【第二章 開かれし記憶の扉】


 燦々と午後の太陽が真上から大地を照らす中、二頭の馬が幻炎城げんえんじょうを発った。
 その馬に乗るのはあわせて四人の男女。
 樹海の中を選んで駆け、たつみの方角へと向かう栗毛の馬に乗っているのは、水日と清癒せいゆだった。
 顔を始め、水日の小柄な体全体を隠すようにかぶせられた大きな衣が、バタバタと風にはためく。清癒も顔を隠すため、小さな布で面を覆っていた。しかし、瞳の部分に穿たれた穴からは、美しい青い瞳が覗き、真っ直ぐに前を見つめている。
 幻炎城を出て、数十分が経っただろうか。水日もようやく馬にも慣れてきた。だが、清癒の体にしがみつく手はゆるめない。
 最初はとにかく怖かった。振り落とされないよう清癒にしがみつくことに必死だったが、幻炎城を出てから数十分ほど経った今では、馬上から流れゆく景色を楽しむ余裕も出てきた。だが、景色といっても、樹海の中を駆ける馬から見えるのは、ただただ木。そして、時折おかしな鳴き声が耳につくのみ。あの鳴き声は何だと清癒に問うと、さらっと、「魔物です」と返された。その言葉に、樹海には魔物が棲んでいるという螺照の言葉を思いだし、水日はゾゾゾッと体を震わせ、ますます清癒にしがみついたのだった。
 そうして、樹海をひたすらに駆けていた水日と清癒だったが、
「あ、明るくなってきた」
 樹海を抜けるのだろうか。前方の木々が太陽によって明るく照らされていることに気付いた水日が、嬉々として声を上げた。
「樹海を出ますぞ」
 清癒が告げるのとほぼ同時に、二人を乗せた馬は樹海を抜け、約一時間ぶりの太陽の下へと飛び出していた。
 木々の消えたその先には、前方に視界を遮るものは何もない。そこから下は、大地さえもない、青い空が広がっていた。そこは、
「崖!?」
「大丈夫です。飛び降りたりはしませぬゆえ」
「当たり前でしょっ
 清癒は器用に馬を操り、崖の縁ギリギリを走らせる。
「ひぃ
 直角に切り立ったかなり高い崖の縁を行く馬に、水日は顔を青ざめさせる。実は高所が苦手なのだ。
(ぜ、絶対に見ちゃダメ・・・!)
 下を見てはダメだと、分かっている。分かっているのだが、
ッ!」
 チラリと横目で見下ろした眼下は、遙か先。延々と緑が広がる眼下の景色は、吸い込まれそうに深い。落ちたらひとたまりもないだろう。ますます顔を青ざめさせる水日だったのだが、
「アレ?」
 先程、チラリと見た崖下、その中に見つけた違和感を思いだした。延々と広がる緑の中に、一点だけ他の色彩が見えた。あれは木々もなく、開けた大地の色。
(何だろ、アレ?)
 恐る恐る、再度視線を向けた崖下には、やはり樹海の色彩とは違う色が見えた。濃い茶の大地が広がっているようだ。
(村か何か?)
 崖は次第にその高度を減らしていき、ついには先程まで、遙か遠くに広がっていたその景色の中へと馬は降り立っていた。そうして、水日たちを乗せた馬は、先程水日が見つけた、樹海とは別の色彩を持つ場所へと近づいていく。
 緑と木々の茶色とに塗られた樹海を抜け、不意に現れたそれは、水日が考えたように小さな村だった。だが、そこがただの村ではないことは、一目瞭然だった。
何、この村は・・・!?」
 瞠目し声を荒げて問うた水日に、清癒が徐に馬を止める。馬は僅かに嘶き、清癒の命令通りそこへ足を止めた。おそらく村であろう場所を目の前にして。
 崖上から見たときには気付かなかったが、村には一人として村人の姿が見えなかったのだ。
 そこは、静寂と、全てが焼き払われ、すすに黒く覆われた村。
 否、それは村と呼ぶよりも、廃墟と呼んだ方が相応しいだろうか。否、否、それさえも正しいのか水日には分からなかった。
 何故ならそこは、焼けこげた材木がその地面を埋め尽くし、錆び付いた剣や槍、弓矢が無数に突き立てられている、まさに戦禍の跡だったのだから。
「・・・清癒、おろして」
「御意」
 呆然としたまま、まるで吸い寄せられるかのように水日は焼き滅びた村へと歩み寄っていく。そんな水日の後ろへ馬を連れた清癒が続く。そして、彼は問われてはいなかったが、おそらく水日が知りたいだろう事を告げた。
「ここは、かつての龍卯りゅうう族の村。数年前、謀反人是軌ぜきの命によって滅ぼされた村です」

 その言葉に、水日は弾かれたように清癒を振り返っていた。そこで水日を見つめ返している清癒は、唇を噛み、悔しさと怒りとでその面を染めていた。
・・・」
 夜衣の口から、いくつかの一族が是軌によって滅ぼされたという事は聞いていた。しかし、その様を実際に目にするのとしないのとでは随分印象が違う。
 夜衣から聞いたときに己が想像したものよりもはるかに悲惨な光景。凄惨な戦場。まさに地獄絵図が繰り広げられていたのだろう跡に、水日は絶句するしかない。そして、戦慄する。
 じわじわとどす黒い色をした恐怖が、水日の胸の中に次第にその姿を広げ始めるが、それを無視して村の中へと足を踏み入れて行く。歩を進めるたび、足下で炭となった材木がパキパキと軽い音を立てて割れる。そして、ふっと焼き焦げた臭いが鼻を突いた。
 家々が密集していたのだろうか、焼き焦げた材木が幾重にも折り重なっているその場所に視線を遣った水日は、
ッ!!」
 声にならない悲鳴を上げ、思わず目を背けてしまっていた。
 折り重なった材木のその下に、物言わぬ村人の姿があった。家が崩れたその下敷きになり、そのまま放たれた炎から逃れることが出来ず、命を奪われた村人の姿が
 男女の判別もつかぬほど真っ黒に焼き焦げた遺体。しかし、助けを求めるように伸ばされた手と、断末魔の叫びを迸らせ大きく開かれた口、はかりしれない苦痛と恐怖とを形作った表情からは、真っ黒に焼けこげた今でも、その苦しみをはっきりと感じることが出来る。
 初めて目の当たりにする人間の遺体に、水日は口許を手で押さえる。こみ上げる吐き気を、背中を優しく撫でてくれる清癒の掌が癒やしてくれた。しかし、体の震えは激しさを増し、ついに水日はガクリと地面に膝をついてしまっていた。
 数年前、是軌によって滅ぼされ、焼き払われた村。さすがに死臭は消えているが、僅かに焼き焦げた材木の臭いが鼻をつく。地面に落ち着けても尚、足に腕に、全身に襲い来る震えを、水日は己の体を抱くようにして腕を回し押さえようとするが、叶わない。
 そんな水日の背を優しく撫でながら、清癒は語った。その瞳は真っ直ぐに、生を終えても尚、苦しみからの解放を求め、助けを求め続けるむくろを見つめたまま。
「ここは、我々蒼巽そうそん族配下龍卯族の暮らす、平和な村でした。しかし、四年前のある日、謀反を企てている詮議ありと滅ぼされたのです。女、赤子、老人、病人の別なく、ただの一人も残さずに」
 清癒の言葉に、水日はきつく眉根を寄せる。そして、ゆっくりと俯けていた顔を上げた。目の前にある無惨な骸に視線を遣るが、直視に絶えずすぐに瞳を閉ざしてしまう。しかし、再度瞼を持ち上げた水日は、ぐるりと焼き焦げた村を見回した。
 見れば、至る所に黒く焼き焦げた遺体が転がっていた。矢を射立てられ、剣で壁へと縫いつけられ、真っ直ぐ地面に突き立てられた槍の先に掲げられ。その中には清癒の言ったとおり、幼い子供の姿も見受けられた。
 呆然と巡らせた視線を、水日は己の手元へと戻す。そして、弱々しい声で訊いた。
「・・本当に、逆らおうとしていたの? この人達」
 無惨にうち捨てられた骸を見るに、その中に兵士の姿は本当にまばらにしか窺えなかった。謀反を企てていた村であれば、戦力も整っていたはず。それにしては少ない兵士の数。まるで、突然の強襲にあったかのような光景。
 その水日の問いに、清癒は更にその面に怒りを込めた。
「誰しも、謀反人是軌への憎しみを胸に抱いております。されど、龍卯族の民は皆、反逆など企てることもなく、つつましやかに暮らしておりました」
 清癒はそこで一度口を閉ざす。そして、一呼吸置いた後、怒りに震える声で告げた。
見せしめです」
「!」
「逆らえばこうなるのだという」
「・・・見せしめの為に、みんな殺されたのね」
 その瞬間、水日の体の震えは、その理由を変えた。
 凄惨な殺戮へのおぞましさや、目の前にまるで塵のように転がっている遺体への恐れではなく、こうした地獄絵図を描いた是軌に対する怒りが、水日の体を震わせる。
 そして、水日は視線を目の前の骸へと向けた。
 もう、逸らさない。
 腐り落ちたのか、はたまた鳥によってつつかれ喰われてしまったのか、二つの穴へと変っている両の瞳を見つめ、非業の死を遂げた骸を哀れむように瞳を細めた。そして口を開く。
「ねえ、どうしてこのままなの? せめてお墓を作ってあげてもいいじゃない」
 清癒に当たるのが筋でないことは良く分かっている。しかし、胸の内でザワザワとうごめいている怒りは、つい彼を責めるような口調を作る。それを、水日は止められなかった。
 清癒もそんな水日の心情を察しているのだろう。嫌な顔一つすることなく、水日の問いに答えた。その答えは、水日の怒りを更に増すものだった。
「是軌は、彼らの骸を弔うことさえ許さなかったのです」
ひどい・・!」
 こみ上げてくる怒りを、水日は己のこぶしを握りしめ、唇を噛み締めることで堪える。そうしなければ、この行き場のない怒りを、何の罪もない清癒にぶつけてしまいそうだったから。
 そして、怒りを押し殺した低い声で、水日は言った。
「私、是軌の事、嫌いよ」
「水日様・・」
 水日の思わぬ言葉に、清癒は水日へと視線を遣る。
 そこには、怒りの込められた瞳を地面へと突き立て、唇を噛んでいる幼い主の横顔があった。その様は、普段の彼女の愛らしい幼さを残したかんばせとはかけ離れたもの。激しい憎悪は彼女の印象を、研ぎ澄まされた剣のように変えてしまっていた。
 そしてその横顔は、清癒にある人を思い出させようとしていた。
「是軌のヤツを思いっきりぶん殴ってやりたい! 人の命をこんな風に奪って、弔うことさえも許さずに、捨てておくなんて許せない! 大嫌いよ!!」
「・・・水日様」
 その横顔に、清癒が思い出したのは、
沓欺とうぎ様・・・」
 先代の蒼巽王、沓欺─水日の父親の姿。
 真剣な瞳と共にまるでつるぎのように鋭利な空気を纏うその横顔も、己の感情をはっきりと面に出すその気性も、かつて兄が副官として守り、自らも王と敬っていた先代を思い起こさせるものだった。
 の王も、嫌いなものは嫌いだと公言する、王としては率直すぎ、副官の兄も苦労していた御仁だったが、しかし、民は彼を愛した。好き嫌いをはっきりと分け、大層なご託を並べることのない分かりやすい王は、民のことを好きだと、だから守るのだと言った。そして、その言葉のとおり、愛する者をとことん愛し守り抜き、そして愛する者を害する者を徹底して嫌悪し、排除することで愛する民を守ってきた。
 そして、例え相手が誰であろうと、己の信ずる者にしか従わず、その逆に己の信じた者へは一生の忠誠を誓い、最後までその人─流炎羅るえんら王の為に戦った王。
 揺らぐことのない信念を持ったその姿を、誰もが愛さずにはいられなかった。その面影を、水日の横顔に見る。
 どんなに遠く、そして永きに渡り父王の傍を離れていても、やはり彼女は紛うことなく蒼巽王の娘なのだと、清癒は改めて確認する。そして、嬉しく思うのだ。己が先代の王と同じ強さを持った彼女に仕える事ができるのだということを。
「さあ、水日様。かような場所に長居は無用です。参りましょうぞ」
 怒りに打ち震えている水日の肩を優しく叩き、清癒はそう促す。
 しかし、水日は頷かなかった。
「もう少し、ここにいさせて」
 小さな声で告げ、水日はふらつく膝を己の掌で支えながら立ち上がった。そして、更に骸へと歩み寄っていく。
「・・・水日様?」
 一体何をなさるのですと、馬の手綱を置き、清癒は彼女の後に続く。
 水日は、手を伸ばせば骸に触れられる位置まで歩み寄ると、再びそこに膝をついた。震えによって膝が折れたのではない。彼女自身の意志で、水日はそこに膝をつき、真っ直ぐに骸を見つめる。
 かすかに、焦げ臭さが鼻を突いた。それでも、水日は顔を背けず、見つめる。
 そして、告げた。
「どうか、安らかに・・・」
 非業の死を遂げた骸の そして、この村で弔われることさえ許されず、風に晒されている全ての者たちの冥福を祈り、囁く。
 しばし黙祷を捧げた後、水日は立ち上がり、清癒を振り返った。
「お待たせ、清癒。行きましょ」
 その顔に戻ってきた彼女の笑みに、清癒も笑い返す。そして、幻炎城を出たときにもそうしたように、彼女を馬の背に乗せ、己も主の前へと乗り、手綱を握った。
 慎重に馬を歩ませ、村人の遺体を踏みつけぬよう、村を抜ける。そして、再び樹海へと馬を駆けさせ始めた。
 次第に遠ざかっていく村を、水日は振り返る。そして、声を張り上げていた。
「また今度、花を供えに来るわ!」
 滅びた村に、水日は大きく手を振る。答える声がない代わりに、風が水日の頬を撫でていった。
 再び樹海に入った馬は、器用に木々を避け駆けていく。風を切り、ひたすらに目的の地─水日がかつて暮らしていたという城を目指す。
 そうして三十分ほど馬を走らせた頃だろうか、不意に肌に感じる風に冷たさが加わったのを感じ、水日は周囲を見回した。近くに川か湖か、水場でもあるのだろうかと考えたのだ。しかし、見えるのは緑の葉を生い茂らせた奇妙な幹の木々ばかりで、青い水の色彩はない。だが、風は確実に涼しさを増していく。
「ねえ、清癒
 水日が清癒に問いかけを発しようとした、ちょうどその時だった。馬が、不意に樹海を抜けた。
 そして、水日は突然降り注いだ日の光の下、
あ、あったけどさ、湖・・・
 目を瞠り、ついでにぽかんと口を開いてしまっていた。
 水日の思った通り、樹海を抜けたそこには、湖が広がっていた。
 それだけでは水日も驚かない。「お、私ってばサスガ」と自分の勘を褒め称える所だったのだが、いかんせん、その湖は、
「・・・ちょっと、デカすぎ、じゃない?
 とにもかくにも巨大すぎた。視界一面を、澄み切った湖の青が覆い尽くす程の湖。
 そして、水日を驚かせたのはその湖の大きさだけではなかった。
城って、アレ?」
 その巨大な湖の中央に、真っ直ぐに天を目指し伸びる城がそびえ立っていたのだ。
 呆然としている水日を振り返り、清癒は笑って言った。
「そうです。かの城が、水日様の生まれ育った城─闍那ジャーナ城にございます!」
「あれが、私の住んでた、城・・・?」
 湖の美しさもさることながら、その城の美しさに水日は目を奪われていた。まるで水で作られているのではと疑いたくなるほどに、キラキラと太陽の光に反射してきらめく城壁。ガラスに僅かに青色を混ぜたような、透明度の高い城壁に、湖の青が反射し更に城を青く見せている。
 水によって守られ、そして水によって美しく染められた城。
 真っ直ぐに天を目指し、繊細な輝きを放つその城は、空へと誰かが舞い上げた水しぶきのよう。もしくは、天から美しい水が湖へと注ぎ込まれているかのような城。
 あれが蒼巽王が居城─闍那城。
綺麗・・」
「そうでしょう」
 城に目を奪われたまま、なかば呆然と洩らした水日に、清癒は笑う。その笑みは、どこか誇らしげだった。
 馬は涼しい風の吹く大地を駆け、城は次第にその巨大さを水日に見せつける。
 そして、澄み切った湖もその姿を次第に大きくしていき、視界が青一色で染められる。吸い込まれそうな青。
 どんどん近づいてくる湖。
 どんどん・・・。
 どんどん
 どんどんどんどんどんどんどんどん近づいてくる
 このまま行くと、
「ちょ、ちょっと! もしかして突っ込むつもり!!?」
「はい」
 いっこうに馬を止める気配のない清癒に、ついに水日は焦りの声を上げる。
 そんな主に、清癒は至極冷静に答えを寄越して来た。その、あまりにも冷静な清癒の様子に、「もしかして」と水日は考える。
「この馬、水面を走れちゃう、とか?」
 しかし、
「まさか、かような馬はおりませぬ」
 笑いながらさくっと否定された。
「じゃあ・・
 まさか、と水日は顔を引きつらせた。額から、ツツツ・・と冷や汗が流れ落ちる。
 そして、水日の予想通り、清癒は言ってのけた。
「ドボンと参りますゆえ、しっかりお掴まりくださいませ、水日様!」
「い、イヤ っ!!!」
 水日の渾身の悲鳴も空しく、
 ドボン!!
 本当に清癒は馬を湖へと突入させたのだ。
(・・・死ぬ。私、ここで死ぬのね)
 と、きつく瞳を閉ざし呼吸も堪え、天からのお迎えを覚悟した水日だったのだが、ふと気付く。肌に感じる水の感触がない。
 恐る恐る瞼を持ち上げてみる。しかし、目の前はやはり水。馬の体から、清癒の体から、空気の泡が頭上へと立ち上っていく。
「??」
 紛うことなく、ここは湖の中なのだが、やはりおかしい。
 思わず、水日は呟いていた。
「あれ? ・・・・って、アレ!!? 喋ってるじゃん、私!!?」
 なんと、呟けてしまっていた。
「え!? ど、どーゆーコト・・・?」
 水の中だが、水の中とは違う。水に触れているはずの肌に冷たさは刺さらない上に、浮力も体にかかっていない。その証拠に、水底を駆けていく馬は、地上にいたときと何ら変らぬ速度で駆けていく。そして何より、呼吸が出来、喋ることさえも出来るのだ。
 不可思議きわまりない状況に、水日はひたすら首を捻るばかりだ。
「え? ちょ、ちょっと、え? な、何よコレ
 ドびっくりしている水日の様子に、清癒は思わず笑いを漏らす。
「これは不思議の水。この水は、城に害なす者のみを溺れさせます。我々、水を操る民を拒むことはありませぬ」
「す、すごい・・・」
 水日は感嘆の溜息と共に洩らした。なんだか良く分からないけど、と付け加えつつ。
 しかしながら、どうやらこの水の中では溺れ死ぬこともないのだということは理解でき、水日はほっと安堵の溜息を漏らした。そして、湖の中を見渡してみる。
 そこは、青い世界。どこまでも続く青い世界。不思議なことに、魚や水草といった生き物の姿は一切見えない。やはりこれは、水であって水ではないもののよう。
 不意に水日は水底を彷徨わせていた視線を湖面へと向ける。
 そして、そこに広がっていた景色に、水日は大きく息をのんでいた。
!」
 見上げたそこには、太陽の光を受け、キラキラと輝く水面があった。ユラユラと幻想的に揺らめく光の天井。そこから注ぐ、地上で受けるものよりも柔らかで、頼りない太陽の光。しかし、弱々しいながらも水中で屈折を繰り返した光は、水底全面を明るく照らしていた。
綺麗・・・!」
 その光景は、まさに幻想的。
 うっとりと呟いた水日だったが、
「着きます」
 告げる清癒の声に、視線を前方へと戻す。
 そこには、門があった。
 水の中に沈んだ城門が、水日たちを迎え入れるようにゆっくりと開かれていく。そして、その門に吸い込まれるようにして、水日と清癒を乗せた馬は闍那城内へと駆け込んでいった。途端に、体に張り付いていた不思議な水の感触が消える。城内は、あの不思議の水ではなく、地上と同様に空気で満たされていた。
 湖から水日を迎えたのは空気だけではなかった。
「水日様!!」
「皆! 水日様がお帰りになられたぞ!!」
「水日様! よく、よくぞお戻りになられました!」
「一同、お待ち申し上げておりました!」
「まあまあ、王妃様によく似ておられますこと」
「ほんに、なんとお美しくなられて・・!」
「お帰りなさいませ」
「お帰りなさいませ! 水日様」
 漆黒の髪に、美しい青い瞳を持った男女が水日を取り囲む。その面に一様に浮かんだ喜びの色を、そして女たちに至ってはポロポロと感涙しているその様を見て、水日は面食らう。まさかこんな大歓迎が待っていようとは思っても見なかったのだ。
 驚きのあまりどうしていいのか分からないでいる水日の肩を叩き、清癒が彼らを黙らせる。そして、水日に告げた。
「皆、この城に仕える者たちです。水日様のお帰りをずっと待っておったのです」
 その言葉に、水日を囲む者たちは大きく頷いている。
 そんな彼らを、清癒を、そして己を迎え入れた城を、水日は見回す。
 そして、
・・・」
 懐かしいと、水日は感じていた。
 かつて己が暮らした場所。だが、記憶には全く残っていない。それでも何故か、確かに懐かしさが胸をじんわりと熱くするのだ。
 そして、水日は自然とその言葉を口にしていた。
「お帰りなさいませ、水日様!」
 口々に言う彼らのその言葉と感激の涙に、自然と水日は返していた。


ただいま。ただいま、みんな」










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