【第二章 開かれし記憶の扉】




 コンコン。



 火陵の思考を途切れさせたのは、不意に叩かれた扉だった。
「はい?」
 一体誰だろうと、訝しみながらの返事に返ってきたのは、聞き慣れた声。
「夜衣です。お邪魔してもよろしいですか?」
 若草色の耳に心地よい声。疑うべくもなく、名乗ったとおり夜衣が訪ねて来たようだった。
「どーぞどーぞ」
「失礼いたします」
 一人でいても考え事に耽ってしまい気が滅入っていくばかりだと分かった今、火陵は嬉々としてして扉を開けた。
 火陵によって押し開かれた扉を入り、夜衣は部屋に快く招き入れてくれた火陵に向かって、律儀にも軽く頭を下げた。
 そんな夜衣に、「いいのいいの」と手を振って見せ、寝具の脇に円を描き並べられている敷物の上へと夜衣を招いた。人界で言うところの、丸い座布団に似た形をしていた。そして、自分もそうした敷物の上へと腰を落ち着ける。
 沈鬱とした気分も、夜衣の訪問によってなりを潜めたことにほっと安堵の溜息をついた火陵は、夜衣の視線に気付いた。同時に、その瞳が心配そうに細められていることにも。
「お顔の色がすぐれませんね。お疲れですか?」
「・・ん。まあ、ね」
 心配そうな夜衣の問いに、正直に答えるべきか否か迷った末、火陵は正直にそう答え、肩を竦めて見せた。
 昨夜の眠りは浅かった上、猩火からまた頭をフル回転させなくてはならないような話を聞き、今の今までは自分の道を決めるため、悶々と質疑応答を繰り返していたのだから、疲れていないわけがない。
 苦笑する火陵を見て、夜衣は更に心配そうに目を細める。そして言った。
「天界に戻ってきてから、笑顔を拝見していません」
「そう?」
 夜衣からかけられた思いがけない言葉に、火陵はきょとんと目を瞠る。
 言われてみれば、人界にいたときのように、バカ騒ぎをする機会も少なくなっていたし、不安な事ばかりで笑うことは少なくなっていたかもしれない。
 夜衣がまさかそんな事を気に掛けているとは思わなかったが、考えてみれば夜衣は細かいことに気の付く少年だった。それがたった数日の内に分かるほどだ。
(優しい人なんだな〜)
 と火陵が関心の眼差しでまじまじと夜衣を見つめていると、夜衣は何かを思い出しているのだろうか、僅かに目を伏せた。
「人界にいたとき、いつも火陵様は笑顔で・・・そんな火陵様を見ることが出来て、僕はとても嬉しかったんです」
 火陵と同様に、短かったけれど共に一つ屋根の下で暮らした日々のことを思い出していた夜衣が、落としていた視線を火陵へと向け、花が咲き零れるが如くの微笑みをその面に浮かべた。
「・・嬉しかった? 夜衣が?」
 その笑みの明るさよりも、火陵は夜衣のその言葉に驚いて目を瞬く。
「はい」
 不思議そうに首を傾げている火陵に、夜衣は優しく微笑みかけながらその理由を紡ぐ。
「初めての人界、そしてこれからの戦の事を思い、不安でいっぱいでした。しかし、火陵様が水日様と風樹様と一緒に、楽しそうに暮らしている様子を拝見できて、僕の不安は消えました。そして、改めて思ったのです。お守りせねば、と」
「・・・・」
 その言葉に、火陵は思い出す。彼は、人界でも同じ言葉を自分に向けたことを。


僕は貴方様をお守りするために参りました』


 あの時は、一体何故夜衣が自分を守るなどと言ったのか全く分からなかったけれど、今ならば一つの理由に思い当たる。
 その理由を口にしようとする火陵の表情は、僅かに沈んでいた。
「・・・私が、天帝の娘だから?」
 夜衣が真摯な瞳で自分にくれたあの言葉は、非情に気恥ずかしいものだったが、嬉しかったのも事実。あんなにも自分に、優しくて強い愛情を向けてくれた人は、幼なじみや螺照以外にいなかったから。
 しかし、全てを知った今、あの言葉も天帝の娘であるがゆえに向けられたものだったのだと知る。そして、それが正解であれば全てが納得がいく。親でも兄弟でも、幼なじみでもない彼があれほどまでに自分に尽くしてくれた理由は、それしかない。
 納得はいったものの、胸を一抹の寂しさがよぎったのを火陵は感じていた。
「火陵様」
 視線を落とした火陵にかかる夜衣の声は、穏やか。その穏やかな声のまま、夜衣は言った。
「違います。火陵様」
 その言葉に視線を上げると、夜衣の優しい瞳とぶつかった。優しい微笑が迎えてくれた。
「火陵様が、火陵様だからです。天帝の御子であることなど僕には関係ありません」
 穏やかな口調で、けれどはっきりと夜衣は言った。そして、繰り返す。
「火陵様は火陵様です。僕にとって、あの日から火陵様はかけがえのない存在なのです。これからもずっと・・・。それだけは変わりません」
 瞳の中にある優しさと、その向こうにある強い意志の光を見つめながら、火陵は訊ね返す。
「・・あの日って?」
「僕が絶望の淵に立っていたあの日、僕は火陵様に救われました」
 その言葉に記憶を巡らせてみるが、すぐにその面は苦しげにゆがめられる。
「ごめん。覚えてないや」
「仕方のないことです。火陵様がその記憶を手放しておいででも、僕はあの日のことを一瞬たりとて忘れていないのです。忘れることはできません。それほどまでに、あの日、貴女は僕にとって大きな存在になったのですから」
「・・・・・」
 夜衣のその言葉を、火陵は呆然とただ聞いていた。夜衣が話しているその過去の自分が、自分であるはずなのに他人のように感じてしまう。
(・・だって、知らないから)
 どんなに思い出そうとしても、思い出せない。それは封印が施されている所為だと祖父も夜衣も言っていた。だが本当に、絶望していたという夜衣を、この自分が救ったのだろうか。
(人違いなんじゃないの?)
 そんな疑問がふっと胸の内に湧く。
 これほどまでに夜衣から慕われる自信が、火陵にはなかったから。
 そんな火陵とは対照的に、夜衣は優しい微笑みと、懐かしげに細められた瞳で火陵を見つめたまま、己の思いを吐露している。
「だから、貴女が笑っているのを見ると、僕は嬉しいんです。人界での・・本当に一瞬でしたが、共に暮らせたあの日々はとても楽しかった。あのままずっと、火陵様たちと共に、人界で平和な時間を紡いでいたいと思ってしまうくらいに」
 その言葉に、火陵ははっと我に返る。
  あのままずっと、人界で・・?
 火陵は徐に口を開いていた。誰にも、幼なじみ以外の者には誰にも言ってはならないと思っていた迷いを、火陵は口にしていた。
「じゃ、じゃあ、もし・・・もしも私たちが帰るって言ったら、夜衣も、来てくれる?」
 人界に帰った自分を責めることなく、それどころか共に来てくれるのであれば、火陵の心はひどく救われる。自分一人ではないという事実は、安堵をくれるから。
 しかし、火陵の問いに夜衣は微笑みを悲しい形に歪めた。
「・・・僕とてお供したいのです。しかし、僕は、ここにいなくてはならないんです。ここにいて、火陵様に代わって・・・ いえ、全ての人々に代わって、謀反人是軌ぜきと戦わなくてはならないのです」
「! そんな! そんなの・・何か・・・ダメだよっ」
 夜衣の言葉に火陵は目を瞠る。そして、うまく言葉が出てこない中、必死の思いで左右に首を振り、困惑に顔を歪めた。
 夜衣は、分からないことばかり言う。
 天帝の娘だからという理由ではなく、火陵が火陵であるから守ると言い、更には火陵が人界へと戻った際には、代わりに自分が是軌と戦うと、そう言ったのだ。
 その理由が、火陵には分からない。たが、その夜衣の言葉に「ありがたい!」と言って 帰ってしまうことは絶対に出来ない。それだけは、分かっている。
「そんなの、ダメだよ!」
 だから、繰り返す。
 是軌と戦うことは自分に課せられたもの。それは、分かっている。それを何故夜衣が担う必要があるというのだろうか。 平穏な日々に戻りたいと人界へと逃げ帰った非情な自分に代わって、何故こんなにも優しい少年が、恐ろしく苦しい戦いに身を投じなくてはならないのだろうか。
  だったら、残るの?
 そう問いかけてきたのは、誰だったのだろう。考えるまでもない。それは自分の声。自らが自らに問いかける声。

 そして、今になっても未だ答えられない自分に、火陵はきつく唇を噛んだ。
 そんな火陵の心情を察しているのだろうか。夜衣が更に優しく笑み、火陵に語りかけた。
「この戦は、僕の戦いでもあるのです。そして、出来ることならば、僕が終止符を打ちたいのです。 この呪われた血の運命さだめ
「夜衣?」
 次第に夜衣の笑みが真剣さを帯び消えていくのを、火陵は驚きの眼差しで見つめていた。彼の口にしたその台詞も、最後には自らに言い聞かせるものに変わっていた。
 その事に気付いたのだろうか、夜衣は一度瞳を閉ざし、己の顔に張り付いていた鬼気迫るほどの真剣さを引きはがす。そして、いつもの穏やかな表情へと転じる。
 火陵に改めて向けられた瞳は、いつも通り優しいものだった。
「火陵様が人界での暮らしを守りたいと仰るのであれば、僕はこの戦を終わらせ、そして火陵様の生活をお守りします」
 これと同じ台詞を、火陵は既に聞いていた。あの日、幼なじみ二人と螺照との幸せな生活が終わってしまうのではと不安に苛まれていたあの時、夜衣は言っていた。


『貴方が今のこの生活を守りたいとお考えなら、僕はこの生活を守ります。例えそれが運命さだめに逆らうことでも、罪だと罵る者がいても、それでも全力でお守りいたします』


 と。
 その意味が今ようやく分かった。
 天界を捨て人界へと帰れば、自分達を信じ是軌の悪政に耐えてきた民達は皆怒るだろう。そして、罵るだろう。それすらもはねのけ、夜衣は自分達の生活を守ると、そう言っていたのだ。
 あの時から、夜衣は己の道を決めていたのだ。
 しかし夜衣は、今度はそれにもう一つの言葉を付け加えた。
「そしてもし・・もしも、火陵様が天界に残るとお決めになったその時は、僕は火陵様のお命を是軌から全力でお守りします。そして、是軌を討ちます。僕が、この手で
 ひたすら自分を思ってくれている夜衣の言葉に、火陵は苦しげに顔を歪め、視線を不安げに絡められた己の両指へと落とした。夜衣の優しい瞳と、視線を合わせることは出来そうになかったから。
 震える声で、火陵は問うた。
「・・・どうして? 私は、全てを 信じてくれている人を捨てて逃げようとしてるのに、それなのにどうしてそんなにも私のことを、良く思えるの!?」
 何にも揺らがない夜衣の優しさ。その強さが火陵に真っ直ぐ突き刺さる。ぐらぐらと揺らいでいる自分の弱い心に、彼の強い信念を持った言葉が突き刺さる。
 人界に逃げたとしても、それでも守ってくれると、夜衣は言った。
 人界に逃げるということが、どれ程の人を落胆させ、そして悲しませるのか火陵には分からない。しかし、流炎羅の村で出会ったあの女は、今度はその瞳に怒りの涙をにじませるのだろう。きっと、多くの民がそうして自分を恨み、下劣な王だったと罵るのだろう。しかし、そうされて然るべき道なのだ。自分が選択しようとしている道は。
 それでも、夜衣の意志は揺らがない。極悪非道だと罵られる行為をしてさえも、その意志は揺らがないというのだ。
(なんて強いんだろう・・)
 そして、同時に思う。
(・・・私は、なんて弱いんだろう)
 と。
 顔を伏せ、黙り込んでしまった火陵を、夜衣は心配そうな面持ちで見つめていた。
 そして、僅かな逡巡の後、火陵に向かって手を伸ばす。
「・・・・」
 だが、途中で止める。
 そして、夜衣は火陵に問うた。
「触れさせて頂いても、よろしいですか?」
「へ? う、うん。いいけど・・・?」
 夜衣の問いがあまりにも唐突なものだったうえ、今までの人生で誰からもそんな質問を受けたことのなかった火陵は思わず間の抜けた声を上げてしまっていた。伏せていた顔も上げ、自分に向かって伸ばされてくる夜衣の手を呆然と見守る。
(いいよって、言ったものの、ドコに触れるのかは聞いていなかったなァ。まさか夜衣のことだから、心配はいらないと思うけど)
 と、火陵が一人ドギマギとしているのを余所に、夜衣は膝元に置かれていた火陵の手にそっと触れた。繊細なガラス細工にでも触るかのようなその仕種に、火陵は小さく笑いを漏らした。そして、火陵の手が壊れないことを確認したのか、夜衣は次第にその手に力を込め、しっかりと火陵の手を握って言った。
幻では、ないのですね」
「え?」
 夜衣のその言葉に、火陵は首を傾げる。先程からずっと会話もしていたのに、今になって幻ではなかったのかとはどういうことなのだろうか。
 火陵の手を大事そうに握ったまま、夜衣は首をしきりに捻っている火陵に答えた。
「時々、信じられなくなるのです。本当に目の前に、火陵様がいらっしゃるのかと」
「どういうこと?」
「この十年近くもの間、ずっとお会いできませんでした。けれど、いつかお会いできる日が来る事を信じていました。そして、十年もの月日を経て、ようやく火陵様と再会できました。僕はとても嬉しくて・・・しかし、時折信じられなくなるのです。これは僕の強すぎる願望が見せている幻なのではないかと」
 そう言って、今再び不安に襲われたのか、ぎゅっと確かめるように火陵の手を夜衣は握った。
「・・・私だよ。本物だよ」
 夜衣の手を握り返し、火陵は告げる。不安に歪められた彼の顔が何故か、母を請う幼い子供のように見えて、そうせずにはいられなかったのだ。
 火陵の言葉に、夜衣はその面から不安の色を消し、
「はい。本物です」
 安心したように微笑みを零した。
 そして、真っ直ぐに火陵の瞳を見つめ、夜衣は告げた。それは驚くほどに真剣さを滲ませていた。嘘偽りなど一切混ざっていない純粋な思い。
「僕にとって、火陵様は全てです。僕の全てなのです。火陵様がいらっしゃらなければ、今の僕はありませんでした。だから、全てなのです」

 何度も夜衣は繰り返す。
 火陵が、自分の全てなのだ、と。
 それを、火陵は黙って聞いていた。驚きに見開かれた瞳に夜衣の強い視線を受け止めながら、ただただ黙ってその言葉を聞いていた。
「だから、お守りいたします。この命の限り。 いえ、この命が尽きようとも」
 全てを告げた夜衣は、ふっと瞳を細める。そこからは真剣さが姿を消し、その代わりにいつもの優しさが現れた。自分の言葉に驚いている火陵を気遣うような、優しい瞳。その奥に、己の意志の強さを控えさせたまま。

 夜衣が口を閉ざしても尚、火陵は黙っていた。そして、夜衣の優しい瞳から逃げるように顔を伏せる。
  言葉が、何も出てこなかった。
 言葉の代わりに溢れそうになるものがある。それは、
(・・・泣きそう)
 涙。
 夜衣が己に向ける、強すぎる思いに火陵の心は戸惑っていた。
 これほどまでに夜衣から思われることへの喜びと、同時に生まれてくるのは 罪悪感。
 彼が命を投げ打ってもいいと思えるほど、自分が立派な人間だとは思えない。
(だって、私は・・・決められない)
 人界に戻るのか、この天界に残るのか。いっこうに決めることが出来ないでいるのだ。ぐらぐらと揺れ動く弱い心。己を必要としてくれている瞳を知っている。夜衣のように、自分の幸せを願ってくれている優しい人たちがいる世界だという事も分かっている。
(それなのにまだ、迷ってる・・!)
 戦という恐ろしい未来の待つ天界に残る事は 怖い。
 己を信ずる者たちを捨て人界に戻ることも 怖い。
(私は、なんて弱いんだろう・・!!)
 情けなさに、涙は次々と滲んでくる。せめて零してなるものかと、瞳をきつく閉ざす。
 けれど、僅かに震える手を止めることは出来なかった。
「・・・火陵様?」
 俯き黙り込んでしまった火陵をじっと見つめていた夜衣だったが、僅かに震えている火陵の手に気付き、驚きに目を瞠る。
 いったいどうしたのだろうかと、心配そうに火陵を覗き込んだが、その気配を感じたのか、火陵はそれを拒むように膝を折り曲げ、そこに顔を埋めてしまった。
「ううん。何でもない!」
 くぐもった声で、火陵は答える。
 しかし、夜衣はまだ心配しているのだろう。握っている手に僅かに力がこもる。その手をぎゅっと握り返し、再度火陵は言った。
「大丈夫! 何でもないんだ」
 言って、己の膝頭で目尻を伝おうとしている涙を拭うと、火陵はぱっと顔を上げた。
火陵様・・」
 そこにあるのは、泣きそうに歪んだ笑顔。
 けれど、火陵はそれを認めようとはしなかった。必死で笑みを作ろうとしている。
 涙は、絶対に零したくない。
 真っ直ぐな思いを語ってくれた夜衣。理由は分からないけれど、自分に向けられた信頼や愛情は、素直に喜ぶべきものだった。
 ただ、その揺るぐ事なき強さが、今の自分には辛かったのだ。自分は迷ってばかりで、一つも答えを出すことが出来ない。そんな己が情けなくて、涙が溢れてきた。
 しかし、今泣いてしまえば、彼は己の言葉を後悔することは分かっていた。揺らぐことのない思いだったからこそ、彼は伝えてくれたのだろう。その思いを受けて火陵が涙したことに気付けば、伝えた事が間違いだったのかと、彼は後悔する。彼はとても優しい人だったから。
「・・・・」
 火陵は一度瞳を閉ざし、息を吸い込む。そして、吐き出した吐息は僅かに震えていた。
 彼の言葉に胸が痛んだのも事実。己の道を決めることができない事を責められたように感じてしまったのも事実。
 しかし、彼に今伝えるべき事は、それではない。
 答えはまだ出せないから、今は別の言葉。彼を心配させることのない、言葉を。
 そして、火陵はきつく夜衣の手を握り、はっきりと告げた。
「ありがとう、夜衣!!」
 夜衣の伝えてくれた思いが嬉しかったのだ、と。
 その面に、確かに笑みを刻んで








** back ** top ** next **