【第二章 開かれし記憶の扉】


 議談ぎだんを出た火陵と水日と風樹は、螺照らしょうに連れられ、火陵の部屋へと戻ってきていた。 その後、螺照は娘の様子を見てくると告げ、部屋を出て行ってしまった。
 残された三人はというと、
・・・はぁ」
・・・はぁあ」
・・・は
 沈黙+溜息のオンパレード。
 窓から燦々と降り注ぐ光をひたすらに拒み続けているのだろうか。三人の表情は暗い。これでもかと暗い。さすがの太陽も、彼女らの顔にかかっている影を払いのけることはできないと悟ったのか、雲間へとその姿を隠してしまった。
 部屋の中も僅かに暗くなり、沈鬱な雰囲気がさらにその色を濃くしていく。
 どれほどそうして黙り込み、ひたすら重たい溜息を地面へと積み上げいただろうか。そろそろ積み上がった溜息が天井にまで達しようかと思われたとき、ついに火陵が口を開いた。
「・・・記憶を取り戻すか否か、かぁ」
 溜息混じりの火陵に続いたのは、いつもの強気さを失った水日の言葉だった。
「何か、想像と違わなかった?」
「「うん」」
 水日のその問いに首を縦に振った後、風樹も重い口を開いた。
「もっと、こう・・・戦うのだ!! みたいな、それが運命なのじゃ!!! みたいな、ね」
「そうそう! 強制的に決まっていくのかと思ってたわ」
「同じく」
 火陵の相槌を最後に、再び沈黙がおりる。三人共が瞳を伏せ、その唇から揃って溜息を零す。しかし、今度の沈黙は、すぐに破られることとなる。絶えず唇を押し開け床へとダイビングしようとする溜息を噛み殺し、風樹が口を開いたのだ。
「何か、調子狂っちゃうよね〜」
 どうしてかとは言わなかったが、それでも二人にはその言葉の意味が伝わったらしい。火陵が首を縦に振って答えた。
「うん。強制的なんだったら、そのまま従っちゃうことも、逆にイヤだって突っぱねちゃうこともできるんだけど・・・」
「あんな風に思いやりを見せられて、任せられちゃうと、よけいに迷っちゃうわよね」
「「うん」」
 おそらく、「記憶を取り戻し、共に戦え!」と言われるのだろうと思っていたのだ。しかし、その予想は覆された。
 戦わなくても良い。ただ戦神のように勝利を祈り、兵士達を鼓舞するだけでいいと言った焼妓しょうぎ。そして、火陵の祖父、猩火しょうかは更に言った。


  私は思っておるのだ。記憶を取り戻さずとも良い、とな。


 孫娘達には幸せになって欲しいと、その為ならば思い出さず、民の願いを退け、この天界の地を去っても良いと、驚くほどに優しい瞳をして猩火は言った。
 その優しい言葉に従うことも出来る。簡単にできてしまう。先の天帝である彼がそう言っているのだから、おそらく誰からも責められなじられることなく、平和な人界へと帰ることができるのだろう。
 しかし、人界へと戻る意志を固めることは、容易ではない。
 あんなにも優しく、自分達を思ってくれている人をこの危険な地に置いてさっさと帰ってしまうほど、火陵たちは薄情な人間ではなかった。そして、猩火の本当の気持が分からぬほど、彼女らは鈍い人間でもない。口ではああ言ったものの、猩火とておそらくは彼女らに天界に残り戦って欲しいと望んでいるのであろうことも察している。そうした彼の優しさ、愛情、そして苦悩を思えば思うほど、結論を出すことが難しくなる。
 もしも彼が自分達の意志など全く顧みず、ここに残れと強制するような人間であったのなら、「そんな事はごめんだ〜い!!」と、思い切り突っぱねて帰ってしまうことも出来たのだ。
  この天界に残るか、それとも人界へと戻るか。迷いは大いにあるものの、三人の中でどちらの気持ちが大きいのは判然としている。
 そんな互いの思いを確認し合うために口を開いたのは風樹だった。
「でもさ、正直・・・ぶっちゃけちゃうとさ・・・」
「「うんうん」」
「か、帰っちゃいたい・・よね?」
「「勿論!!」」
 自分だけがそう思っていたらどうしようと不安になりつつ訊ねた風樹に返ってきたのは、間髪入れないイエスの答え。
 やはり三人とも同じ気持ちであることを確認した三人は、僅かにほっとする。自分だけが人界へ帰りたいと思っているのでは、なんだか非情な人間のような気がしてしまうものだが、他の二人もそうなら、それが当然の反応なのだと安心する。
 しかし、火陵だけはそれでスッキリ☆ とはいかなかった。
「でも
 消え入りそうな声で、そう呟く。しかし、一度途切れたその言葉の続きが紡がれることはなかった。
 口を閉ざした火陵は、瞳を伏せる。
 その瞼裏に蘇るのは、流炎羅るえんら族の村で出会った、幼い少女と、その母親の姿。


まさか、お帰りになられたのですか?』


 驚きに見開かれた瞳に、希望の光が差していく様を、火陵は確かに見ていた。そして、


『お帰りなさいませ。お待ち申し上げておりました・・!』


 そう言って、女は涙を零した。嗚咽を堪え、必死に笑顔を作ろうと顔をゆがめながら、涙を零していた。
 彼女の紅の瞳に宿る希望の光。それは、
(私が帰ってきたから、もう大丈夫だって信じてる目だった・・・)
 何の迷いもなく、彼女は信じていた。火陵がこの天界を救ってくれること、そして、今のこの苦しい生活から脱することが出来るのだと信じ、彼女は涙していた。
 あの女の涙、そして希望を託すその瞳が火陵を更に迷わせる。
 あの瞳を裏切り、人界へと戻ること、それが自分の幸せに繋がるのだろうか
 火陵は、唇を噛む。
(あんなもの、見なければ良かった・・・)
 そう、後悔する。あの時、腕一杯の穀物を持った少女になど目をとめず、螺照に言われたとおり、あの少女に声をかけなければ良かった。そうすれば、あの瞳に出会うことはなかったのだ。そして、そうすれば、
(迷うことなく、帰ることが出来たかもしれないのに・・・)
 今更後悔しても仕方がないのだと言う事は、火陵も分かっている。
 自分が無駄な事をしていると、火陵は軽く首を振ってその考えを頭から追い払う。ついでに、瞼裏に焼き付いたあの女の瞳も遠のけばいいと密かに願ったが、それは叶えられなかった。


 コンコン。


 不意に扉が叩かれ、沈黙が破られた。
「入りますね」
 扉の向こうでそう告げたのは、耳慣れた螺照の声。その声に火陵が「どうぞ」と返事を返すと、ゆっくりと扉が開かれた。
 入ってきたのは螺照。しかし、それに続く者があった。先程副官として紹介を受けた三人だった。
 そろいも揃って何だろうと三人が目を瞬いていると、螺照が口を開いた。
「水日様、風樹様」
「「はい?」」
「もしよろしければ、それぞれの城へと帰ってみませんか?」
「「・・・・・」」
 その突然すぎる提案に、水日と風樹は顔を見合わせる。その面に浮かんでいるのは、何とも言えない表情。 強いてそれを表現するのならば、不安の色が浮いているというのが一番近いだろうか。
 顔を見合わせ、しばし逡巡した後、水日が螺照へと視線を戻して問うた。
「でも、何か・・・敵とかいて、外に出るの危ないんじゃなかったっけ?」
 それに答えたのは問われた螺照ではなく、
「ご心配には及びませぬ、水日様」
 清癒せいゆだった。
りん族の兵士も、さすがに樹海にまではおりませぬ。樹海を通って行けば難なく乾翠けんすい族の村まで辿り着けるでしょう」
 それに犀霖せいりんが続く。
「それに、お二方のお顔を奴らは知りません。先代にそっくりな火陵様はともかく、お二人ならば何とでもごまかせますので」
 その言葉に火陵が密かにショックを受ける。
「・・・私は出ちゃダメなんだ
 しばしこの城内に缶詰かと項垂れる火陵に、どうやら自分が火陵を凹ませた事に気付いたらしい犀霖が慌てる。
「あッ! も、申し訳ありません、火陵様!!」
「いえいえ、別にいいんですけど」
 大慌てで頭を下げた犀霖に、火陵は気にしないでとひらひら手を振って見せた。
「まあ、そういうわけで、火陵様にはここで大人しくして頂かなくてはならないのですが、お二人は大丈夫です。一度戻ってみてもいいのではありませんか?」
 焼妓が火陵を慰めるようにその肩に触れつつ、視線は水日と風樹に向け、優しく微笑んで促した。
 しかし、水日と風樹はまだ踏ん切りがつかない様子で顔を見合わせている。
 他の場所へ移る事へは不安はないのだ。しかし、三人が離ればなれになってしまうことに躊躇いがあった。
 この右も左も分からない世界でも、三人一緒ならば不安はない。否、皆無であると言ってしまっては嘘になるが、 皆無に近くはなるのだ。しかし、いくら味方であり頼もしい人物であると言われても、 先程初対面を終えたばかりのこの男達に全幅の信頼を置くまでには当然ながら達していない。
 そんな二人の心境を察しているのだろう、螺照が口を開いた。その瞳は優しく二人を見つめ、諭そうとしている。
「ご安心下さい、水日様、風樹様。清癒様も犀霖様も、何があってもお二人を守ってくださいます。それに、お二人が生まれ育った城に戻れば、 ご記憶には残っていないかもしれませんが、もしかしたら何か感慨はあるかもしれません。ここにいても気が滅入ってしまうだけですし、 この幻炎城げんえんじょうを出てみるのも良い気分転換になると思いますよ」
 螺照にまでそう勧められ、再度二人は顔を見合わせる。しばし顔を見合わせ、表情だけで会話をしていた水日と風樹だったが、ついに諦めたように溜息をついた。
「・・・じゃあ、行ってみようかな」
「うん。そうね」
 今まで共に暮らしてきた螺照の言葉ならば、疑う余地はない。それに、これ以上断るのも、清癒と犀霖を信用していないと言っているようなもので、申し訳がない。二人はついに首を縦に振ったのだった。
 すると清癒と犀霖の二人は、それぞれ程度は違ったが、一様に表情を明るく変え、二人の気が変る前にとすぐさま踵を返し歩き出した。
「では、すぐに馬の用意をして参ります故、一階の広場にてお待ち下さいませ」
 清癒は早口でそう告げると、犀霖と共に火陵の部屋を後にした。
 バタバタと騒がしく部屋を出て行った二人とは反対に、水日と風樹は半ば呆然と彼らを見送っていた。
「・・・何か、行くことになっちゃった。しかも馬で
 あまり詳しくは聞かなかったが、どうやら馬に乗って行くらしい。馬など今まで乗ったことも触ったこともない風樹はその面に不安の色を隠さずに塗ったくり、彼らの去っていった扉を見つめている。
 水日はというと、一人この城に残ることになった火陵を心配そうに見つめる。そして、問うた。
「火陵、ひとりぼっちで淋しくない? ママ、心配だわ」
「何だそれ」
 水日のその「何歳児に訊いてンの?」と思わずにはいられない問いに、火陵は思わず笑う。しかし、水日が本気で自分が不安がっていないかどうか心配してくれているのはその瞳で分かった。
「大丈夫だよ、水日。螺照もいるし」
 そう言って螺照へと視線を遣ると、「勿論です」と螺照が笑って答えてくれた。そして、ぽんと火陵の肩を叩き、
「明日にはまたお戻りいただきましょうね」
 ですから淋しくはありませんよ、と付け加えた螺照に、火陵は僅かに頬を染めつつ、
「う、うん//////」
 と頷いた。
 大丈夫だと言っているのに、水日からも螺照からも心配されてしまう。確かに不安な事は不安なのだが、そんなにも自分はそれを表情に出してしまっていたのだろうかと、少々恥ずかしくなる。
 そんな火陵の肩を再度叩いた螺照は、「では」と水日と風樹に視線を遣った。
「参りましょうか」
 それを止めたのは、水日でも風樹でも、勿論火陵でもなく、螺照の姉─焼妓しょうぎだった。
「私が行くわ、螺照。あなたは煕羅きら様の所へお行きなさいな。今、天琳てんりん王様は猩火様と話しておいでだし、寂しがっているでしょうからね」
 その言葉に、螺照は僅かな逡巡の後、
「・・・そうですね。では姉上、お願い致します」
 姉の言葉に甘える為、軽く頭を下げた。そして、水日と風樹に視線を戻し二人に言い聞かせるようにその瞳を代わる代わる見つめて言った。
「それでは二人とも、姉上の後にちゃんとついて行ってくださいね」
「「は い」」
 大人しく良い子な返事を返した二人に、螺照は微笑む。
「では、火陵様。私はお二方を送って参ります」
「私も娘の様子を見て参ります。何かあったらすぐにお呼び下さいね」
「ん。分かった〜」
 ヒラヒラと手を振る火陵に、風樹が手を振り返す。
「じゃあ、また明日ね、火陵! 必ず帰ってくるからね !!」
 おいおいおいおい、今生の別れでもあるまいに と思わずツッコミを入れてしまいたくなるほど、風樹は大きく手を振り、声を張り上げる。勿論、そんな事をしなくても声は届く距離なのだが、どうやら涙の別れを演出したかったらしい。
 そんな風樹の顔をぐいっと押しのけたのは水日だ。
「じゃあ、火陵、ちょっと行ってくるね」
「うん。気をつけてね」
 別れを告げ、そして見送る彼女らの言葉には、どことなく元気がない。不安なのは、それぞれ同じらしい。
 そうして不安な気持ちを抱いたまま焼妓に連れられていく幼なじみの二人を見送り、更に娘の所へ行く螺照を見送った火陵は、パタンと扉が閉ざされるなり、
 ぼふっ。
 と、仰向けのまま、豪快に寝台に倒れ込んだ。
 ふわふわと柔らかい寝台は、飛び込んできた火陵に痛みを感じさせることなくその細い体を受け止めてくれた。体を包み込む寝具のふわふわとした柔らかな感触が、火陵の中に生まれようとしていた大きな不安を消し去ってくれる。
 それでも生まれてくる不安の芽。それが確実に芽吹くのを感じながら、火陵は紅に染まった瞳を閉ざす。すると、部屋の隅で流れている水のせせらぎが心へと染みた。それもまた火陵の不安を優しくなでつけてくれる。しかし、
「・・・・ムリだな、こりゃ」
 瞳を閉ざしたまま、そう呟く。
 これからどうするか、考えることをやめることは出来そうにない。
  このまま天界に残るか、それとも人界へ帰るか。
 なかなか答えを出すことの出来ない問いは、焦燥を生む。そして、苛立ちをも生んでしまう。そうして心は考えることに疲れていく。
 休んでしまえばいい。
 それは分かっているのだが、出来ない。
どうすればいいんだろう・・?」
 自分一人では、答えを出せそうにない。しかし、幼なじみが傍にいてくれたとしても、答えは出せないだろう。
 それならば、一体誰にこの問いの答えを出してもらえばいいのだろうか。
 猩火は絶対に答えをくれないだろう。猩火の思いを知っている焼妓も、そして螺照も、答えをくれることはないだろう。それならば・・・
沙羅サーラさんは・・・?」
 火陵の脳裏に蘇ったのは、銀髪を床に流し、自分達と同じ紅の瞳をした美しい巫女の姿だった。神の言葉を聞き、それを歌─星宿せいしゅくとして伝える彼女ならば、自分がどうするべきか、神の意志を知っているのではないか、と。
 そして、もう一人、火陵の瞼裏に蘇ってくる一人の男がいた。
あの人・・・」
 思い出したのは、真っ暗闇に包まれた夢の中で出会う、あの男。
 スラリとした長身を、銀糸の刺繍があしらわれた豪奢な服で包んでいた。艶やかな黒髪は一つに結ばれ、背中に流れていた。
 そして、とても柔和な印象をまとい、優しい瞳をして自分を見つめていたその男。
・・・ダメだ」
 彼の顔を思い出そうとして、火陵は挫折する。何故か、どうしても彼の顔を思い出すことができないのだ。
 人界で夜衣にどんな男だったかと聞かれたその時にも、思い出すことは出来なかった。夢の中でははっきりと窺えた男の顔が、夢を出ると途端に霧がかり、思い出すことが出来ない。
 しかし、それでも忘れないのは、その瞳。
 炎を灯しているのではなと疑いたくなるその瞳は、黄金を閉じこめた紅。それは、火陵の瞳と同じ色。

 ふと思い立ち、火陵は鏡の前へと立つ。
 そして覗き込んだ自分の瞳の色は、やはり紛うことなく、赤。あの男と同じ、内に黄金を煌めかせる美しい紅をしていた。いや、紅の中を泳ぐ黄金は、あの男のものよりも若干その姿は多いだろうか。
 そこまで詳細に思い出すことができるのに、男の顔は思い出せない。
 しかし、火陵は察していた。
 あの男も、必ずこの天界の そして、自分に近しい者。
「赤い目・・・」
 あの瞳がそれを証明している。
ッ!」
 そして、火陵は不意に目を瞠った。脳裏をよぎった一つの可能性が、彼女を驚かせる。
 己のたどり着いた一つの答えを、火陵は恐る恐る口にする。しかし、その言葉が、最後まで紡がれることはなかった。
「もしかしたら、あの人が
 その先の言葉は、叩かれた扉によって遮られていた。








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