚いて犀霖の背中に隠れる。
「ま、魔物!!?」
「違いますよ。これは天櫂鳥てんかいちょう。浮遊城まで、私たちを運んでくれる鳥です」
「・・・・確かに、鳥だけどさ
 デカすぎっしょ。
 風樹は頬を引きつらせる。いつ餌にされるか分からないと、その全身に緊張をみなぎらせ、天櫂鳥という名の巨大な鳥を見つめる。その視線に気付いたのか、天櫂鳥もその大きな碧玉のような眼で風樹を見つめ返す。
(うわ ん。見られてりゅ っ!)
 怯える風樹を余所に、犀霖は天櫂鳥の傍により、その翼に優しく触れる。そして、それに答えるように鳴いた天櫂鳥を見て、彼は「あ」と声を上げた。
「え!? どしたの!!? 食べられる!!?」
 急に声を上げた犀霖に、敏感に反応した風樹だったが、勿論食べられそうになったわけではない。
 犀霖は天櫂鳥の翼を撫でながら、驚いたように声を上げた。
「お前、タカじゃないか! 風樹様、タカですよ!」
「・・・へ? タカ??」
 突然話を振られた風樹は、きょとんと目を瞠る。
(タカ? デカイ鷹ってコト?? は? だから何!?)
 一人風樹がテンパっているのを知ってか知らずか、犀霖はタカと呼んだ天櫂鳥を「よしよし」と盛大に撫でながらペラペラと説明の台詞を─軽く主を小馬鹿にする台詞を交えつつ─口にした。しかし、その説明を、幸か不幸かテンパっている風樹が聞いていないことに、彼は気付いていなかった。
「いつも風樹様をお乗せしていた天櫂鳥ですよ! それこそ風樹様が赤ん坊の頃から。タカって名前も風樹様がおつけになったんですよ。高く飛べるから、タカ。あはは。単純ですよね〜、まったく。いやぁ、風樹様がおられない間は姿を見なかったんですけど、風樹様が帰ってきたのが分かって来たんだな、タカ」
 ガシガシと乱暴な手つきで体を撫でてくる犀霖をうっとうしがるように、タカは翼を羽ばたかせ手をどかせると、再度風樹へと視線を遣った。そして、一声、鳴いた。
 その鳴き声が、まるで自分を呼んでいるような気がして、風樹は恐る恐るタカへと一歩歩み寄る。羽毛に覆われた翼に手を伸ばそうとして、途中で止めた風樹は、不安げな眼差しで犀霖に問うた。
「か、噛まないよね?」
「勿論ですとも」
 笑顔で請け負って見せた犀霖の言葉を信じ、風樹は更に手を伸ばし、その翼にそっと触れる。その焦げ茶色の翼の印象からはかけ離れた柔らかな体。更に掌を押し当てると、自分のものよりも高い温もりをじんわりと感じる。
「温か〜い! 柔らか〜い!」
 タカの手触りと温もりが気に入ったのか、先程までの臆病ぶりは何処へやら、風樹はベタベタとタカの体に触りまくる。それを嫌がっているのか、喜んでいるのか、タカが再び鳴いた。
「・・・・」
 それが「お帰りなさい」と言っているような気がして、風樹は目を瞬く。そして、
「ただいま」
 小さな声で、タカに囁き返した。
「さあ、風樹様。お手を」
 よいしょ、とタカの背に飛び乗った犀霖が、風樹へと手を伸ばす。その手を風樹が取ったのを確認すると、一気にタカの背に引き上げた。そして、告げた。
「落ちたら死にますので、しっかり掴まっていてくださいね」
「ひぃっ
 どうやらこのタカに乗ってあの上空に漂う城まで行くらしい。それは、馬に乗り駆けるのとはワケが違う。あんな上空から落とされてはひとたまりもない。怯えた風樹は、犀霖に言われたとおり力一杯、己の前に座っている彼の服を両手で掴んだ。が、その場所がまずかった。
「ぐぇっ!! ちょ、ちょっと! 掴まりすぎです! 窒息しますからっ
「ごめん! つい」
 肩口をひっぱった所為で、思いっきり首が絞まってしまったようだった。
「つい」で殺されかけた犀霖だったが、それについては言及する気はないらしい。僅かに恨めしげな視線を風樹に送ったものの何も口には出さなかった。
「さあ、行きますよ」
 文句の代わりに、ゲホゲホと咳を吐き出した後、犀霖はタカの背を軽く叩いた。
 それに従い、タカは二度、三度と羽ばたき始め、宙にその巨大な体を浮かせた。そして、あっという間に、風樹と犀霖を乗せたタカは空高くまで舞い上がっていた。
 一気に上昇していくタカの背で、風樹はぎゅっと瞳を閉ざし犀霖の体にしがみついていたのだが、体中を撫でていく風の心地よさに瞼を持ち上げる気になった。高所はさして苦手でもない質だから大丈夫だろうと腹を決め、風樹はそろそろと閉ざしていた瞼を持ち上げる。そして、犀霖にしっかり掴まったまま、僅かに体を乗り出して見た眼下の光景に、風樹は声を上げていた。
「う・・・っわァ
 それは、感嘆の声。
 瞳に飛び込んできたのは、美しい世界。
 何処までも続く常緑の大地。風に、瑞々しく潤った葉がザワザワと一気に揺れ、キラキラと輝きを放つ。風が流れていくに従い、まるで波のように葉の煌めきが流れていく。その様は、緑の海。もしくは、太陽に透かし見た、美しい碧玉のよう。そんな光景が、果てしなく続いているのだ。その所々には、泉などの水場があるのだろう。時折美しい青色の色彩をちらつかせていた。
 絵に描いたように美しい風景。
 否、絵にも描けないとは良く言ったもので、確かにこの眼下の美しさを絵にするのは難しいことかもしれないと、風樹は半ば呆然としつつ、眼下に繰り広げられている美しい大地の様を食い入るように見つめていた。
「・・すっごく、キレイ・・」
 感嘆の溜息と共に洩れた心の底からの賛辞に、ヒュウ、と風が鳴いた。まるで返事をしたかのような風に、風樹は笑う。偶然だということは分かっている。しかし、この世のものは思えない程美しい光景を目にしている今、どんなにアリエナイ事が起こってしまっても、信じてしまえそうだった。それほどまでに、この世界は広く、そして美しい。
 瞳をキラキラと輝かせ、眼下に視線を這わせている風樹を見つめ、犀霖は僅かに微笑んだ。
「この大地を、風樹様のお父上が守っていらっしゃったんですよ」
 その言葉に、風樹の視線が犀霖へと注がれた。見開かれた瞳が、信じられないと呟き、そしてすぐにまた眼下へと落とされる。
ここを、あたしのお父さんが・・・?」
 茫然と呟いた風樹だったが、次の瞬間にはその面に満面の笑みを浮かべていた。更には、弧を描いたその唇からも小さな笑いを洩らす。
 その笑みの理由は、
(あたしのお父さんってば、スゴイんじゃん♪)
 この美しい大地を、己の父親が守っていたというのだ。父が王としてこの大地を治めていたから、この美しい光景が守られているのだと。
 こんなにも美しい大地を守ってきた父、そして祖父、そのまた父、この大地の君臨してきた王が自分と血の繋がった家族であるという事実に驚いたと同時に、誇らしい、とも思った。
「そっか、あたしのお父さんって、カッコイイじゃんか★」
 全く記憶に残っていない父親だが、純粋に彼を尊敬する。そして、顔を思い浮かべようとして、断念する。どんなに記憶を巡らせてみても、封印を施された記憶はそう容易く扉を開いてはくれないらしい。そのことは、ずっとずっと昔から分かっていた。だから、諦めていたのだ。しかし、その扉が、今ならば開くという。
(・・・どんな人なんだろう。お父さんって)
 天空に浮かんだ城に住み、この美しい世界を守ってきた人。風を操るという一族の王─乾蒼王。
 そして、自分はその娘。
 これまで父が、祖父が、曾祖父が守ってきたこの大地を、今、己の手で守って欲しいと、そう望まれているのだ。
(なるほど、ね)
 ようやく実感が湧く。この美しい大地を守るための統治者となって欲しいと、自分は望まれているのだと言うことに。
「・・・・・あれ?」
 ぽつりと、風樹は洩らしていた。
 父王に望まれてきたこと、そして今、その父王に代わって己に望まれていることを知ったわけなのだが、
(あんま、イヤとか、ないかも)
 幻炎城では「ぶっちゃけ帰りたい」宣言をかましたのだが、その気持は何処へやら、遠くの方に姿を消してしまっていた。その代わりに、
(悪くないかも、なんて・・・)
 絶えず零れる笑みをその面に乗せたまま、風樹は次第に遠ざかっていく地上の風景を見つめていた。
 そんな風樹の横顔を、犀霖は黙って見守っていた。そして、
「あ・・・・・・」
 一瞬、開き駆けた口を、犀霖は慌てて閉ざす。おかげで、風樹は何も気付かなかった。そのことにほっと安堵の溜息を漏らしつつ、犀霖は活き活きとした表情で眼下と次第に近づいてくる浮遊城とを交互に見つめている未だ幼き主を見つめる。少しでも気を抜けば彼女に向けてあふれ出してしまいそうな台詞を、必死で噛み殺しながら。それでも、再びその言葉は口内に生まれてくる。その度に、噛み殺す。その台詞とは、
「この世界を、これから風樹様に守っていただきたいのです!」
 記憶を取り戻し、共に戦って欲しい。
 そんな願い。
 言ってしまいたい。今ならば、風樹も頷いてくれるかも知れない、と。
 しかし、そうすることを、猩火しょうかも、風樹の父王―昊咒こうしゅうも望んではいない のだということは、犀霖にも分かっている。そして、己の勝手な望みを口にし、風樹の運命を全くの他人である己が決めてしまうことは許されないのだということも、分かっている。
 必死の思いで、犀霖はその言葉を噛み殺した。
 そんな犀霖の思いを乗せたタカが、ついに浮遊城へと降り立っていた。天櫂鳥が降り立つための城門前の平らにならされた広場に、タカは静かに降り立つ。
 浮遊城は、青い空を背景にそびえ立っている。浮遊城という名の如く、ふわふわと空で揺れているのかと思っていたのだが、風樹の予想に反して、城は揺れていなかった。地面に作られていた幻炎城と何ら変わりなく、中空にそびえ立っている。
 大きさは幻炎城よりも一回りほど小さいだろうか。その素材も幻炎城を形作っていた白いものではなく、薄い灰色の煉瓦のようなもので城はその形を作っていた。
「さあ、風樹様」
 先にタカから飛び降りた犀霖が、風樹に向かって手を差し伸べる。
「ありがと〜」
 素直に犀霖の手を取った風樹は、彼に導かれるまま、浮遊城へと降り立っていた。そして、巨大な城を見上げた、ちょうどその時だった。
「お帰り、風樹 ッッ!!」
 突然、大音声での歓迎。
 風樹は盛大に、ビクゥ! と肩をふるわせ、声のした方へと視線を遣った。
 同様に犀霖も城内から駆け出してきた一人の少年の姿を見つけるなり目を瞠った。
 ブンブンと大きく手を振りながら駆けてくるその少年は、風樹と同じくらいの年齢だろうか。青年というには少し早すぎるが、少年といってしまっては育ちすぎている所為か、少々不釣り合いな印象を受ける。日々大人の体へと成長を遂げているのだろう、未だ細くはあるが、ほどよく筋肉のついた腕は、日に良く焼けた健康的な肌で覆われている。その肌によく似た、茶色の髪の毛は短く刈られてあった。人懐っこそうで愛嬌のある垂れ目は、髪の毛よりも深みを増した茶。
 少年は「腕がもげるよ?」と見ている方が不安にかられるほど手を振り、風樹の名を呼んで近づいてくる。その顔にはりついた満面の笑みは、見事なもの。
「嬉しくて嬉しくて仕方がない」、そんな文字を極太マジックで顔面に記してあるのだろうか、それとも犬のように尻尾をフリフリしているのだろうか。否、それらはどちらも必要ないほどに喜色満面で少年は風樹に駆け寄ってきた。そして、
「風樹!!」
「お、おわっ
「ぶっ!」
 何と、飛びついてきたのだ。
 両手を広げ半ば体当たりを食らわす勢いで飛んできた少年を反射的にかわす風樹。
 少年はそのまま地面へとダイビングしていった。
「あ
 ゴン! という痛そうな音が耳に届き、風樹は「しまった」とうろたえる。受け止めてやれば良かったのだろうか。
 しかし、初対面の少年を抱き締めるほどの度量が、風樹にはなかった。女の子とは一瞬で仲良くなれても、異性とはどうしても仲良くなれないウブな風樹ちゃん。
(ごめんね。あたしってばシャイだからさ)
 と心の中で少年に詫び、顔の前で両手を合わせて顔面を地面に埋め込ませたままの少年の冥福を祈る隣で、犀霖が慌てて彼を起こした。
ごう殿! な、なぜ貴方が浮遊城に!?」
 体を起こされ、「大丈夫ですか?」の一言もないうちに詰問を受けた少年は、赤くなった鼻を愛しむように撫でつつ、涙目になった瞳で犀霖と、そして風樹とを見遣った。
「風樹が帰ったって聞いて、いてもたってもいられなくてさ。戌華じゅっかの村からこっそり脱出して来たんだ」
 そうしてニカッと快活な笑みを浮かべた剛とは対照的に、犀霖はガックリと項垂れた。
「戌華王の弟君ともあろう方が、なんて無茶を・・・
 しかし、そんな犀霖を完璧無視で、剛は風樹を真正面に見つめて言った。やはりその顔には満面の笑み。
「お帰り風樹!!」
「・・・・・」
「どうしたんだよ、黙りこくっちゃって。あ、さてはお前、俺がこんなにカッチョ良く成長しちゃってたもんだから、驚いてんだろ ! あ、告白しちゃう? しちゃってもイイぜ〜。さあ、言え言え♪」
「じゃあ、言うけど・・・」
「おう。いつでも来い!」
「チミ、誰?」
 一人勝手に喋りまくる剛と呼ばれた少年に、風樹はドカンと一発かます。いや、風樹としてはこの場に最も必要な情報を得ようとしただけで、まさか、
お、覚えてないのかよっ!?」
 と、少年が顔を青ざめさせられるとは思っても見なかった。
 だが、覚えていないものは覚えていない。風樹は正直に、大きく首を縦に振った。
「うん!」
「全然!?」
「全然」
一欠片ひとかけらもか!!?」
「チリほども!!」

 ついに戌華王の弟君という大層な肩書きを持っているらしい少年─剛は閉口した。ついでに、ばったりと地面に倒れ伏してしまった。風樹に忘れ去られてしまったことがよほどショックだったらしい。
「・・・あたし、はっきり言い過ぎた? コレ」
「いいんです。放っといて行きましょう」
 風樹としては真実を述べただけなのだが、その真実は彼を打ちのめすのには十分すぎるものだったらしい。 その事に気付いた風樹は、謝った方がいいのかな? と犀霖を仰ぎ見たのだが、彼はしらっとそう答えた。 そして、その言葉の通り、地面に倒れ伏している少年を置き去りに、城の入り口へと犀霖と風樹が足を向けたその時だった。
「いいんだ!!」
 再び、大音声。
 風樹が驚いて振り返ると、いつの間にか立ち上がりじっと真剣な眼差しで自分を見つめている少年がいた。
 少年─剛は、風樹を真っ直ぐに見据えたまま、言った。
「覚えてなくたっていい! 無事に帰ってきてくれたんだ。それだけで俺はいい!!」
「は、はあ
 どうやら、とっても自分の帰還を喜んでくれているらしいのだが、彼が一体誰で、自分とどんな関係だったのかが分からない今、 風樹は曖昧に返事を返す以外にリアクションの取りようがなかった。
 そうして風樹が困っていると、
「風樹様!!」
 またまた突然、少年とは別の声に名前を呼ばれ振り返る。
 先程、少年が飛び出してきたように、城から甲冑かっちゅうを纏った兵士らしき男や、 美しい女官たちが駆けてくるのが見えた。その誰もがやはり、少年がそうであったように面に笑みを浮かべている。 女に至っては、涙まで零している様子。
 面食らう風樹を余所に、城から駆けてきた彼らは一斉に風樹を取り囲み、我先にと彼女を抱き締め始める。
「まあ、本当に風樹様!!?」
「お美しくなられて!」
「お帰りなさいませ、風樹様」
「よくぞご無事にお戻りになりました」
「わっ、あ、あの
 抱擁の連続に、風樹は苦しいやら恥ずかしいやらで顔を赤く染める。 助けを求めて視線を遣った犀霖も、顔に笑みを浮かべていた。そして、風樹に告げる。
「皆、風樹様がお帰りになるのを今か今かと待っていたんですよ」
「な、何で!?」
 こんなにももの凄い歓迎を受けるとは思っても見なかった風樹が、勢いで問い返す。 それほどまでに、王の子供という立場は凄いのかと驚いていると、犀霖から返ってきたのは思わぬ答えだった。
「乾蒼族の民は皆、風樹様が大好きだからですよ」
っ//////」
 その言葉に、一瞬の沈黙の後、風樹は盛大に顔を赤く染めた。
 そんな風樹に、人々は口をそろえて言う。幼き主の帰還を心の底から祝って。
「お帰りなさいませ、風樹様!!」
 体をビリビリと震わせる程の声と、そして見回せば誰もが浮かべている満面の笑顔。自分が、本当に迎えられているのだという実感が湧いてくる。それは嬉しくもあり、同時に少し照れくさくもある。
 風樹は、頬を染めたまま、徐に口を開いた。
「/////た、ただいま」
 それに答える歓声が上がり、同時に風が吹いた。風樹の熱を持った頬を優しく撫でる風も、まるで風樹を歓迎しているようだった。








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