夜はやがて真っ白な光に追われ、空の彼方へと消える。 そうして、ゆっくりと訪れる朝。火陵、水日、風樹の三人は、昨日通され出迎えを受けた赤い絨毯の部屋ではなく、その隣、議談の間と呼ばれる部屋にいた。 広い部屋の中央には巨大な楕円形の机が一つドンと置かれてある。そして、その机をぐるりと椅子が囲む。おそらく会議室の役目を果たしているのだろうと容易に推測できる議談の間で、三人はひたすら黙し椅子に座っていた。 「「「 ・・・」」」 その面は、一様に暗い。そしてその瞳は、紛うことなく虚ろ。 自分たちの身に降りかかっていることが全て夢であることを祈りつつ眠りについた三人だったが、螺照に揺り起こされ見上げた天井はやはり見慣れぬものだった。 速攻で鏡まで走り己の顔をそこに映した火陵は、己の瞳の色がやはり紅であることを見るなり軽く絶叫した。その絶叫につられるようにして、水日と風樹も思い思いに叫んだ。それらはどれも文字には出来かねる叫びだったので、詳細については割愛することにしよう。 そうして、未だ自分たちが理解しがたい現状に置かれていることを知った三人は、真っ白な日差しが天から降り注ぐステキに爽やか〜な朝であるにもかかわらず、その面をこれでもかと曇らせていた。やがてその曇から雨が降り出し肌を湿らせ、苔の温床にでもなってしまうのではないかと、ついついぶっとんだ発想をしてしまいそうなほど暗く曇った表情だった。 その瞳は、死んだ魚もこれ程まではという、異様に虚ろなものだった。 そんな三人の少女と席を共にしているのは、昨日火陵の祖父だと名乗った猩火という初老の男と、全く見知らぬ三人の男女、そして唯一の顔なじみ、朝っぱらから辛気くさい顔をしている火陵たちに苦笑を漏らしている螺照がいた。 皆が席に着き、静寂が降りた議談の間に、一声が投じられる。それは、火陵たちの正面に坐した猩火だった。 彼は皺の刻まれ始めた目元を優しく細め、三人を代わる代わる見つめて問うた。その声も優しい響きをしている。 「どうだ? 昨日はよく眠れ ・・なかったようだな」 猩火は苦笑する。 問うまでもなかった。三人の目元にはくっきりとくまが刻まれていたのだったから。 眠りにつくことはできた三人だったのだが、夜中に何度も何度も目を覚ましてしまったのだ。 その原因は、夢。 体も神経も疲れ切っていた三人は、速攻で眠りへと誘われていったが、その先で待っていたのはリアルな夢だった。 それは、学校に行っている夢であったり、夏休みの宿題をしていた夢であったり、家でドタバタといつもの鬼ごっこをしている夢であったり。かつてはそれが普通だと思っていた日常を夢に見るのだ。 そうした夢を見る度に、 「やっぱりアレは夢だったんだ!! ひゃっほ い!!」 と、喜々とした叫びを上げ、自分のその叫び声に覚醒を促され、それらが夢であったことを知り、涙を零しつつ再び眠りへと落ちていく。そしてまた狂喜の叫びを上げ、目を覚ます。そんな事を一晩中繰り返していたのだから、睡眠を十分取ったとは言いがたい。おかげで疲れは全くと言って良いほどとれていなかった。 「「「はぁ・・・」」」 そろって溜息を吐き出した三人に、再び猩火は苦笑を漏らす。そして、三人を労るように優しい声で、しかしきっぱりと言った。 「だが、大切な話だ。しっかりと聞いて欲しい」 その言葉に、三人はようやく猩火の顔を真っ直ぐに見つめ返し、大人しく頷いて見せたのだった。 「では、始めよう 」 「恐れ多くも、猩火さま・・・」 猩火が口を開いたが、それを遠慮がちに遮る者があった。見知らぬ男女の内、唯一の女だった。 艶やかで腰にまで達しようかという黒髪を、耳元で一つに束ね体の前へと流している。その切れ長の瞳は、炎と同じ色をしていた。そして、見るものを射抜くような、鋭い眼光を持つ、気の強そうな女だった。 その女に言葉を遮られた猩火は、気を悪くする風でもなく、逆に「すまぬ」と詫びの言葉を口にした。 「おお、そうであったな。まずはそなたらを紹介せねばな」 その言葉に、猩火の隣に、一つ席を空け座っていた三人の男女が一斉に立ち上がった。そして、揃って火陵たちに向かって頭を下げる。 突然、頭を下げられぎょっとした三人を余所に、彼女らは頭を深く下げたまま口を開いた。 「お久しゅう御座います、我らが御子」 三人を代表して、黒髪の女が口を開く。 「「「?」」」 久し振りだと彼女は言ったが、三人に彼女らと出会った記憶はない。忘れているのだろうかと記憶を蘇らせてみるのだが、蘇るのは七歳頃まで。そこから先へ行くことは出来なかった。おそらくその向こうに彼女らとの出会いがあるのだろう。 そのことを、顔を上げた女は火陵たちの表情から察したのだろう、「申し訳御座いません」と丁寧に詫びてから言い直した。 「記憶を封印なさっているのですね。それでは、お初にお目もじつかまつります、と申し上げた方がよろしいのでしょうね、我らが御子」 「お目もじ? もじ? モジモジ君??」 「黙ってて」 「ふぁい」 「どうも、初めまして」 お馬鹿な発言をした風樹を黙らせる水日と、そんな風樹の発言を誤魔化すように満面の笑みで答える火陵。 眠たくても疲れきっていても、彼女らのチームワークは抜群だ。 そのおかげか、女が風樹の発言について触れることはなかった。 「昨日は御子のご帰還をお迎え出来ず、まことに申し訳ございません。急に持ち場を離れては怪しまれますゆえ、参ずることが出来ませんでした。どうぞお許しを」 「申し訳ございませぬ」 「申し訳ございません」 女に倣うようにして、残りの二人の男も深く頭を下げる。 「あ、いやいやいや! イイですよ」 こんな風に極めて丁寧に、しかも三連発で詫びの言葉を貰う というのはこれが初めてのことだったが、その光景はなかなかに圧巻。たじたじになりつつ、火陵は頭を下げたままでいる三人に慌ててそう答えた。 火陵の答えにようやく三人は下げていた頭を上げ、真っ直ぐ火陵たちに視線を向けた。そして、胸の前に手を添え、恭しく女がまず名乗りを上げる。 「私は焼妓にございます。父―利焦の跡を継ぎ、流炎羅王様、及び天帝の副官を務めさせていただいております」 次に口を開いたのは、漆黒の髪に青い瞳をした男だった。その漆黒の髪には所々白いものを交じらせている。真面目で実直そうな男だった。歳は、三十代も半ばと見受けられる。もっとも、天界に住む神族は、肉体が最も活発化しているその時に成長を止めてしまうということを聞き及んでおり、その容姿と年齢とに大いにギャップがあることは火陵たちももう承知の上だったが。 「よくぞお戻りになりました、御子方。私の名は清癒。先の戦で戦死しました兄亡き後、蒼巽族の副官を務めております。以後お見知りおきを」 最後に口を開いたのは、その三人の中でも最も若いだろう、二十をいくらもすぎていない見目の青年だった。明るい茶色の髪に、緑色の瞳をしている。この場に少し緊張しているのだろうか。愛嬌のある垂れ気味の目は忙しなく瞬いている。しかし、その声は他の二人に比べても大きく、部屋に響き渡った。 「私は犀霖と申します。若輩者ながら、父亡き後、乾翠族の副官を務めさせていただいております」 三人の自己紹介に三人は、 「?」 「?」 「?」 揃って首を傾げた。 そのリアクションに、自己紹介を終えた三人の方もきょとんとする。しかし、火陵たちのそのリアクションの理由を察した螺照がすぐさま口を開いた。 「副官というのは、王の一番お側に仕え、政、戦の策を共に練り、王をお助けする者のことを言います」 三人が副官という言葉が理解できずにいるのだと螺照は察したのだ。 その通り、火陵たちは螺照の説明に「成程!」と頷いている。 「一番の側近、もしくは・・厳格な意味合いでは違ってきてしまいそうですが、イメージとして副大統領とでも言えばお分かりでしょうか」 螺照が人界の制度に倣ってしている説明に、人界のことを知らない猩火や副官の三人が今度は不思議そうな顔をしていた。 「焼妓が火陵様の、清癒様が水日様の、犀霖様が風樹様の副官です。あ、余談ですが、焼妓は私の姉です」 「ああ、そうなんだ。 って、ええ!!?」 「今の衝撃で、副官ってのの説明は気持ちいいくらいにぶっ飛んじゃったわよ」 「ちょいちょいちょい! あんさん、他! 他の家族構成は!? 毎度驚くのも大変だから、今の内に知らせておいておくんなまし」 今までずっと一緒に暮らしてきた螺照の次々と明らかになる事実に、三人は驚きを隠せない。一つ一つ、知らされるたびに驚いているのも心臓に悪い。どうせならもう全て告げておいてくれと頼む風樹に、螺照は「分かりました」と頷いた後、口を開いた。 「両親は先の戦で果てました。姉の焼妓と、妻の沙羅、娘の煕羅の三人が家族でしょうか」 「そ、そっか」 どうやらもう驚くことはなさそうだと、三人は安心すると共に、彼の両親が戦で亡くなっているという事実に、少々顔を曇らせる。 どう言葉を返していいのか分からず、あえて触れないでおいてしまった。 人の死に触れたことのない三人にとって、その事を慰める方が良いのか、それとも触れないでおくことの方が良いのか分からず、 曖昧に頷いていた。 そんな三人の心境を分かっているのだろう。螺照は優しく微笑んで見せた。 螺照のその反応に、三人は安堵する。そして視線を正面の猩火に戻す。すると彼はとても優しい光をその赤い瞳に宿し三人を見つめていた。 「螺照がそなたらを守り育ててくれたように、これからはこの三人がそなたらの為、尽力してくれるであろう。きちんと挨拶をしておきなさい」 その言葉に、三人は大人しく従い、ぺこりと頭を下げた。 「「「よろしくお願いします」」」 頭を下げられた副官の三人も、負けじと頭を下げる。 そんな両者を交互に見遣り、頃合いを見計らって猩火が声をかけた。 「では、本題に入るとしよう」 その言葉に、副官の三人はさっと椅子に座り直し、火陵たち三人は、 「「「ゴクリ」」」 と緊張に生唾を飲み込んだ。 再び静寂が覆った部屋の中に、かすかに鳥の鳴き声が響いた。部屋の外に設けられてある自然に限りなく近い庭園からその鳴き声は聞こえてくるようだった。鳥までそこに住んでいるのだろうか。 そんな疑問が頭をよぎる。 チチチチ・・と軽やかな鳥の鳴き声は、知らず火陵の緊張を取り払ってくれていた。 「夜衣から大体の事は聞いたそうだな」 「はい」 「この天界は今、謀反人、是軌の悪政の下にある。是軌によって苦しめられている民たちを救い、再び天位を我らが下に取り返すため、我々は今水面下で戦の準備をしておる」 「・・・・・ほ、ほお」 激しく実感の湧かない話ではあったが、その先を促すため火陵は相槌を打つ。 「そして、戦には旗頭が必要だ。私の息子である先の天帝―炎輝はもうおらぬ。新しい旗頭が必要なのだ。兵を率い、民に希望を授ける新たな王が」 「「「 」」」 三人は一様に表情を強張らせる。 新しい王、と彼は言った。それが思い出させたのは、 『先の天帝が御子。そして、次代―12代天帝は貴女様です 火陵様』 『そして、双王、乾翠王が御子、風樹様』 『次代の蒼巽王、水日様』 夜衣が告げたその言葉を反芻していると、 「火陵」 「ギクッ!」 「そして、水日殿。風樹殿」 「「ギクギクッ!」」 名前を呼ばれ、三人は体を強張らせる。 (((や、やっぱり ))) 冷や汗をタラタラと額から流しつつ、猩火の言葉を待つ。 そして告げられた言葉に、 「次代の王として育てられた頃の記憶を取り戻し、我々を率い是軌と戦って欲しいのだ」 三人は一斉に椅子を引き、机の下に隠れるようにして互いに顔を寄せ合う。そして、小さな声で叫んだ。 「どうしよ〜、水日、風樹。来たよ !!?」 「来た来たあああああ」 「お、お決まりの展開ね」 「どどど、どうすりゅ !!?」 「どうするって言われても、ムリに決まってるじゃないの」 「あったぼうよ!!」 とコソコソと机の下で話し合っている三人に、猩火を始めその場にいた螺照以外の面々が驚きに目を瞠っている。それを螺照が慣れた様子で、 「すぐ済みますから少々お待ちを」 と取りなしていると、その言葉の通り、ひょっこりと三人が何事もなかったかのように机の下から顔を出し、椅子に腰を落ち着けた。 「さあ、お話をお続け下さいませ」 螺照に促され、不思議そうな顔をしたままではあったが、それを咳一つで取り払った猩火は再度口を開いた。 「次の おそらく最後の戦の鏑矢が放たれるのは、赤い月が昇る日」 「赤い月 」 また、だ。と、火陵は目を瞠る。 この天界という地に自分たちが誘われたその日も、空には赤い月が昇っていた。 「次に赤い月が昇るのはおよそ一ヶ月と半月の後。それまでに、そなたたちに記憶を取り戻し、共に戦って欲しいのだ」 真っ直ぐに三人を見つめ、猩火はそう告げる。 その表情は、どこか苦しげだった。 祖父の言葉を受け、火陵は水日と風樹の顔を見遣る。同じく自分を見つめ返している彼女らの表情は、何とも言えず不安そうだった。おそらく、自分もこの幼馴染み達と同じ表情をしているのだろうと火陵は察する。 顔を不安に染め、黙り込んだ火陵たちを見て、今まで黙っていた副官―焼妓が口を開いた。 「御子。不安なお気持ちは分かります。しかし、我々は御子に全て押しつけようと言うのではございません。・・・御子は、戦わずとも宜しいのです」 その言葉に応えたのは、火陵たちの誰でもなく、彼女と同じく副官の清癒だった。 「焼妓殿、何を申されるか!」 「私はそう思います。御子に努めて頂きたいのは、旗印の役割。御自ら戦に加わらずとも、 我ら民、そして兵士を奮い立たせるための戦神として我らを鼓舞 してくださればそれで良いのです。それだけで、我々は命を捨て戦うことが出来ます。勝利を信じ、戦い続けることができます」 焼妓の熱い言葉に続いたのは、乾翠族副官の犀霖だった。焼妓のような熱さはないものの、その瞳は真剣そのものだった。 「恐れ多くも、私も焼妓様と同じ意見です。もしも、もしもですが次の戦に敗れたとしても、御子様さえ生きておられれば、我々民の希望がついえることはありません。何度でも立ち上がり、戦うことができるのです」 「その通りです、犀霖殿。ですから、御子。恐れられることは御座いません。御子のお命は、私焼妓が、この命にかえても御守り致しますゆえ!」 焼妓が自分に向けるその言葉を、火陵は黙って聞いていた。そして、その真っ直ぐな瞳を、ただ受け止めていた。そこにある強い意志の光を見つめながら。 (・・・なんて、強い人なんだろう) 今彼女らが置かれている状況、そして自分たちに望まれていることが何なのか、それを完全に理解したわけではない。けれど、彼女が自分に向ける何にも揺るがない言葉の強さ、瞳の強さに、火陵は圧倒される。 水日と風樹も同じ心境だったのだろう。ただ黙していると、徐に猩火が口を開いた。 「私も、焼妓と同じ気持ちだ」 「猩火様!」 「すまぬな、清癒。私はもう天帝ではない。ただ一人の爺。孫娘を危険な目に遭わせたくないと、そう思ってしまうのだ。私も歳をとったようだ」 「・・・・」 その言葉に、最後まで焼妓の言葉に異を唱えていた清癒もとうとう口を閉ざした。 「火陵、そして水日殿、風樹殿。そなたらに危険が及ぶようなことは、私としてもしたくはないのだ」 焼妓と同じ、しかし種類の違う強さを持っている猩火の言葉を、火陵は黙して聞いていた。 「しかしな、火陵。おそらくそなたは、記憶を取り戻せば自ら戦陣に立ち戦いたいと申し出るであろう。天帝である父の姿を見て育ってきたそなたは、おそらく自ら戦うことを選ぶであろう。水日殿も、風樹殿も同じだ。だから、私は・・・迷っておる」 それまではっきりと言葉を紡いでいた猩火が、不意に言葉につまった。そして、いくらかの逡巡の後、彼は口を開き言った。 「ここからは先代の天帝としてではなく、私は一人の神族として我が儘極まりない思いを口にする。焼妓や清癒、犀霖には済まぬが、言わせて欲しい」 かつての天帝のその言葉に、副官の三人は黙って頷く。 彼女らの見守る前で、猩火は言った。 「私は思っておるのだ。記憶を取り戻さずとも良い、とな」 「!」 猩火のその言葉に、副官は勿論のこと、それまで黙ってその場を見守っていた螺照でさえも驚いて椅子から腰を浮かせた。 王と共に謀反人と戦い、天位を奪い返す事を本願としている清癒に至っては、 椅子が倒れるのも構わず立ち上がっていた。 しかし、口を挟むような無礼な真似をするほど浅はかな男ではなかった。 そんな臣下たちに、心の中で詫びながら猩火は己の願いを紡ぎ続ける。 「次なる戦は、先の戦にも増して熾烈を極めるだろう。多くの者が傷付き、命を落とす。そして、そなたも傷付くだろう、火陵。辛い戦いになるはずだ。そして何より、この戦は勝利が約束されているわけではないのだ。それでも、そなたらは記憶を取り戻せば、戦うことを選ぶだろう。それが私には分かっている。そんなそなたらを誇らしくも思う。しかし、心の何処かでそれを拒む声もする。私はそなたが可愛いのだ、火陵。傷付くことなく、幸せに生きて欲しいと思っている。それがたとえ私の隣ではなく、人界という遠くかけ離れた世界ででもだ」 「・・おじいちゃん」 始めて聞いた祖父としての言葉に、火陵は彼を呼ぶ。始めて「おじいちゃん」と。そうすることで、彼の自分への深い愛情に感動していることを伝えたかった。 猩火は一瞬驚いたように瞳を瞠り、そしてゆっくりと細めた。それは優しい瞳だった。 「おそらく炎輝 そなたの父も、そなたの母上も、それを望んでいるだろう。だから私は、民の願いを知っていても、記憶を取り戻せとは言えぬ。言いたくないのだ」 「お父さんと、お母さん・・・」 始めてこの場に母のことが出た。今まで何故か触れられなかった母。おそらく父と共に他界しているのだろうと思っていたが、まだ猩火の口から直接に聞いたわけではない。 「・・・ねえ、一つ、聞いてもいい?」 火陵は僅かの逡巡の後、祖父にそう問うていた。 生まれた迷いは、たとえ記憶に留まっていない存在だとはいえ、己を生んだ母が死んでいるという事実を直接に突きつけられる事への恐怖ゆえだった。それでも、火陵は問うた。 「お父さんは死んじゃってるんでしょ?」 「そうだ」 「お母さんも?」 一瞬、猩火の表情が固まる。そして、しばしの沈黙の後、彼は答えた。 「 ・・ああ、先の戦でな」 「そっか」 猩火のその答えに、火陵よりも大きく反応を返したのは、 三人の副官と螺照だった。猩火のその言葉に、弾かれたように彼を見つめる。 その瞳に宿る疑問の光を、猩火は己の瞳を閉ざすことで避けた。 ほんの一瞬のやりとり。 火陵たちがそれに気付くことはなかった。 「しっかり迷うがいい。記憶を取り戻すか、それとも人界へと戻るか。時間はまだまだある。どうすることが己にとって一番幸せか、考えるのだ」 穏やかに、けれどしっかり火陵の瞳を見据え、猩火は告げる。 その言葉に、火陵たち三人は顔を見合わせた後、 「 はい」 火陵が代表してそう答えた。 「私から話すことはこれで全てだ。そなたらから、何か訊きたいことはあるか?」 再度顔を見合わせた後、三人は小さく首を振ることで答えを返す。 問うことはあるようで、ない。 時が経てばいくつも生まれ出でてくるのだろうが、今はまだその姿は見えなかった。 「そうか。では、自由にするといい。この城の中であれば何処でも行って構わぬしな。螺照、もうしばらくの間、宜しく面倒を見てやってくれ」 「勿論でございます。さあ、行きましょうか」 「う、うん」 螺照に促されるまま三人は立ち上がる。そうして扉を目指して歩く三人の背に、 「何かあれば遠慮無く言うのだぞ」 優しい言葉が降りかかる。 その声に「ありがとうございます」と、ぎこちない笑みと共に返し、三人は扉の向こうにその姿を消した。 開かれた扉が閉ざされ、一瞬大きくなった鳥の鳴き声が再び扉を隔て小さくなる。 そして、議談の間には沈黙が落ちた。 猩火も、副官の三人も、誰も口を開かない。重苦しささえも漂い始めたその沈黙を破ったのは、申し訳なさそうな猩火の声だった。 「すまぬな、皆」 詫びるかつての王に、犀霖が慌てて答える。 「いえ! 猩火様のお気持ち、よく分かります」 「そうです、猩火様」 しかし、清癒だけは険しい表情を崩さなかった。 「お言葉ですが、猩火様。時間は一国の猶予もございませぬぞ。たとえ記憶を取り戻されたとして、それから御子方にやっていただかねばならぬことは多くあります」 「ああ。そうなのだ、清癒」 清癒の言葉に、猩火は溜息交じりに頷く。火陵たちに、時間はあるから存分に迷って決めよと言ったものの、時間は迫っていた。 「あちらにも星詠みがいます。おそらく御子方のご帰還を是軌は既に知っているのではないかと思われてなりません」 不安げに焼妓が表情を曇らせたその時だった。 扉が叩かれる音が議談の間に響いた。 それが誰なのかを、猩火は知っていた。自らがこの議談の間に呼んでおいたのだから。 「おお、ちょうど良い。入られよ」 「失礼致します」 ゆっくりと扉が開かれ、そこからしずしずと姿を見せたのは、天林族の王―沙羅だった。 猩火は彼女を椅子へと座らせると、すぐさま問いを投げかける。 「天林王、赤い月が昇るのはあとどれくらい後のことか分かるか?」 「あと一月と半月を切っております。四十五日にございます」 その答えに、猩火も他の副官も一様に唇を噛む。日は刻々と過ぎ行き、運命の日は容赦なく近付いてきている。 やはり、時間はない。 暗く沈んだ空気を背負い、口を開いたのは焼妓だった。 「天林王様、天林族の巫女は神の声を聞く者、そしてこの天界の命運を見届ける者。さすれば、謀反人の元へと行かれた貴方様の姉姫様も視ておいでなのでしょうか。御子のご帰還を」 姉姫と、その言葉に沙羅は一瞬目を瞠った。すぐにその瞳は悲しげに細められ、しばしの沈黙の後、彼女は首を縦に振った。 「 ・・おそらくは」 沙羅のその言葉に清癒は表情を厳しくし猩火に言い募る。 「やはり、時間はありますまい。星宿 は次なる戦の日を、赤い月が昇る夜と詠ってはおりますが、あの謀反 人が星宿の通り、赤い月の日まで待つ保障はありません。御子の帰 還を知り、そのお命を狙って明日にでも兵を出すやもしれませぬぞ」 その言葉を、年少者である犀霖が遠慮がちに、けれどきっぱりと否定する。 「いえ、清癒様。謀反人の城に放った間者からは、挙兵の準備をしている動きは見られぬとの報告です。まだ猶予はあるかと」 「あると言っても一ヶ月と半月。悠長な事を言ってはいられませんぞ!」 その言葉に、犀霖の代わりに猩火が答えた。 「分かっておる。それは分かっておるのだ、清癒。もう少し、時間をやってくれ」 その答えには疲れが滲んでいた。彼自身、時間がないこと はよく分かっているのだ。それでも、火陵たちに早急に答えを出せなどとい う残酷な要求をすることは出来ない。 それは同時に、記憶を取り戻し戦えと言っているようなものだ。 猩火が全て分かった上で、悩み苦しんでいることを察した清癒は即座に立ち上がった。猩火のことを何も考えず、焦りから己の要求ばかりを押してしまっていた己の非礼を詫びるため、勢いよく頭を下げる。 「 言葉が過ぎました。申し訳ございませぬ!」 「いや、良いのだ。清癒」 清癒の実直で思った事は言わずにはおけない性格を知っている猩火は彼を責めることなく、気にするなと笑みを向けた。 そんな彼に、徐に声をかけたのは焼妓だった。 「あの、猩火様」 「何だ、焼妓」 「何故、御子に嘘を?」 その言葉に一瞬何のことだと目を瞠った猩火だったが、すぐに思い当たり頷いた。 「・・・ああ、母のことか」 「美秋様は囚われてはおいでですが、ご存命です。何故、御子にそう教えて差し上げないのです?」 その問いには、猩火を責めるような響きがあった。 しかし、猩火には猩火の考えがあった、嘘をついたのだ。火陵たちを謀る為ではない。 「教えれば、迷うであろう」 「猩火様・・」 彼女らを、思うが故の嘘。 「私は、火陵たちをこの戦に巻き込みたくないのだ」 母が敵将に囚われていると言えば、火陵たちが大いに迷うことは想像に難くない。だから、猩火はそのことを告げなかった。きっとこうすることを、母親たちも望んでいるだろうから。 そんな猩火の孫を思う気持ちを知った焼妓は己の考えの浅さを恥じる。 「差し出がましい真似を致しました。ご無礼、お許しくださいませ」 「いや、火陵たちのことを思って言ってくれたのだ。礼を言うぞ、焼妓」 頭を下げ詫びる焼妓の肩を叩き「気にすることはない」と宥める。彼女が顔を上げたのを認めると、猩火はその視線を沙羅へと向けた。 「天林王」 「何で御座いましょう、猩火様」 「この戦、我らの勝率は如何ほどか?」 問う瞳は真剣そのもの。 しかし、その問いに沙羅が正確な答えを返すことはできなかった。 「 分かりません」 彼女は申し訳なさそうに瞳を伏せ、答える。 「・・・そうか」 肩を落とす猩火の姿に、沙羅は「しかし」と言葉を続けた。一度伏せた紅い瞳を持ち上げ、真っ直ぐに猩火を見つめて。 「神は我々に祝福を与えると仰っています」 「それは、我らの勝利か?」 「分かりません。しかし、そうであることを信じ戦うしかありません。運命のままに」 神の声を聞くことは出来る。 しかし、その真意までをも知ることは出来ない。 神の言葉からその運命を推し量り、それがどんなに絶望的な言葉であっても、その言葉の中から希望を見いだし、信じることしか出来ない。祈ることしかできない。 どんなに望まずとも、運命の日は必ず訪れる。 それは違うことなき運命。神の決めた道。神に創られた自分たちは、その道に 逆らうことさえも出来ず、歩んでいくしかないのだ。そうして、神の言葉のままの結末へと導かれる。 それが運命。 すべては運命の下に成り立っている。 「生きるも死ぬも。勝つも負けるも、運命のままにございます」 「そうだな。・・・そうだな」 そう頷いたものの、決して掴むことの出来ない神の意志に絶望したように、猩火はこめかみに手を当て、項垂れる。 彼の様子に濃く浮き出る疲労の色に、副官と沙羅は心配そうに眉をひそめる。 だが、「必ず勝利します」と、彼を救うだろう言葉を告げることは誰にも出来ない。 全ては神のみぞ知ることなのだから 。 |